6.おかえり
「半身。リコリスは聞いたことない?」
ヘルメスの問いにリコリスは首を横に振る。
「そっか。リコリスのお母さんは人間だもんね。えーっとね、僕のこれもトートの受け売りなんだけど……」
そう前置きを挟むと、ヘルメスは石人について熱弁し始めた。
「石人は『半身』っていう、自分だけの運命の
嬉々として語られるヘルメスの石人講座。しかしそれは、リコリスの小さなくしゃみによって終わった。
「ああ、ごめん! 駄目だなぁ、僕。つい嬉しくなっちゃって……」
「ううん、大丈夫。でもヘルメス、石人、どうやって半身、見つける?」
「うーん……わかんない。でも、その人に会えばわかるってトートは言ってた。実際、僕もわかったしね!」
誇らしげに胸を張るヘルメスに、リコリスは困り顔をで首を振る。
「わたし、わからない。半身も、石人も、わからない」
「うん、今はまだわからなくてもいいや。でもいつか、リコリスがもっともっとこの世界のことを知ったとき……そのとき、もう一度考えてほしいな」
そう言ってリコリスをまっすぐに見つめてくるヘルメスに、リコリスはなんとも言えない居心地の悪さというか、落ち着かない気持ちになった。だからそのむずむずする気持ちを誤魔化すため、リコリスは必要以上に大きくうなずく。
そんなリコリスの仕草がおかしかったのか、ヘルメスはくすりと笑うと、リコリスに向かって手を差し出した。
「行こう、リコリス。世界は広いよ。きみに見せたいもの、いっぱいあるんだ」
※ ※ ※ ※
ウンディーネとその
普通の人間には深すぎる闇も、貴石の瞳を持つものにはなんの障害にもならない。本来石人たちは常夜の国で暮らすもの。そんな彼らの貴石の瞳は、夜の闇などものともしない。
だからなのか、極夜国から出て外界で暮らす石人たちは、故郷で暮らす者たちよりはるかに寿命が短くなる。それでも己の半身を求め、命を燃やしながら世界をさまよう者が後を絶たなかった。石人とは本当に情熱的で偏執的で、どこまでも難儀な種族だった。
ただし現在の極夜国は鎖国中で、出入りが厳しく制限されているため、今こちらにいる石人たちのほとんどは鎖国の始まる百年前よりも前に出てきた者たち。その影響で現在、極夜国の外で石人に遭遇するのは稀なこととなってしまっていた。
いくつかの階段と入り組んだ細い路地を用心深く通り抜け、ヘルメスたちはようやく工房まで帰ってきた。
もう少しで夜が明ける、その直前の一番闇の深い時間帯。こんな時間に出歩く人間などまずいないが、ヘルメスは警戒を怠ることなく周りを窺う。精霊たちにも調べてもらったが、ここまでは特に追手がかかった様子はなかった。
「うん、大丈夫そうだね」
ほっと胸をなでおろすと、ヘルメスは工房の扉を開け先に入った。そして突然玄関で立ち止まるとくるりと振り返り、ひなたのような笑顔で両手を広げた。
「おかえり、リコリス」
――おかえり。
その言葉は、塔から出ることのできなかったリコリスには知らない言葉だった。どう返せばいいのかわからず困惑していると、ヘルメスはまた笑った。
「ただいま。家に帰ってきた時は『ただいま』っていうんだよ、リコリス。今日からしばらくはここがきみの家になるんだから。ほら!」
「…………た……た、だいま‼」
「うん。おかえり、リコリス」
その瞬間、リコリスは鼻の奥がつんとして、目の奥がとても熱くなった。とくに右目、金の貴石の瞳が熱くて熱くてたまらない。
「へる、めす……ヘルメス、ヘルメス、ヘルメス!」
リコリスは自分の中に湧き上がるその熱をどうすればいいのかわからず、目の前で両手を広げるヘルメスの胸に飛び込んだ。
「ちょっ、リコリス⁉」
びっくりしたのはヘルメスだ。
突然自分の胸に飛び込んできたリコリスをどうすればいいのかわからず、行き場のない両手があわあわと空を切る。
「ヘルメス、ヘルメス! 熱いの、目が、変なの」
ヘルメスにしがみついたまま、なんとか自分の状況を説明しようとするリコリス。そんな彼女の混乱した様子に、ヘルメスの方は反対に落ち着いてきた。さまよわせていた両手をリコリスの両頬に添えると、その金と赤の瞳から止め処なく流れ落ちる涙をそっとぬぐう。
「落ち着いて。熱いのはね、リコリスが泣いてるからだよ」
「……泣いて、る? わたし、また、泣いてる?」
リコリスは不思議そうな顔でヘルメスを見上げた。
「わたし、また、心……動いた?」
「うん。もしかするとだけど、リコリスは『嬉しい』って思ったんじゃないかな? 僕もね、初めてトートに『おかえり』って言われた時、目の奥が熱くて心臓がぎゅってなって、でも、すっごく嬉しかったから」
「嬉しい……これも、嬉しい。おかえり、ただいま……なんか、くすぐったい」
「うん、くすぐったいよね。でもあったかくて、僕は好きなんだ、この言葉」
「……うん、うん。わたしも、好き。ヘルメスが言ってくれると、くすぐったくて、ポカポカする」
大きな瞳を見開き素直に喜びを伝えてくるリコリス。そんな彼女の姿に、ヘルメス自身の心もポカポカと温かくなる。トートが笑ってくれた時と同じくらい、今はリコリスが笑ってくれるのがヘルメスには嬉しかった。
その後、少々興奮気味のリコリスを自分のベッドで寝かしつけると、ヘルメスは仮眠をとるため居間のソファに転がった。そして太陽が真上にさしかかるころ目を覚ましたヘルメスは、リコリスの様子を見に二階へと上がる。ベッドを見ると、リコリスはまだ熟睡していた。
「よっぽど疲れたんでしょうね、この子」
右耳の耳飾りからウンディーネの声が響いた。
「そうだね。リコリスにとっては初めての大冒険だったもんね。きっと心も体も、びっくりしすぎて疲れちゃったんだよ」
ヘルメスは慈しむように愛おしむように、そっとリコリスの綿毛の髪を
リコリスの真っ白な髪と真っ赤な瞳、それは
――こんなに綺麗なのに。
ヘルメスは純粋にそう思った。
そうしてしばらくそのふわふわとした手触りを堪能していたが、ふと彼女の胸元でその目がとまる。ヘルメスはそのまま手を伸ばすと、リコリスが後生大事に抱えていたボロボロのぬいぐるみをそっと取り上げた。
「ドローススの野郎、ひっでぇことしやがって! …………リコリス、泣いてたよな」
完全に首が取れ、無残にも綿が飛び出してしまっているくたびれたウサギのぬいぐるみ。一見なんの価値もありそうにもないそれは、けれど、リコリスにとっては何にも代えがたい宝物だったのだろう。
ヘルメスはこみ上げてくる怒りと悲しみに目を伏せる。そしてすぐ顔を上げると、そのまま部屋を後にした。
太陽が中天を過ぎ去り、そろそろ皆の影が伸び始めた午後。リコリスはようやく目を覚ました。
しかし、目を開けた瞬間飛び込んできた見覚えのない景色に驚き、慌てて起きようとして寝台から派手に転げ落ちてしまった。
「リコリス⁉」
その音で血相を変えたヘルメスが飛び込んできた。
即座にリコリスのもとへ駆けつけると、ヘルメスは彼女が起き上がるために手を貸す。
「大丈夫だった? どこか怪我してない? 怖い夢でも見た?」
とても心配そうな顔でリコリスをのぞき込むヘルメス。その距離の近さに、リコリスは再び妙な居心地の悪さと激しくなる動悸を感じた。今までそんなことなかったのに、昨日からヘルメスといると時々落ち着かなくなり、そんな自分の変化にリコリスは戸惑う。
とその時、リコリスは寝る前までは確かに抱きしめていたぬいぐるみがないことに気づいた。
「レプス! いない、どこ⁉」
リコリスの上気していた頬が一気に青ざめて、慌てて周りを見渡し始めた。そして泣きそうな顔でヘルメスを見る。
そんなリコリスに、ヘルメスは持っていたウサギのぬいぐるみを慌てて差し出した。
「ごめん! レプスってもしかして、この子のこと?」
「レプス!」
リコリスはヘルメスからウサギのぬいぐるみを受け取ると、もう絶対に離さないとでもいうかのようにぎゅっと抱きしめる。しかし、すぐに驚いた顔でヘルメスを見た。
「レプス、なおってる。それに、リボン! かわいくなってる」
ぬいぐるみは頭と胴が完全にちぎれてしまっていたため、ヘルメスが他の布で補強しながらなんとか直した。けれど少し不格好になってしまったので、苦肉の策として首元にリボンを飾った。どうやらそれがリコリスはいたくお気に召したようで、誇らしげにレプスを掲げる。
「ええと、レプス? この子、痛そうだったから直しちゃったんだけど……ごめんね、勝手なことしちゃって」
謝るヘルメスに、リコリスはぶんぶんと頭を振る。
「ありがとう! とても、嬉しい。わたし、ヘルメス、好き。大好き!」
つい昨日、好きだと自覚した女の子から満面の笑みで「大好き」と言われ、そこに深い意味などないと理解はしていたが、それでもヘルメスは顔を真っ赤にすると言葉を失ってしまった。
自分から好きだと言う時はそんなに恥ずかしいなどと思わなかったのに、いざ相手から言われるとこんなにも違うものなのかと思い知らされ、ヘルメスは茹で上がった顔を隠すため頭を抱えてしゃがみこむ。
「ヘルメス、どこか痛い?」
「うー……気にしないで。ちょっと、初めての経験に戸惑ってるだけだから」
ヘルメスは熱くなってしまった顔を冷ますように、両手であおぎながら立ち上がる。リコリスはそんなヘルメスを不思議そうに見ると、ちょこんと首をかしげた。
「えーと、とりあえずご飯にしようか。あ、でも今の時間だともうおやつかな? ま、いいや。行こ、リコリス」
まだ少し頬の赤いヘルメスの後を、ご機嫌なリコリスがついていく。その姿はまるで親鳥とひな鳥のよう。ヘルメスの装飾品の中から、精霊たちのクスクスという微かな笑い声がもれてきていた。
そんなからかうような精霊たちの笑い声にヘルメスはむくれ顔を浮かべたが、精霊たちと一緒ににこにこと笑うリコリスを見ていたら、そんなことはどうでもよくなってしまった。
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