最終話
「さて――」
しわくちゃの制服を身にまとった男子生徒を軽やかに放り出し、部室の中にずかずか入ったクロナちゃんは、かちゃりとカギをかける。
「ふう! これで、推理の邪魔をするものはなくなった」
「これどういうことなの……」
入った部室の中には、ミントの香りと汗と、嗅いだことのない不可思議な香りがした。おなかの中のなかがうずくようなビリリとした不思議な香り。
「つまりはこういうことさ。彼女は、野球部員たちといかがわしいことをしていた」
「いかがわしいこと?」
わたしの頭の中では、イカとワシが狂喜乱舞していた。多分こういうことじゃないのは、呆れたような目をしているクロナちゃんでわかった。
「おっとそこまでは私の口からはとても。AかBかC……どの程度までやっていたのかは本人たちのみぞ知る、だよ」
わたしは、うつむいたひなたちゃんを見る。今の彼女は、制服を身にまとってはいる。
……いるのだが、先ほどよりも色っぽく見えてしまうのは、高窓から差し込むとろけるような日差しのせいなのだろうか。
「まったく話が分からないんだけど」
「思いだしてみよう。私たちはどうして野球部へ話を聞きに?」
「そりゃあ、
「――誰がタバコを流行らせたのか、だ」
クロナちゃんが顎をしゃくってみせる。その先には、悄然として、先ほどから口を開こうともしないひなたちゃんがいる。
「まさか、彼女が?」
「そのまさかさ。彼女はタバコの魅力でもって、野球部員と親しくなった。こんなかわいらしい少女がタバコを吸っているとは思わないだろう。そのギャップに誰もがイチコロだったんだ。もちろん、ミントの消臭剤は彼女の入れ知恵さ」
そして、とクロナちゃんが続ける。
「タバコには中毒性がある。その中毒性でもって、野球部員を惹きつけた。麻薬だが類似した話を聞いたことがある。昨今、タバコは手に入れにくいから、数を絞るのは容易だったろう」
「でも、どうしてそんなことを?」
「さあて。虚栄心か、はたまた……」
わたしとクロナちゃんは揃って、ひなたちゃんを見た。
ひなたちゃんの目には、光がない。ただ、呆然としているようであった。
「幸いなるかな。今のところ、私の推理は正しいらしい。ただ、ここからが問題なのだ」
「もしかして、ラスト・ホープのこと?」
わたしが「ラスト・ホープ」と発した途端、ひなたちゃんの耳がピクンと動いたような気がした。
「ああ、そのラスト・ホープだが、私の考えで行けば、あくまでデコイ。実際には存在しない――」
「存在するもん!!」
悲鳴にも似たひなたちゃんの声が、部室内に轟き、わたしもクロナちゃんも、驚き、一瞬呆然としてしまった。
その隙を逃さず、ひなたちゃんはわたしたちをかわし、扉の鍵を開け、飛びだしてった。
「きらら、追いかけよう!」
わたしは無言で頷き、ひなたちゃんを追いかける。その小さな体躯からは想像もできないほどの脚力で、瞬く間にひなたちゃんの背中は見えなくなった。
「私はあっちを探す」
「じゃあこっちを」
そういうわけで、わたしとクロナちゃんは手分けして、ひなたちゃんを探した。
だが、見つからなかった。
午後七時半を回ったところだっただろうか。空には火星が上り、空は濃紺色にそまろうとしている。車は眩い光を伸ばし、すぐわきの道を我が家めがけて駆け抜けていく……。
学校近くの橋で、わたしとクロナちゃんは落ち合うことにした。
わたしがたどり着いた時にはすでにクロナちゃんは到着しており、欄干に腕を乗せ、川を見下ろしていた。その手は、何か白くて細長いものをつまんでいる。
「そっちはどうだった?」
「ぜんっぜん。クロナちゃんの方は?」
「これだけだよ。彼女が落とした」
クロナちゃんは、つまんでいた物体を差しだしてくる。
「これタバコ……?」
「ああ。だが、自作されたものだ」
「自作」
「タバコを包んでいる紙が斜めなんだよ。機械ではめったにこうならない。つまりは自力で巻いてつくったんだ」
言って、クロナちゃんは、そのタバコを街灯にかざす。くるくると巻かれた白い紙は確かに斜めっているし、いびつだ。
「でもこれが?」
「これこそが、ラスト・ホープさ」
クロナちゃんは、満足げな顔をして、その一本をかかげる。今のわたしたちからすれば、本当の意味で最後の希望とばかりに。
「じゃあ、クロナちゃんの推理外れちゃったんだ」
「そう言うことにはなるが、存在するかしないかはニブイチだったんだからしょうがない。さて――」
言うが早いか、クロナちゃん。懐から取り出したライターで、ラスト・ホープに火をつけた。
ポッとぼんやりとした火がともる。少しすると、這い寄ってくる暗闇に溶け込むような煙がゆらゆらと昇っていく。それと同時に、甘ったるい香りがあたりに漂ってきた。
「まさか、吸うつもりじゃないよね」
わたしの忠告に返事はない。青白い顔が、じっと頼りないタバコの火を見つめていた。
……かと思えば、その手からタバコが落ちていく。
赤い光がくるくるとスピンを繰り返し、ちいさくなっていって、そして消えた。
「あっ」
「大丈夫だ、真下は川だよ」
「そう言うことじゃなくて、よかったの? 海野先輩に見せなくて」
「や、見せない方がいいよ。彼、小柳ひなたを狙ってたんだから」
「狙ってた? それはラスト・ホープを……」
「そういうことでもあるし、女性としても、ね」
練習前の
「おそらくはラスト・ホープなるものがあれば、彼女を思いのままにできると思ったのだろう。それこそ、なんでもできるわけだからな」
「……そこまで気がつかなかった」
「よくよく観察していたら、誰でもわかることさ」
「その割には、ひなたちゃんを逃がしちゃったみたいですけど、名探偵さん?」
「それは、あとで何とでもなるよ」
悠然と微笑みながら、クロナちゃんは言った。その見るものをゾッとさせずにはいられない笑みを浮かべる彼女は、どこか、別の生き物がその身に宿っているように思えて、鳥肌が立つのだった。
さてここからは後日談。
翌朝――7月10日だ――臨時の全校集会が行われた。野球部の不祥事でも公になったんだろうかと思っていれば、校長先生の口から飛びだしたのは、それをはるかに上回る衝撃であった。
――小柳ひなたさんが亡くなられました。
その衝撃は計り知れず、この一日、学校中がお通夜のようであった。もっとも、ここにいるクロナちゃんをのぞいてだけれども。
クロナちゃんは、今日も今日とて、屋上の床に寝そべっている。
「汚いよ」
「そう言ってくれるのはきららだけだよ」
「まるで誰かここに来るみたいな言い方だね」
屋上には生徒も先生もやってこない。ここは立ち入り禁止となっているからだ。でもなぜか、クロナちゃんはカギを持っていて、唯一屋上に入れる存在だってうそぶいている。
クロナちゃんは微笑むと、体を起こした。その目は、わたしが下で買ってきた飲み物をしっかりと捉えていた。
「お、缶コーヒー」
「こういう時は目ざといんだから……」
「ちょうど喉が渇いてたんだ」
クロナちゃんは、缶コーヒーを受け取るなりごきゅごきゅ飲んで、ぷはーっと声を上げた。
「はあ、おいしい。疲れてるときに飲むコーヒーはおいしいなあ」
「疲れてるって。授業サボってるやつが?」
わたしはクロナちゃんと同じクラスだけれど、授業を受けているところを見たことがない。屋上か、保健室にいて、日がな一日寝そべっている。そのくせ成績はトップクラスなんだから、神様はいつだって不公平だ。
「もちろんだとも。きららは私がどんなことをしたのか知らないから、そんなことが言えるんだ」
「何言ってんのさ……」
クロナちゃんは素知らぬ顔して、コーヒーに舌鼓を打っている。キンキンに冷えて、水滴をまとった缶を握る手には、赤い、真っ赤な線が三本走っている。ネコに引っかかれたようなそんな傷が。
「それ……」
「ん。そんなに見つめてどうしたんだい」
「その傷、どうしたの?」
わたしが言えば、クロナちゃんは、はじめて気がついたように目をぱちくりさせる。それから、大きくため息をついた。
「しまった。あのときか」
「あの時?」
「ほら、昨日小柳ひなたを追いかけただろう。あの時ヒイラギの中に突っ込んだんだ。その時にでも切ってしまったんだろうさ」
そんな言葉が返ってきたけれど、なんとなく信じられなかった。わたしは観察が得意ってわけじゃない。
でも、今のクロナちゃんはいつもよりも早口だ。そういう人はなにかを隠したがっている――彼女本人がそう言っていた。
「そんなことよりも」
わたしが追及するよりも先に、クロナちゃんが言った。
「今朝の話、覚えてるか」
「今朝っていうと、全校集会の……」
「そ。小柳ひなたがどのようにして亡くなったのか、知りたくないか」
わたしは、クロナちゃんを見た。
クロナちゃんの黒々とした瞳が、わたしを見つめ返す。墨汁のように
幼なじみの目をたっぷりと眺めて、
「別に知りたくないかな」
「――――そうか。それは残念」
何が残念なのかわからないけれど、クロナちゃんはくつくつ笑っている。
「残念にしては楽しそうだね?」
「いつもどおりだと思ってさ。清澄きらら、君はホントに変わらないな」
本当に、心の底から楽しそうにクロナちゃんは笑っていた。
何がそんなに楽しいのやら。生徒が一人亡くなっているというのに。
でもこれが、
変わった事件を愛し、首を突っ込んでいくところから、神谷木の名探偵、なんて言われることもあるけれど、わたしからすれば――。
「――クロナちゃんはだいぶ変わってるよ」
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