第10話 点検その2
「……無水エタノールと、綿棒ってあるかな」
「え?」
彼女はあちこちの戸棚を探して、消毒用無水エタノールの瓶と綿棒が入ったケースを持ってきた。
「ありがとう」
僕は受け取って、綿棒の先に無水エタノールをちょちょいとつけ、おもむろに機関車の車輪踏面を磨き始める。白い綿棒の先っぽが、みるみる黒くなっていく!
「なにそれ!?」
横から見ていた蔵王ひかりが驚愕の声を上げる。銀色に見える車輪から、こんな汚れが?とでも言いたいのだろう。
「スパーク汚れってやつだよ」
鉄道模型は、走らせていると車輪とレールが汚れる。これは、空気中の水分やホコリなどが流れる電気とスパークしてカーボン状に付着する、煤のような汚れだ。
この汚れは電気を通さない。だから、レールから電気を取って走る鉄道模型には持病と言うか天敵と言うか、必ずついて回る障害なのだ。
昔は目の細かい紙やすりで磨くことも推奨されていたようだけど、今は違う。専用のレールクリーナー液か無水アルコール類で磨くことが推奨されている。
紙やすりで磨くと細かい傷がついて、汚れが付きやすくなるっぽいからだ。
とにかく僕は無水エタノールを付けた綿棒を使い、機関車の車輪六つ分の見えている個所を磨いた。車輪はほんの僅かな部分しかレールに接触しないので、この汚れはきっちり取らないといけない。
ちなみに、実車は三つの台車に二組づつある車輪、つまり十二枚の車輪全てにモーターからの動力が伝達されて動くけれど、模型は簡略化されているので、真ん中の台車はダミーだ。
そして、台車一つに四枚ある車輪のうち一枚には、摩擦を増やして牽引力を稼ぐためのゴムタイヤがはめられている。
なので台車ひとつにつき三枚の車輪を磨く必要がある、というわけ。
僕はレールのそばに置いてあったリレーラー……車両を簡単にレールへ乗せられるグッズだ……を使って機関車をレールに乗せ、パワーユニットの電源を入れてダイヤルを軽く右に回す。すると、ゆるゆると機関車が走り出し……そしてまた止まった。
「動いた!……あれっ?」
僕はダイヤルを戻してパワーユニットの電源を切り、再び機関車を持ち上げてスパーク汚れの残っている車輪踏面を磨く。
「動力台車の車輪は手で簡単には回せないから、分解しないならちょっとづつ動かして磨くしかないんだ」
「そうなんだ」
他に楽な方法があるのかも知れないけれど、僕が昔通った街の模型屋のおじさんはこう教えてくれた。僕はこれ以外の方法を知らない。
何回か作業を繰り返して、そのうちそれなりにスムーズに走るようになってきた。なので僕は、蔵王ひかりにもう一つ注文をする。
「いらない布とかあるかな。汚れてもいいような」
「古いハンカチがあるわ」
彼女が持ってきた古びた白いハンカチに、僕は無水エタノールを少しつけて……今度はレールの頭を磨き始めた。スパーク汚れは何も車輪側だけの専売特許じゃないからだ。
こちらもそこそこ汚れていたみたいで、白かったハンカチはたちまち黒ずんでいく。
「うわぁ」
「電気が流れるからね。空気中の水分とかホコリとかを巻き込んでショートして、汚れるらしいんだ。これが不調の原因」
ぴかぴかに磨いたレールの上に電気機関車を乗せて、僕は場所を彼女に譲った。
「さあどうぞ」
「ありがとう」
蔵王ひかりはしばらく、その古いEF65PF型を無心に走らせていた。時にはゆっくり、時には速く。エンドレスをただひたすらに走り続けるその小さな電気機関車に、彼女は一体何を見ているんだろう。
シャーというレールと車輪が擦れる微かな音。タタンタタンとジョイント音さえも聞こえる。ただ静かに時間が溶けていく感覚。
ただ無心に、そして愛おしそうに機関車を走らせる蔵王ひかりの横顔は、まるで美術館の彫刻のように美しく見えた。その潤んだ瞳が、上気した頬が、陶然とした表情が、全てが美しい。
スロー、スロー、そしてクイック。曲線レールを走る機関車に顔を寄せ、直線レールを走り去る機関車を見送る。まるで、この世界には彼女と機関車しか存在していないかのような時間が過ぎていく。
しばらくして、大きくため息をついた蔵王ひかりはゆっくりと機関車を停止させ、パワーユニットの電源を切った。
「ありがとう松島くん。感謝するわ」
「いいよ、大したことじゃない。たまにレールを磨いておくと、汚れもつきにくいよ」
「判った、気を付ける」
そう言えば僕は、密室でこんな美少女と二人きりだったのだ。今さらながらドキドキしてきた。
「じ、じゃあそろそろ帰るよ」
「そうね、本当に今日はありがとう」
僕はそそくさと蔵王ひかりのマンションを辞した。役に立てたことは良かったけれど、予想外の展開には本当に驚いた。
心底くたびれた僕は、そのまま家に帰って風呂に入って夕食を食べ、明日の予習もせずに寝た。
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