第7話

 殴られた。割と強めに。ぐーで顔をやられたのは久しぶりだな、思いながら私は目の奥に世界を感じた。脳震盪だ。まずいなこれ。カウンターも入れられないんじゃ、私のプライドが壊れる。ぐっと足を踏ん張り、力の入っていない拳をそれでも腰の捻りで相手のみぞおちにぶち込んだ。やる時は見えない場所に。喧嘩の鉄則だ。昔から教えられて来た、喧嘩術とでも言うのか、徒手空拳は。


 ねえねえローリィさん、ちょっと来て欲しい場所があるんだけど良いかな? 人畜無害そうなクラスメートの笑顔に、昼食を済ませてからで良いなら、と答えたのは大体一時間前だ。逃走防止の様に繋がれた手、何だろうとついて行くといつもの裏庭。そして振り返った顔に張り付けられた歪な笑顔と、繰り出された拳。


「これから毎日違う連中があなたを襲うわよ。でも殿下との婚約を解消してくれたらそれは終わる。どういう意味か解るわよねえ? 私達、あなたに穏便な話し合いが通じないからこういうことするしかないのよ? あなたがさっさと殿下の傍から離れてくれ」


 げふっとみぞおちを突かれた彼女は、吐瀉物を散らしながら私の隣に倒れた。


「ローリィ! しっかりしろ、ローリィ!」


 学校の中でもばっちりストーキングしていたヴォロージャは、割と早く私を見付けてくれた。隣で悶絶している女子を無視して、私を背中に担ごうとしてくる。でもぐったりと力の入らない私の身体は動かしにくいらしく、しばらくうぞうぞしていたけれど、やっと良い所を掴んだのか、腕に引っ掛けたのは私の足だった。

 やめて。股が開く。校則通りの長さの制服だけど、下手すると全校に私のパンツが晒される。イチゴ柄が。


「殿下……殿下……」


 加害女子は自分を捨てて私を負ぶって行こうとするヴォロージャに声を掛ける。


「ローリィさんが……私を殴りましたの……殿下に勉強を教えてもらっている所を、嫉妬なさって……私……」

「嘘だな」


 きっぱりと否定してくれるのが嬉しいねえ。ぼんやり思いながらだらりとした四肢の感覚を取り戻していく。頭はまだぐらぐら揺れているようで気持ちが悪かった。せめてヴォロージャの首に縋りつくと、胸がその背に当たる。

 いつの間にか大分背筋が付いていた。これでよく王妃様の体育着が入ったな。思いながら私はじんじんする頬が腫れあがって行くのを感じる。上級生女子の平手打ち三連発より、やっぱりぐーは強いよなあ。おまけに同級生でも筋肉が付いて来ている。痛いもんは痛いけれど、歩こうと思えば歩けるんじゃないか? 足をじたっと動かすと、動くな、と背負い直される。だからな、私のパンツがな。


「見たところお前は腹を殴られてる。吐瀉物から察するにみぞおちだな。こいつのみぞおちは何度も食らっているが、そのすぐ後に脳震盪起こすようなグーパンは繰り出せない。女子だからってこいつが手加減するはずもない。……良いか、お前かお前らかは知らないが、次があったらどうなるか覚えておけよ」

「ッ殿下ぁ」

「呼ぶな、気色の悪い」


 自国民にその言い方はないんじゃないかな、と思ったところで、私はまだぐらぐらしていた意識を取りこぼした。


 次に目が覚めたのは、保健室のベッドの上だった。初等部よりベッドの数が一つ多いんだな、思いながら体を起こそうとすると、存外くらくらが残っている。昼食の後だったから、吐かなくて良かった。勿体ないし窒息の危険もある。

 例の女子はどうしただろう、身体を起こしてぼーっとしていると、影で気付いたのかカーテンを開けたヴォロージャが心配そうな顔で私を見下ろしていた。へら、と笑うと、頬にガーゼを当てられているのに気付く。


「やっちった」


 てへ、と笑って見せると、ごん、と軽く頭突きをされる。それからぐりぐりと髪に懐かれる。巻き毛が乱れるから止めて欲しいんだけど、こいつなりに心配したんだろうと言う事で、許してやる事にする。今だけだ。流石に暴力に訴えられたのは久しぶりで、堪えるな。


「連中、あんたとの婚約解消するまで毎日誰かに呼び出させて私の事殴るつもりやって。言ったら意味ないやんなあ、警戒して友達連れて来るとかそれこそヴォロージャ連れて行くとか考えないもんやろか。まあ馬鹿で良かったけど、ちょっと今回は油断してたわ。初めてクラスメートになった子だったから」


 もしかして学校中の女子に狙われてる? 私。けらけら笑うと、ぎゅっと頭を抱きしめられる。胸筋も付いて来たなあと、中一に思いを馳せる。思い出すのは初めてキスされた時だ。舌を突っ込まれて、ベッドに押さえ込まれて。お前は俺達の家族になれば良いと、言ってくれた。

 それがどれほど嬉しかったか。多分ヴォロージャには伝わらない。優しい父とおちゃめな母といざと言う時頼りになる親衛隊に守られて来たヴォロージャには、通じないだろう。名前だけの家族しかいなかった。朝から晩まで鍛錬させられた。剣術。史学。経済学。帝王学。その他諸々。


 私は王室暗殺用の暗示を受けて、送り込まれた爆弾だった。夢遊病のように王の寝室に向かい、鍵をがちゃがちゃ言わせては部屋に帰る。夢も見ないで眠っていたと思っていたのは、その所為だったんだろう。眠っていなかった。厳密には。

 城の魔術師の元に通い、何とか暗示が解けたのは半年後だった。その間陛下たちは秘密の場所で眠って貰い――これは私は知らなくて良い情報なので場所を聞くのは拒否した――ヴォロージャとは、一緒のベッドで眠っていた。


 合宿の習慣はその頃もうあって、二人の親友たちにばれないようにするのは大変だったけれど、六年間掛けられ続けた暗示が六か月で解けたのは奇跡的だと、城の魔術師のおばーちゃんは言っていた。下手をすれば私は王族殺しで極刑になっていただろうに、嫌がらせは実家に向かった。その辺り、陛下は正しい、のだと思う。こんな小娘処刑したって向こうは何ともない。


 そう、私は所詮小娘なのだ。負けん気の強い所があったって、殴られたら痛いし、刺されたら死ぬだろう。まさか学校に凶器を持ち込む人間はいないだろうけれど、腕力なら私より強い人がたくさんいる。上級生とか、もう体格が違う。私が強いのは剣術ぐらい。でも生身を相手に剣で応じたら、悪いのは私になってしまう。


 あーやだな、鼻の奥がツンとしてきた。泣きそうなのかもしれない。こうしてヴォロージャに縋りつく自分は無様だと思う。もっと強くならなければと思う。もっと強く。賢く。したたかに。この学園を、生き抜いて行かなきゃならない。


「お前は俺との婚約の解消を、望むか?」


 何故か泣きそうな湿った声でヴォロージャに言われ、私はぶんぶん頭を振る。と、またくらっとした。いかんいかん、モロに顎に入れられたからこれでも結構堪えるのだ。こら、と頭を押さえつけられ、その手は頬に降り、私を覗き込む。


「言うたやん。うちも好きって。たった三か月で反故にせんといてや」

「でもお前が危ない」

「この程度慣れとるわ。何年付き合ってると思ってんねん。今更やで。転入してからヴォロージャとちょっと仲良うなっただけであちこちから牽制掛けられるわ、ぶたれるわ、山ほどあった中の一つやん」

「塵も積もれば山となる。山になったそれはもう崩せない。俺はお前が心配なんだ、ローリィ。代わりにお前が崩されてしまわないかが、心配なんだよ」


 愛されてるなあ。こんな風に言われるの慣れてなくて、ちょっと照れたりもするけれど、三年間こいつが私を思ってくれていたのは知っている。もうすぐ四年だ。分かってる。本気で心配されていること。でも撤回はして欲しくない。それは私の我が侭で、プライドだ。


「うちのプライドの高さ忘れとってん? ヴォロージャ。今ここで撤回なんて発表したら連中の思う壺やん。それはうちが許せへん。ヴォロージャの婚約者はうち、ローリィ・ド・ツォベール辺境伯令嬢やって、社交界にも知らしめていかなならん。そんな時にこの程度の傷でしおしお泣き咽ぶようじゃ、情けないし惨めや。大体頭良いヴォロージャに勉強教えてって来るの、女子だけやのうて男子もやん。うちには誰も来ん。また学年一位やったんに。一々ヴォロージャが誰に何を教えとったかなんて、覚えておれんわ」


 けけけっと笑うと、額にキスをされる。頬にも、ガーゼの上からも。鼻先にもちょんと触れる。くすぐったくてでも口唇へのキスは、ぺちっと叩いて禁止した。

 学校の中だ、誰かに見られたら面倒だろう。ちぇっとすんな、まったく。


「取り敢えず例の女子の事は職員室に申し送りしておいた。仲間に関しては問い詰められれば簡単に吐くだろう。問題の俺があそこまでけんもほろろに捨て置いたんだ、女子の結束なんて儚いものだからな。この前の剣術部の女子然り」

「言うようになったなー。んでいま何時?」

「放課後」

「午後すっぽかしてもーた。後でノート見せてや」

「俺もここですっぽかした」

「駄目王子! 女の心配より自分の心配せい、駄目王子! 今日の午後は古典あったやろ!」

「お前は俺の女だ! 心配して何が悪い!」


 はー……まったく。


「取り合えず馬車待たせるのも可哀想やし、城帰るか……」

「ふふっ」

「? 何、ヴォロージャ」

「いや。城はすっかり、お前が帰る場所になったんだ、ってな」

「そりゃ三年住んでんねんで。馴染みも付くわ」

「そうか」


 良かった、とヴォロージャは笑う。

 うちも笑って、それから頬の痛みに顔を顰めて、また王妃様に大泣きされるんだろうなと思った。

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