12.追想の人魚姫4

「コル……コル、コル! ああ、本当に……もう……」


 砂まみれの手を伸ばし、けれど触れる寸前でためらうように止めたパーウォー。エスコルチアはその伸ばされたざらざらの手を取り、くしゃりと笑った。


『ありがとう、パーウォー。私の願いを、叶えてくれて』


 エスコルチアはパーウォーの手を離すと、白く細い腕を砂浜に突き立てた。まだうまく動かせない、震える足に力を入れる。何度も崩れ落ちては立ち上がるという動作を繰り返し砂まみれになりながらも、彼女はやがてその二本の足で立ち上がった。

 髪や体についた砂粒が月明かりを反射し、エスコルチアをキラキラと金色に彩る。その幻想的な姿に、パーウォーは知らず知らず魅入られていた。

 けれどそんな夢のような光景は、サンディークスの一声であっさりと打ち壊された。


「きみの願いは叶えた。というわけだから、私はこれで――」

「ちょっと待った!」


 立ち去ろうとしたサンディークスのローブのすそを、渾身こんしんの力を振り絞って跳ねたパーウォーが掴んだ。突如襲い掛かってきた重みで体勢を崩し後ろに倒れかかったサンディークスにパーウォーが叫ぶ。


「アンタ、コルをこのままの状態で置いていくつもり⁉」


 憤慨ふんがいするパーウォーを見下ろし、心底不思議そうに首をかしげたサンディークス。そんな何もわかっていない魔法使いに、パーウォーは大きなため息をついた。


「コルは人間になったのよ。ねえ、人間っていうのは服を着てるものでしょう? 特にこんな若くてかわいい子を裸で放り出すなんてアンタ、ほんと何考えてんのよ!」

「私に依頼されたのは、人魚を人間にするってことだけだよ。その後のことは知らないよ」

「とりあえず、あんたの服よこしなさいよ!」


 服のすそを掴まれ動けない上にパーウォーからぎゃんぎゃんと文句を浴びせられ、サンディークスは辟易へきえきする。


「わかったよ。じゃあマントはあげるからさ、それでいいでしょ」

「当然! あとは……コルを送り届けてやって。それくらい、してくれてもいいでしょ?」

「めんどくさ――」

「い・い・で・しょ?」


 有無を言わせないパーウォーの言葉に、サンディークスは仕方なしにうなずいた。そしてマントを脱ぐとエスコルチアに渡す。


「はい。で、きみの想い人とやらはどこに?」


 なんだかんだで付き合ってくれるらしいサンディークスにパーウォーの表情が緩む。そして二人はエスコルチアの思念から、彼女の想い人の名前と住んでいる村の名前を読み取った。


「スパーディクス村ってとこに行けばいい? 私はそこまでしか協力しないよ。後は自分たちで探してね。私は人間の顔、見分けられないから」


 「ああ、それと」と、サンディークスはパーウォーを見下ろした。


「きみさぁ、魔法使いでしょ? おかで人魚の姿のままだと不便じゃない? さっさと化けなよ」


 サンディークスの言葉にパーウォーは思わず目をしばたかせ、とっさに隣のエスコルチアを見上げた。するとそこには、うれいを帯びた薫衣草ラベンダー色の瞳があった。


『もしかしたらって思ってた。とは言っても、確信したのは今日。お父様に閉じ込められてからなんだけど』


 しゃがみこみ、パーウォーと視線の高さを合わせると、エスコルチアは続けた。


『パーウォー。なぜあなたは、今まで王宮の奥に閉じ込められていたんだと思う? そして、私がマルガリートゥムを出ていこうとしたとき、なぜお父様は急に私を幽閉したんだと思う?」


 エスコルチアの問いかけに、パーウォーは瞳を不安に揺らした。自分が閉じ込められる理由――そんなこと、パーウォーは考えたことがなかった。エスコルチアさえいれば、パーウォーはあの場所に不満などなかったから。

 パーウォーには、エスコルチアだけだったから。


「たぶんね……私は、あなたをマルガリートゥムに繋ぎ止めるためのくさび、だったんだと思う』


 泣きそうな顔でエスコルチアを見上げるパーウォー。


「なん、で? だってワタシ、人魚なのに歌えないのよ。そんなできそこない、なんで王が留めおきたがるっていうの?」

『それは、あなたが魔法使いだったから。きっと成人したら限定的に真実を告げ、私を与えて、あなたをマルガリートゥムに縛り付けようとしていたんだと思う』

「ああ、だからきみは自分が魔法使いだって気づいてなかったのか。ふぅん……でもさ、なら今、わかったでしょ? ほら、使ってみなよ、力。私が手伝ってあげるからさ」


 サンディークスは腰の鞄から光の加減できらりと縦線の入る緑色の液体が入った小瓶を取り出し、戸惑うパーウォーにおしつけた。


「今回は出世払いでいいよ。でも、いつか私が困ったとき、絶対に助けてもらうからね。だからそれまでに、きみには使える魔法使いになっていてもらわないと困るんだ」


 パーウォーにおしつけた小瓶に杖を当てると、サンディークスは誓いの言葉を口にする。


「朱の魔法使いサンディークスの名にかけ、この人魚のひよっこ魔法使いに電気猫目石トルマリンキャッツアイの開眼薬を与える。あけに染まれ、朱夏しゅかを謳歌せよ」


「ちょっと! あのねぇ、いきなり出世払いだとか飲めだとかって言われたって……そもそも、なんなのよ、これ」


 渋面じゅうめんで小瓶を睨みつけるパーウォーを、サンディークスは相も変らぬ無表情で見下ろす。


「一時的に才能を引き出す薬。一度力を使えば体が覚えるよ。あとはきみ次第だね。ほら、いいから飲んで飲んで。あけの魔法使いお手製だから、品質は保証するよ」


 つい先ほどのエスコルチアの見事な変化からも、サンディークスの腕が確かだということはパーウォーにもわかっていた。そしてどんなに自在に水を操れる人魚の尾でも、おかでは役には立たないということも。パーウォーはわずかに逡巡しゅんじゅんした後、意を決して小瓶の中身を一気にあおった。

 変化はすぐに訪れ、パーウォーの体は腹の底から熱を発し始める。


「さあ、想像して。尾びれが二本の足に変わるさまを。人間になった、きみの姿を」


 サンディークスの声に誘導されるように、パーウォーの頭の中に変化する自分の姿が浮かぶ。そしてそれは現実に作用し、パーウォーの珊瑚色の尾びれは徐々に華奢な少年の足へと姿を変えていった。


「ほら、簡単でしょ。私たち魔法使いは誰から教わるわけでもなく、自然と魔法が使えるようになるんだ。じゃあ、わかったら行くよ」


 まだうまく立てなくてへたり込んでいる素っ裸のパーウォーの腕と、マントを羽織って所在なさげに立っていたエスコルチアの腕をつかむと、サンディークスは呼び出した赤い扉をくぐった。直後、三人の目の前に一人の青年が現れた。


 赤茶の髪に緑の瞳をした、気のよさそうな素朴な若者。そんな驚き戸惑う若者を見た瞬間、エスコルチアが飛び出した。嬉しさを全身からあふれさせ、パーウォーが見たことのないようなあでやかな笑みをたたえて。

 そして若者も、目の前に突然現れたエスコルチアを笑って受け入れた。言葉が通じない、しかも今の状況を全く知らないはずなのに、若者はなんのためらいもなくエスコルチアを抱きとめた。そんな二人の姿を、パーウォーはサンディークスの後ろからじっと見つめていた。


 その後、エスコルチアが若者と一緒になって三年――。仲睦まじい二人の間には、かわいらしい息子が生まれていた。

 幸せいっぱいの家族。けれどそれは、パーウォーには眩しすぎて。だからパーウォーは、エスコルチアたちと距離を取った。失恋したとはいえ、パーウォーはエスコルチアに恋をしていたのだ。そんな男がいつまでも周りをうろついていては、エスコルチアたちにどんな不和を生んでしまうかわからない。だからパーウォーは、耳をふさいで、目を閉じて……海の底から、エスコルチアたちの幸せを祈っていた。


 けれど、平穏は長くは続かず。幸せな家族のおとぎ話のような時間は、ある日唐突に奪われてしまった。


 それは、領主が変わったことがきっかけだった。新しい領主はカコエーテス・アワリティアという強欲な人物で、珍しいものや美しいものを収集するのが生きがいという男だった。

 領主はどうやって調べたのか、エスコルチアが元人魚だったことを突き止めた。そしてあろうことか、彼女を人魚に戻して自分の蒐集物コレクションの一部に加えようと画策した。


 相手は領主、エスコルチア達はあっという間に捕らえられてしまった。子供と夫を人質に取られたエスコルチアは、領主の言いなりに人魚になる薬を飲むしかなく……

 けれど、エスコルチアはサンディークスの薬を飲んで人間になった特別な人魚。彼は言った。もう二度と人魚には戻れない、と。そんなエスコルチアに、人間が作った薬など当然効くはずもなく……

 人魚に戻らないエスコルチアに腹を立てた領主は薬の効果を疑い、こともあろうに残りを若者に無理やり飲ませた。エスコルチアには効果のない薬も、ただの人間で制約のない若者には別で。


 しかも、薬は不完全なものだった。見る見るうちに若者は全身を青緑色の鱗に覆われ、耳の後ろにはぱっくりとしたエラが口を開き……その姿は美しい人魚とは程遠く、出来損ないの怪物としか言いようがなかった。けれど、エスコルチアはそんな変わり果てた若者を見てもなお愛おしげな笑みを浮かべ、なんのためらいもなく我が子ごと彼を抱きしめた。

 それを見た領主はますます面白くなくなり、ついには三人を屋敷の窓から放り投げてしまった。屋敷が建っていたのは高い崖の上。そこからごみのように放り投げられた若者とエスコルチアは、ふたりで必死に子を守るように抱きしめた。


 けれど、現実は無情で。ただの人間になってしまっていたエスコルチアは、硬い海に叩きつけられた瞬間その命を散らし、虹色の海の泡となって若者の腕の間からすり抜けていってしまった。若者の腕の中に残ったのは、一つの小さな命と海色の小さな石。今すぐこの場で泣き叫びだしたい衝動をぐっとこらえ、若者は腕の中の小さな温もりを抱きしめると、その場から逃げ出した。


 そして若者がたどり着いたのはカエルラの町の外れ、人気のない岩場だった。


「誰か! お願いだ、誰でもいい……頼む、助けてくれ‼」


 妻の形見と息子を抱きしめ、若者は祈った。涙が流れない苦しさに顔をゆがめ、それでもひたすらに願った。どうか息子を助けてくれ――と。

 その時、うつむいていた若者の視界に影が差した。


「ねえ、あなたのその姿……それに、コルは?」


 震える声で若者に問いかけたのは、三年の間ですっかりと立派な青年になっていたパーウォーだった。若者は突然目の前に現れたパーウォーを見て、安堵の表情を浮かべると笑った。


「来てくれたのが、あんたでよかった。あんた、あの時ルチア……エスコルチアと一緒にいた子だろ? 頼む……」


 鱗に覆われた腕で差し出された眠る幼子おさなご。パーウォーは赤子を受け取ると、若者を見た。

 不完全な変態による異形の姿。そして、ここにはいないエスコルチアの気配。パーウォーの脳裏を最悪の予想がよぎる。


「俺はこんな姿になっちまって、とてもじゃないがこの子を育てられない。だから、頼む。この子を、マレフィキウムを……」

「それがアンタの願い? 今のワタシだったら、アンタを人間に戻すっていう願いだって叶えらるわよ。ただし代償は……アンタが大事に握ってる、その人魚石アクアマリン


 パーウォーの提案に、若者は泣きそうな笑顔で首を横に振った。力ない動作とは反対に、その瞳には確固たる意志を込めて。


「……ひどい父親だってことはわかってる。だけど、ルチアは渡せない。マレフィキウムのことは愛している。けど、それでも……ルチアを渡すことは、できない」


 子供より妻を取った男に、けれどパーウォーは何も言うことができなかった。うれいをたたえた瞳で男を見下ろすと、パーウォーは一拍置いて最後の問いを投げる。


「この先ずっと、死ぬまでその姿のまま生きる。これが、その願いの代償よ。それでもアンタは……願うの?」


 若者――クエルクス――は笑った。心の底から満たされた、まさに満面の笑みで。それは、パーウォーの中のエスコルチアと重なり――


「いいわ。アンタの願い、受け取った。クエルクスの残りの命を代償に、海の魔法使いパーウォーの名にかけ、マレフィキウムを必ず一人前に育て上げることを誓う。泡沫うたかたの世界に祝福を」


 若者はパーウォーの誓いの言葉を聞くと満足そうに笑い、静かに海へと消えていった。

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