11.追想の人魚姫3

 閉ざされた部屋の中、真っ白に磨かれたシャコガイのベッドの上でエスコルチアは悲嘆に暮れていた。涙を流すことができない人魚族にとって、嘆くというのはとても苦しいこと。そんな彼女は昨日から嘆き続け、いまやすっかりとやつれてしまっていた。

 エスコルチアをこの状況に追い込んだのは、彼女の父であるマルガリートゥム王だった。王は最近のエスコルチアの行動によくないものを感じ、密かに見張りを付けていた。


 今夜あの約束の場所へ行けなければ、人間になるという夢はもう二度と叶わなくなる。それなのに、なぜ、よりにもよって今この時に、父王がこのような行動をとったのか……。

 エスコルチアが父王の真意を考えていたその時、どうやって忍び込んだのか、突然目の前にパーウォーが現れた。


「コル、大丈夫⁉」


 心配そうにひそめられたパーウォーの眉。けれど、エスコルチアの方は忽然こつぜんと目の前に現れたパーウォーに驚き、それどころではなかった。思わず嘆くことも忘れ、どうやってこの部屋に入ってきたのかと聞いてしまったくらいだ。けれど、その答えはやつれたエスコルチアの顔を見た瞬間、パーウォーが不機嫌になってしまったため得られることはなかった。


「ねえ、これって……」


 ご機嫌斜めなパーウォーに力なく首を振ると、エスコルチアは困り顔でうつむいた。


「もしかしなくても、王に魔法使いのことがバレちゃったってことよね?」


 パーウォーは眉間に深くしわを刻み、口もとに手を添えた。エスコルチアはそんなパーウォーの腕を軽く叩くと、いつものように自分の思考を飛ばす。


『たぶん。お父様は、私が人間になろうとしてることが許せないんだと思う』

「まあ当然、でしょうね。ワタシだって……ううん、ごめんなさい。でも、どうするの?」


 パーウォーはベッドの上に座るエスコルチアを見下ろすと、目で訴える。するとエスコルチアは祈るように指を組み、パーウォーを見上げた。


『パーウォー、お願い! 今夜、ここから私が出ることはとてもできそうにないわ。だから、私の代わりにあなたが魔法使いさんのところに行って、この今の事情を説明してきてもらえない?』


 エスコルチアの頼みに驚き、思わず目を見開くパーウォー。それはそうだ。パーウォーは物心ついてから一度も、たったの一度もこの王宮の奥から出たことがなかったのだ。王より外へ出ることを、厳しく禁じられていたために。

 もちろん、そんなもの無視して外に出ていくこともできた。けれど、一度抜け出そうとしたとき、エスコルチアが王にひどく叱られてしまったのだ。しょぼくれるエスコルチアを見て、そんなことになるくらいならと、パーウォーはこの狭い世界の中に囚われることを選んだ。


「待って、ちょっと待って」


 言いかけてはっと口をおさえると、パーウォーは口をつぐんでエスコルチアの心に声を伝えた。


「コル。ワタシ、ここから出たことないのよ。それなのにいきなり、みんなの話でしか聞いたことない外の世界にお使いに行けって言われても……。それにワタシがここを勝手に抜け出したら、きっとまたコルが怒られちゃうわ。あと、昨日言ってた代償のことだって……」


 エスコルチアはふわりと笑うとパーウォーの腕をとり、そして固い決意を宿した瞳でまっすぐ見つめた。


『ごめんなさい。パーウォーに迷惑をかけるのはわかっているの。今までだって散々あなたに迷惑をかけたし、自分勝手なこともしてきた。ひどい姉だって自覚はあるわ。しかもあなたの気持ちには応えられないくせに、自分の気持ちは押し通そうとしてる……でも、それでもお願い! 今の私には、あなたしか頼れる人がいない』


 エスコルチアの桜貝のような爪先は、込められた力のためか白くなっていた。そこから伝わる微かな痛み、それはパーウォーの中の柔らかい場所に小さな傷を刻む。小さいけれど、深い傷を。


「ひどい人……今、その言葉を使うなんて。でも、いいわ。頼ってくれて、嘘をつかないでくれて、ありがとう。代償は……ううん、コルはもう決めてしまったものね。ワタシが今更何を言っても、コルの意思は変わらないのでしょう? だったらその願い、弟であるワタシにも協力させて。そしたらワタシがあなたの願い、全力で叶えてあげる」


 泣きそうな顔に強がるような満面の笑みを貼り付け、パーウォーはエスコルチアに宣言した。そんな彼に、エスコルチアも泣きそうな顔でくしゃりと笑う。

 エスコルチアはパーウォーの手のひらに小さな赤い石辰砂を置いた。そして一度うつむくとすぐに顔を上げ、夕凪ゆうなぎのような瞳でパーウォーを見上げた。


『ありがとう、パーウォー。私の大切な、愛しい弟。私がここからいなくなったら……あなたはあなたのために、自分のために生きて。こんな狭い世界じゃなくてもっと広い世界で、大海原を回遊かいゆうする魚たちのように』

「ありがとう、コル。あなたもワタシの最高の姉よ。そんなコルがいないマルガリートゥムなんて、きっとつまらないわ。だからコルの願いを叶えたら、ワタシもワタシの願いを叶えるため、ここを出ていく。海でも地上でも、好きなところで好きなように生きて、そしてまた……新しい恋をするから。たくさん恋をして、いつかワタシも……コルみたいに自分だけの運命の相手を、それこそ石人たちの半身みたいな存在を見つけてみせるわ」


 小さな赤い石を握りしめ、パーウォーは自分に言い聞かせるようにささやかな願いを口にした。そんなパーウォーにエスコルチアはにじむような微笑みを返し、慈しむように抱きしめた。


「待っててね、コル。アナタの願い、ワタシが必ず叶えるから」


 エスコルチアの背に回していた腕にほんの少しだけ力を込め声を心に伝えると、パーウォーはうれいを吹き飛ばすように笑った。そして来た時と同じように唐突に、まるで泡がはじけるように忽然とエスコルチアの前から消えてしまった。


『この不思議な力。パーウォー、やっぱりあなたも……』


 パーウォーだけが、エスコルチアの心の声を聞くことができた。

 パーウォーだけが、歌えなかった。

 なぜ、父がエスコルチアを突然閉じ込めたのか。それは、彼女が人間になろうとしたのを察したから。見張っていたのか心配していたのか、親として、そして人魚をべる王として、見過ごせなかったのだろう。

 けれど、他にもっと、もっと何か違う理由があるとエスコルチアには感じられた。その理由、それはおそらく――



 夜のとばりが海の中にも降りてきた頃、パーウォーは王宮を、マルガリートゥムを抜け出した。初めての時もそうだったが、それは思っていたよりもずっと簡単で、拍子抜けするほどあっけないものだった。

 エスコルチアに教えられた通り海藻の森を抜け、珊瑚さんごの平原を通り過ぎ、やがて約束の岩礁がんしょうへとたどり着いた。初めて目にする海の上の鮮やかな景色に、パーウォーは一瞬だがエスコルチアのことを忘れてしまったほどだ。


「あれ? なんか雰囲気、変わった? きみ、昨日の人魚……だよね?」


 背後から投げかけられたその間抜けな質問に、パーウォーは思わず「はぁ?」と胡乱うろんげに返してしまった。

 先ほどまで誰もいなかったはずの岩礁の上に、唐突に現れたそれ。黒いローブから夕焼け色の喉元をのぞかせ、つぶらな瞳で不思議そうにパーウォーを見下ろすヤモリの獣人――あけの魔法使いサンディークス。

 岩に腰かけたまま、おそらく自分より頭一つ分は高いサンディークスをにらみつけるように見上げると、パーウォーはエスコルチアから託された小さな赤い石を突きつけた。


「アナタのその目は節穴? どこをどう見たらワタシとコルが同じに見えるのよ。私はパーウォー。エスコルチアの代理で来たの」

「ふぅん、確かに私の辰砂しんしゃを持ってるね。じゃあ、どっちでもいいか」


 サンディークスは辰砂を受け取ると、何を考えているのかわからない顔でパーウォーをじっと見つめる。そして不遜なパーウォーの態度には何の関心も示さず、「で、答えは?」と淡々と問うた。


「コルの答えは……人間になりたい、よ」


 苦々しい顔で答えを告げるパーウォー。すると、サンディークスは目を細め、満足そうな表情を浮かべた。


「その願い、朱の魔法使いサンディークスの名にかけ、必ず叶えることを誓おう。……じゃ、依頼人を迎えに行こうか。ひよっこ魔法使い」

「ひよっこ魔法使いって……他に誰かいるの?」


 訝し気に辺りを見回したパーウォーの細い腕をつかむと、サンディークスは持っていた杖を一振りした。すると次の瞬間、パーウォーの目の前にエスコルチアが現れた。正確には、サンディークスとパーウォーがエスコルチアの前に現れた。


「やあ、伝言は受け取ったよ。きみの願い、叶えにきた」


 ぽかんと見上げるエスコルチアの腕を取ると、サンディークスはパーウォーをつかんだ腕で、パーウォーもろとも杖を振った。


 次にサンディークスが降り立ったのは、月明かりでほのかに白く光る砂浜。


「ここでいいよね」


 一人勝手に納得すると、サンディークスは腰袋から小さな瓶を取り出した。赤褐色の液体に満たされたその小瓶をエスコルチアへと渡す。


「朱の魔法使いサンディークスの名にかけ、この人魚姫に中性長石アンデシンの変化薬を与える。あけに染まれ、朱夏しゅかを謳歌せよ」


 エスコルチアの手の中の小瓶に、サンディークスの杖がこつんと触れる。瞬間、小瓶の中の液体が淡い光を発した。光はすぐにおさまり、辺りには再び優しい夜の闇が満ちる。


「というわけで。それを飲み干した時、きみは人間になるよ。尾びれのかわりに二本の足を得て、代わりにその声を失うけどね」


 挨拶でもするかのような軽い調子で放たれた代償の内容に、パーウォーの顔から一気に血の気が引いた。


「代償って、そんなに大きなものだったの⁉ だって、コルは音が聞こえないのよ! その上声も失うなんて、そんな……」


 愕然がくぜんとするパーウォーとは対照的に、エスコルチアは穏やかな笑みを浮かべた。


『大丈夫。私なら、もう覚悟はできてるから。ごめんなさい……本当のこと、言わなくて。でも、音がなくても、声を失っても……あの人の隣を得られるのなら、それでいい。何に代えても、私はあの人の隣に立ちたい。共に、生きていきたいの』


 そして止める間もなく、彼女は小瓶の液体を一息にあおった。


「コル‼」


 パーウォーの悲痛な叫びが夜のしじまを引き裂く。彼は細い腕で重たい尾びれを無理矢理引きずり、エスコルチアのもとへと必死にった。美しい珊瑚色の尾びれも、顔も髪も、全部全部砂まみれにしながら。

 けれど、パーウォーがやっとのことでたどり着いたその瞬間、エスコルチアの真珠色の尾びれは無情にも淡い光を発し始めた。そして砂が波にさらわれるように、なめらかにゆるやかに、尾びれはみるみる二つに裂けていく。

 そして輝く真珠色の尾びれは、白くまろい二本の脚へとその姿を変えた。

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