―俺を生き返らせた親友が世界を滅ぼしそうなので―下

■第六章


「――――――――――!!」

 まさにその時、ダンが首輪の破壊を成したのと同時に、ダンは幼き日より連なる、彼女の記憶を取り戻した。それはダンが、なぜ今まで忘れてしまっていたのだろうと、後悔に苛まれるほどにかけがえのない思い出の一つだったが、

「は………………やって、…………やった……ぜ…………望王……さま、よ………………」

 この場でのインフェルノから首輪を外したことの達成感がわずかに勝り、弱々しくも言葉を放ちながら、ダンは静かに崩れ落ちた。体を蝕んだ業火も、首輪の消滅と共に全て消え去ったが、ダンの体は全身が黒く焼け焦げ、壊死寸前の状態であった。既に言葉を口にするどころか、指一本満足に動きはしない。ダン自身の首輪を破壊するという意思が、業火の熱を麻痺させてはいたものの、自際にはダンの肉体を、着実に死に向かって蝕んでいた。その事実をダンは、今ようやく理解した。もう自分の命がどれだけのものか、それを疑問に思うほどダンの体は、表皮を黒く豹変させて、全身のやけどによる状況の過酷さを物語っている。

「信じられん……本当に首の枷を……外したのか……!? 貴様……一体っ…………!?」

「そんなダンさん…………!! あぁ、一体どうすればっ…………!!」

 インフェルノは今しがたに起こった事の状況に体の震えを抑えきれず、ヒナは力尽きる寸前のダンを抱きかかえて嘆きの声を上げる。しかしダンはというと、瀕死のその身がテーゼの光に変わりかけながらも、口元に笑みを作ったままだ。そんな状況を不愉快だというように、スピアは先ほどとは打って変わって、表情を豹変させていた。

「おい燃えかす頭ぁ……テメェ何を満足げに笑ってやがる…………? テメェはこれからサイクロプスの鉄棍に叩きつぶされて死ぬんだぞ……!? この状況を楽しんでいいのは、この俺様だけなんだよ!! もうお前らは終わりだ……! 生きるとか諦めねぇとか、そんなの関係ねーんだよ!! 興ざめだぁ、死ね! 全員まとめて死にさらせやぁーーーっ!!」

 スピアのどなり声と共に、サイクロプスはその鉄棍を大きく掲げると、力任せに振り下ろした。ヒナはダンをかかえる両手をさらに強くたぐり寄せ、顔を反らすとともにその両目を閉じた。しかし抱き寄せられたダンは、今にも途切れそうな意識の中で、確信を持って、口元にさらに大きな笑みを作る。

「――終わりなど迎えるものか。これは新たな、始まりの灯……!!」

「………………………………………………?」

温かく優しい光に一帯が包まれたことに気付き、ダンはゆっくりと、首を上げる。体中のテーゼ化は、いつの間にか止まっている。見上げるようにしてその瞳に飛び込んできたのは、こちらに背を向けてサイクロプスと対峙するインフェルノ。サイクロプスの振り下ろされた鉄棍の一撃は、辺りを突如包み込んだ炎を帯びる赤い膜によって、突如攻撃を阻止されている。やってのけたのは、他の誰でもないインフェルノに違いない。しかしダンは、インフェルノであろう後姿に若干の違和感を覚える。彼女は――彼女のその赤く輝く後ろ髪は、一目でわかるほど明らかに普段の倍ほどの長さに伸びていた。しかしそれでいてその赤髪は、地を這うことなく風を受けて軽やかに舞っている。そう、せいぜい八~九歳ほどだった彼女の身の丈は、なんとダンと同じかそれ以上に伸びていた。

「グ、ガァァァァァァァァァァ!?」

「!? バカな、サイクロプスの鉄棍が……消え…………!?」

 ダンがインフェルノの後ろ姿に目を奪われていたつかの間。三人を包み込む膜に触れたサイクロプスの鉄棍は、炎に焼かれる過程を省かれ灰となって消滅した。それを目の当たりにしたスピアは、なにが起きたのか理解が出来ずにただ叫び声を上げる。身内であるダンにとっても遠く理解の及ばない状況なのだから、驚くのは当前と言えば当前だ。

「インフェルノさん……ですよね?」

 ダンを抱きかかえながら問いかけるヒナ。その口調には分かっていながらも、やはり疑問が見え隠れしている。

「何を言うヒナ……私意外の一体誰が、これをやってのけるのだ?」

 冗談交じりに答える言葉はやはりインフェルノのものに違いない。しかし口調は、先ほどまでの何十倍も誇り高く、大人びているように聞こえる。

「……えらく久しい感覚だ。テーゼが、体中を満たしていく」

「インフェルノ、お前は一体……何者なんだ…………?」

 分かっていても、ダンは問わずにはいられなかった。それ程に今のインフェルノは、謎に満ち、そして頼もしすぎる存在に思える。先ほどのすらりと返した時の言葉とは違い、すぐに返答は返ってこない。

「……その問いに、一言で答えるのは難しい。この世界の観測者。無限のテーゼを生み出す者。果てなき望みへの抑止力……そう、私は」

そしてまた一瞬の間を置いて、インフェルノは静かに、ゆっくりと答えた。

「――私は真紅(あか)の煉獄インフェルノ。炎と情熱を司る、望みの王だ」

 そう言いながらインフェルノは、背を向けていたこちらにくるりと身を翻す。そうして向き直ったインフェルノを見て――ダンは言葉を失った。その双眸に映し出されたインフェルノは、この世で三本の指に数えられる様な、歴史を傾けてしまえる程の美しさだった。変わらず輝きに照らし出される真紅の艶髪は、今も宝石のように照らし出されながら以前には想像も出来ないほどに彼女の魅力を引き立てている。また鋭い赤の瞳も今は大人びた妖艶さを醸し出して、直視すると吸い込まれるような錯覚を覚える。黒の高貴な刺繍のドレスは、依然と同じものであるのだろうがサイズは全くの別物になっていて、それ程に胸部は大きく美しく成熟しきっており、引き締まりくびれを作っている腹部から、腰への何ともいえないバランスの黄金比、その下へすらりと伸びる足も、まさに見事な脚線美だ。全身から豊満な大人の色香を漂わせている目の前の女性は、まさに非の打ちどころがない。完璧と謳っても過言ではない、絶世の美女である。

 年齢は、明らかに自分よりも上だろうとダンは思った。望王と呼ばれる存在に時の及ぼす歳月があるのかなど想像もつかないが、目の前のインフェルノは明らかな成人女性の体形を成していた。年齢はおそらく、二十四から六といったところだろうか。

 それが限りなき理想の力を帯びているせいかどうかは定かではないが。突如形成されたインフェルノの容姿ばかりに目が向いていたダンは、はっと我に返る。ダンはインフェルノの表情に、かすかな疑念を抱いた。首輪の枷から解き放たれたインフェルノは、再び手に入れた自由の喜びと共に、今にも泣きだしそうな、憂いを帯びた複雑な面持ちだった。ダンが理由に気づけずにいると、その言葉の沈黙を破り、インフェルノが口を開く。

「本当に、心底驚かされたぞ。まさか誓いを立ててわずか数日足らずの若輩者が、この望王に架せられた枷の呪いを打ち砕こうとは。しばらく眠っていたうちに、私のこの二つの瞳も、ずいぶんとくすんでしまっていたな。僕、どうやらお前は、私の予想以上に見込みのある者だったようだ」

「ははっ、そりゃどうも。つっても俺は、ただ死に物狂いで願っただけだけどな……あの首輪を、壊すことを」

 なんとかこの状況に馴れ始めてきたダンは、こちらを見下ろすインフェルノに、やっと言葉を返した。

「何を言う、命題者の根源にある本質とは、お前がやってのけたそれなのだ――認めよう僕。今この場で私に、再び真(まこと)の誓いを立てよ。それで、私とお前の契約は遂げられる」

「また、誓いを立てる……?」

 疑問を口にしたダンにインフェルノは、いつもとは違うおだやかな口調で説明をする。

「今のお前と私はいわば仮契約状態……互いの意思に反して、なかば半強制的に、契約を結んでいる。どの道あの幼き姿では契約を結ぶことは出来はしなかったが……お前がそれを可能にした。始まりのときに与えられた、お前の命題者としての誓いを、再び私の前で唱えるのだ。それで、契約は完了する。私の真(まこと)の姿で――お前を魅せよう」

「本当の……姿ですか……?」

 今度はヒナが言葉を口にする。やはり、分からないことだらけだ。

「今のこの姿は、人の世に浸透するための仮の姿に過ぎない。命題者と契約を結ぶことで、初めて現世に干渉することの出来る、望王としての本当の姿があるのだ。私の真の姿をもって、それを契約の証とする」

「おいおいマジか。そんな最後の、とっておきみてーのがあんのかよ。そりゃあ楽しみだ」

「……さぁ立て僕。私の炎の結界の加護を受け、傷は完治しているはずだ」

 その言葉を聴いて、ダンは体の傷が癒えていることに気が付く。姿を急変させたインフェルノに意識のすべてを奪われていたせいかもしれない。見れば自分の体を蝕んでいた黒い焼け傷も、サイクロプスの鉄棍を直撃した左半身のダメージも、全て無いものとなっていた。それを確認すると、ダンは今まで寄りかかっていたヒナの手を離れて、ゆっくりと立ち上がる。

「ダンさん、大丈夫ですか……?」

「ありがとよヒナ。もうどこも痛くねー……むしろ、驚くほど体が軽いぜ。まったく何つー力だ、絶命しかけていた人間の体完治させるなんざ、いよいよ本当に、この世のものとは思えねぇ」

「ふん、お前こそ、私を誰だと思っている。この程度の奇跡、私にかかれば造作もないわ。この私と契りを結ぶことが出来るお前は、本当に運のいい奴だ。なぁ、僕よ?」

「……ああその通りだ。全くもって違いねーよ」

 決意の表情に笑みを見せながら答えるダン。それを聞くとインフェルノは、立ち上がったダンに背を向けて、新たな言葉を告げる。

「しかしこの今を手にしたのは、紛れも無いおまえ自身のその意志の力よ。首輪の破壊を成し遂げるという願いの力、枷の呪いを上回るお前の真紅の意志が、この首にあった金と銀を打ち砕いたのだ」

 インフェルノがまたダンに背を向け放った声は、確かな称賛の言葉だった。そしてダンが言葉を口にするよりも早く。インフェルノはまた高く大きな声で、言葉を天に響かせた。 

「――誇れダン・アッシュネス、真の赤を持つものよ……! さぁ叫べ! 己が誓いとその定義を!! その紅蓮の熱で、私の心を真紅に満たせ!!!」

 ダンは考えるまでも無く思い出す。瞳を閉じて、瞼の裏に焼き付いたあの日の誓いを。

『――君は、僕を救ってくれるかい?』

過ぎた日のカノンは進めるべくした足を止め、背を向けたままダンに言葉を返す。

 友の助けを求める真意の言葉に、ダンは迷う事などしなかった。

『あぁ…………やってやる。やってやるさ。そのためにお前は、ご丁寧に俺を呼び戻したんだろ…………! 俺に示せ…………お前を救う、その術を…………!!』

 ダンの言葉の後、突然右の掌が淡い光を放ち、呪印にも似た紋章が刻まれる。五芒星(ペンタグラム)と呼べばそのものだ。

『!?』

『ダン、君はこれより命題者となる。それは願いを現実に変える力を持った者達。しかし望みを遂げるためには、その力の源…………テーゼを求め、戦い争わなくてはならない。命題者に、立ち止まることは許されない。進み続けなければならない。だから僕は君に――この誓いを贈る。進めダン、そして戦え。世界中に散らばる望みの亡者たちと。そして何より、自分自身の願いと……君の誓いは――』

「俺の誓いは……!!」

 ダンは、記憶の中のカノンと共に言葉を重ねるように、その誓いを言葉にする。

『「進み続けること! 願い続けること! 貫き続けること! 挑み続けること――!!」』

『君は…………』

「俺は…………!!」

 ダンはカノンから託されたその誓いを噛み締めるように、思いを決意の言葉に変えて、熱意のままに叫んだ。


「理想主義の命題者!! ダン・アッシュネスだーーーーーッ!!!!!」


 ダンの赤き決意の叫びは、目前のインフェルノを炎に帰したと同時に、背後の森より大きな火柱を、夜空へと走らせた。その場の全ての視線は、天高く昇り上がった、巨大な火柱に奪われてしまう。ごうごうめらめらと、音を立てて燃え上がる火柱は、周囲一帯を簡単に焼き尽くせるほど膨大なものだったが、辺りの木々は燃え始める兆しを見せない。それもまた、特異な存在によってもたらされる、外の理の炎のようだった。

『……いいだろう――その誓い、このインフェルノが今確かに聞き届けた。ダン・アッシュネス、お前を我が真の従者と認めよう…………!!』

 その甲高く鋭い口調はインフェルノのものに違いないのだろうが、歪みながら聞こえてくる声の禍々しさは、この世のものではありえない。ダンたちの周囲を覆っていた炎の幕は、頭上より勢いよく消え去り、同じく天高く昇っていた火柱も、徐々に森へと降下する。そして火柱の中から聞こえていた声の主が、その正体を現した。

 真紅とはいったい何を指す言葉なのか。もしかするとそれは、単なる深い赤を表すのではなく、強く燃え滾る熱を、思いを、変わらぬことのない願いを指すのではないかと、ダンは目の前に現れた存在に目を奪われ、強くそう思った。  

その姿はとてつもなく膨大な炎の体を、金と銀が象った魔神。巨人サイクロプスが比較対象にならないほどの大きな炎の集合体は、めらめらと揺らめき燃え滾っていた。にもかかわらず、周囲には影響を及ぼさず、まるで陽だまりの中にいるような、温かいぬくもりをダンたちに伝える。頭部から顎までを形作る怪獣のような銀の仮面は、ぎらぎらと輝き魔神と呼ぶにふさわしい禍々しさを放っている。その両目の位置に空いた円の穴から中の様子は一向に窺えず、計ることの叶わない深い真理を象徴しているようにも見える。左右五本ずつの長く鋭利な爪は、黄金に輝きながら比類なき力の限りを見るもの全てに伝えていた。体中の表面をオブジェのように金と銀が象ってその姿を作り、肩から生えた二翼の翼も相まって、竜や悪魔といったものを印象付けるかもしれない。先ほどまでの凶悪きわまりないサイクロプスが赤子に見えてしまうほどの、それは人智を超えた存在だった。

「これがインフェルノさんの……本当の、姿…………?」

「はは、ガキの姿のお前に何を言われた所で、ろくに実感が沸かなかったけどよ。こいつはいよいよ本当に、この世の支配者サマな訳だ…………!!」

『その通りだ。先ほどの姿は私が人の姿を模したもの。望王インフェルノとしての姿は、こちらが真ということになる。ふふ、はははっ、私は今愉快で仕方がないぞ。自らに掛けられた疑惑を、今に晴らすことが出来たのだからな。さて、散々可愛がってくれたあの破壊主義者に、どうやって礼を返そうか…………!!!』

「……ぐっ…………!!」

インフェルノに魅せられていたその瞳を、当人の言葉と共にスピアに移し替えると、久方ぶりに見たスピアは、先ほどまでのダンのように、完全に圧迫されていた。そして、右足を僅かに後退させて、かすれた声を漏らした後、スピアは今までとは比べ物にならないほどの怒涛で叫んだ。

「何をやってやがるサイクロプスっ…………!! ……く、早くあの化け物を倒しやがれぇ!! お前は俺様の理想の兵器だ!! 俺に壊せねーもんなんか、この世にある筈がねぇ!!! 早く、あれをなんとかしろ!!」

 しかしサイクロプスが、主の命を順守する気配はなかった。ダンの目に映る理想兵器サイクロプスは――もう完全に、戦意を失っていた。

 誰が見ようと歴然。何を思おうが必然。望王と化したインフェルノを止める術などない事は、誰の目にも明らかだった。

「この役立たずが!! なにつっ立てんだ……この……!!」

サイクロプスを殴ろうとスピアが右手を振りかざしたその時。視界に飛び込んできた黄金に輝く爪によってサイクロプスの腹部は、いとも容易く串刺しにされてしまう。スピアは一瞬固まった後、黄金の飛んできた先に目線を飛ばす。やったのはほかでもない、真紅の煉獄インフェルノだ。インフェルノが伸ばした爪は、サイクロプスを鋭く貫いている。

「ガ……ギ…………ィッ…………!」

貫かれたサイクロプスは、言葉にならない声であがき声を上げた後、体中をまたたく間に灰へと変え、そして消えて無くなってしまった。

『一つだけ教えてやろう。眷属となった幻獣種は、主とする命題者とテーゼの光を共有する関係にある。先のサイクロプスが役立たずだというのなら、それは貴様自身の力量不足を肯定するという意味だ。それどころか私との力量を自覚していた分、貴様よりもあの幻獣種のほうが、幾分か賢かったようだが……真に愚かな奴よ。全て壊し尽くせる者など、この世界に存在するものか。それが貴様の、想像の限界と知れ』

 そういってインフェルノは、長く伸ばした黄金の爪を元の長さに伸縮した。そしてこの壮絶な夜を、その轟き渡る声で終結へと導く。

『――聞け僕よ。今私があのサイクロプスを容易く塵にしてやったように、スピアを葬ることなど造作もない。しかしこの夜の幕を下ろすのは、私でなくお前であるべきだ。なぜならこの時を切り開いたのは、他でもないお前自身なのだから。それが定めを導いた者の、権利と宿命というものだ』

「ああそうかよ、見せ場は俺にくれるってことだな? 願ってもねー、散々罵りまくってくれやがったからな…………あの野郎の下っ腹に、もう一発ぶち込まねーと気が済まねーぜ……!!」

 依然とし背後でめらめらと紅蓮を燃やすインフェルノの言葉を聞き終えると、ダンは左右の拳でポキポキと音を鳴らしながら、スピアを睨みつける。スピアはサイクロプスの消えた後の虚空をただ唖然として見つめていたが、ダンの鋭い視線に気付くと、やっとのことで我に返ったようだった。そして、先ほどとは天と地ほどもある追い詰められた表情から、だらだらと異常なほどに苦汁を流して、唸り声をあげている。

「覚悟しやがれ脳筋野郎。さっきの借り、倍にして返してやるぜ……けど、その前に」

「……え……?」

 ダンは背を向けていたヒナの方をくるりと向き直して、勝手に預かっていたヒナの父の形見の品、そのバンダナを、ヒナの両手に静かに添えた。

「お前のオヤジさんは大層立派な人だったに違いねー……それはバレーナの町の人達の顔色を見りゃあよく分かる。そんでもって、その人は死してなお、お前の生きる糧だった。希望だったはずだぜ。でもお前のオヤジさんは一つだけ――お前に間違ったことを教えたと、俺は思う」

 そんなことを、出会って二日足らずのダンに語られる謂れはないだろう。しかしダンは、どうしてもヒナに伝えたい言葉があった。それは自分が無二の友に伝えたいと願う言葉。


「……泣きたいときは泣けばいい。笑いたい時は笑えばいい。だから泣きたいときに――笑う必要はねーんだ」


「…………!! ………………………………っ、」

 その言葉は、ヒナ自身の戒めのような、ヒナを強く支えていた柱のような何かを。砕き壊す言葉だった。言葉を聞いたヒナの瞳からは、せき止められていた感情と共に、大粒の涙が次々と頬を伝っていく。涙を流して、悲しみを噛みしめること。それは、ヒナが久しく忘れていた感情だった。押し殺していた思いが次々に、ヒナの内から溢れだす。そしてヒナは、自身の思いを言葉にして、ダンへと委ねる。

「……私、私っ、…………お父さんの思いをっ…………無駄にしたくない…………! だから……お願い……ダンさんっ、お父さんの、代わりにっ……、この町を、救って…………!!!」

 ヒナの心の内から、それまで抑止されていた、本当の思いが声に変わる。その思いに答えるようにダンは、ゆっくりと、しかし確かな足取りで前進する。

「任せろヒナ……オヤジさんの思いは俺が遂げる……! 敵も俺がとってやる…………!! だから、もう自分を偽ったりするな…………! 自分自身の理想を持って……泣いて……! 笑って生きろ…………!!!」

 ダンの言葉を聞いて、ヒナは自分の内で閉ざされ凍っていたものが、温かく解かされてゆくのを感じた。ヒナはぐしゃぐしゃの表情で、今も瞳に涙を浮かべながら、父のバンダナを握りしめ、確かな意思を持って、答えた。

「……………………………………はいっ……!!!」

 ヒナの言葉を聞いて、ダンはその身に、以前にも増して力が溢れるのを感じた。それはダン自身の理想を貫くという誓いが、内のテーゼを満たしている証そのものだった。

「さぁお待ちかねだぜ脳筋野郎。さっきは逃げ回って悪かったな。こっからは、お前の大好きな肉弾戦だ。今度はちゃんと、真っ向から殴り合ってやるからよ…………!!」

 ダンには確信があった。それは根拠の酷く曖昧なものだったが、それでも疑いなどするはずもない。おそらく今この状態の自分なら、インフェルノほど安々とはいかないにしても、あのサイクロプスを倒すことも出来たのだろう。しかし綺麗に事を運ばせる為に、もしくは望王の圧倒的なまでの力を証明して見せる為に、インフェルノは自らの力を振るったのだろう。インフェルノの加護の力は、体中の重度のダメージを全てないものにしただけでは飽きたらず、今もテーゼの力をダンに与え続けている。事実ダンには目に見えて有り余る程に、尽きることなく体中から溢れだすテーゼの力を感じた。そしてダンは歩みを進めながら、目線の先に佇むスピアを、さらに鋭い眼差しで睨んだ。

「っ…………!! クソが、クソがクソがクソがぁーーーっ!! 一体何が起こりやがった、テメェ何をしやがった!! あの化け物はなんだ……なぜ俺のサイクロプスがこうも簡単に殺られやがる…………!! ふざけんな……ふざけやがってぇーーー!!」

 そう言ってスピアは、ただひたすらの怒りにその身を委ね、ダンへと殴りかかる。しかし避けるそぶりすら見せずに、スピアの振りかざした右の拳は、ダンの顔面に直撃する。

「ぐ…………あっ!? な…………にぃぃぃ!?」

 しかし一撃によって呻き声を上げたのは、殴りかかったスピアのほうだった。

「バカな…………硬てぇ……硬すぎる…………っ!! なぜ殴った俺の……拳がっ……!! それに熱ちぃ……なんつう熱だっ…………!!」

「分かんねーか……分かんねーよな。壊すことしかしねー奴に、壊される奴の痛みはよ……だったら俺が教えてやるぜ……今この時に……!! その身をもって知りやがれ……!!!」

 右手を抑えのたつくスピアに、今度はダンが、拳の一撃をお見舞いする。刹那、ダンの右の拳は、スピアの左の頬に見事にめり込み、激しく三回転しながら宙を舞って殴り飛ばされた。

 ダンの予測通りに今のダンとスピアの間には、天と地ほどの力の差があった。その大半はインフェルノの力の加護によるものだったが、ダンの意思を貫き通すことの誓いが守り通されたことと、スピアの何かを破壊することの誓いが破られたことも、大きな対極を象っていた。

「ぐ……がっ……!!」

「さぁ立てよ……立てるよな? 今のはずいぶん手加減してやったほうだぜ。こんなもん、ヒナがお前から受けた痛みの、足元にも及ばねぇよ……!!!」

 正気を失ったスピアは、獣のように荒々しく息をしながら再び立ち上がると、もはや言葉にならない狂った声を上げて、再びダンへと拳を振りかざした。

「…………ぐぅ…………ぎ、るぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!」

 スピアの左の一撃に呼応するように、ダンも左の拳を振りかざす。拳と拳は、骨と骨の鈍くぶつかり合う音を立てると、合わさったまま静止した。

「ぎっ……ゃぁぁぁぁぁっ!」

 一瞬の静寂ののち、ダンと拳を交えたスピアの左手は、音もなく、徐々に、インフェルノの一撃を持って仕留められたサイクロプスのように、灰塵へと化していく。

「ぐ、らぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 スピアの理性はすでに崩壊し、むき出しの本能のみで右手の第二撃を飛ばしてくる。ダンも再び、自身の右の拳を持って相対する。先ほどと同じく、ダンと拳を交えたスピアの右腕も、徐々にぼろぼろと崩れ去っていく。

「終わりだスピア…………自分の力しか見えなかった……お前の負けだ!!」

 両腕が消失しよろめくスピアに、ダンは続けざまに右の拳を構えると、スピアの下腹部へ全力をこめて最後の一撃をお見舞いする。

「がっ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」

一撃を食らったスピアの下腹部は、ダンの拳で激しくめり込む。そしてボコッという鈍い音を立てて、下腹部に丸い円の穴を開ける。そして意識の最後に、わずかに自分を取り戻し、唸るように最後の言葉を吐き捨てた。

「…………バカなぁ……っ、この……俺様が…………こんな雑魚に……この……東の大陸をっ……支配するはずの……お、れ…………さっ…………………………」

ろれつの回らなくなった言葉を声にしながらスピアの体は、下腹部に空いた丸い穴から灰となっていき、そしてついにその姿を塵と化して、夜風に舞いながら消えていった。そしてすべてが終えると同時に、ダンの足元からテーゼの力が光を帯びて、ダンの体を包み込む。自分の生き返った直後と状況がよく類似していると、そんなことを思った。インフェルノは灼熱の姿   

のまま、声色に禍々しさを残しながらテーゼの成り立ちを話す。

『そのテーゼは消滅したスピアの肉体を形成していたテーゼの塊だ。スピアの身が消滅して、奴を下したお前の元へテーゼが流れ込んでいるのだ』

「これはスピアだったやつのテーゼってことか……」

 複雑な心境でテーゼの光を見つめるダン。それを窺い、インフェルノが説明を補足する。

『テーゼ自体は、命題者の願いを叶えようとする純粋な力の塊だ、何も気にする必要などない』

「……いや、そうじゃねーんだよ。どれだけ最悪だった奴にしろ、これは人一人の命の重さを取り繕っていたものなんだろ。そう考えると、なんだか複雑な気分だよ。まぁあいつに同情する気なんざ、これっぽちもねーんだけどよ…………」

 ダンの近くに小走りで駆け寄ってきた後でヒナも、その意見にすべからく賛同する。

「確かに戦って、命を奪い合うっていうのは、なんだか悲しい気がしてきます……」

 ヒナの言葉の後で、スピアを構成していたテーゼは、右手を添えていたダンの身に吸収され消える。

『何かを得るために、戦って争い合うのは人の業であって、歴史のようなものだ。しかしあのスピアに一つだけ情けをかける部分があるとすれば、それはやつに定められその誓い……『壊すこと』へだろう。あやつの親となる者……スピアを命題者へ変えた者が、何をもってその誓いを与えたかは知らんが、誓いがあ奴を飲み込み狂わせてしまったことは言うまでもない。命題者となるものはその資質を問われる。破壊という誓いを御しきれなかった以上、やつは命題者になるべきではなかったのだろうよ』

インフェルノがせめてものたむけを空に散ったスピアに向けると、夜の静寂が辺り一片を支配した。そしてつかの間の静けさの跡、不意に――第三者の声が、その場に響き渡った。


「――驚いたよダン、まさか初めての戦いで幻獣種を倒すなんて」

 

束の間の間、おもむろに自分の右手を見つめていたダンが、その声の正体に気付かないはずはない。声の主は、現在のダンが何を差し置いても追いつき、問い詰めなければならない存在だった。次の瞬間、とっさにダンは前を見据えながら、

「――カノン」

 この数日間でたどり着かなくてはいけなかった、かつての主の名を呼んだ。カノンは愁いを帯びた表情に笑みを交えながら、亡者のような冷たさを放ちこちらを見据えていた。

「君は本当に無茶苦茶だね、ダン。いつも僕の予想を超えてくれる。それでこそ僕の、最も頼れる友だ」

「いつの間にそこに――いや、まだこの町にいたってのか?」

『……あ奴がカノン……なるほど、先の懸念の正体が分かった。僕よ、今のあ奴は――』

 当然の違和感を隠せないダンに、その正体を察知して、おそらくの憶測を述べようとするインフェルノだったが、

「赤の望王インフェルノ、それがあなたの真の姿なのですね。最も、本来の半分も力を発揮できていないようですが」

『何!? どういう事だ、貴様何を……!!』

「使役しているテーゼを感じ取れればわかります。本来の望王が使役するテーゼの量は、そんなものじゃありません」

 カノンの言葉に戸惑いを隠せないインフェルノ。言葉に詰まったインフェルノに変わって、今度は痺れを切らしたダンが言葉を投げかける。

「カノン、バルトヘントの街を元に戻せ……! 死者は蘇っちゃいけない!! それがお前にとっての俺やロメリアであっても……その取り決めを変えることだけはできねーはずだ!!」

 確信を突くダンの訴えが夜空にこだました後――カノンは、少しだけ下をうつ向いた後、ゆっくりと口を開いた。

「……本当に予想外だった、君がこんなにも早く赤の望王の首輪の枷を打ち砕くなんて」

「おい、返答になってねーぞ。俺の質問に答え――」

「取り戻しただろう、僕が金と銀の首輪に隠した、ロメリアの記憶を」

 カノンの言葉に、今度はダンが口を噤む。ダンとカノンがロメリアと出会ったのは三人が互いに十歳の時のこと。年齢が同じということもあり、気が合ったためか――それから五年の歳月を、時間のゆるす限り共に過ごした。そして、今も灯されたままの静かな怒りの視線をカノンに向ける。

「やっぱりそういうことだったワケか。テメーが無理やり起こした奇跡だったとしても、あんなのが今生の別れだなんて……ふざけんな。俺たちにとってあいつは、家族みてーなもんだったはずだ。時おり自分は普通の人間じゃないって口ずさんでたが……俺に何も言わず消えちまったのはつまり……命題者絡みか」

「あぁ、ロメリアがこの世界から消えたあの日――僕はきみに彼女は旅立った、と言ったね。そしてまた必ず戻ってくる、とも」

 ダンはその日のことを今でも鮮明に思い出すことができた。唐突にカノンの口から告げられたロメリアの旅立ちの言葉に違和感を覚えたダンだったが、そのことについてカノンは、それ以上何かを語ろうとはしなかった。

「……今度こそ、全部ちゃんと説明しやがれ。もう隠す必要なんかねーんだからな」

「君が今言ったとおり――ロメリアは命題者だった。さらに付け加えれば、前の天空大戦での南の大陸の暗殺者部隊の一員。それが彼女の裏の顔だった」

「なっ……あいつが、別の国では人殺し集団の一人だったっていうのか……!?」

 戸惑いを隠せなかったダンだったが、思い返せばロメリアは、やけに手先が器用でバランス感覚に優れ、本気を出せば動きも恐ろしく機敏だった。ダンたちが彼女と初めて出会った十歳当時、バルトヘントの噴水広場で、彼女が、曲芸集団顔負けのパフォーマンスを披露してチップをがっぽりと稼いでいたことまで思い出せる。思い出してしまって、ずいぶんと胸が苦しくなる。

「彼女に課せられた誓いは『殺人』――人の命を奪うことだった。すべては自国を大戦の勝利者に祭り上げるため……彼女は大義の元に敵国の要人を暗殺することを使命に生きてきた。けれど戦争が終結し、役割を終えた彼女はその後……『殺人』をやめた。もう必要のないことだからと。そう思って海を渡り、この大陸にやってきた」

「……まだ話が見えねぇ。あいつが元は別の国の暗殺者の一員で、役割を終えたことは分かった。でもなんであいつが、この世界から消えて無くなったって話になるんだ」

「ダン、彼女は命題者であって、生身の人間じゃない。僕たちがそうであるように、この体を構成しているのは血と肉じゃなくて、直接的に始まりの元素――テーゼだ。生命活動を維持するためにテーゼを必要としていて、それを得るための手段が誓いを全うすることだ。『殺人』の誓いを遵守することをやめた彼女がどうなったか……想像ができないかい?」

「な……命題者にはそんなリスクが、危険があるっていうのか……?」

『そうだ、誓いを守ることをやめた命題者は……時の流れと共に緩やかに弱体化し――存在を維持できなくなるとテーゼの光と化して消失する。交わされた誓いが『殺人』とは……いや、当時の大戦の悲惨さを物語っているとも言えるが』

 その事実をまだ告げていなかったインフェルノは、少しばかり声色を下げてダンに補足を付け加えた。

「最後の時を待つだけになったロメリアに、僕は一つの願いを告げた。僕自身を、命題者にしてほしいと。どんな手を使ってでも、必ず君との再会を果たすと。そして消失の間際に契約は果たされ――僕は命題者になった」

「ロメリアが旅立ったと俺に言った時にはすでに……お前は命題者だったってのか……?」

「ただ僕は消失間際の彼女と契約を結んだためか、命題者としての身体の構成が不完全だった。君が僕の代わりに犠牲になって、その後で望みの王の声を聞くまで……力を扱うことができなかったのが僕の後悔だ」

「それで今になってから無理やり約束って理由を付けて、バルトヘントの心象風景からあいつを……!」

 ダン自身に、二人の契約の時まで時間を遡る術があるはずもない。にもかかわらず、それを食い止められていればと、理不尽にも後悔の念に苛まれる。

「でもあれだけじゃまだ……彼女を取り戻したことにはならない」

 カノンは狂気に近い揺るぎない意志で、その言葉の続きをダンに告げる。

「ダン、君だって同じはずだ。ロメリアがこの世界のどこにもいないことを知って……出来ることなら彼女を取り戻したいと願っているはずだ」

 カノンの言葉に、ダンはすぐに答えを返さなかった。己が理想主義の命題が――それを事実だと告げている。確かにその通りだと、彼女を非情な運命から連れ戻して、また三人で笑いあう事ができれば、それ以上の幸せなどないだろうと。それが、真に理想の世界だと。

「ダン、今の僕にはそれを叶える術がある。僕と一緒に、命題者の摂理から彼女を取り戻すために力を貸してほしい。この世界でただ一組――僕と君の願いは同じはずだ」

『僕よ、こ奴の言葉に耳を傾けてはいかん。本来死者の蘇生すら不可能な事象であるにも関わらず……世界から消失した命題者の再生など叶うはずもない。望王の力を以てしても、死と消失の概念にテーゼの光を干渉させることなど出来はしない。出来てはならない』

「ダン、あの頃の関係に戻るだけだ。もう一度僕の従者として、僕の願いを叶えるために力を貸してくれ。僕と共に――摂理から彼女を取り戻そう」

『もし仮にそんなことができてしまえば、テーゼの循環の流れに狂いが生まれる……この世界は滅びの運命をたどることになるだろう。そんなことがまかり通ってはならない』


「……確かに俺の中の理想は……ロメリアを取り戻せって言っている……」

『!! ならぬ! ならぬぞ僕よ!!』

「――、ダンさん!?」

 カノンの言葉に割って入ったインフェルノだけでなく、長く口を閉ざしていたヒナもダンに言葉をかけた。それほどに今のダンの同意の発言は、二人にとって彼らしからぬ言葉に映る。

「それでこそだ、ダン。こっちに来て、また、僕の手を取ってくれ」

 そう言いながら、自分の右手を差し出して、カノンはダンに同意の握手を求める。ダンは下をうつ向きながら歩きだして、カノンの目前で歩みを止める。そして同じく右手をカノンの前に差し出した後で――カノンのその手を思い切り、力任せに弾いた。パァン!という乾いた音が、虚空に鋭く響き渡る。

「もう一度だけ言うぞ、カノン。バルトヘントの街を元通りに戻しやがれ。俺自身がどうなろうと構わねぇよ。あの街には何万て数の人間が自分の人生を生きてた。その中の誰かにとって大切な人が、いつか突然にいなくなって、悲しみ苦しむことも当然ある。だけどそれでも現実を受け入れて、いずれまた前を見て歩いてくんだ。これまでのやつらは、みんなそうしてここまで来たんだ。お前だけが、その輪から抜け出せていいわけがねぇ!!」

「なるほど――交渉は決裂だね。確かに君のほうが僕よりもずっと――あの街を愛してたことは認めるよ。認めるとも……けれど僕にとってはあの街よりも君とロメリアのほうが――ずっとずっと大切だ。それも理解してほしい」

「――理解はできても、許せはしねぇって話だ!! 正気に戻れ、大馬鹿野郎がっ!!」

 そう言いながらダンは、今まで抑えていた怒りをついに爆発させて、カノンの左の頬めがけて全力で殴りかかった。しかし、

「なっ、どういうことだ、俺の拳の衝撃を、吸収したのか? 殴った感覚が、まるでねー」

 ダンの右のストレートは確かにカノンの頬にヒットしたが、カノンは微動だにしない。

「もう一度、試してみるかい?」

「っ、この野郎っ!!」

 今度はカノンのみぞおちに一発をお見舞いしたダンだったが、やはり反応はない。カノンは涼しい顔で、ただふっと短く笑うのみだ。

『なにかがおかしい。私の望王としての権能『灰燼』は、爪が触れた存在を問答で灰と塵に帰す。先にスピアと戦った時同様に、僕の拳にも同じ効果がもたらされているのだ……!!』

「赤の望王インフェルノ――あなたとの戦いに敬意を示し、こちらも手の内をさらしましょう。僕の契約能力は物質への不朽の耐性の付与です。あなたがダンに与えている『灰燼』と僕の『不朽』の間には矛盾が生じるでしょうが――やはり、あなたのテーゼの出力が完全でないことが大きいと見ます」

『――また戯言を! ならばこの私自らの爪で貴様を砕くのみ!!』

 カノンの挑発めいた言動に応えるようにインフェルノは自らの右腕を伸ばし、その先端の黄金の爪でカノンに狙いを定めた。とっさに左に避けたダンの目からしても黄金の爪がカノンを穿ったように思えたが、

『――!? 馬鹿な、こんなことが……!!』

 インフェルノの右の爪が狙いを定めたカノンの体表は、依然として無傷のままだった。やはり衝撃の音すらもなく、爪はカノンを貫けずに、ピタリと止まってしまっている。

「……爪の片方とは、ずいぶんと計算を誤りましたね。両方の腕でかかれば、まだ五分の勝算があるかもしれませんが」

『なるほど、いいだろう。人の身でありながらここまで私に応えた者はずいぶんと久しぶりだ。ならば私も、全力で迎え撃つのみ……! 耐えてみせよ、カノン・エテルニア!!』

 天を仰ぎながらカノンの名を吼え叫んだ後でインフェルノは、体表の炎をめらめらごうごうと赤く燃え滾らせ、先ほどよりもさらに速度を加速させて、今度は二本の爪をカノンに飛ばした。そして双方の爪がもうすぐカノンに到達しようとする時――赤の望王インフェルノは、そこで初めて、新たな気配を察知した。宵闇の中のカノンのさらに奥で蠢いている、自身と同じ、望王の気配を掴んだ。

『――――!?』

 直後、周囲の暗闇から空間を割いていくつもの鎖がインフェルノの両腕へ伸び、カノンに達する寸前で攻撃を阻止されてしまう。

『くっ、その気配……知らぬ!! 新たな望王か!! これほどのテーゼの気配を今まで悟らせなかったとは……!!』

「っ、どういうことだ、一体何が起きてやがる……?」

「五分の勝負まではさせてくれないか。なるほど、貴方らしいといえばらしいが……さて」

そう言ってカノンは、自身と少しの距離を取ったところでたじろいでいるダンまで素早く距離を詰め、低く腰を据えると、

「今度は僕の覚悟を、受け止めてもらうよ――ダン!」

 そう言いながらダンの腹部へ、全力の一撃を叩き込んだ。

「――ぐっ、あぁぁぁっ!!!」

 テーゼの力で極限まで腕力を強化された一撃を食らい、吹き飛ぶダン。あまりの威力にダンは、気付けば転げ、のたうち回っていた。

「さて、戦勝祝いのはずが少し長くなってしまった……最後に幕引きとして、死者の蘇生と命題者の再生……この二つを成しえる可能性を秘めた技を、身をもって体感して頂きましょう。赤の望王、インフェルノ」

『!? 貴様、今度は何を――!!』

「うっ……何を、する気だ……カノン……!!」

「この力は、テーゼの光、その力が宿す命題の否定、そして反転。摂理を組み換え、再構成する魔法。さぁ、とくとご覧あれ」

 そう言いながら、カノンはインフェルノに向かって右手をかざすと、


「――――アンチ・テーゼ――――」


 カノンの言葉と共に、鎖で拘束された真の姿のインフェルノの周囲を、テーゼの光らしきものが取り囲んだ。しかしそのテーゼの目印となる色は淡い緑ではなく、青色の光を宿している。

「っ、なんだこれは、こんなことが……!!」

カノンからその技を受けたインフェルノは、思わず困惑の声を上げた。かろうじてその状況を把握していたダンには、その理屈を理解することなど出来なかったが、何が起こったのかだけはすぐに理解できた。赤の望王インフェルノの身体は、見上げなければならないほどの巨躯から、ダンと初めて会った時の幼き少女の姿に返ってしまった。

「なんという、信じたくもないが……摂理を否定し可逆の性質を与える能力……それが貴様の背後でうごめく、望王の権能か!!」

「さすがは赤の望王、察しがいい。ですが安心ください。今のはあなたを最初の姿に巻き戻した――ただそれだけのことです。もちろん、抵抗されることのないように、あなたが備えていたテーゼは全て消失させましたが。時間の経過とともに回復していくでしょう」

 その場を制圧しておきながらも、肝心の決着をつけることを放棄したカノンの判断は、インフェルノの望王としての誇りを逆なでした。インフェルノは、地べたに座り込んだまま、恨めしそうな視線でカノンを睨みつけている。

「貴様、どこまでもこの私をコケに……忘れん、忘れんぞカノン・エテルニア!!」

「それでは……以後、お見知りおきを。さぁダン、顔を上げて。そろそろ時間みたいだ、またしばらくお別れだね。最後に一つだけ、確認させてほしい」

 そしてカノンはおもむろに、まだうつ伏せで倒れこんだままのダンに歩み寄る。まだ先ほどの腹部に食らったダメージが応えていたままのダンだったが、なんとか片腕で肘をついてカノンの言葉に声を返した。

「好き勝手しやがって……なんだ、今の俺に何が聞きたい……!」

「僕は君たちに、正面から堂々と自分の手の内をさらした。『永遠』と『アンチ・テーゼ』の能力。この力を使って必ず僕は――僕の世界を取り戻してみせる。この命を賭して。君が従う望王を含めた、五体の望王と――争い合うことになってもね。それでも君は――僕を追うかい?」

「……今のこの状況で。いつでもとどめを刺せるだろうによ。半殺しのまま涼しい顔で帰ろうとしてることに本当に腹が立つぜ」

「あぁ、君は追い込まれれば追い込まれるだけ本領を発揮してくれるタイプだからね。それで?」

 ダンが自らの状況に皮肉を交えて答えると、カノンは本質を理解したうえで再び返答を求めた。そしてダンは、この世界から消え去った彼女の意思を友人としてくみ取り直して――再び、カノンに言葉を返した。

「もちろん……そんなの決まりきってんだろ。ロメリアは俺に言ったぜ。全部さら地に返ったバルトヘントの上で、消えていなくなっちまう寸前……どうしようもなく悲しそうな表情で……お前を、救ってくれってな……!!」

 ダンがロメリアから託された言葉を聞いてカノンは、ほんの数秒だけその場で戸惑いの表情を見せたが、

「…………そうか。ロメリアは、君に…………」

 そう言いながらダンから顔をそらして、夜空の月に視線を向けた。

「逆に聞くぜ、カノン。俺にもし他の望王が倒せたってんなら……お前を止められない道理だってねーだろ……?」

「ふふ……そうだね。僕たちはお互いに、望王と契約をしている身。その時は……あるいは」

 カノンは静かに、しかし不敵に微笑んで、夜空の月から再び、ダンに視線を向け直す。そしてまだ幼きあの頃のように、まるで鬼事でもしようと言うかのように、ダンに宣戦布告の言葉を告げた。

「じゃあ、勝負だダン。僕が自らの願いを叶えるのが先か、君が僕の行いを食い止めるのが先か。この世界の命運をかけた、命がけの遊戯(ゲーム)だ」

「おもしれー、望むところだぜ。待ってろカノン、俺は必ず、お前に追いつく……!!」

「その時を楽しみにしているよ、また会おうダン。僕の――かけがえのない友達」

 そうしてカノンは――背後に潜む望王と共に、闇に溶けて消えていった。

「――っ、ダンさん、大丈夫ですか!?」

ヒナは先ほどまで体を支配していた恐怖から解放され、すぐにダンのもとへ駆け寄った。

「あぁ、もうだいぶ楽になった。ありがとうな」

「くっ……やはりそうか。今までのあ奴は、ただの……」

 ダンは体勢を立て直して座り込むと、立てた片足に右腕をもたれかけさせて、

「なんだインフェルノ、またなんか分かったのか?」

「お前が私の首輪を破壊しようとしたとき、その内側になにかよくないテーゼの気配がするといったことを覚えているか」

「あぁ、確かにそんなことを言ってたな。まさか、その気配ってのが」

 インフェルノは本当にばつが悪そうに、歯切れの悪い口調でダンに今しがたのカノンの実態を説明した。

「先のあ奴は、わが首輪に込められた奴自身の分身体だ。テーゼの光で形作られた、な」

「分身って、なんだそりゃ。あいつは確かにカノンで間違いなかったが……」

「あ奴自身を模倣した、使い魔のようなものだと思えばよい。おそらくはこの後に本体に同化して、記憶を共有する類のな。本体ではない以上、能力は本体の三分の一程度とみるのが妥当だろう。私たちは、その状態のあ奴に弄ばれたにすぎん。まったく、器用なことをやってのけるものだ…………!!」

「……あれが、あいつの本来の実力じゃねーってのかよ。なんかの間違いであってほしいぜ」

「……まったく、底が知れん男よ…………」

「………………あぁ………………」

その後に沈黙を破り、インフェルノがダンに言葉を向ける。

「……時に僕。その右手の平の紋を見せろ」

 インフェルノは戻された幼き少女の姿で、差し出されたダンの右手に赤く光る紋章に視線を走らせる。そしてインフェルノは、また憂いの表情を見せた。

「うむ、六芒星のヘキサグラム紋……望王と契約した者の証に違いはない。同様に、私がまだ望王の座にあることも証明されたが……やはり、私の力が弱まっていると見て間違いはないようだな」

「おい、はたまた何があったってんだよ。時間が経てばそのうち回復するってカノンの奴が言ってなかったか?」

「それは先ほどまで私が蓄えていた分のテーゼの話だ。長く眠っていたせいで感覚が狂ってしまっていたようだが、現在の私が使役できるテーゼの量は、首輪の呪いを受ける前の半分にも満たないようだ」 

「半分っておい、一大事じゃねーか。どうすりゃそんなに減るもんだよ」

 インフェルノから聞かされた事の重大さに、思わず目を丸くするダン。なおもインフェルノは浮かない様子で、淡々と事実のみを告げる。その様子を伺いながらヒナも、顔色を曇らせる。

「首輪の呪いがまだ続いているということなのか……今の私にはまだ、把握も見当もつかん。しかし事実、本来の私であれば、あのカノンに爪の一撃を止められることもなければ、それと契約を結んでいる望王にあれほど容易く動きを止められることもない……絶対にだ」

「インフェルノさん……」

 自身の非力さを思い、悔しさと憂いの混じった表情で夜空を仰ぎ見るインフェルノ。しかしそれを真の当たりにしたダン自身、インフェルノを責める気になどなれなかった。あれほど威張り散らしていた幼き姿のインフェルノを忘れようとは思わないが、それはつまり、誇りの表れであったということ。ダンはヒナの宿を訪れた当初、インフェルノのことを魔王だと比喩して、鋭い牙で噛みつかれた時のことを思い出した。インフェルノは真紅の煉獄という、望王の名に真の誇りを持っていて、自らを汚されることを酷く嫌った。自分にとって誇りあるかけがえのないものを。失っていることに気付き悲しむインフェルノを。ダンは、責める気になどなれなかった。

 しかし慰めの言葉など必要か。迷った末ダンは、インフェルノに率直な質問をした。

「なんて声をかければいいのかまだ分からねーが……そもそもお前は、なんで眠りにつくことになったんだ。あの、金と銀の首輪の枷を付けられて」

ダンの問いに、インフェルノはそうだったなと視線をこちらに向け直して、自身について語り始めた。

「……自分から……ずっと目を背けていたのだな、私は。話そう、私自身のことを――」

 その表情には悲哀ばかりが見てとれて、ダンは子供の姿だった時の、勝気なインフェルノが恋しく映る。悲しみに満ちた彼女を、無邪気に輝いていたあの表情へと戻したくなる。

「まずは何から話せばよいか。私は僕、お前の前に姿を現すまで、長い間眠っていた。眠るように、意識を失っていた。枷の呪いでそもそも私は、何かを考えることすら許されなかったのだ……」

「許されなかった……? でもお前はあの小屋で、意識を取り戻した俺の前に現れて……」

「あぁ、そもそもそれが摩訶不思議な話なのだ。私は今も枷の力で眠りについていたはずだ。しかし呪いの力が緩んだせいか、私は意識を取り戻して、気付くと僕……お前の部屋の中にいた……おそらくは、あのカノンめの差し金に違いないのだろうが」

「根も葉もない話になるんだろうが、カノンの背後にも別の望王サマが控えてるわけだろ? だったら大抵のことはやってのけてもおかしくはねーな。事実、バルトヘントの街は消えてなくなっちまってる」

それを聞いてインフェルノは、わずかに眉間にしわを寄せる。しかしそれを否定はすまいと、正面から受け止めたで話を進める。

「それが同じ望王の位の者の力なら、枷の呪いを弱めることも、特定の命題者と結び付ける事も不可能とは言い切れん。先に奴が使った権能……アンチ・テーゼであればなおさらだ」

「やっぱり間違いなさそうだな。つーか、それしか見当が無いって言うべきか」

「では次に……いや、前にといったほうが正しいか。なぜ私が枷をはめられ、眠っていたかを……語らねばなるまい」

 インフェルノは、どこを見つめるという訳でもなく、遠くのほうを見据えて、淡々と語り始めた。

「かつての私には……ダン、お前と同じように、契約を交わして、従者としていた男がいた。もちろん命題者のな。その者は、長く激しい戦いの果てに、懇願であった、自らの願いを果たした。それを私と共に成し遂げたのだ。私たちは喜びを噛みしめたよ。望王の力を持ってしても簡単には成しえないその男の願いは、いつの間にか、私の願いにもなっていたのだ。私は、本当に嬉しかった。多くの犠牲を代償として支払った願いの成就は、概念であった私を一人の人間であるかのように錯覚させ、願いを叶えることの尊さを感じさせた」

 ダンとヒナは、ただインフェルノの言葉に、黙って耳を傾ける。インフェルノの話を聞き届けることが、今自分にできる唯一の事だと、ダンは思った。

「しかし……問題はそこからだった。願いを叶えて目的を果たしたその男は、先の未来のことなど、一切考えてはいなかった。自らの望みのためだけに生きたその男には、後のことなど何も考えられはしなかったのだ。その男は悩み、酷く困惑した。自分はこの先、何を糧に生きればいいのかと。叶える願いただ一つのために生きたその男には、新たな目標を見つけることが、酷く困難なようだった。そしてその男は、抜け殻のように、ただ毎日を送った。何の生きがいも目標も見つけられずに……ただ日々を消費した」

 インフェルノの表情は、一段と暗いものになっていく。しかし己自身に刻み込むように、インフェルノは話を止めようとはしなかった。

「その男は言った。終わるべきだったと。己が願いの成就と共に、この命を失うべきだったと。それを聞いて、私は激怒した。心の底から激しく、魂の声で叫んだ。それは命を落としたものの、命を失った者の言葉だと。お前は命を拾った。だから失った者の分まで、生きなければならないと。前を見て、未来を行かねばならないと。私は言ってやった。新たな願いを見つけろと。そのためになら、私も命を賭すると」

 インフェルノは今度は感情を高ぶらせて、その過去に思いをはせる。

「するとその男は、意外なほど簡単に私に言葉を返したよ。しかし私の見込んだその男の次なる理想は、私の想像すらも及ばない、到底叶えることのできないものだった。今にしてもただ感服の限りだ……その男の願いにはな…………」

 このインフェルノにそこまで言わせるほどの願い。酷く困難な理想の成就、その為だけに生き、果てに望みを成し遂げ、願いを失ってしまった命題者。その者の次なる願いが、一体何なのか。


「――この私と共に人として生き、人として死ぬこと。その男は望王の私を、生身の人間にすることを望んだ」


 ダンもヒナも、その言葉にただ唖然としてしまった。その願いは対価という秤には載せきれない、願いの外の理想。おそらくはそんなものだろう。

「私は当然それを拒んだ。その男の成しえた願いは、おおよそほとんどの人の世から、脚光を浴びるに相応しいものだった。女など、端から湧いて出ただろう。しかしその男は、よりにもよってこの私を選んだのだ。酷く滑稽だろう? 望王に性別の定義などない。先ほどの人外が真の姿よ。性別など変えようと思えば変えられるのだ。なのにこの、私をだ」

 インフェルノの表情にわずかに笑みが戻る。自分をか、その男かは分からないが、いずれも皮肉った笑みだ。

「酷く不可解なことに、その時の私はその男の意思に揺らいでしまった。私をそれほどまでに惹かせた男だった。それも案外、捨てたものではないのかもしれないと……そして次に、今度は私が思い悩んだ。望王にして初めてというほど、酷く困惑させられた………………しかし私は結局、私自身を捨てきれはしなかったよ。私はそれを拒んだ。酷く苦渋の決断だったが、私には望王として、この人の世を見定める役目があると改めてそう思った。だからその男に言ったのだ。お前の命尽きるその時までお前のそばに寄り添い、お前を見守ると。はは、まるで求婚だな。そんなことを、私も言うとは思わなかったよ。しかし思いは、確かに喉を通って言葉となった。それが私の出した答えだった。そこから一月ばかり、緩やかに時が流れた。瞳を閉じれば、思い出せるほどにな。しかし長くは続かなかったよ、その緩やかな時は。定めを忘れようにもその男は――命題者なのだから。男はいつの日にか私が心変わりし、見切りをつける事を恐れた。望王は本来、望みと共にあらねばならん存在なのだ。ただ虚無の中にいては、力も薄れてしまい、望王の地位も危ぶまれるからな。そしてその男は私に……何をしたと思う?」

 その先を想像することは容易だ。話の始まりに綺麗に行き着くように――首に枷をはめるのだろう。

「もうその時の私たちは伴侶を共にしているといってもおかしくない間柄だった。いくらそれが望王だったとしても、心を許した相手には必ずと言っていいほどに隙が生じる。やつはその隙を漬け込んだのだ…………私はあの金と銀の、首輪の枷の呪いを受けた。私を独占することをその男は望んだのだ。いつか別れの時が来て、自分の手を離れるくらいならと、その男は思ったに違いない…………そういう、奴だった。少し考えてみれば、容易く分かってしまうほどにな…………」

「…………インフェルノ……さん…………」

 見ればヒナの瞳は、涙で滲んでいるのがよく分かる。そしてダン自身も、ヒナとさして変わらぬ心境だった。

「…………そりゃあ確かに……目も背けたくなる話だ…………」

「情けないことに、今も答えが出せんのだ。私は望王であることを捨てるべきだったのか……それとも奴を……」

 その先を言いかけて、インフェルノはやっと、語るのを止めた。かけがえのないものを失って、途方に暮れる。その姿は、すべてを失って二度目の生を受けたダンと、境遇がよく似ているようにも思えた。そしてダンは、インフェルノにかける言葉を決めた。

「……一つだけ、聞いてもいいか。俺の前任者、お前の前の僕は…………一体何を願い、そして成し遂げたんだ…………?」

 その質問にインフェルノは、また遠い目で、一瞬間をおいてから、話し始める。

「天空大戦――あの戦乱の時代を駆け抜けた者たちは、みな混沌の渦中にその身を置いていた。あのカノンめが言っていた、ロメリアという女のようにな」

「……お前もなのか」

「それは……」

ダンとヒナ、二人は言葉を返すわけではなく、ただその単語に声を漏らした。語ることすらためらうほどの、最たる歴史の悲劇。

「知らぬはずもないか。あの戦争で、全ての大陸の国々は、結局、世界の統一など出来ずに、かけがえのない多くのものを失って平和条約を結び、世界を平定させたのだ。そしてこの、今があると言っていいだろう……真を告げよう。私と以前の私の従者は――あの大戦を裏から平定に導いた、戦争の終結者の一派だ」

その言葉を聞いて、ダンとヒナは言葉も出せずに、ただ固まってしまった。そんなことをいきなり言われても、信じられるほうがおかしいが――それでも、今のインフェルノが嘘を言っているとは考えられなかった。そして話を飲み込み、ダンは悟ってしまう。自分の前任者の、真の願いを。

「本当なのかインフェルノ……じゃあまさか、俺の前任者の願いっていうのは…………」

 インフェルノは瞳を閉じて、また思い出すように語る。その記されることなき英雄譚を。

「決して歴史に語り継がれることはない……我がかつての僕は、あの戦争の終結を切に願った。ただそれだけの為に生き、ただそれだけの為に戦い、命を燃やしてその戦争を終結に導こうとした。そしてその望みを成して、見事に世界を平定に導いた。奴にとってただ一つの誤算は、自身の、その命を拾ってしまった事だろう……そして私の、この今に繋がるのだ…………」

インフェルノの前日譚を聞いて、ダンはその男に思いをはせる己が、愚かな気がしてならなかった。その男は、おそらく自分などには想像も出来ないほどの痛みと苦しみを体験してきたのだろう。しかしダンは、あえて言葉を口にした。自分の前任者の話はひとまず記憶の片隅に置いておく。全ては今のインフェルノを、奮い立たせるために。

「ああ……すげーよ。今の話、確かに壮絶さ。最初から最後まで、まるで想像もつかねーよ。けど何か? だったらインフェルノ、お前はずっとここで指をくわえて、じっとしてるつもりなのか?」

「……ダンさん……?」

「……僕、お前…………」

 ヒナもインフェルノも、意外な表情でダンを見つめる。しかし構わず、ダンは続けざまに語る。確かに、伝えたい言葉があるのだから。それは下手な同情の言葉などよりも、強く前を向けるものだと、ダンは確信した。

「それは違げーよな、失うことにも、嘆き悲しむことにも。確かに意味が、理由があるんだから。その理由を、願いを叶えるまで、目指して前に進もうと俺は思うぜ。俺たちはその権利を掴み取って、今ここにいるんだからよ」

 ダンの言葉を聞いて、それでもインフェルノは、微かに震える声で問いかける。

「僕、お前は……力を失った後の私を、それでも必要としているのか…………??」

「何言ってんだよ。インフェルノ、俺はお前の変身した姿見てこう思ったぜ。あの灼熱は真紅の炎。それがインフェルノ、お前なんだって。俺の中ではあれ以上の赤はねーよ。お前が真の炎。赤の望王、インフェルノだ。ほかの誰かがお前を否定しても、俺はそれを認めねーよ。それでいいんだ。お前は俺ん中で既に、真紅の煉獄、炎の望王インフェルノ様だ」

「……僕……」

「それに俺はあいにく新参者でよ。まだまだ知らねー事が山ほどある。叶えなくちゃなんねー理想は確かにあるが、やっぱりその術を知る必要があるだろ。そのためにインフェルノ。お前の知識と力を貸してくれ」

「僕…………お前は私を、泣かせる気なのか?」

「あー泣け泣け、泣けるときに泣いちまえ。そんでもって泣きやんだら、前に進めばいいんだ。お前の望王の力も俺の願いのついでに、そのうち取り返してやるからよ!」

「はっ、なんという奴よ……、それは楽しみだ」

「そのいきです、インフェルノさん……!」

 ヒナも思わず両手でガッツポーズをとる。

 そしてインフェルノは、掌で瞳に浮かべた涙をぬぐい去る。そして力強く、宣言した。


「……泣いてなどやるものか。再び涙を流すのは、願いを遂げるその時だ……!!」



■第七章


「……む? この気配は……」

スピアとの一件が一先ず片づいたその後のこと。インフェルノは暗闇から何かを悟り、一瞬ぴたりと固まると、低音で声を漏らした。直後、視線の先の闇に光が灯ったかと思うと、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。

「おーい!! ヒナちゃん、なぜこんなところに……旅人の兄ちゃんと嬢ちゃんも一緒か。覚悟決めて館に出向いてみりゃ、下っ端たちはすでに床で伸びちまっててよ。それでもってここまで進んできたんだが、壁がぶっ飛んでるだけで……スピアの野郎は、一体どこにいやがるんだ……!?」

 ダンが振り向いた先にいたのは、シェリの父リガスを筆頭に、いずれも険しい表情でいる町の男たちだった。皆その手には狩猟用の銃や、稲作に使う鍬に鎌、護身用の斧と槍など、さまざまな武器を手に携えていた。

さてどうやって説明したものかと、ダンは言葉に迷ってしまう。少女の姿のインフェルノに視線をちらりと向けると、やはり落ち着きがなくそわそわしていた。どこから語るにしろ、説明は酷く困難に思えた。しかしヒナはその事情を考えてか考えずにか、恐ろしく簡潔に、説明を初めてしまう。

「スピアは……ダンさんがやっつけてくれました。インフェルノさんと力を合わせて……勝負は、一瞬でつきました。スピアはすでにここにはいません。私たちの前に姿を現すことは、もう二度とありません」


 ヒナが驚くほど話の節々を省略して説明を進めるので、ダンとインフェルノだけでなく、リガスや町の人々も初め理解が及ばず戸惑った。しかし、ヒナが念を込めて何度も安心してくださいとなだめると、駆けつけた男たちは次第に安堵の表情を取り戻していった。

「本当に……お前たちがあいつを倒したのか……? なんてこった、この村の危機を、たまたま訪れた旅人に救われちまうとはな。少年と譲ちゃんがいなかったらなんてことは、怖くて想像もできねぇな……バレーナの村を代表して礼を言わせてくれ。心から感謝する」

 初めて見るリガスの真剣な表情に、ダンはらしくないぜとくだけた言葉を返した。

「なんてこたぁねーよ。これはただの、一宿一飯の恩さ。気にしねーでくれよ」

「うむ、その通りだ。私とこの者は、この町を救いたいと思って救ったのだ。それはこの村に対する、敬意の表れだ」

「いくら感謝してもしきれません……私からも、もう一度お礼を言わせてください。本当に……ありがとうございました」


 バレーナの町の男たちは、館の中で転がり伸びているファミリーの部下たちを、一人残らずロープで縛りあげると、消えた村人たちの散策を始めた。すると案の定、アジトの一角から地下へと続く隠し階段が見つかった。しかし足場が不安定だからとインフェルノとヒナを置いて、男たちと共にダンも階段を下っていくと、何ヵ所かの檻に分けられて総勢十四名の旅人と商人、村人たちが見つかった。斧などの鈍器を用いて力技で鍵を壊し捕虜たちを解放した後、リガスは視線をくまなく捕虜達に向け言葉を放つ。

「ミラン……! ミランはいないか…………!!」

 ダンはその答えを探すまでもなく知っていた。ダンはミランの背に右手を静かに添えると、目を潜め、ゆっくりと首を横に振る。


 リガスの呼び声に、言葉が返ってくることはなかった。


 ミランがもはや帰らぬ人となっていることを悟ると、村人たち、中でもリガスは、意気消沈といった空気の中で地下の階段を登った。そして階段を上り切った先に待っていたヒナに気付くと、リガスはせめてもの、慰めの言葉をかける。

「ごめんなヒナちゃん……俺はお前の父ちゃんに……ミランに、何一つしてやれなかった……本当にすまねぇ……俺は……」

「そんなに気を落とさないでください、大丈夫です。私はほら、この通りです。それに父だって、リガスさんのそんな顔、きっと見たくないと思います、だから、顔を上げてください」

「ヒナちゃん……そうか、そうだよな……今ここでどうこう言っても始まらねぇか……よし、帰るぞ、みんな」

そして捕虜たちを含めるその場の全員で、バレーナの町への帰路に就いた。

 沈黙の中でヒナは何か言葉を口にしようと思ったが、リガスたちの空気に当てられてか、何も言葉は浮かばず、黙々と足を前に進めた。そしてダンも同様に、告げる言葉を持ちえず、ただ静かに歩いた。


 バレーナの町への入り口に着くと、戻るべき住民たちは一端自分の帰るべき場所へと帰っていった。そして残ったダン、ヒナ、インフェルノ、囚われの身だった商人や旅人たちを連れて前を歩くリガスと連れの数人の男たちは、壊れた宿屋オーベルジュ・マキノの前で足を止める。そしてこりゃしまったと、リガスはばつが悪そうに顔を渋らせる。

「そうか、この町に宿屋は、ここだけしかねぇんだった。俺の店の中にも何人かは泊まれるが、これだと捕虜だった奴ら全員の分の寝床は、確保が困難だぜ」

 捕虜だったこの町の住民者たちが我が家へと帰った後でも、まだ十人前後の捕虜達が、今夜の寝床にありつけないままだった。捕まっていた人たちは、その多くが町の外の商人や流通者、旅人のようだ。リガスの連れの男達が、自分たちの民家にも何人かずつ配分をと相談していると、向い側のワイルドキャットから、シェリとその母ルイシ、そして町長のブラウンが外に身を乗り出してきた。中でもシェリは一目散に駆け足で、ヒナに抱きつく。

「ヒナ! 大丈夫だった!? 急にいなくなっちゃうんだもん! 心配したんだから、もう…………!」

「ごめんなさいシェリちゃん、心配させちゃって……でももう安心してください、この町を脅かすものは消えました。ダンさんが、スピアを倒してくれました」

「えっ?」

「まぁ……」

「なんと……」

 シェリ、ルイシ、ブラウンは、みな一同に驚く。やはりダンのような若い旅の放浪者が、あのスピアを倒す光景を想像することは困難に違いない。

「まぁ驚くのも無理はないが、なんでも本当のことらしい。いろいろと訳ありのようだが、ヒナちゃんがその証人さ」

「はい、この私がしかと見届けました! ダンさんとインフェルノさんは、実はものすごく強かったんです!」

 リガスの補足の後で、目を輝かせながら断言するヒナ。それを聞いた三人はいずれも目を丸くしてダンとインフェルノを眺める。

「この若い旅のお兄ちゃんが? あのスピアを? こりゃあ驚いたよ。まったく……面目丸つぶれじゃないか、アンタ!」

「ああそうだな、悔しいが違いねぇ。まったく分からねぇもんだ、最近の若い奴は!」

「え、本当なの?? ダン君と……インフェルノちゃんが?? まさか本当にインフェルノちゃんはその……望みの王って人だったの??」

 シェリが驚きながらインフェルノに問いかけると、インフェルノは腰に手を当てえっへんと、背を反らしながら答える。

「なーにを今さらっ! 初めからそう言っていただろう! ふふん!!」

「君のような旅の青年があの凶悪極まりないスピアを……想像もつかないが、それよりも今は、その事実を喜ぶべきなのだろう。本当にありがとう、感謝してもしきれるものではないよ」

 最後に町の代表であるブラウンは、その細い両腕でダンの手をつかんで感謝の言葉を告げる。

「あぁ……どうも」

 どう言葉を返していいのか分からずに、困った表情でダンがブラウンに返事をすると、さてとリガスが再び最初の話題へと話を戻す。

「それじゃあまぁ、アジトの地下に捕まっていた人たちの寝床をどう振り分けるかなんだが……」

「小さな屋敷ですが、私の所でよければ。四、五人程度はもてなせるでしょう」

「そうかい、助かるぜ町長。それなら何とか、後はうちの店に寝てもらって、よし――」

 リガスの言葉の途中で、ダンは自らの理想を果たすべく一歩前に身を乗り出す。

「あー、待てよリガスのオッサン。町長の屋敷に振り分ける必要も、オッサンの店で寝かせる必要もねーだろ。だって、宿はここにあるんだから」

「……ダンさん?」

 ヒナが不思議そうに首をかしげる。ダンは振り返るように告げる。

「覚えてなくても無理はねーか……俺が勝手にそう言って、飛び出しちまったんだもんな……けど俺は確かに言ったんだぜ、もう一晩、この宿に世話んなるってな……今なら出来るだろ、インフェルノ」

「ああ、当前だ。スピアだった存在のテーゼを使い、この宿を修復させよう」

「ああそうだな、頼むぜ。やり方を教えてくれ」

「分かった、では私は補佐役を務める。ダンとヒナよ、私の腕を、左右から掴むのだ」

 ダンとヒナの間に挟まって、左右の手の平を広げるインフェルノ。

「え、と……インフェルノさんの腕を、ですか?」

 ヒナは訳も分からずダンと共に、インフェルノを左右からはさんで手を握る。

「二人とも両目を閉じろ。僕、お前は何も考えずにテーゼの力を使えばいい。そしてヒナ。お前は父と過ごしたこの宿での歳月をありのままに強く思い浮かべるのだ。私がそのイメージをダンへと伝える役割を果たす。そうしたほうが、より元に近い形を成すだろう」

「形を成す……? えっと……」

「はは、まぁ驚くのはもうちょっと後にとっとけよ。インフェルノの言うとおりにしとこうぜ」

 ダンはそう言うと、なんの躊躇もなくその目を閉じる。

「わ、分かりました…………!」

 ヒナは少々混乱したが、それでもダンに続きその両目を閉じた。

「ではダンよ、何も考えずに、ただテーゼの力を振るうのだ。そして願えヒナよ、この宿の存続を、父と宿の思い出を――」

 返事を返す代わりにヒナは、インフェルノの言うとおりに、願った。

 この宿で過ごした歳月を、父との思い出を。ありのままに、強く思いだした。

ダンは望みとしてオーベルジュ・マキノの修復を願い、自身の内のテーゼを具現化させる。

『辛いことも、悲しいことも。いっぱいあった。その度にお父さんは、私を強く勇気づけてくれた。でもお父さんがいなくなって、また、悲しくて、辛くて、それでも私は――ここにお父さんの宿があったから……そうだ。たとえどれだけ、毎日が辛くて悲しくても…………』

 淡い緑の光源は、破壊されたオーベルジュ・マキノの外観を覆い隠し、辺り一帯を強く照らし出すほどの光を放つ。そして――。


『――私は強く、いられたんだ』


 ヒナは自分の内に答えをみつけると共に、閉じた二つの瞳をゆっくりと見開いた。ヒナの視線が見つめる先には、まばゆいテーゼの光と共に、奇跡が待ち構えていた。

「え……これは……」

 ヒナだけでなく、その場に立つ全員が、両目を見開いたまま絶句する。そこに建っていたのは紛れもない――いつもと同じ佇まいの、オーベルジュ・マキノだった。

「ほぉ、こりゃすげぇ……一体全体何がどうなってやがるってんだ」

「なんと、まさしくこれは神の所業……旅の方々、あなた達は一体……」

リガスの放った驚きの言葉に続いて、ブラウンも、まるで天からの使いを見るようなまなざしで、ダンとインフェルノを見つめた。そして次々に、それを共に目の当たりにしていた人々が、歓喜の声やら、おたけびをあげて、宿の再生を祝福した。ダンは宿屋の復活に安堵して、口元に小さく笑みをこぼす。そして視線を向けて先の宿の主、ヒナの様子を窺う。ヒナは大粒の涙をいくつも瞳から流して、泣いていた。

「ダンさ……っ、私……本当に、なんてっ……お礼を言えば、いいか……」

 それを見て、インフェルノは満ち足りた表情で瞳を閉じ、ダンは慌てながらヒナと相対する。

「おっ、おいヒナ? お前なんで泣いてんだ? 他の奴らみたいに喜んでくれよ。ここはお前の、かけがえのない場所なんだろ……?」

泣きたいときは泣けばいいと。笑いたいときは笑えばいいと。ヒナはふと、ダンが自分に語りかけてくれた言葉を思い出した。確かに自分の心を解きほぐした、その言葉に偽りはない。

「いいえ違います、ダンさん……私の……」

けれど、今の自分はその言葉の限りではないとそう思った。確かに泣きたいほどに、喜びを噛みしめるような奇跡も、この世界にはあるのだから。


「この涙は…………嬉し泣き、ですから…………!」


 ヒナは涙で瞳を潤ませながら、屈託のない笑顔をダンに見せた。

 ヒナの言葉を聞いてダンは、そういうことかと口元に安堵の表情を作り、宿を見直し静かに、口ずさむように囁いた。

「そうか、なら…………そいつはよかった」

 再生された宿の中に入ると、中は全くと言っていいほどそのままだった。まるで何も起こらなかったかのように、オーベルジュ・マキノは、普段と変わらぬ佇まいだ。

 宿屋には、ダン、インフェルノを含めて、全員がちょうどよく収まった。ヒナは、宿が満員になるなんて初めての経験ですと、とても嬉しそうにはにかんだ。そしてもう夜も更けていますといって、細かいことは明日に任せ、今日はもう寝てしまうことになった。

 ダンは初めて部屋の中に入ったときと同じく01号室に戻り、ドアを開けて部屋の中に入った。中はやはり初めと何も変わらなかったが、再び入るのが酷く久しい気分になった。壊れてしまった宿屋にまた泊まれるのだから、不思議な気分になるのもおかしくはない。

 後から部屋に入ったインフェルノは、ガチャリと音を立てて扉の鍵を掛けると、とてとてと小走りで自分のベッドまで駆けていき、そのままべッドに飛びこんだ。そして燃え移らない炎で体の形態を変化させると、あの成人した女性の姿へと変身した。

「いや、久しぶりに体を動かしたせいか、なんだか今日は疲れたぞ。それにこの姿のほうがなじみ深くておちつくわ。あの小さい姿は子供扱いされて変に気を張ってしまうからな」

「なんだかお前も大変だな、大人なのに子供扱いされちまって」

「まったくもってその通りだ。しかしお前のおかげで枷が壊れ、元のこの姿にも自由に戻ることができるようになったのだ。それにまぁ、明日の朝にはこの町を立つのだろう? それまでは我慢しておいてやるさ。なんにせよ今日はよく頑張った。今夜はゆっくり休め、僕よ」

 そういうインフェルノの口調は、やはり成果があったからだろう、機嫌が良さそうに、すらすらとした口調で、最後にダンを労った。

「…………ああ、それもそうだな。今日は壮絶だったぜ、確かに…………」

 そういってまた、ダンはベッドに倒れこんだ。最初にこのベッドに倒れた時とどちらが体を酷使しただろうかとそんなことを考えたが、答えは出ずにダンは考えるのをやめた。


「ねぇヒナ、まだ起きてる?」

「あ、はいシェリちゃん。そうですね、なんだか寝付けなくて」

 その夜はヒナを気づかってか、シェリが宿屋に泊って、ヒナの部屋で、共に寝床に就いた。向かいどうしということもあって、月に数回は、シェリは宿屋に泊りに来ることがある。その夜はこうやって、毎回恋の話題に花を咲かせたり、町のことを話したり、町の外の大きな都市の話をしたりした。町の中でも、心おきなく話を出来るのは自分にとってシェリちゃんだけだと、ヒナは無二の親友を大切に思っている。今夜は今夜で、スピアと戦った一部始終の話で、質問が絶えなかった。とくにインフェルノさんの質問になると、テンションを上げて、息を荒げて話をするので、ちょっと危ない人に見えるよと冗談交じりに言うと、仕方ないよ、インフェルノちゃんだもんと、力強く答え返されて、思わず笑ってしまった。一通りの話を終えて、一端静まったところへ、またシェリからヒナに、質問が飛んできた。

「本当に凄いことだらけだったんだね。私驚いちゃった。それでさ、ヒナの話を聞いて思ったんだけど、ヒナ、ダン君の話ばかりしてたよね?」

「えっ……そうだった?」

 シェリから予想外の指摘を受けて、ヒナは焦りを隠せない。そんなに、ダンさんの話ばかりだっただろうか。

「うん、それはもう。燃える炎のような人だとか、自分じゃなくて、誰かの為に命を賭ける人だとか。ヒナが自分からそういうこと言うのって珍しかったから聞いてて凄く楽しかったけど。お天道様はごまかせても、このシェリちゃんの目はごまかせないよ? ヒナ、あんたダン君に惚れちゃったね」

「え!?」

 シェリの指摘を受けて、ヒナは戸惑いを隠せない。どきどきしながら、あたふたしてしまう。

「そ、そんなんじゃないよ! 私はただ、とっても熱くて、気持ちに真っ直ぐな信念を持った人で、すごく素敵な方だと、そう思っただけでっ…………!!!」

「いやいやヒナちゃん、今自分の言ったことをそのまま自分に言い聞かせてみなよ。世間ではそれを、惚れたっていうんだよ」

「あ、え…………わあっ!?」

「ふふ、無理もないよね、ただの旅先で出会った宿娘の為に、命張って町を救って、その上壊された宿まで治しちゃうんだもん。心境的には突然目の前に現れた、白馬の王子様ってところかな?」

「いえ、えっと……今のはその、ダンさんに尊敬の念を込めて、ですね……」

 ヒナはさらに慌てふためく。その様子を見てシェリは、にやにやしながらヒナの心を真意へと導く。

「いやいやもう、これはとうとう、ドンピシャだね。それでヒナ、どうするの? まさかこのまま、惚れた男に何も音沙汰なしで、はいさよならってことはないよね……? もう、二度と会えないかもしれないんだよ?」

「えと……けれどねシェリちゃん、ダンさんには確固たる旅の目的があって……そのために旅をしている人なんだよ……とても、私なんかが足止めできるような人では……」

「ヒナ、ここぞという時の女の涙は、何ものにも変えられない最強の武器になるんだよ!! ヒナの泣き落としなんて、私がやるのとじゃ天と地ほどの差があるね! 自分で言っててなんか悲しくなるけど、それくらいインパクト大だよ! 落ちるね、ダン君は落ちるね! あああいう不器用そうな男ほど、そういうのには弱く出来てるものなんだよ! それにインフェルノちゃんも一緒について来てくれるんなら、ヒナが幸せになって、私もインフェルノちゃんを独占出来て、一石二鳥! もうこれはいくしかないよ! 勇気を出せ、ヒナ!」

「え、ちょっとシェリちゃん、本気で言ってる……!?」

「もちろんだよヒナ、がんばれ!」

「えっ……ええ~~~!?」


「………………なぁ、インフェルノ」

「なんだ僕、何か気がかりなことでもあるのか?」

いつでも眠りに就くことができそうだったが、先ほどの疑問の代わりに、ふと頭をよぎった質問をインフェルノに尋ねてみることにした。

「いや、つまらない事なんだが……昔のお前の僕ってのは、いったいどんな奴だったのかと思ってな。別に答えたくねーのなら、その必要はねーんだが……」

 その質問に、インフェルノはすぐに言葉を返さない。やばい、さすがにまずい質問だったかとダンが眉をひそめた後、インフェルノは静かな口調で、ダンの質問に答えた。

「奴は……お前によく似ていたよ。姿形から……中身までほとんど瓜二つだ。初めてお前を見たときに……本当に奴ではないかと見間違えたほどにな。しかしそんなはずはないのだ。いくら強力な命題者といえど、自分の命を捨てる覚悟がなければ、とても望王の力を封印することなど出来はしない。本当にあ奴らしい。何ともバカな男だ……」

 自分の前任者の話になると、インフェルノは一気に憂いを帯びて、穏やかな、そして静かな口調になった。インフェルノが普段のインフェルノでなくなることが、酷く落ち着かないのだとダンは思った。これなら怒鳴り散らされていたほうが、まだましだと。この話は、心の奥にしまいこんでおくべきだと悟った。

「それでその、まぁあれだ……所見で噛みついたのも含めて……最初はお前が奴に見えていろいろと……難儀な扱いをしてしまったな……そのことについては……」

「ん? なんだ? 何言ってんだ?」

 ごにょごにょと小さな声で呟いたので、最後のほうの言葉が聞き取れなかった。

「な、なんでもない。聞こえなかったのなら、それで一向に構わないのだ。もう眠ってしまええ。明日の朝が辛いぞ」

「お、おう、分かったよ。んじゃおやすみな」

 インフェルノが今声を上げたのはダンが悪かったのか疑問だったが、このほうがインフェルノらしいと思って、ダンは瞳を閉じた。そして意図もたやすく、眠りに落ちた。


 その夜――ダンはまた、過ぎ去りし日の夢を見た。夢の中のダンはまだ十歳足らずで、同じ背丈のカノンの手を引きながら、バルトヘントの街中を人混みをかき分けながら走る。

「ちょっとダン、一体どこにいくのさ?」

「へへっ、もうちょっとだ。噴水広場で、面白いもんが観れるんだよ」

カノンの付き人二が気が気でないように後をつけてくるが、すでにおなじみの風景なので、気にせず噴水前の広場を目指す。

 目的の広場に出ると、大小様々な観衆が噴水近くの一角を取り囲んで、それぞれに歓喜の声を上げながら賑わっているのが分かる。

「なにこれ……すごい人だね、ダン」

「だろ? けどここじゃあまだ見えにくいな。もうちょっと前に出ようぜ」

 そこでは、最近この街にやってきたという大道芸人が曲芸を披露していた。ここ数日の天気の良い日は、毎日噴水前でラッパを演奏したり、玉乗りを披露して、観客たちを沸かせている。最近のバルトヘントは、この話題で持ちきりだ。

「さぁさぁさぁ、それでは皆々様お待ちかね。お次は玉乗り歩きと、ジャグリングの合わせ技。見事成功しましたら、ここに賞賛の拍手を!」

「えっ、嘘でしょ……?」

群衆の前に出たカノンが驚き声を上げたのは、肝心の曲芸の内容ではなく、それを演じている大道芸人のほうだった。なぜならその大道芸人は、年齢がおそらく自分たちとほとんど変わらないだろう女の子だ。ダンもここ数回で見慣れたが、初めて芸を目の当たりにしたときは、カノンのように目を丸くして驚いた。

その後、見事に玉乗り歩きとジャグリングの合わせ技を成功させた同年代の大道芸人は、見事に拍手喝采をさらい、被っていたシルクハットをひっくり返して地面に置くと、チップでその中を溢れさせた。少女が終わりの挨拶を済ませて人が散っていくと同時に、目を釘付けにされたカノンは、珍しく身を乗り出して少女に声をかける。

「君、凄いね。歳だって、僕たちと同じくらいのはずなのに」

 すると少女は、少し照れくさそうにはにかみながら、

「あはっ、そう言ってくれると、芸人冥利に尽きるよね」

 するとカノンはそうだったと、思い出したように腰に下げていた革袋から金貨を五枚取り出して、少女の手のひらに直接渡した。

「えっ、五万アインも!? さすがに多すぎじゃないかな、昨日は一日で三回披露したけど、その額よりも多いよ?」

「気にすんなって、こいつんとこは金持ちだから。俺の分まで期待してくれ。で、俺はダン・アッシュネスだ」

「僕はカノン・エルテニア。君は?」

「えっと、私はロメリア・アルスト。しばらくはこの辺りで披露するから、よかったまた来てね――」




 そして、誰にも朝はやってくる。すべての人へと平等に、新しい時を告げる日差しが差し込む。

 その朝、目覚めるとダンは両目から涙を流していた。それはかけがえのない彼女との出会いの日の記憶であって、もう会うことのできないだろう、別れを惜しむ涙に違いなかった。

「…………ロメリア」

理想に準ずることができなかったという、まだ胸の内に残る後悔は――無意識のうちにダンの心情を苛んでいた。

「な、な、なぁーーーーーーっ!?」

けれど今日一日の始まりをダンに告げたのは、そんな後ろめたさのある念ではなく、この数日で一番の、酷く聞き覚えのある悲鳴だった。

「なんだよインフェルノ、朝から騒がし……」

 まどろみから目覚めてダンは、重い瞼を擦りならがら、インフェルノのほうへ視線を向ける。そこにいたのは、いつも通りの小柄な子供の姿をした、輝く赤い髪のインフェルノ本人だった。

「なんだよ……何も、変わって…………」 

「何を寝ぼけておる僕、この姿を見て不自然だと思わんのか! 私は昨日、確かに大人の、女性の姿で眠りに着いたのだ!! しかしこれを見ろ!! 私は……子供に戻ってしまっているではないか…………!!」

「ああそうか、確かにそうだな。だったら、あの大人の姿に戻ればいいだけの話じゃねーか。もっとも、すぐにまたその姿に戻らにゃならんだろ。この町を出るまではな」

「バカが! もっと機転を利かせろ! それで済むなら私はこんなに嘆いてはおらん!! 戻れんのだ!! あのぼんきゅぼんのナイスバディーに!!」

 インフェルノは完全な泣きっ面で、嘆き声を上げた。どうやら本当に大人の姿へ、変身することが出来ないようだ。

「何だよそれ、だって確かにその枷の呪いからは解き放たれたんだろう? だから大概の事は自由自在だって、そう言ってたじゃねーか……」

「ああそうだ! その通りだ! 私には何ら非はない! あるとすればそれは僕! お前にだー!!」

 そういって細身の腕を伸ばし、力強くダンを指さすインフェルノ。瞳に涙を浮かべながらこちらを恨めしそうに睨んでいる。

「な……俺のせいかよ、おかしーだろ! 異変が起きてるのはお前の体な訳で……」

「違う! その考え方がそもそもおかしいのだ! ええい、まずはそこに正座をしろ!」

 そう言ってインフェルノは、ふかふかの布団の上ではなく、硬い絨毯の床にダンを座らせる。

「いいかよく聞け僕よ、今の私とお前は、契約で繋がった状態にあるのだ! 望王は、直接人間世界に干渉することは出来ん! いずれも命題者を媒体として、この世界に干渉するのだ!!」

「あぁ、そうなんだろうよ、それがどうし……」

「うるさい! 今言葉を口にしていいのはこの私だけなのだ! それでだつまり! いいか僕よ! 今の私をこの世に具現化させているのは! お前の持ちうる器の大きさということになる! 私の言葉の意味が分かるか!? お前の内の器の容量が! 私の持ちえる理想を具現化しきれていないのだ! つまりはっ! お前自身の、実力不足ということだーー!!!」

 これがかなりのご乱心のようで、インフェルノはダンに構わず駄々をこねて騒ぎ散らす。これでは本当に、まるで子供のわがままだ。しかしそれだけでは到底理解が及ばないダンは、めんどくさそうな表情で、インフェルノに質問をする。

「えーとだな、とりあえず落ち着こうぜインフェルノさん。昨日はちゃんと、あの大人の姿に戻れたんだろ? なんで今日になって、こじんまりのままなんだよ?」

「こじんまりとかいうな!」

「と、とりあえず落ち着け! 落ち着こうぜ、な!?」

 反射で後手の言葉が出てしまうダン。インフェルノはなおも肩で荒く呼吸しながら、勢いは一向に衰えない。

「はー、はー……おそらくは……お前があの金と銀の枷の首輪を壊した際に生まれた誓いの成就に対するテーゼの力の呼応……到底成しえることのできぬ目的に到達して、テーゼの力がお前の中で急激な増加を見せたのだろう……つまり私のあの姿は、お前の今の実力から大きく広がりを見せた器に比例した状態だったということだ! あのレベルのテーゼを常に保持していなければ、到底私クラスの力を最大限に発揮することは出来んのだ!」

 要するに普段の状態では、ダンの器からインフェルノのテーゼが溢れてしまうので、器の限界容量までしか、テーゼの力を使うことが出来ないということだ。確かにこれはなかなかにややこしい事態だ。望王インフェルノの力は、新参者のダンには上手く扱いきれないようである。

「あぁそういうことか。じゃあそれで、今の俺にどうしろってんだよ? 結論からして、日々精進しろってことだろ? 俺が今怒られることなんて何一つ……」

「何だその態度は! それが主に対する僕の言葉か! その普段の在り方が、格と質につながると言っているのだ! もう耐えられん! 覚悟しろ! 今から貴様に、きつい灸をすえてやるーーーっ!!」

 インフェルノの、鋭い八重歯がギラリと光る。そして。

「――いっっってぇぇぇぇぇぇーーーっ!!!」

 インフェルノの理不尽な暴挙がこれからも続くのかと考えると、いよいよ泣きたくなるダンなのだった。


「ええと……ダンさんそれ、歯形ですよね? 大丈夫ですか!?」

 ダンの頬の噛みあとを見て、心配そうに告げるヒナ。

「ああ構わねー、構わんでくれ……それ以上心配されてしまうと、思わず涙が出ちまいそうだ……」

「そうだ、気にするなヒナ。これもしつけの一環だ」

 両目を閉じてパンをかじり、ぴしゃりと告げるインフェルノ。ダンとインフェルノの力関係を把握しきれていないヒナは、頭の中に疑問符を浮かべて、不思議そうに目を点にした。

 インフェルノとダンは、もちろん別々(インフェルノ、ダンの順)に浴槽で体を清めた後、ヒナの用意した朝食の席に着いた。テーブルに並べられているのは牛乳、玉ねぎのスープに四角のパン、チーズとハムにさまざまな果実の色のジャムだ。早朝で、まだ誰も起きてはいない。

捕虜だった人たちの中には、牢の中で長い期間を過ごしていた人もおり、今はゆっくり体を休める必要があるだろう。

「ファミリーに囚われの身だった人達は、ブラウン町長の手筈で、元の町にちゃんと護送されるみたいです。たいていはファレナノの港町から出向いてきた人達のようなので」

 捕虜だった人たちのことは、やはり町長に任せるのが手っ取り早い。後のことは、そちらで解決してもらうことにする。

「そうか……まぁあの人の良さそうな町長のことだ、ちゃんとやってくれるだろ」

「……はい、私もそう思っています。それにしても……ずいぶん早いんですね、もう少しゆっくりしていかれても……」 

「おちおちと眠りこけてもいられまい、こ奴にはこ奴の、私には私の目的があるのだから。なぁ、僕よ?」

「あー、はいはい。そうだな、そうですとも」

 早朝からもうすでにうんざりな気分なので、遠目でそう言い返すダン。

「あはは、そうですよね、すみません……」

(やっぱり、そうだよね……ダンさんには、ダンさんの……)

 昨晩の、シェリが言っていた言葉がヒナの頭をよぎる。それは旅人のダンをこの町に留まらせようとようとする、あの言葉だ。

「はぁ……」

「どうしたんだ、ヒナ。そんなため息なんかついて。もしかして、まだなんか……」

 思わず口に出た胸の内を、ダンに気にかけられるヒナ。全力でそれを否定する。

「いっいえ、なんでもありません!! 本当に、なんでも……なんでもないんです」


ささやかな朝の食事を済ませた後、席を立ち上がるダンとインフェルノ。それに合わせて、ヒナも席を立ちあがる。

「そんじゃあ短い間だったけど、いろいろ世話んなったな。本当に、助かったぜ」

「ああ、たかが旅の者を手厚く迎え入れてくれたこと、心から感謝するぞ」

 別れの時を惜しんでいることをヒナは、今になって強く実感する。せめて少しでも長く、この時を伸ばしたいと。

「あ、あの、町の人たちにあいさつしていきませんか? リガスおじさんとか……」

「ああ、そうしたいのはやまやまなんだが、会っちまうといろいろ別れ辛くなると思ってな。本当に飯うまかったって、後で言っといてくれよ」

「あっそうですか、分かりました……」

「うむ、それでは行くとするか、僕よ」

「よし、それじゃあ、ヒナ……」

「そっ、それなら、せめて私だけでも町の外までお見送りします! それくらいはさせてください! なんといってもお二方は、私にとってかけがえのない恩人ですから!」

 そこまで言うならと、ダンとインフェルノは、顔を合わせて頷く。

「そうか、じゃあ……頼むぜヒナ」

「うむ、それではお願いするぞ」

 宿には一応鍵を掛けて、しばらくのことはまだ寝ているシェリに任せて、ヒナはダンとインフェルノの道案内をした。途中、水や食料は足りているかヒナが問いかけると案の定忘れていたようで、インフェルノにどやされながら、ダンは水と食料の調達を済ませた。ヒナは最後に、もう一か所だけ寄り道の確認をして、二人から了承を得たので、目的の場所を目指して、足を進めた。

 ヒナの目指した場所――それは、墓地だった。

決して大きくはないが、しっかりとした石英の加工で形作られた墓が、淡々と並んでいた。見栄えが良いのは、この町の石工匠の技量だ。写真でしか見ることのできなくなった母の墓前。その前で立ち止まるとヒナは、再び話を始めた。

「ここは私の、母が眠っている場所です。私には幼いころの記憶しかありませんが、確かに私の母の、生きた証です。墓とは証を刻む場所なのだと、父が言っていました。その人の生きた証を忘れぬように。刻み込む場所なのだと。だから私も父のいた証を、この墓に刻もうと思います」

 その言葉を聞いてダンは自分にもおそらく、証としての墓標が建てられていたのだろうと考えた。カノンもこの今のヒナのように、正しく現実を受け入れ、そしてまっすぐに前を見据えてくれればどんなによかったことかと、ダンはそんなことを思った。

「ああ、そうすべきだろうな。そんでもって生きてる奴らは証を見て思うんだ。俺たちは、ここから前に進むんだってよ」

「まともなことを言うな僕よ。私が朝にすえた灸がここに来て響いてきた訳か」

 インフェルノは腕を組み、目を閉じてそうだろうと頷く。その意見に賛同することなどおそらく未来永劫あり得ないが、インフェルノを納得させた今の言葉は確かにダンの、その内から出た言葉だった。その後でヒナは母の墓前に、新たな決意を示すのだった。

「私もその通りだと思います。だから私は、この場で決意を新たに、明日へ歩みを進めようと思います。私はこれからも、父と母の残したあの宿と共に、生きていこうと思います。これからも、ずっと。それが、私の決意です……!」

 ダンとインフェルノはヒナの真っ直ぐな誓いを聞いて、自らも誓いの意思を示した。 

「私は、失われた望王としての、真紅の力を取り戻す。それが私の決意、そして誓い……!!」

「俺は、唯一無二の友の……その野望を阻止して、そして救ってみせる。それが俺の決意だ……!!」

忘れることはないだろう。その願いを。自らに刻んだ、この誓いを。ダンは心からそう思って、そして自分の足で歩き始めた。


 願わずとも、その時はやってきた。別れの時。それは今のヒナにとってより一層、心の締め付けられる瞬間だった。ヒナはすべからく理解した。この気持ちは恋なのだと。シェリちゃんが自分に指摘したことは、的を綺麗に射抜いていたと。けれどやはりその思いは、とうとう言葉にはなりそうもなかった。そして下をうつむいたままのヒナにダンは、別れの言葉を告げる。

「はは、やっぱりなんだか、分かれ辛くなっちまうな。悪りぃやっぱ俺、こういうのは苦手みてーだ」

「何を言っておる、ヒナを悲しませるわけにはいかんだろう。笑顔で旅立つのが、道理というものだ。本当に世話になったな、ヒナ」

「本当に……行ってしまわれるんですね……北口から旅立たれるという事は、港町のファレナで……あっ……!」

「どっ、どうしたヒナ?」

 驚いたダンは、とっさにヒナを気にかける。

「ダンさん私、思い出しました! カノンさんからの伝言! 港町ファレナへ向かったと、伝えてほしいとのことでした!!」

「何!? そうか、良かった。そうだったのか、ありがとよヒナ……インフェルノ」

「うむ、幸先はよさそうだな」

二人は表情を合わせた後、引き締まった表情をヒナに向ける。

二人の旅出にヒナは、勇気を振り絞って、そして、せめてもの言葉を口にする。

「ダンさん、インフェルノさん……本当に、ありがとうございました。町の人たちは本当に感謝の気持ちでいっぱいだと思います。私も……だからその、どうかお気をつけて…………!!」

 ヒナのその言葉に、ダンは自分なりに不器用な笑みを作った。そしてダンとインフェルノは、ヒナに背を向けて歩き出した。

 行ってしまう。この町へ旅人としてやってきて、そして旅人として旅立っていく。そんな当たり前のことに、ヒナは寂しさを感じた。切なさを感じた。きっとやっぱり、どちらでも結果は変わらないだろう。自分がこの思いを告げようと告げなかろうと、彼はその歩みを止めて、こちらを振り返りはしない。それはもはや、手に取るように明白だった。なぜなら彼は、理想主義者だから。彼は自身の願う理想を、追いかけて行く人だ。

 彼の思いの先にあるものはおそらく、友達を救うこと。だから私のこの思いは、きっと彼を困惑させて、その足取りを鈍らせるだけだろう。そんなことはやはり、してはいけないことだと思う自分がいる。彼のことを思うならば、それは尚更のこと。彼を思うならば一層、旅の足取りを拒んではいけない。それが正しい答えだ。自分に導き出せる、順当な答え。けれど、それでも。

 順当な答えだけが、理想と呼ばれるものなのだろうか――おそらくは否。正論に反った人のわがままを、時に理想と呼ぶこともあるのだろう。ヒナは、今この瞬間に、そう思った。


――お父さん。この一瞬に、ほんの少しだけ、私に、踏み出す勇気をください。


ほんの一時、ささやかな刹那の間を、自身の理想で満たそうと。そう願って、思った時には、すでに足が地面を軽やかに駆けていた。おぼつかない足取りで、前に進む。目の前の、愛しい人に向かって。

「っ、………………ヒナ………………?」

 ダンは立ち止まる。その歩みを止めて、後ろを振り返る。するとヒナが、後ろから自分を、両手で抱きよせていた。ほんのわずかな間、時が止まる。一瞬の、わずかな時間。そんなささやかな理想は――すぐに終わりの時を迎える。これ以上は、きっと許されない。ヒナは抱擁を解く。

「すみませんダンさん……もう、進んでください。私に何かと、言葉を探す必要はありません。どうかそのまま、歩んで行ってください…………本当に、ありがとうございました」

「ヒナ……?」

 ヒナは今にも泣き出してしまいそうなほどの、そんな切ない表情をしていた。その意図に心当たりのないダンとは違ってインフェルノは、ゆっくりと穏やかにヒナにほほ笑み、その思いをくみ取って、再び別れの言葉をかける。

「いいやヒナ、僕に代わってこの私が、心からの敬意で答えよう。必ずまた、僕と共にこの町を訪れるぞ。本当に、世話になった……元気でな。いくぞ、僕よ」

「お、おう……?」

ダンとインフェルノはヒナの視界から、徐々に小さくなっていく。そして、情景に溶け込み始めてきたところでヒナは、もう一度、大きな声で叫んだ。

「また必ず、この町に来てください! 待ってます!! 私、待ってますからーー!!!」

 ヒナのその声は自分でも驚くほど大きく大地に響き渡った。そして、ダンにも声が届いた証拠に、小さくなったその身の彼が、大きく手を振る姿をしっかりと見届けることができた。


ヒナはダンの姿が消えて、見えなくなるまで、ずっとずっと、見つめていた。



■エピローグ


「ふふ、まったくもって我が僕よ。お前もお前で、なかなか隅には置けん奴だ。まさか旅先で出会った宿娘に、あんなことをさせてしまうとはなぁ~」

 先ほどの別れ際のヒナの抱擁の意味を、把握しきれていないダンを見て、インフェルノはにやけた笑みを作りながら、またそんなことを言った。

「何だお前、言いたいことがあるならはっきり言えよ。俺には特に、心当たりはねーんだが……」

 町を出てからインフェルノは、にやにやしながら何度も同じようなことを呟いた。思い当たる節がないダンは、インフェルノを何度か問い詰めたが結局、明白な答えは返ってこない。

「お前もつくづく野暮な男だな。呆れて言葉も出ないぞ、私は」

 つい先ほども町を出てから少しして、ヒナが自分たちに大きな声をかけてきた時、「何をやっている、早く手を振り替えしてやれ」と、ダンにだけ指示を出して自分は手を振らなかったし、もしかすると女同士、何か通ずるものがあるのかしれない。つくづく女心とは謎だと、ダンは思う。

「何が言いてーんだよ、ったく」

「全くもって、この鈍感魔神めが」

 インフェルノは面白がって表情を変え、残念そうに、しかし軽快な口調で喋る。

「はぁ、かわいそうに。これではヒナも浮ばれんわ。いいか、ヒナはお前のこと思い、お前の意思を尊重して、お前の旅立ちを見送ったのだ。お前の理想を願うのは、お前だけではなくなった、ということだ。お前は必ず、お前自身の願いを成し遂げろ。そしてそれを成した後に、どれだけ時間がかかろうが、またあの町に戻り、宿を訪れるのだ…………いいな?」

「必ずって……そりゃあ近くを通ればまた寄ったりはすんだろうけどよ。そんな力強く念を押すことか? ほんとなんなんだよ、お前」

「今はまだそれでよい。余計なことを考えてしまうと、肩の荷が重くなる。これは私との――そしてヒナとの約束だ。また深くその身に刻めよ、我が僕」

 ダンは最終的には刺し違えてでも、カノンの野望を阻止して、そして改心させるつもりでいた。なんといっても、カノンの後ろに控える存在もまた、想像も及ばないだろう望みの王そのものだ。それを下しカノンを救いだすことは困難極まりない事だろうと、ダンはそう考えていた。しかし生き延びなければならないということは、さらにその願いの成就が難しいものとなってしまう。ダンは難しい表情をした後に、そして小さな笑みを作った。

「……帰るべき場所ってことだか。確かにバルトヘントが消えてなくなった俺にとって、あそこはそういう所にできるのかもしれねーな」

「有無を言わさずその通りだ。なんといってもお前は、あの町の危機を救った英雄なのだからな。どれだけの歳月が経とうが、手厚く迎えてくれるに違いないだろうよ」

 インフェルノも、ダンの言葉を強く押した。ダンは上を見上げて、おもむろに呟く。

「…………理想か。どこまでも広く果ての無い、無限のような言葉だな。どんなに強く願っても、まるで遠く及ばないような――」

 広く晴れ渡る空の青を目の当たりにして、ダンはそんなことを呟く。その歩みの途中で、ふいに一度、ダンは後ろを振り返る。もうバレーナの町は小さくなって、かろうじて目で捉えられるほどの大きさだった。そして前を向き直す。果てしなく大地は広がりを見せて、土と石の地面が一本の道標を示しダンたちの行く先を指している。

「何を悟ったようなことを。理想のなんたるかを語るには、まだ十年早いわ。それより一刻も早くファレナの港町に行き、カノンに会わねばならんだろう。ほら、行くぞ僕よ」

 先ほどまでのにやけた表情を消してインフェルノは、早足でダンを追い越して何歩か先を歩きながら、せかすようにそんなことを言った。

「ああそうだな。今はひとまず、先に進むか」

そしてダンは確かな足取りで大地を踏みしめ、ファレナの港町を目指すのだった。


時同じくしてそこはダンたちの次なる目的の港町、ファレナ。その浜辺の、まさしく地面と海面の境界で、ローブに身を包んだ旅人は、広がり続ける空と海の青を見比べる。

「……他人の理想すらも、自分のものとしてしまうなんて。君は本当にお人よしだね、ダン」

カノンに追いつき同化した分身体の記憶から、昨晩の経緯を把握する。そして、誇らしげに微笑む。

「けれどまさしく、それが君の理想の在り方だ。僕が君を命題者へ変える以前からすでに、君は自分の犠牲を顧みない人間だった。自分の命を投げ出して、僕を救い出してしまったように」

カノンがそう呟いた後で、その身の内から、自らのものでないもう一つの声が聞こえた。

内から響く声がカノンの思考に、静かな声で指摘する――前へ、その歩みをさらに先へと。その声に、カノンは答え返す。

「分かっているよ。ただこの目に映しておきたくてね。内陸都市にいた僕にとって、この海の広がる光景は、とても貴重なものだから」

声は、さらにカノンの言葉を指摘した。世界の滅びすらも厭わない者に、そのような情緒が必要なのかと。

「分かってないな、だからこそ自分の目に、焼き付けておく必要があるんじゃないか。この情景を拝めるのは、これが最後かもしれないからね」

しかし内に潜む望みの王は、カノンの心情すらも否定して、彼が抱く大願の成就を望んだ。

『不要な感情だ。お前の望む景色はここになどないのだから――さぁ、我が器カノンよ』

「ああ……分かっているよ。そして…………」

カノンは、その身に宿るもう一つの声と共に、己が信念を持って歩きだす。この世のどこにもない、自らが望む世界を求めて。


「行こう。掲げた理想の、その先へ――」

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インフェルノ・イデア にしき @nisiki0222

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