―俺を生き返らせた親友が世界を滅ぼしそうなので―中

■第三章


「う……くぅぅ……」

 昨晩の宴から一夜が明けた。頭に鳴り響く頭痛と、体中を支配するだるさに襲われて、ダンは再び意識を取り戻した。まどろみと共にダンは、壁に掛けられた時計に目を向ける。時刻は午後一三時――昼過ぎ。宿の宿泊を決めた当初、本日の朝にはこのバレーナを旅立とうと考えていたダンにとって、これは痛い誤算だった。今朝の初め、インフェルノに騒がしく起こされたダンは、二日酔いからくる頭痛が原因で、とても立ち歩ける状態では無かった。前の晩、宿の裏でヒナと昔話をした後ダンは、またもやリガス達大人の酒飲みに捕まってしまった。尽力はしたつもりだが結局大人たちの勢いに飲まれ、しかしそこからいつベッドまで辿り着いたのか記憶がない。ただ覚えているのは、遠慮するなと何度も勧められて、遠慮などこれっぽっちもしなかったが、酒を飲まされまくった記憶だけだった。ダンは一度、ふぅと小さくため息をつき、靴を履いてベッドから立ち上がった。朝よりは頭の頭痛も和らいでいるとはいえ、とても今から旅立とうという気にはなれなかった。

 部屋から出て階段を降りると、昨日宿に来てすぐに直面した息のつまる情景が、またもや目に入ってきた。しかし昨日とは打って変わって、ヒナは凛とした態度で、黒スーツの男達と対峙していた。男達は昨日と同じ、小柄、長身、体格のいい男の三人組だ。小柄の男が前日とは異なる真剣な表情で、ヒナに宿屋の譲渡を強いる。

「これが最後の忠告だ。素直に宿を明け渡せ、ヒナ・マキノ。後で何が起こっても、取り返しはつかねぇ……!!」

「……何があったとしても、私がこの宿をあなた達に渡す事はありません。それは絶対に……何があっても変わりません。あなた方の、時間と労力の無駄です。」

「チッ……なにがあってもか……そうかい、後で後悔しても、知らねぇからな」

 そう吐き捨てると、男達はそそくさと宿を出て行った。それを窺っていたダンに気付くとヒナは、穏やかにほほ笑んだ。

「おはようございますダンさん。ごめんなさい、またあんな所見せてしまいまして……」

「いや、俺はどうってことねーよ。それよりその様子を見る限り……もう大丈夫みてーだな」

 ダンからしてみても、前日との差は明らかだった。ヒナの表情は澄み切っていて、それでいて強かさすら感じた。

「はい、ありがとうございます。多分、ダンさんのおかげって言うのもあると思います。……あの、昨日のことなんですが」

ヒナはダンを見つめた後、頬を赤らめ、なんだか恥ずかしそうにそんなことを呟いた。

「昨日の……? ええと……悪いヒナ、昨日はお前と宿の裏で話をして、またおっさん達に酒を飲まされて……実は、その後の記憶が一切ねーんだ……」

 それを聞いたヒナは先ほどよりも二割増しでそわそわしながら、ダンに言葉を返した。

「あっ、そ……そうなんですか! ならいいんです! 多分、何も心配いりません!」

「お、おう……? ならいいんだが。にしてもその……インフェルノはどこ行ったんだ? 見た感じ宿の中には……」

 ダンが不思議そうな表情を見せた後、ヒナは落ち着きを取り戻して、またにこやかに答える。

「インフェルノさんなら、シェリちゃんの所でお昼ご飯をご馳走になってると思いますよ」

「おいおいマジか、アイツ金なんか持ってねーだろ……昨日だってあんなのごちそうされたってのに」

 ダンが困った顔でそんなことを呟くと、ヒナは大丈夫ですと、やんわりダンをなだめた後で、

「いいんですダンさん、昨日の慰労会は色々と無礼講でしたし。リガスおじさんが昨日は飲ませ過ぎたから、昼のご飯はご馳走するって言ってました」

「え……いいのかよ。そりゃ助かるには助かるんだが……」

「いえいえ、そんな遠慮しないでください。よろしければ今日もゆっくり休んで、体調整えてくださいね」

「いや、そりゃわりぃさ……俺は昨日の今日で、たまたまこの宿に止まっただけの旅人だ」

「構いませんっ、私も……ダンさんがこの宿に泊ってくださる方が、嬉しいですから!」

 ヒナは笑顔を絶やさず、しかし多少焦りながら、ダンにそんなことを言った。ダンは、宿が無人な事が、とても寂しいのだろうと、ヒナの気持ちを察する。

「……いーのかそんな…………甘えさせてもらっても」

「はい、いいんです」

ヒナが、まだ旅人として心もとないダンに優しい言葉をかけるので、それを素直に感謝して、その御恩に甘えさせてもらう事にした。とても温かい人々の町だ。まだ始まって間もない旅での巡り合いに、ダンは陽だまりの中の穏やかさのようなものを感じた。

「では是非という事なので、向かいのワイルドキャットでご馳走になってきちゃってください」

 そういって、ヒナはまたほほ笑んだ。ヒナはこの短い会話の中で、ダンに何度も笑いかけた。こんなに笑顔が似合う人間もそうはいないとそんなことを思いながら、ダンはワイルドキャットへと向かう事にする。

「そうか。そんじゃ俺も、飯ご馳走になってくる」

「はい、いってらっしゃい」

 出入り口のベルがカランと鳴る音を聞いて、ダンは宿から外へ出た。それにしてもこの町に来てから、本当にお世話になりまくりだなと。そんなことを思いながら、ダンはすぐ向かいの、ワイルドキャットの扉を開いた。ガラス細工のおしゃれな扉を開くと、中には数人の客と共に、インフェルノがご飯を勢いよくたいらげていた。

「うん、うまいうまい、このハンバーグも、こっちのスパゲッティも、なかなかの美味だ。酒が飲めんのは気に食わんが、見なおしたぞ、シェリ!」

「でしょ! ウチのお父ーさん人当たりは軽いけど、料理には魂込めてんだな、これが。あ、ダンくんが来た!」

 中は、昼過ぎにもかかわらず中々の人達が料理を食していた。目で確認できる奥の厨房で店主リガスと、妻のルイシが料理を作っている。厨房手前の椅子に座りカウンターでも食べられる造りになっていて、奥まで七、八人ほどが腰かけられるように席が伸びている。後ろには長テーブルが五つ並んでいて、ド真ん中でインフェルノが堂々と料理をたいらげるのを、シェリが面白そうに眺めている。インフェルノの横には、空の食器が四、五枚ほど重ねられている。

「おう来たか少年、好きなもん作ってやるよ! さぁ座った座った!」

 あんた口より手ぇ動かしなさいよと、奥でルイシの声が聞こえた。

「そういう訳だから、好きなもん食べたらいいよ。こっちこっち!」

シェリがリガスに負けない勢いで、ダンを手招きした。インフェルノの平らげた食器の数に血の気がさぁっと引いたが、見なかったことにして、インフェルノの対面に座った。

「もぐもぐ、来たか僕……よくもまぁもぐ、昨日の今日でそんなもぐもぐ、何食わん顔を晒せるものだ、もぐ」

 インフェルノは頬張った料理で口元を丸くし、いかにも恨めしいといった表情で、ダンを見据える。

「……だから何のことだよ。ヒナにも聞かれたが、記憶が途中から曖昧で……」

「まーまー、そういうことなら。昨日のはうちのお父さんもダン君にお酒勧めすぎたし、水に流すことにしよ。それでいいよね、インフェルノちゃん?」

「まぁ、一宿一飯の恩には変えられんな。僕よ、ヒナとシェリに感謝することだ」

 何が起きたのか分からないまま、負に落ちないダンだったが、その場を丸く収めるためにダンは適当な、謝罪の言葉を告げた。

「はいよ、実際本当に助かりまくってる……てかお前、どんだけ食ってんだ、少しは遠慮しろよ。これ全部タダ飯なんだぞ?」

「何を迷い事を、遠慮するなと言っているのだからそんな心配は無用なのだ! それよりお前も、何か頼んで食べてみろ! なかなかの美味だ!」

 インフェルノが強気に進めるので、ダンも感謝しながら何か頼んでみる事にした。料理の乗ったメニュー表を見ると、インフェルノの食べているハンバーグ、パスタのほかに、カレーライス、ピザやリゾットといった、多彩なメニューが並んでいる。インフェルノの今食べているミートソースのパスタが目にとまり、ダンもパスタのメニュー欄から、料理を選ぶ事にする。

「じゃあ……ぺペロンチーノを頼む」

「ぺペロンチーノ、大盛りねっ。お父ーさん、ぺペロンチーノ大盛り一つ!!」

 頼んでいないのに大盛りをオーダーされる辺り、さすがはワイルドキャットと言った所か。ダンは苦笑いしながらも、まぁ食べられない訳でもないだろうと華麗にスルーを決め込んだ。するといつの間にかハンバーグとミートスパゲティを食べ終えたインフェルノは、またもやメニュー表から、なにか頼もうとしていた。

「おいシェリ、このタルトとはなんだ!? それにこっちのアイスクリームも気になるぞ!!」

「よぉしまとめて頼んじゃおー!!」

 一向に顔色を変えないシェリもシェリだが、遠慮をする気配が全く見られないインフェルノにダンは、保護者にでもなったような感覚で、ぴしゃりと注意を促した。

「おい、お前さすがにかまわな過ぎだぞ。次で最後だ」

「僕の身で主に口答えするか。お前は何も分かっていない……私は理想を束ねる者、望王なのだ。自身の望みにどうして逆らう事が出来る。己の願望を曲げるなど、それこそ望王の名折れではないか。私は私の思うがままを貫く事によって、この存在を全うしている。それをやってのけられるものが、一体この世にどれだけ存在する? 私のこの行いは、誇り高き所業なのだ!」

 何やらずらずらと語られたが、その望王としてのプライドの高さが、わがままのやりたい放題な態度に繋がってるのだと、ダンは実感した。意思を貫くことと、わがままを押し通す事では、厳密に違いがある気がしたが、結局はいつものようにダン自ら折れ、代わりにインフェルノの良心を刺激した。

「はいはいそうですか。でもその辺にしとけよ、このワイルドキャットを、潰したくなけりゃあな」

 最後にさらっと呟いたその言葉は、意外にもインフェルノに効いたようだ。

「う……口だけ達者な、生意気な僕が…………」

 初めから、こういう切り口で攻めるべきだったとダンは思った。いくら理想を貫くのが信念なのだとしても、貫いた理想の裏にはその代償に成りえるものが確かに存在するのだ。

「まぁ仕方ない……このタルト一皿で、手内とするか」

「あはは、今日くらいはいいかなと思ったんだけど。おとーさーん! 最後にタルト二皿!!」

 そう言ってシェリは勢い良く、またもや皿を二つにして、ラストオーダーを注文した。

 タルトを焼くのに少々の時間を要し、しばらくの雑談の後(自分達の旅の目的や、関係性を聞かれたが、インフェルノがそのままに喋るので、細かい所は誤魔化して、何とか現実っぽくした)、ぺぺロンチーノとこんがりと焼けたタルトが、テーブルの上に並べられた。ダンの前に置かれたぺペロンチーノはガーリックとオリーブの香りが、なんともいえない香ばしさを奏でている。これはうまそうだと、ダンはフォークにパスタを巻き付けて、口に含む。先ほどの香ばしさを放ったガーリックとオリーブオイルが、コショウ、トウガラシと絡み合い、素晴らしいマッチングを果たしている。にもかかわらず普通のぺペロンチーノとは、いい意味で何か一風変わった風味を感じたが、それを悟らせない辺りは流石なのかもしれない。インフェルノはタルトの一口目を食べると、これまたうまいとほおを押さえて声を上げた。まるい形の焼き菓子の上には、イチゴ、ぶどう、キウイなどのフルーツがふんだんに盛られて、鮮やかさを演出している。

「くーうまい、こんなうまいものを食べたのは久方ぶりだ!! ほら、お前も食べてみろ!」

 そう言ってインフェルノは、並べられている皿の一つをダンに進めた。ダンは僅かに驚きの表情を示し、そんなにうまいものかとタルトの一つを口に含む。見た目とは裏腹に、あっさりとした甘さが、口の中に広がる。しつこくない後味が、ダンに二つ目のタルトを誘う。ダンはもう一つを口に運び、そしてインフェルノと同じく呟いた。

「うまい……のにぜんぜん舌に飽きがこねー。なんつーか、食べる奴の事を考えられた味がするぜ」

「これまた大当たりぃ!! タルトはお母さんの得意料理なんだ!! いい味してるでしょー!?」

 椅子に座りながら跳ねて語るシェリの言動に、ダンもすぐに納得した。このいかにも好き嫌いの多そうな(勝手な独断だが)インフェルノにここまで言わせるという事は、やはりその通りに結構なお手前という事になるだろう。尖った意見として、こんな小さな田舎町に置いておくにはもったいない、とも思うダン。

「本当にうまいぜ、こりゃびっくりだ。晩飯もまた、ご馳走になるよ。もちろん次の代金はちゃんと払う」

「いいのいいの。町がこんな落ち込んでいる時に、君みたいな旅人さんが町を訪れてくれて、私もお父さんも、正直嬉しいんだよ。仕入れた食材だって、悪くなったらもったいないし」

「シェリ……」

ダンはまた、この町から恩を受けた気がした。まだ右も左も分からない、そして終わりがあるかも分からない旅路。その最中に、面識のない自分をこれほど温かく迎えてくれるこの町に、ダンは感謝するしかなかった。そしてどう受け応えればいいか分からなくなって、その後の会話を、ほとんどインフェルノに任せた。


「ふー、満足満足! たいへん美味だったぞ、シェリ!!」

「メシ、すげぇ美味かったよ……ほんと、ありがとな」

食事を済ませたダンは、モンテ一家に感謝して御礼の言葉を告げると、町を歩きながらカノンの情報を集める事にした。インフェルノの相手はまたシェリがヒナと共にしてくれるようで、本当に何から何まで助けられていると思うダンなのだった。バレーナは、やはり中継地の小さな町だとは思ったが、生活に困らない程度に、ある程度の施設や店は建ち並んでいた。ヒナの宿屋のオーベルジュ・マキノ、ワイルドキャットのような飲食店や酒場も何件かあったし、肉や野菜の市場、雑貨屋も並んでいて、靴屋、病院、教会、公共の水汲み井戸まであった。やはり中継地とはいっても、栄えていたかつての面影はうかがえて、もっと利用されてもいいはずという印象が目立った。しかし町には外から来た商人や旅人のような人間はほとんどおらず、大抵はこの町の人々のようだった。

ダンは、今の自分の使命を思い出すように手紙に添えられていたあの写真を取り出すと、手当たり次第に聞き込みを始めた。

 辺りがうっすらと夕日に照らされる頃会いになって、ダンはふぅ、と静かにため息をついた。おそらく町を一周して聞き回ったが、これといって役に立つ情報は聞き取れなかった。カノンを見かけた人は奇跡的に何人かいたが、いずれも見かけただけで、意図的な部分にははまるでかすりもしなかった。やはり無駄足だったかと、まだかすかにだるさの残る後頭部をがりがりと搔きながら食品と雑貨の物流街を歩く。するとダンは、明らかに目を引く光景に直面した。

金髪を全て逆立たせたいかにもな青色スーツの男が、部下の黒スーツ二人を引き連れ、果物や野菜を売っている商売人と何やら言い合っている。見れば金髪の男が一方的に難癖をつけているという、かなり胸糞の悪い光景で、スーツを身に着けた集団という事から例のマフィアグループに間違いなさそうだ。その粗悪ぶりから、この街に好んでスーツを着る人間は一人もいないだろうと、ダンはふとそんな事を思った。

「おいおいおい、なんだこのリンゴぁ、不味過ぎんだろ、毒でも入ってんじゃねぇだろうなぁ?」

 金髪の男が対面する商売人に向けて汚い言葉を浴びせる。男はよく見れば耳に複数個のピアスをつけ、さらに両手にはぎらぎらと光る銀のブラスナックルを握っていて、常軌を逸していることは間違いない。それを横で聞いていた部下と思われるサングラスの二人は、げらげら下品に笑った後、後に続いて下劣な言葉を口にした。

「そんなに不味いんですかぃ。おぅどういう事だ、店畳んだほうがいいんじゃねぇのか!?」

「おいてめぇ、アニキが腹壊したらどう落とし前つけてくれるんだ!?」

 子分の二人のいちゃもんに、商売人がたまったものではないと反論をする。

「ふ、ふざけるな! それは人様に売るものだ、毒なんか入ってるわけないだろうが!! あと勝手に食うんじゃない、金を払いやがれ!」

 どうやら金髪頭の男が、売り物のリンゴを勝手に齧り、文句をつけているようだ。周囲の商売人達は厄介事が飛び火しないよう、必死に怒りをこらえている。

「あぁ!? こんな不味いもん、売りもんとしてどうかって話なんだよ! そもそもてめぇの態度がクソなせいで、毒が入ってねぇか確かめる羽目になってんじゃねぇか!!」

 ダンには商売人達がこの男を忌み嫌う理由がすぐに理解できた。おそらく毎回こんなふうにいちゃもんをつけては、辺りを荒らして回っているのだろう。見れば見る程の悪態に、ダンは自分の血が煮えたぎるのを感じた。

「ぺっ、俺様にもっと良く見られたきゃ……」

「おいオッサン、このリンゴ一つ貰うぜ。代金の100アインだ」

「?? ……お、おう」

 きょとんとした表情の商人に100アインを渡して、手に取ったリンゴに、ダンは嚙り付いた。リンゴのしゃりっとした咀嚼音を響かせて、ダンは今買ったリンゴに噛り付いた。新鮮な果肉の酸味と甘みが口の中に広がる。とても、文句をつけるような味はしなかった。

「うん、普通にうまいぜこのリンゴ。これに文句をつける奴なんざ、味覚が狂ってるか頭がおかしいかのどっちかだ。気にすんな、おっさん」

「あぁ!? なんだてめぇ!?」

「お前、誰の前で物言ってるか分ってんのか!?」

 子分と思われる黒スーツ二人が、即座にダンに啖呵を切った。ダンが言い返そうとすると、間に割って金髪の男が応える。

「ははっ、何だお前……? おもしれぇ、おもしれぇなぁ、もの知らずにも程があるぜ……!!」

 男は不敵ににやりと笑みを浮かべると、ダンに鋭い視線を飛ばした。口元こそ笑ってはいるが、その目は怒りでギラギラと光っており、血の気の多い男だという事がすぐに分かる。

「知るか、んなもん。知りたくもねーよ。ただお前が呼ばれちゃいねーのは、すぐに分かったぜ。さっさと消えやがれ、皆それを待ってっからよ!!」

 高圧的な態度の金髪男に、ダンも威圧を交えて言葉を返す。エルテニア低にいたころはカノンの護衛を務めるためにと、様々な体術を叩きこまれたため、ダンは腕っ節にいささかの自身があった。

「ククッ、いいぜ面白れぇ……俺に喧嘩売ってきた奴なんざぁ、一体いつ以来だ……? 本当にお前、俺と殺り合おうってのかぁ……!?」

 表情に狂乱の笑みを浮かべて、今にも殴り合いが始まりそうなほどに、金髪男は殺気を鋭く放っていた。それを合図と判断したダンも、腰を低く据えて、身構える。一触即発の空気がその場を支配したその時、遠くから掛け声が聞こえてきた。

「あ、アニキ、こんな所にいたんですか! 捜しましたよ、町に降りて来られたんですね!!」

 金髪男に声をかけてきたのは、これまたその部下達のようだった。見れば昨日今日と見かけた黒スーツの三人組で、見間違えるはずもない。

「あぁ、そうかお前らか……チッ、せっかく盛り上がってきやがったのに、肝心な所で邪魔が入っちまうたぁな」

 金髪男はむき出しだった殺気を引っ込めると、やって来た部下達の方に向き直った。そして金髪男は、おもむろにズボンのポケットに手を入れると、チャリチャリと金属音を立てて中をまさぐる。

「くくっ、金はちゃんと支払うぜ。ほらよ、代金の100アインだ」

 そう言って金髪男は、店員の前にぎらぎら輝くメリケンの拳を突き出した後、その手を開いて、100アイン銅貨をテーブルに落とした。貨幣を目の当たりにして、周囲の商売人は、皆瞳を丸くしてしまう。

 貨幣はまるで丸めた紙屑のように、丸まって小さくなっていた。とても硬貨だとは思えない。顔色一つ使えずに、銀で出来た貨幣を容易く丸めてしまっており、相当な握力の持ち主だという事が分かる。

「ハハハ、さすがアニキィ! 超、パネェッスゥ!!」

「やっぱりこの町の凡人共とは、持ってるもんが違いますねぇ!!」

 部下たちはそう言って、金髪男を自分たちの言葉で称えた。一般人からすれば聞くに絶えない言葉だ。

「にしても赤毛ぇ……お前、普通の面してねーなぁ、まるで、俺と同じような面だぁ……」

 そう言って、金髪男は再びダンへと視線を向ける。

「そういや消えた兄貴が良く言ってたぜ。目を見りゃあ、そいつがどんな奴か分かっちまうってなぁ……不敵なその目ぇ……俺と同じ目をしてんぜ……お前まさかよぉ……??」

 ダンは金髪の男に何も答えなかった。金髪はすれ違う最後に、言葉を一つ吐き捨てた。

「クク……俺達は互いに引き寄せ合う。己の願いを叶えるために……潰し合う……!!!」

 ダンはそこで初めて、金髪男に鳥肌が立った。金髪男が最後に口にした言葉に、ダンは思い当たる節があった。しかし、今しがたの状況を素通りすることもできなかったので、ダンは結局、後悔などしなかった。


「……で? どうだった、最後の通告。あの女は了承したかぁ……?」

 金髪男は、バレーナの道の真ん中を歩きながら、少し小さめの声で、事の顛末を部下に問いかける。小柄の男が、その結果を口にする。

「いえ……これが最後だと念を押して忠告したのですが……何を言っても宿を渡すつもりはないと、その一点張りで……動く気は、全くないようでした」

「ケッ、お前らの脅しが足んねぇんだよ……まぁあんなぼろ宿、明け渡されても困っちまうけどなぁ、ハハッ……!」

 スピアの嘲笑の後に、部下達はそろって、表情を強張らせた。そして。

「……でアニキ、この後はどうするんですか? まさかいよいよ……」

「ああ、もう待たねぇ、前から決めてた事だ。それにあの赤毛のヤロォ……面白い目をしてやがった……楽しみで仕方ねぇ……クククッ…………!!」

 スピアはその身を狂気で染め上げて、あたかも当然のように、歪んだ笑みで宣言をした。


「ぶっ壊すぞぉ、あの宿っ…………!!!」


 ダンは町を歩きながら、先ほどのことを思い返していた。さっきの金髪の男は、明らかに只者では無かった。もしもあの男が本当に命題者なのだとすれば――ダンは、一刻も早く宿に帰るべきだと、焦燥感に駆られた。まさにその時、それは起こるべくして起こった、ダンに考えられる最悪の展開だった。


「「「「「――ドォォォン!!!!」」」」」


 とてつもなく巨大な轟音。炸裂音。破壊音。そんな言葉では表しきれないような、町中の全てを振り向かせる音が、ダンが今まさに歩もうとした方角から鳴り響いた。

なにも考えずにダンは、ほとんど衝動で町を駆け抜ける。人通りの少なかった先ほどの町並みは、大勢の人達で埋め尽くされていた。町の人々の様々な雑音が、聞くまでもなく耳に入ってくる。そして遂に視界に現れた目の前の光景に――ダンは愕然としてしまった。

その光景を、受け入れる事が出来なかった。一番最初に頭に浮かんだのは、この場所で、この宿で父の帰りを待ち続けると強く決意した、昨晩のヒナの姿だった。

はがれたレンガが無残に地面に転がり、崩れ落ちている。異様なことに宿は真正面から、一撃のもと垂直に、上から叩きつぶされてしまっていた。ダンの瞳に映ったのは、ただ大破して木々の骨組みがむき出しとなった、宿屋オーベルジュ・マキノのその亡骸だった。


『……ねぇ、おとーさん、わたしおかーさんに、合いたいよ。夢の中では、合えるの。でも夢が覚めると、消えちゃうの……おとーさん、おとーさん……うぅ……えぐっ…………ひっく…………』

『……ヒナ、お母さんはね、夜の空の、お星様になったんだ。あのお星様になって、私達を見守ってくれているんだよ』

『そんなの嫌だよ! お星様になんてなんなくていい、お母さんは、お母さんのままがいい!!』

『それはきっとお父さんも、お母さんも……きっと同じだよ。でもねヒナ、お星様になったお母さんはもう、お母さんに戻る事はできないんだ。それにきっと、ヒナと同じくらいか、それ以上に辛い思いをしてる。だからねヒナ、お母さんに悲しい顔を見せちゃダメだ。お母さんはいつも、お父さんとヒナを見てるから』

『ヒナには見えなくても……おかーさんから、ヒナは見えるの……? おかーさんも悲しいの……? それじゃあヒナは、どうすればいいの……??』

『ヒナ……下を向いて泣いてばかりいても始まらない。そういう時こそ、上を向いて笑ってやろう。夜空のお母さんに、ヒナとお父さんの笑顔を見せよう』

『……笑えばいいの……? そうすればおかーさん、喜んでくれるの? 悲しんだり、しなくてすむの……?』

『ああ、そうだよ、笑おうヒナ。そうすればお母さんも、きっと笑ってくれるから……』

『……分かった、ヒナ、これからは笑うよ。泣きたくなっても笑う。ひへ……おとーさんどう? ヒナちゃんと笑えてるかな。おかーさんもちゃんと、笑ってくれるかな……??』

『ああ、必ず笑ってくれるよ。きっとお母さんも……笑顔でっ……』

『変だよおとーさん、どうして笑いながら、泣いてるの? 笑うんだったら、笑顔でいなきゃ……』

『ううんヒナ、笑いながらなら、泣いてもいいんだよ……これは……笑い泣きって言うんだ……』

『……そうなんだ、泣いてもいいんだ。じゃあヒナも、笑いながら泣くっ……ひぐ、うぐ…………にへへ………………』


宿が破壊され、粉々になって、真っ白になったヒナの頭に浮かんだのは、父ミラン・マキノの、自分を勇気付けてくれた、あの時の言葉だった。幼少期に大きな悲しみを味わったヒナには、人の心が悲劇によってどれほど傷つくのか、それが痛いほどよく理解出来た。

「くそ……チクショウ……!! スピアファミリー!! あいつら、なんて事を…………!! もうこのままじゃおけねぇ!! ただじゃおかねぇ……!! もうあいつらを……潰すしかねぇ!!」

 リガスは怒りと悲しみを混同させ、スピアファミリーへの憎しみを露わにしていた。妻のルイシは、宿にまとまっていた三人の無事を確認して、一先ず胸を撫で下ろす。

「良かった無事で……奇跡ってのは、こういうことを言うんだね……」

 腰が砕けてかヒナとシェリは、地べたにふさぎ込んだまま座っている。その横でインフェルノは、暗い表情のまま下をうつむいて立ち尽くしていた。幸い、大事には至っていないようだ。

「私は大丈夫です……シェリちゃんと、インフェルノさんは大丈夫ですか?」

「私は、右肩を少しかすった程度……だけど、そんなに大きな傷じゃないから……インフェルノちゃんは……?」

「ああ、私も問題ない……ひとまずは、全員無事でよかった……宿をここまで壊されてかすり傷程度で済んだのは、奇跡に近い……」

 そう口にしたインフェルノに、シェリが言葉を返す。

「うん……全員無事で済んだのはインフェルノちゃんがとっさに叫んだ声で、カウンターの下に隠れられたからだよ……でも、一体どうして……」

「細かい話は後でもいい……そうかお前も、一先ず無事だったようだな」

 そう言ってインフェルノが、立ち尽くすダンに気付き声をかける。ダンは言葉に詰まった後で、インフェルノの前に歩み寄り、かすれた声で何とか言葉を口にした。

「………………何があったんだ…………!?」

 そう言い放った直後に、下をうつむいていたヒナと目線が合った。合って、しまった。

「ヒナ…………」

「…………ダン……さん」

ダンは、ヒナにかける言葉が見つからなかった。それ程に、ヒナがこの宿を大切に、心の支えに、希望にしていたのが、この数日間で痛いほどよく分かっていた。

「……ごめんなさい、ダンさん……」

この事態に、どうしてヒナに謝る言葉が必要だろうか。誤ってどうこうの問題ではないが、例えば今の謝罪は、その時ヒナのそばにいられなかった自分が告げる言葉ではないだろうかと、思考が揺らいでしまうダン。なぜヒナの口から出てくるのか、ダンには不自然で仕方がなかった。

「……なんで、謝るんだ……ヒナ」

ただ一言、疑問を短くつぶやくダン。するとヒナはまた下を向きふさぎ込んで、小さく、震える声で呟く。

「……今日も、一日……泊っていただくっ、お約束でしたのに……ごめんなさい…………」

そんな言葉を告げる必要はない。それはヒナのせいでは無い。謝る理由などどこにもない。ダンは、目の当たりにしている理不尽な現実に意識を酷く苛まれた。けれどヒナは、自身の義務、使命感から、その言葉を続けた。今にも消えそうな声で。せめてあの、父の言葉を身にまとって。


「………………宿屋、壊れちゃいました………………」


ヒナは精一杯の笑顔で呟いた。笑顔は、笑顔と言うにはあまりに苦しく、悲しそうで、そして今にも崩れ落ちそうだった。ダンは、心の内が酷く締め付けられるのを感じた。必死に作られたヒナの表情は、その笑顔は。あの日ダンの前から姿を消す寸前の、カノンの笑顔に、酷く似通っていた。



■第四章


悲劇の一部始終、そのいきさつを、インフェルノはダンに淡々と語った。

「……事が起きる直前の一瞬……私がそれを感知し、三人とも咄嗟に身を伏せた。それが幸いして、この軽傷で済んだ。どうやってここまで宿を壊してのけたのかは分からん……一撃でこのざまだ。言うまでもなく、やったのは例のスピアファミリーだ。宿を粉々にした後、ボスのスピアは、住民に大きな声で二択を告げ去っていった……!」

「二択……?」

「ああ、奴らのボス……スピアとやらが、お前がやってくる少し前に、この破壊した宿の前で叫び散らしていったのだ」

 インフェルノは表情に明らかな嫌悪を見せながら、説明を続ける。

「5000万アインの寄付金をファミリーに納めるか、町の破壊かという、理不尽な二択だ。期限は明日の夕刻までだと……おい大将、仮に明日の夕刻まで5000万アインを収めることが、この町に可能なのか??」

 インフェルノに問われるとリガスは、瞳を閉じながら、険しい表情で首を横に振った。

「そんな大金を、この小さな田舎町に用意できるはずがねぇ。しかも夕刻までなんざ、時間が足りな過ぎる。どう考えても500万アインをかき集めるのがやっとだ……桁が一つ足りねぇ……!!」

「知ってか知らずしてか、そんな無茶な要求をこの町に迫るなど、全く持って気に食わん。どの道、頭の回らん単細胞のようだったが……タチが悪いのだ、バカが力を持っているというのは」

 インフェルノがスピアの悪業を罵った後、ダンの背後から、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

「なんと宿が!! これは一体、どういうことだ……!? 誰か説明してくれ……!!」

 町長ブラウンが、血相を変えてこちらに駆け寄り、リガスと話を始めた。事の真相を知ると、ブラウンの顔はどんどん青ざめていく。

「……無茶苦茶な……そんな大金、この田舎町にはありません…………!」

「ああそうさ、あのスピアのくそ野郎は、初めからこの町を壊して、恐怖で抑圧する気だ……! 町の男たちを集めるんだ、もう俺達で、スピアファミリーと戦うしか方法はねぇ…………!!」

 リガスの言葉を聞いた後、ブラウンは一瞬たじろいだ。それを決行した後に、双方に甚大な被害が生まれる事は、考えるまでもなく明らかだ。リガスは相当頭に血が上ってしまっているのだろう、後のことまで考えられる心境ではない。

すると住民の一人、ダンと歳が変わらないくらいの若者が、リガスとブラウンの会話に口をはさんだ。その表情は、恐怖で恐れおののいていた。

「な、何言ってんだ、俺は見たぞ……!! スピアが呼び出したあの怪物が……宿を叩きつぶした所を……!! あんなの、人の手でどうこう出来る代物じゃない!!」

 若者の後に続き、僕もみた、私も……と、次々に住民がわめき声を上げる。やはりボスのスピアは、いよいよ常人ではなさそうだった。

明らかに常軌を逸した今しがたの惨事に、混乱し慌てふためく町民たち。5000万アインの寄付金など目に見えて不可能だと分かり切っている人々は、町の崩壊が明日の夕刻迫っているという状況を受け入れられるはずもなく、みなパニックに陥っている。しかしそんな人ならざる力を目の当たりにして、ダンはやけに頭が冴えわたっていた。そしてインフェルノとどちらともなく視線を合わせると、ダンは彼女に問いかけた。

「おい、スピアってのは、頭の金髪を全部かき上げた奴だな」

「ああそうだ……お前も奴に会ったのか?」

「ついさっきな……じゃあ、スピアは俺と同じ……」

「無論、疑うはずもない。ファミリーボスのスピア、奴は間違いなく命題者だ。テーゼの気配を消せない分まだ拙いが……格上だ。まだ成ってまもないお前よりは明らかにな」

 インフェルノは崩れ去った宿に目を向け断言すると、ダンを見上げて言葉を続けた。

「……それで、どうする? 人ならざる力を持った命題者に、この町の者たちが対抗する事など不可能だ。この状況で奴に挑めるのは同じ命題者のお前のみだが……勝てる見込みはほとんど無いだろうな」

「……な…………そんなに歴然なのか」

「そうさな……今仮に、お前が扱えるテーゼの値を1000としよう。そうした時、あ奴のもつテーゼの値は30000,いや、50000とみるべきだ」

 インフェルノが断言した力の差はダンを失意の底に叩き落とした。いくら命題者といえど、実戦経験皆無のダンが闘いに勝つ見込みはほとんど無いと。インフェルノはそう言いたいのだろう。その辺りの事は、頼みの綱のインフェルノからも、ほとんど教えられていなかった。

どうしたものかと地面を見つめると、一枚のバンダナが目元に落ちていた。ダンはおもむろにバンダナを拾い上げる。見覚えのある赤と緑のチェック柄は、間違いなくヒナが頭に巻いていたものだ。

どうすればいいか分からなかったダンは、再びヒナの方に視線を向ける。おそらく、バンダナに気を配る余裕もないのだろうと。しかし、ダンの瞳に映るヒナの表情は、予想と異なるものだった。

ヒナのその態度は、逆にダンの神経を逆なでした。――ヒナは、なおも笑っていた。周囲の不安と緊張を少しでも和らげるために。私は大丈夫です、ぜんぜん平気ですと。そう偽って、必死に感情を押し殺しているように映る。ほかの幾人ほどがその真意に気付けるだろうか、心配してヒナに歩み寄って来た周囲の人間は、無事でよかった、気を落とさないでねと、思ったよりも平気そうなヒナを慰めている。平気であるはずがないと、ダンはその光景に納得など出来なかった。スピアファミリーへ向けた態度や、町の人々に応援され、強くあろうとしたヒナが、どれほど宿屋に思いを寄せていたのか。たった一日宿に泊まっただけのダンにも、その心情は明らかだった。ヒナが今失ったものは、そんな簡単に諦められるようなものではないと。割り切っていいものなどではないのだと。そしてダンは、それ以上考えるよりも先に、言葉が喉を通っていた。

「なにへらへら笑ってんだヒナ……宿が壊されたんだぞ……お前の宿が……とーちゃんの帰りを待つ場所が……!! お前にとってこの宿は……そんな程度のものだったのか……!?」

「ちょっとダンくん、何言って……!」

 とっさに反射したシェリを含める周囲の人間は、ヒナを責めるダンの言葉に騒然とする。しかしそれでも、ダンは問わずにはいられなかった。ヒナの真意を。胸の内の言葉を。聞かずにはいられなかった。

ヒナはダンの言葉を聞いて、悲しげに瞳を大きく見開いた後、一度下をうつむき、はい、ですが……と短く言葉を呟いた。

「……もう宿はありません。今まで私が願ってきたものも、全部この宿と一緒に壊れました……だから、いいんです。私きっと…………なくす事には、慣れてますから…………」

 そう言ったヒナの口から出てきたのは、望みを捨てるしかなくなった諦めの言葉だった。ひび割れたガラスのような笑顔など、笑顔と呼べるはずもない。それを聞いたダンの心境を、なにかに握りつぶされるような、えぐり取られるような強い苦しさが襲う。そしてダンはその心の内に、強い決意の炎を灯す。

「ああそうかよ。じゃあ俺は……何が何でもこの宿に、今日一日の使命を全うしてもらうぜ……!!」

「…………? 無理ですダンさん、宿はもう壊れて……」

「壊れたんなら、直すまでだ。おいオッサン、ファミリー達のアジトはどこにある?」

「この町を北にまっすぐ進んだ森の中だが……お前、まさか一人で乗り込むつもりなのか!? やめとけ、これはバレーナの町の問題だ、旅人がどうこう首突っ込む話じゃねぇ……!!」

 リガスはアジトの居場所を聞かれるまま答えたが、ダンが今から行おうとしている事に気付き、それを止めた。そして同じくダンの思惑を聞き、ヒナもダンを止めようとする。先ほどとは打って変わって、落ち着いた態度を一変させる。

「そんな……やめてくださいダンさん……! 私はもう、誰にもっ……!!」

しかしヒナの警告は、もはやダンの耳には入らなかった。ダンは落ち着いた口調で、ヒナに言葉を返す。

「……何を言ったって、このままじゃ明日の晩には町は壊れちまうんだろ。それは俺にとっても、この上ねーほど最悪だ。それに……あいにく俺も、普通の人間じゃねぇんだ……覚えてるよな、ヒナ」 

 そう言ってダンは、ヒナに力強く笑いかけた。昨晩の、星を見ながらほほ笑みかけたヒナの笑顔を思い出して。もう一度、あの夜のヒナを取り戻すために。

「だめです、そんな……ダンさん!!」

「行くぞインフェルノ。お前には少ない時間で聞かなきゃいけねー事が、山ほどある……!!」

 ヒナの言葉を振りきってダンは、インフェルノに意識下で言葉を送った。インフェルノはその言葉に、呆れながら言い返す。

「全く、熱に任せ動く無謀な奴よ。お前もあのスピアに負けず劣らずの単細胞だな」

「だめっ……待って、ダンさん! インフェルノさん!」

 ヒナはなおもダンの背に声を浴びせたが、ダンは決意を曲げず、インフェルノと共にバレーナの街を北に向かって走り出した。走りながらヒナのバンダナを右手で握りしめたままだった事に気がついたが、かならず返すと心に決めて、バンダナを衣服の右ポケットにしまう。    

逃げるだけなら誰にでもできる。自分には関係が無いからと、今すぐにでも町を旅立つ事は酷く容易である。しかしそれは命題者となった自身の意に反した行為だろうとダンは思った。  

ワイルドキャットから一食の恩を、ヒナから一泊の恩を受けたダンは、一日足らずでとても大きなものを貰ったように感じていた。バレーナの町がまさに危機に陥ったこの局面で、それを強く実感した。

ダンにとって目前の理想。それはバレーナの町の人々が誰ひとり犠牲にならずに、スピアを倒し、そして壊れた宿を元に戻すこと。それこそまさに、この町が辿るべきシナリオだと思うのと同時に、それ以外の展開をダンが受け入れられるはずもなかった。

死からの生還を果たしてしまったダンは、己以外のすべてを失い、実際のところ、自分の存在意味を大きく見失っていた。だからダンは、唯一の答えを知る人物、カノンの思惑を知る為、真意を問いただす為に旅立った。

そしてダンは、このバレーナの町にたどり着き、宿娘ヒナの、ひたむきに父を待ち望む姿を垣間見た。それは奇跡を願うような、ほんの一縷の望みだった。それでもヒナの希望を捨てず待ち続ける意思や、宿を無償で提供してくれた優しさに、ダンは支えられたような気がしたのだ。しかし彼女のシンボルともいえる宿はスピアによって壊され、ヒナは今深い悲しみの中にいるのだろう。そんな彼女に、今自分が出来る事――それは奇跡を起こす事だと思った。人であり人でない命題者の自分には、それが出来るはずだと。それを確かめる為にダンは、町を出た後で意識下に潜んだインフェルノに問いかける。

『おいインフェルノ。壊されたヒナの宿屋、あれをテーゼの力で、直す事は可能だよな?』

『そうだ、あの類の時間と労力を使って人の手で修復する事の出来る物質は、問題なくテーゼの力で再生できる。まぁ今のお前は、その低度のテーゼも持ち合わせてはいないがな。だとすれば方法は一つ、あのスピアとか言う単細胞を倒しテーゼを奪い取ることだ。お前が奴に打ち勝てば、あの宿を直す事など容易な程のテーゼの力が手に入るだろう』

 インフェルノはダンにすらすらと説明を述べた。ダンは軽快な足取りで夜風をかき分けながら、意識下でもう一度インフェルノに聞き返す。

『本当に、あの宿を壊れる前の状態に戻せるんだな?』

『何度も言うが、お前達命題者は既に人であって人でない。命題者としての契約を結んだ時点で、お前の体を構成する物質は肉や骨ではなく、テーゼの力へと移り変わっている。経験値ゼロの貴様の体を構成するテーゼだけでも、あの宿をあと五回壊して、五回再生するくらいのテーゼはあるだろう』

『そうなのか。五回壊して、五回再生……ってどうなんだそれ? 俺の価値、案外安くないか? 今の俺の命って、そんくらいのもんなのか』

『どう受け取るかはお前次第だ。そしてその身にしかと刻み込んでおけよ。命題者同士の闘いは、自身の肉体を形成するテーゼの奪い合いである――スピアは何の躊躇もなくお前を殺め、お前の存在をテーゼとして奪い取ろうとするだろう』

『…………っ』

ダンはその身に多少の痺れを覚えた後で、自分のやるべき事が分かりやすくまとまったので、わりと嬉しそうに答える。

『ああそうかよ、けどそれ聞いて安心したぜ。スピアを倒せば、あいつのテーゼを使ってヒナの宿を直せる。町も救われて活気が戻る。一石二鳥だ』

『ふん、なにを嬉しそうに浮かれているのだ。どちらもお前がスピアを下せればという話だ。初めに言っておくが僕よ、私が自らの力を振るい助力するなどと期待はするな……私がお前にしてやれる事はお前へのささやかな助言と、補助程度だ』

 インフェルノもダンがスピアを倒す事には賛同の意を示したが、自ら手を加えることはないだろうと、警告を促した。浮足立っていたダンは、その意図が分からずに、インフェルノに問いかける。

『なんだよ、お前だって当然スピアファミリーは気に食わないんだろ? お前が戦えば勝ち目だって見えてくるだろ。お前はテーゼを支配する者、望王なんじゃねーのかよ』

『――それとこれとは話が別……これは報いだ。愚かな、私自身への……』

 インフェルノはすでに心に決めているというように、静かに、そして少々悲しそうに答えた。最後になんと呟いたのか、ダンには上手く聞きとれなかったが、やはり自分がやるしかないのだと、気を強く引き締めた。

『分かってる、これは俺が決めた事だ。何も、お前を頼みの綱にしちゃいねーよ。けど今すぐに、頼まなくちゃならねー事がある。俺に命題者としての、戦う術を教えてくれ……!!』

『そんなことも知らずに、よく飛び出せたものだ。本来ならば、自身を命題者に変えた者に教わるのが道理のはずだ。全く、世話が焼ける僕よ』

 インフェルノはまた少々あきれた様子だったが、しかしそれでいて頼もしい口調で、ダンに説明を始めた。その間もダンは暗くなった辺りを気にも留めず、北の森を目指す。町を抜けてから少し時間が経ち、草原を駆けている所だ。目を凝らすと月に照らされた木々が遠くに立ち込めているのが分かる。

『まず初めに聞こう。僕、貴様の契約能力は何なのだ』

『契約能力? なんだよそれ』

『な……貴様、自らの能力も知らんのか!? ……そんな状態で、勝負になる訳があるまい……白旗を上げよ』

 インフェルノは意識下でひどく驚いた声を上げた後、呆れたように意気消沈した。こういう時に余計な反応だと思ったが、その思いを深く胸の内にしまい込み、できるだけ平静を装って、素直にインフェルノに説明を求めた。

『まっ待て、仕方ねーだろ。ほんとにカノンからは、なに一つ聞いちゃいねーんだ。どうすればいいんだよ、その能力を使えるようになるためには』

『どうもこうもあるまい。契約能力とは本来、契約を済ませた直後から、命題者のその身に宿る能力だ。何もこれといって、特別なことをする必要などない』

 インフェルノは未だ呆れ半分に、ダンにその事実を告げた。しかしダンには特別な能力など、何一つ備わった覚えはない。このままでは本当に、勝負になるのかも怪しくなってきたので、ダンは多少焦りながらインフェルノに助言を求めた。

『な……じゃあ一体どうしろってんだよ……!? 何か方法はねーのか、頼むぜ望王様……!』

『だから私に力を求めるな、なにも知らずに飛び出したのはお前の方だろう! いいかよく聞け、契約能力とは命題者自身が、本質的に求める願いを備え付ける力の事なのだ! 思い出せ、お前が命題者となった時、望んだ事は何だ、お前は一体何を叶えるために命題者となった? その根本にあるものを考えろ……!』

 いきなり難題が、ダンに飛び交ってきた。それは何のためこの世に呼び戻されたのかも知れないダンにとって、困難な問いに違いない。しかしまずは自身の異能を見つけ出す事が第一条件だと思ったダンは、必死に心の内で、自分を見つめ直した。

(俺の目的……それはカノンに、俺が生き返った本当の意味を問いただすため、そしてカノンの行いを見極めるため……分かんねー、それを遂げる為に、俺自身が強く望んだことは何だ……!?)

『どうなのだ僕、なにか心当たりはあったか?』

『くっ……なぁおいインフェルノ、お前は……』

 どうしていいか分からずに、とっさにダンはインフェルノにアドバイスをもらおうとした。そして半端に語りかけた所でダンの頭の中に、インフェルノの色の赤と共に、閃きが走った。

「――そうか、お前は……炎の望王だったよな……!!」

 ダンはとっさに勢いづいて、インフェルノに言葉をかけた。ダンにつられてインフェルノも、軽やかな口調で聞き返す。

『どうだ僕、見当がついたか!?』

『ああ、そうだ……! おそらく俺も……!!』

 ダンは確信を抱いた。記憶の隅に避けていた、印象的な記憶を。ダンはカノンと契約を交わし命題者となる直前に、確かに連想したイメージがあった。かつて自分が命を落とすその瞬間まで、この身を焼いていた灼熱――。その灼熱が決意を灯す炎となって、自身を命題者にしたのだと。ダンは今、まさしくそれを思い出した。

『よし、なら今度はそれを強く連想しろ……! 強く思い描く事、それが理想の原点だ……!!』

『おう、分かった……!!』

 そしてダンは、イメージを固め集中する為に、一端足を止め、呼吸を落ち着かせる。森に入って、幾分か進んだ所だろうか。月明かりは木々で遮られ、光はほとんど入らない。するとインフェルノが、実体化の過程で炎と化し、一瞬辺りが明るく照らされる。その後インフェルノが少女の形を形成すると、また辺りは暗く染まったが、出来る事なら炎で視界を照らしながら進みたいものだとダンは思った。

「やってみろ、私もここで見ている! 大切なのはイメージだ! 自らの意識の内に、炎を思い描き、具現化してみせろ!!」

 ダンはまた呼吸を整えて、そしてインフェルノの言う通り、赤く燃える炎を連想した。先ほどインフェルノが現れたときのように、一辺を明るく照らすイメージだ。

 それは一瞬の短い間だった。しかし確かに、ダンの直視した数歩先に一瞬、不自然に発火が起きる。一瞬だけ、また辺りが照らされて、そして消えた。

「今のは……違う、まずは集中しやすいように手のひらの上でだ! 出来れば強いイメージの方が最初は具現化しやすい。例えばその身を焼くような! もう一度やってみろ!」

「ああ、分かった……!」

 相変わらず上から目線の強気な態度だったが、今はそれすら頼もしく思った。そして目を閉じ心を落ち着かせると、実際に死に際で我が身を焼いたダンは、あの忘れもしない、灼熱の業火を頭の中で思い描いた。そして次の瞬間、インフェルノの、甲高い声がまた耳に入って来た。

「おお、やれば出来るではないか! 見ろ、それがお前の能力だ!」

 インフェルノが言い終わるよりも早く、ダンはほとんど反射でその瞳を見開いた。自分の右の掌の上には、片手サイズの火の玉が、発火源もなくめらめらと燃え周囲を照らしていた。

「うおっ、あつ……、熱くない……?」

 一瞬たじろいだダンだったが、手のひらの火の玉から、熱は感じなかった。また火傷の様子もない。インフェルノは、ダンの創り出した火の玉を見つめながら、落ちついた口調で説明をした。

「お前の能力は、炎を操る力だろう。炎を受けても熱さを感じずに、また自在に炎を発火したり、消火したりすることができる。基本的には、そういう能力だ」

「何だ、やけに詳しいな。さすがは炎の望王様ってとこか?」

 ダンが知らぬ自身の事を、傍らでスラリと説明してみせたので、思わずダンは感心してしまった。そしてインフェルノは間髪入れずに、

「さぁ、お前の炎をその辺りの草原に発火させ、その後で消化してみせるのだ。その程度であれば、すぐにでもできるだろう。やってみろ」

「あぁ、分かった――」

 ダンは目と鼻の先に見えた草花にイメージを集中させ、そして発火をしてみせた。見事草花に火が付き、赤くあたりを照らしている。めらめらと揺らいでいる。

「ふむ、ちゃんと引火しているようだな。相応に熱があって、勢いもよく燃え――ん? 燃え……」

 インフェルノが抱いた違和感は、ダンにも察するに余りあるものだった。引火した草花とその周辺は、ダンが火をともす以前から、状態にまるで変わりがない。

「おい、まじめにやらんか僕よ! 全然燃えてないではないか! これでは呆れてものも言えんぞ!」

「ぐっ、んなこと言ってもだな……あれこれ燃やすとこまでイメージしなきゃいけねーもんなのか? 火は付いたら、勝手に燃えるもんじゃねーのかよ?」

「ふむ、お前の言っていることもまた道理……なにかカラクリがあるのかもしれん」

 ダンが灯した炎を少しの間眺めた後、インフェルノは一寸先ほどにある枯れ木を指さしながら、ダンに新たな指示を出す。

「今度はあの枯れ木の枝の先に、また火を灯してみろ。私の直感が正しければ……」

 言われたとおり、ダンはインフェルノが指定した枯れ木の先に自らの火を灯す――が、やはり変化の様子は見られない。

「ぐぬぬ……てんでよく分からん能力を身に着けおって……これではここから前に進めんぞ……」

「おいおい頼むぜ、お前だけが頼みの綱なんだからよ」

「そうはいっても……では私の付けた歯形にでも炎を灯してみろ」

「あぁこれか、俺たちが宿に初めて足運んだときお前に噛まれた……」

ダンは自分の左手の甲にくっきりと残る歯形に険しい視線を向けながら、言われたとおりに能力で炎を点火した。それで何が分かるのかと、半信半疑だったが、

「……――!! 火をつけた手の甲から、歯形が消えた!? おい、インフェルノ……!」

「うむ、まさに枯れ木に花――そういうことか。ダン、お前の能力は状態回帰の炎――幻獣・不死鳥(フェニックス)がもつ特性のそれだ」

「なっ、不死鳥ってーとアレか? 全身が燃えてるみてーに真っ赤で、死んでも生き返るっていう空想上の……」

「厳密にはテーゼの光の影響を受けて形態変化した鳥類……人間以外の生物だ。これを私たちは幻獣種と呼ぶ。命題者であれば眷属として従えることも可能だ。また、命題者自ら創造することもできる」

「本当にお前から聞かされる話は、耳を疑うやつばっかだな……本当にそんなのが実在するっつーのかよ」

「幻獣種と呼ばれる生き物は、めったに人前に姿を見せん。また、常人では肉眼で捉えることも難しい場合がほとんどだ。すでにテーゼの光で身体を構成しているお前は、その限りではないがな。命題者として生きていれば、出会う機会もあるだろう……話がそれたか」

 インフェルノはこほん、と一息つくと、ダンが命題者として備えた能力についての説明に話を戻す。

「僕よ、その能力は炎を扱える力に違いないが、お前が生み出す炎は自分自身の治癒、回復に特化した特異な炎だ。攻撃に用いても、その実ほとんど効果はないだろう。敵へのけん制や威嚇程度のものだと考え、油断はするなよ」

「そうなのかよ、もっとこう、戦闘用に尖ったやつを期待してたんだが………まぁ、腕っぷしの強さにはある程度覚えがあるけどよ」

その後インフェルノはダンに言葉を返さずに、照らし出された淡い夕闇の中、ダンの作った火の玉を物思いに見つめていた。安堵したような、それでいて少し悲しそうな表情で、聞き覚えのない言葉を呟く。

「まさかとは思ったが、よもや本当に炎の命題者だったとは……本当に、うんざりするほど似通っているわ…………」

「……おい、何の話だインフェルノ?」

 ダンがもう一度言葉をかけるとインフェルノは、一瞬はっとして大きな瞳を見開き、そして我に返った。そして一度小さくふんと呟くと、難しそうな表情で答える。

「お前が気にすることではないわ。ふと昔の事を思い出していただけだ……それよりも北上するたびにテーゼの気配が濃くなっていくのを感じる。ここをまっすぐ進んだ先に、スピアがいるだろう」

「そうなのか、とうとうこの先に……」

 唐突に話を変えたインフェルノの真意が気になる所だが、ついにスピアの根城は目前のようだ。ダンは自分の心臓が鼓動を強めていくのを感じた。やはり未知の脅威に多少の懸念は感じる。しかしスピアに対抗出来るのはあの街で自分だけなのだと、そう自らに言い聞かせて気を引き締めた。

インフェルノは、スピアファミリーとの戦いが待ち受けるダンにせめてもの手ほどきをする。

「炎を具現化できたのなら、後はしだいに慣れるだろう。ファミリーの館とやらに着く前に、様々な場所へ炎を発火させ、消火するのを繰り返せ。大小様々な炎を具現化させて、操ることに慣れるのだ……!」

「おう、分かった……!!」

 インフェルノのアドバイスは、手慣れているというか分かりやすく、さすがは炎の名を冠するといった所だろう。助言を頼もしく感じたダンは、炎の発火と消火のイメージを繰り返しながら、目的地へとへと足を進めていった。


「ねぇお母さん、本当にダンくんに……任せてしまって良かったのかな……」

 シェリはワイルドキャットの店内で、テーブルに肘をつきながら、カウンターに座るルイシに意見を聞く。シェリの隣にはヒナが座って、うつむかない顔でふさぎこんでいる。

「…………そういう訳にもいかないだろうね、通りすがりの旅人に、この町の命運を背負わせちまってるよ、あたしたちは。今お父さん達が村の人達を呼び集めてるから、ある程度の人数がそろい次第、ファミリーのアジトに向かうことになるだろうね……それまであの旅人さん、無事でいてくれるといいんだけど」

 そうだねと、シェリがルイシに賛同して、また店内に沈黙が流れる。その会話もろくに耳に入らない程、ヒナはダンの身を危惧していた。彼を止めなくて良かったのかと。すでに終わってしまった自分の願いの為に、誰かが犠牲になることを、何より恐れていた。

(私の事なんて……諦めてくれれば、それでいいのに……それで済むのに……!!)

 宿は治る。それはいつになるのか、どれほどの金額になるかも分からないが、そうやって、直す事が出来る。しかし、人の命はどうだろう。どれほどの時間、経費を持ってしても、取り戻す事など出来るはずもない。母、そして父をも失ったヒナは、それを酷く思い知っていた。  

旅人としてこの宿に訪れたダンさんは、自分の命を賭してスピアを倒し、恐らく何かしらの特別な力で、宿を直そうとしている。確かに、宿が元通りになってくれるなら、どれほど自分は救われるだろう。しかし、その願いのために人の命が秤にかけられるなど、まるで釣り合っていない。誰かの命を危険にさらしてまで宿を取り戻したいなどと、ヒナが思うはずもなかった。確かにこのまま何もせずに時が過ぎれば、この町はスピアファミリーに壊され尽くしてしまうかもしれない。しかし、旅人としてやってきただけの二人が、通りすがりの町の問題に命をかけるのは、やはり間違っていると思った。そんなことを何度もぐるぐる頭の中で考えながら、自分はどうすればいいのか、ヒナはそれをずっと考えていた。

「ヒナ、大丈夫……? やっぱりまた、顔色が……」

「……ううん、私なんて、これからスピアファミリーと戦おうとしてる、リガスさん達に比べたら……」

 そして何より、ダンさんと比べて。私は何をこんな所でちぢこまっているんだろう。私以上にたくさんの人達が、私と私の宿の為に、困難に立ち向かおうとしてくれているのに。私も、何かしなければいけない。ヒナは、そんな使命感に駆りたてられた。

「シェリちゃん、ルイシさん、私ちょっと……外の空気吸ってきます。宿の様子も、もう一度見てきます」

「え、大丈夫ヒナ……? それなら私も……」

「ううん、大丈夫だよシェリちゃん。軽く、様子を見てくるだけだから」

 それならとルイシは、ヒナに明かりの灯った小型のランプを手渡した。暗い夜道を歩く時には、あればだいぶ重宝する。

「早めに戻ってくるんだよ、ヒナちゃん」

「ありがとうございます、すぐ戻ります」

 そう言ってヒナは、ワイルドキャットの扉を押し開いて、店の外に出た。そしてちょうど向かいに見える、宿の残骸を見つめる。まるで自分の体の一部が壊れてしまったかのように心が痛んだが、昼間の出来事が嘘ではなくて、受け入れなければならない現実なのだと、そう自分に言い聞かせ、現状と向き合う。

「二階建ての宿を粉々に……一体、人がこれをどうやって……」

 ダンさんが身を乗り出したとなると、ファミリーのボス、スピアもダンさんと遠からずの何者かなのだろうと、ヒナは予測を立てる。そしてふと、町の人達が昼間、宿が壊された後に、騒ぎの中心にしていた話題を思い出した。

――人でない怪物をスピアが呼び出して、この宿を壊した。

 それは本当なのだろうか。見間違うことなどないだろうが、そんなものが現実に現れるなど、まるで実感が沸かなかった。しかしその怪物が、僅かな時間でこうも宿を粉々にしていったのだとしたら、それは真実だろうと思えてしまう。

スピアがこの破壊をやってのけたのだとして、ダンさんはそれに対抗する事ができるのだろうか。そう考えると、悪い予感ばかりが頭の中に浮かんでしまう。インフェルノさんも付き添っていはいたけれど、やはり二人でスピアファミリーのアジトへ乗り込んだのは、無謀でしかない。せめて、リガスおじさんたちがアジトへ出向く準備をしていることを知ってもらいたいと思う。

「シェリちゃん、リガスおばさん。ごめんなさい、私……ダンさんを追います……!」

 ヒナはほとんど、衝動的に走り出す。

もうダンさんは、スピアと戦っているかもしれない。自分が行った所で、足手まといになる事は目に見えている。それでもヒナは、足を止めずにはいられなかった。ただ時の流れるままに待って、結果だけをうのみにする事なんて、絶対にできない。足を、手を、前に進めずにはいられなかった。  

ふとヒナは、もしかするとダンさんも、こんな気持ちだったのかもしれないと思いを馳せる。都合や道理などではなくて。ただ自分がそうしなくてはいけないと強く思う、意思の力――それが自分の体を動かしているのだと。ダンを命の危機にさらす事など、ヒナに耐えきれるはずもなかった。生きて、ダンさんを連れ戻す。それが自分の使命だとそう思った。

ヒナは走った。町を北に、ダンと同じくファミリーのアジトを目指して。すでに夜は深く、辺りは闇に包まれ、静寂が周囲を支配していた。ルイシおばさんに渡されたランプに灯った光が、ヒナの行く先を明るく照らしていた。


バレーナの町の北、広がる森の中央に、スピアファミリーはアジトとして館を構えている。ファミリーのイメージカラーとなっているのは言うまでもなく黒、館の外観も同じく黒を主観とした色で塗り固められており、いかにも悪人の住む建物といった印象を受ける。一階建ての館は土地面積を広く使った長方形の建物で、先端が三俣の槍のような構造になっている。そんなランスファミリーのアジトは今、外の侵入者から、かつて例を見ないほどの襲撃を受けていた。

「ボス!! 大変です、侵入者に、部下達が次々と……!!」

「何やってんだテメェら、それでもスピアファミリーのはしくれかぁ!? ったく使えねぇ、これだから力のねぇ雑魚共は……! おい、侵入者は今どこにいる?」

「はい、それが……あっ!?」

 首元を襲った一撃で、部下は床へと崩れ去った。そして背後からひじ打ち以外考えられないそぶりで左腕を立てながら、ダンは建物の中を窺った。

奥の広間で足を組んで座っている、偉そうな態度の男をに視線を飛ばす。既に確信していたが、玉座でふんぞり返っているスピアであろう人物は、やはり昼間の金髪男で、鋭くダンを睨みつけている。見渡す限りただっぴろい縦長の空間には、明らかに必要以上の長さをした、黒い鉄のテーブルが、出入り口に立つダンから、奥の金髪男の座る玉座まで、ただひたすら伸びていた。勝手な想像だが、部下も含めて全員で食事を取るような、そんな習慣でもあるのかもしれない。以外にも殺風景なその空間には、床に赤色の絨毯が敷かれ、白い壁面と天井、建物を支えるいくつかの黒い柱。そのほかには、テーブルの上に、酒のボトルが三つと、氷の入ったグラスが一つ置かれているだけだった。

「くくっ、はははははっ!! いいぜ、まさに俺の望む展開になった訳だ!! お前は明らかに俺の部下たちとも、空気が違うもんなぁ!! 分かっちまったよ! お前は絶対に、一線を描いたこっち側の奴だってよぉ!!」

口元こそ笑っているが、その瞳は血走っていて、明らかな殺気が満ち溢れている。そしてダンもヒナの宿を壊した当人を目の前にしたことによって、胸の内の怒気を抑えることが、いよいよ難しくなってくる。今すぐに殴り合いが始まったとしても、一向に構いはしない――しかしその前に確認しておくべき事がいくつかあって、ダンは出来るだけ平静を装って、怒りを隠しスピアと会話を試みる。

「安心しろ、今頃お前の部下達は、全員床で寝込んでるだろうぜ……邪魔は入んねーからよ。お前がこの館のボス、スピアで間違いねーな?」

「あ…………? ククク、ヒャハハハハ!! 今さら、今さらだぜ!! ああそうさ!! 俺がこのファミリーの新たなボス、スピア様だ!! どうだ、怖気づいちまったかぁ!?」

ダンに聞かれると金髪男は、舌を出しながら下品な表情で笑った。しかしダンは出来るだけ気に留めないようにして、冷静に問いかける。

「どうしてヒナの宿を壊した……今すぐに、宿を元に戻しやがれ下衆野郎……!」

「今すぐ……? はっ、どうやって? 出来るわけねーだろそんなことぉ!」

 ダンに強いられるとスピアは、両手のひらを肩のあたりまで上げ、お手上げのポーズをとってそそのかした。ただの誤魔化しだとすぐに理解したダンは、続けざまに鋭くスピアに言い寄った。

「――出来るだろ、テーゼの力で…………!!!」

 それを聞いたスピアは、返ってくる言葉が分かり切っていたように、一瞬だけ固まると、次にクククといかにも悪者の笑みをこぼしながら、さらに目を輝かせ、狂ったように喋り散らした

「ははは、そうだぜ! そう来なきゃなぁ!! あの宿を壊した理由!? なに簡単な話だ! 俺は破壊主義の命題者!! 何かを壊せば壊すほどこの身にテーゼを得られんのさ……! そして壊した後に得られるテーゼの量は大衆にとって価値の大きなものほど膨大になる!! あの宿は、バレーナの町のシンボルといってもいい……! まさに町の力を集約させる、要となる場所だった!! だから、壊してやったまでよ! 実際あの宿を壊して俺の中に流れ込んできたテーゼの量はかなりのもんだった……! そういう誰かのかけがえのないものを壊すことで俺様は、すさまじい量のテーゼを得るとともに、この上ない至福を感じることが出来んのさ!!」

 その汚い言葉はダンの耳から、感情をひどく逆なでした。そして痛感する。ファミリーを仕切るこの男は、バレーナの町にとって、完全な悪なのだと。

「……ふざけてんじゃねーぞお前……!! あの宿がヒナにとって……どれだけ大切なものだったと思ってやがる……!!」

「そんなの知ったことかよ!! この世界は他者を下す力が全てだ!! 力を持つ者のみに何かを決める権利があんのさ!! あんな弱っちい小娘なんかには、何も成す権利なんかねぇよ!! クク、宿と一緒にぶっ壊してやるつもりで粉々にしたんだが……運が良かったよなぁ、ヒャハハハハハ!!!」

 ダンの耳に入ってくる言葉はどれも、考えられる限り最悪のものばかりだった。この男は人を怒らせることに関しては、出会った人間の中で指折りの才能があると、認めたくもないことを考えてしまった。こいつには本当に同じ人間の血が通っているのかと、ダンは遂に歯を食いしばり、両手の拳を強く握りしめた。

「クソ野郎が……やっぱりお前を叩きのめさねーと、なんにも始まんねーみてーだな……!!」

 身の毛もよだつような激しい怒りに打ちひしがれるダンの内から、もう一つの意識、インフェルノの言葉が伝わって来る。

『なんという下賤な輩よ。自身の制約に飲み込まれて、それが全だと思っている。あのような男が、真の強者たりえる筈がない』

『制約……?』

『言葉どおりの意味だ……! テーゼを得る為の手段を重視するあまり、それだけが正しいと思いこんでしまっている愚かな者の陥る考え方よ……! いいかよく聞け僕、あの男の様に愚かなくず男にだけは、絶対になってはならんぞ…………!!』

 そう言ってインフェルノは、ダンに強く忠告をした。インフェルノも相当に苛立っているらしく、鋭くとがった口調から、その心境が見て取れた。なによりインフェルノの口から出てきたくず男という言葉の真新しさに、ダンはまた頼もしさすら感じた。

『最低のクズ野郎って事には、俺も強く同意だ……!!あのバカずらに一発ぶちかまさねーと、俺の気が済まねー……!!』

『覚えておけ僕よ、強き命題者とは自身の誓いと誇りを秤にかけられる者の事だ! あのスピアが真の強者足り得るはずがない……! あのスピアとお前なら、お前の方が百倍は見込みがある……! 負ける事など許さん、絶対に奴を倒せ! これは主の命令だ!!』

 要するに、自分を見失ってはならないということ。インフェルノもさすがに血の気を抑えられずにはいられないようだ。さんざん文句や罵倒を食らった自分の方が百倍も見込みがあるということは、インフェルノの目から見てもスピアは、命題者の最底辺だろうとダンは思った。確かにその通りだ、こんな奴以下の人間はそうはいないだろうと思ってダンは、スピアに堂々と、宣戦布告の言葉を放った。


「何が強さで、弱さだとか。勝手に決めつけんじゃねーよ。今度はお前の思想がぶっ壊れる番だ、脳筋野郎……!!」



■第五章


 高らかに宣戦布告の声を上げたダンだったが、それを聞いた当のスピアはというと。これっぽっちも動じるそぶりを見せずに、むしろ焼け石に水といったていでダンを威圧し返して見せた。

「はっ……出来るもんならやってみやがれ!! 褒める気なんざこれっぽっちもねぇが、あの宿の破壊が生んだテーゼの力はかなりのもんだった……!! それを壊して大量のテーゼを手に入れた今の最高潮の俺様を、簡単に止められると思うな!!」

『ひどく納得がいかんが事実だ、今の奴からはかなりのテーゼを感じ取れる……やはりさっきまでの下っ端共とは格が違う……気をつけろ』

 精神下でインフェルノが語りかけるその声は、今まで以上に真剣味を帯びている。森を抜けてファミリーの館についてからダンは、実質インフェルノに助けられた所が大きかった。インフェルノはやはり不思議な存在で、自身の力は使わないとはいっても、ダンと一体化したかと思うと次に心の声で、目に見えぬ死角の支援をした。スピアのもとにたどり着くまでに、三十名弱の構成員と戦闘となり、数人がかりでかかられた危機的な状況も多々あった。しかしインフェルノには類い稀な戦闘経験があるようで、時にはダンの体を操り助力をしたり、ダンの目が行きとどかない死角の情報を告げたりなど、まさに百人力の働きをしてみせたのである。青年期の格闘術の訓練と、契約能力の炎を操る力のおかげもあり、意外に難なく、ここまで辿り着く事が出来たのだった。

『ちっ、納得いかねーが、これまで通り安々とはいかねーか……!』

 ――ガァァン!! スピアから目を反らしてインフェルノとの精神下での会話に意識を集中させていたダンは、次の瞬間に耳を打つ大きな破壊音に動揺を隠せなかった。

「…………デカイ口叩いたと思ったら、今度はしかめっ面で何考えてやがるつもりだぁ……!? そうか、俺のあまりの殺気に、気が動転しちまったかぁ……!!」

床に目を向けながらインフェルノと意見の交換をしていたダンは、スピアの方を向きなおして、自分の目を疑った。玉座から離れたスピアは、目前の重量感が覗える超長方形の黒い鉄テーブルを、振りおろした右足の一撃で、ダンの目の前まで縦一直線に折り曲げてみせたのである。分厚い鉄テーブルの脚は、全てハの字にひん曲がってしまった。並みの人間の足技で、そんなことが出来る筈もなく、やはりスピアの人外っぷりが、はっきりとダンにも伝わって来た。

「くく、威勢のいい事言ったかと思いきや、何をぶつぶつ呟いてんだ……? だったら俺様と、楽しくおしゃべりでもしようぜぇ…………? なぁお前、なんでこの部屋がこんなにもシンプルなのか知ってるか? 何も最初からこんな風にがらんとしていた訳じゃねぇ、ランスのアニキ……前のボスん時は毛皮や樹木……いろんなもんがあったのよ!! でもなくなっちまった!! なんでだと思う……? 俺様が壊したくなっちまうのさ、余計なもんがあるとよぉー!!!」

 そう言ってスピアは、また衝動的に前任のボス、ランスの話を汚く叫び散らす。

「ランスの兄貴にゃこれでもよぉく感謝してるつもりだぜ!! なんせさっきまでテメェの相手してた部下共の中から俺に目をかけてファミリーのナンバー2までのし上げてくれたんだからな!! さらに俺を命題者にまでしてくれた!! それに至っては感謝してもしきれねぇ! だがよぉ……兄貴は慎重で臆病すぎた!! 命題者としての力も兼ね備えておきながら、やることといったらもっぱら港町で裏金の取引だ!! 暗殺、密輸、密造、共謀、恐喝、人攫いに禁薬の取引……どれも表立たねぇちまちました仕事だらけ!! 俺は不思議で仕方がなかった! それだけの力を持ちながらなぜ堂々と力を振るわないのかとな! 結局アニキが消えちまった理由は今でもよく分からねぇが……命題者が突然姿を消すってのは、つまりそういうことだ」

 スピアは案外静かな声で話しをとぎらせた。その顔色はほんの少しだけ、しおらしいというか、つまらなそうな表情になっている。しかし次にはすでに狂気じみた下品な表情で、己の野望を自身の殺風景な部屋に響き渡らせた。

「だが俺様は違う!! こんなちっぽけな館の中で満足なんかしてやらねぇ!! 手始めにあのバレーナの町を支配下に置いてやる!! そして次にファレナの港町、隣接する大都市……! ゆくゆくはこの大陸全土の支配者になってやる!! この、破壊主義の力でなぁー!!!」

 スピアの野望を耳にしたダンは、大した理想だと、細めの瞳をさらに鋭くして睨み返す。

「やっぱり宿を元に戻せたとしても……テメーを倒さねーと意味がねぇ…………!!」

 スピアは両手のブラスナックルをガンガンと何度も鳴らし、ニヤリと狂おしい笑みを浮かべている。ゆっくりと、しかし確かな足取りで、獲物を追い込む獣のように、ダンとの間合いを詰める。

「くく、最高だ……! かつてない程に力が滾る……! さぁ、おしゃべりは終わりだぁ。お前も俺が――ぶっ壊してやるよォォォーーー!!!」

 遂にスピアは飛びかかり、ダンへと拳を振りかざす。その予想外のスピアの俊敏さに、ダンは一瞬反応が遅れてしまう。

 ガァァン!! 大きな破壊音と共に、ダンの足場であった出入口付近の壁面が、いともたやすく砕け散り、大人一人が通り抜けられる程の穴が出来る。

「ぐっ……!! なんだってんだあの野郎!! 思ったよりも早えーじゃねーか……!!」

 ダンは右腕に走る激痛と共に、スピアの人ならざる怪力と速度を把握して、明らかな脅威を覚えた。攻撃を受けた右腕に視線を移すと――前腕部分があり得ない形に曲がってしまっている。

「…………!?」

『何を呆けている!! すぐに状態回帰で治すのだ!! 攻撃を受けるたび即座に行え!!』

「あぁ、分かった……!!」

 ダンは瞬時に自身の炎を発火させ――自身の右腕に纏わせた。状態回帰の炎は即座に、ダンの右腕を修復した。

『……何を悠長に構えているのだ。全く、お前という奴は』

砕けた壁面に視線を落したまま、スピアはゆらりと立ち上がる。そして振り返りざまに、ダンを不敵に挑発した。

「ククク、さぁ来いよ! 俺達命題者は、互いの命を賭けて潰し合う!! 内に宿るテーゼの力を求めてなぁ! 俺はずっと待ち望んでいた!! この力を証明するための……俺に刃向かう同じ人外の存在をなぁ!!」

 そう言ってスピアは、右の掌を伸ばし手招きした。喧嘩慣れしたダンの体は、自然と身構えるが、とたんに内なる声の主――インフェルノから叱りを受ける。

『バカかお前は、そしてバカか! 今の容易く崩れ去った壁が目に入らなかったか! まともに殴り合いの戦闘をして、お前が勝てる道理はない! 今のお前に打撃で負傷した部位を何度も治癒できると思うな、テーゼが枯渇すれば後がなくなるのだぞ!』

「っ、殴っちゃいけねーってんじゃあ……どうやってアイツと戦うんだよ……!」

『何を腑抜けたことを言っているのだ、お前が命題者となって手に入れた力は何だ……!? まずはけん制しながら好機を探れ……!!』

 インフェルノの言葉にダンは、それもそうかと納得する。この身に宿っているのは炎を操る能力。その力を駆使して戦うべきなのは明らかだ。そして認めたくはないが、自分と同じく異形の力を持った命題者を目の前にして、思考が空回りしてしまっていることを自覚した。

『確かに奴の怪力を目にすると、速度の点には盲目にもなろう。しかしおそらく、奴が手に入れた契約能力は、肉体強化とみて間違いない。腕力だけでなく、脚力や動体視力といった、体中の能力全てを強化する類のものだ。真っ向から挑むどころか、攻撃を食らうだけで骨が粉々に砕けるぞ……! ある程度の間合いを取って戦え、接触は厳禁だ! それを肝に命じろ!』

「つっても闇雲にそればっかりで、ほんとにアイツに勝てんのかよ……!?」

『ふん、お前に教えを施している私を誰だと思っている? 策ならある。運よくお前は炎の命題者……この私と同系統の能力者といえよう。であれば私はお前に憑依し、無理やりお前の潜在能力を引き出せる』

「そんなことができんのか、これまた心強い話だ。けどよ、ちょっと忙しなさ過ぎじゃねーか? 望王さまよ」

 格上相手との戦闘ということもあるのだろうが、これまでと比べても、インフェルノの口調からは焦りの色が感じ取れる。

『もとよりこれは綱渡りの闘いだ。真っ向から戦う気などさらさらない。狙うは短期決戦のみ。奴が遊び半分で油断している、今が好機だ……! 考えすぎずに私の言う通りに動け、僕よ……!!』

 目前の命題者が戦うそぶりも見せずに依然ぶつぶつと呟いている様を見て、スピアは微かな苛立ちを感じた。そして目前の男の焦り困惑する様を見る為に、スピアは一つの方法を思い付く。

「くく、おい赤毛ぇ!! 村人たちがお前を俺のもとに向かわせたって事は、俺の命令に背いたってことだよなぁ? 決めたぜ、お前をぶっ潰した後すぐに、バレーナの町を破壊しに行ってやるよ!! 町の半分を壊して、俺様に逆らう奴は皆殺しだ!! そして残った俺様に従う奴らで、あそこに新しく俺様の町を作るぜぇ!! もちろんヒナちゃんもちゃぁんとぶっ壊してやるから安心しろ!! あの宿屋の主人だった男、ミラン・マキノのよしみでなぁーー!!!」

「っ、お前…………!!」

 スピアの言葉にダンは、すべからく怒りと焦りの表情を見せ反応する。しかしインフェルノはダンに、当然のごとく抑止の言葉を促す。

『止めろ僕! 奴の挑発に乗ってはダメだ!! 炎で奴を威嚇しろ!!』

「――ちぃぃっ!!」

 ダンはスピアの憎たらしい顔面に一発殴り入れたい思いを強く我慢して、ボッという点火音と共に、自分の右手の指先に炎を灯す。そして炎を、スピアめがけて打ち放った。ダンの右手を離れた赤く燃えたぎる炎は、弓から放たれた矢のように形状を変えて、スピアへと勢いよく襲いかかる。しかし標的のスピアは、向かってくる火矢をものともせず、いとも簡単にそれを左手で振り払って見せる。矢は地面に落とされた後、炎となって消えた。

「何だテメェ、なめてんのか? こんなもので俺を倒せると思って――……」

 スピアは振り払った左手の先からダンへと再び視線を戻す。しかし先ほどまでそこに立っていたダンの姿は、すでに辺りには見受けられない。

「ああ!? どこに隠れやがった!! こざかしいまねしてねーで、かかってこいやぁ!!」

 部屋中に響き渡るいらつきの混じった叫び声に、返る声はない。代わりにスピアの背後で、ボッと不自然な発火が始まる。スピアはほぼ反射的に、炎に拳をかざして迎え撃つ。しかし炎がおおまかな人の形を成したところで、背後にもう一つの炎がまた不自然に発火を始めた。

「――ああっ!? そっちが本命かぁーーっ!?」

スピアはすかさず、後から発火を始めた背後の炎に振り返る。しかし人の形となりダンが現れたのは、最初にスピアが見つけ拳を振りかざした炎だった。ダンはあらかじめ拳を握りしめたモーションで現れ、すぐにスピアの顔面をめがけて殴りかかる。

「――おらぁーー!!」

「はっ、残念でしたぁぁぁーー!!」

 右腕を振りかざしたダンにスピアは、人ならざる反射速度で俊敏に態勢を整え、自らの左の拳で奇襲に迎え撃った。肉弾戦に特化したスピアの拳は、先に攻撃に入ったダンの拳の速度を遥かに超え、凄まじい速度でダンの拳を打った。インフェルノの言葉通りだと、ダンは瞬時に痛感する。ただ拳を打ち返されただけだというのに、ダンの右手からは、ゴギッという、骨という骨の全てが砕け散っただろう、明らかな異音と共に、耐えがたい激しい痛みが走った。しかし今しがたの教訓から、ダンは即座に自らの炎での治癒を始める。

「――っ!!!」

『構わん!! 再び右の拳を振り下ろせっ!!』

 インフェルノのとっさに聞こえてきた言葉とほぼ同時に、スピアは左腕を払い戻し、今度は右の拳を低く据え、第二撃の態勢に入る。ダンはインフェルノの言葉のままに、刹那に動揺を払いのけ、回帰途中の右の拳を勢い任せに振り放つ。

そして次の瞬間に起こるべくして起こったそれは、ダンの視界を混乱させる。確かにまたもや、拳を振り上げる速度は断然としてスピアが勝っていた。しかしスピアの屈強な右の拳は、振りかざす途中で理不尽に阻まれる。スピアの右腕は、ダンの右手の甲に沿う形で突如出現したインフェルノと、五本のそれ――巨大な銀の、鋭く鋭利な爪に貫かれた。

「がぁっ……!! な……にぃぃぃぃっっっーー!??」

「くっ、仕留めそこなった……!!」

その爪は支えもなく、重力を無視してインフェルノの腕の周りに備わっている。ダン同様かそれ以上に、スピアも突然の事に理解が及ばず、巨爪に自分の右腕が貫かれ、動揺から体の動きを停止した。完全な隙と判断したダンは、その歪んだスピアの顔面めがけて、込められるだけの力と怒りを込め、回帰した右腕の拳を振り下ろす。

ダンの拳は、スピアの頬に激しくのめり込んだ。その表皮は恐ろしく固く、まるで鉄を殴ったかのようだったが、体を構成している組織が常人とは違うのだと思う頃にはもう、スピアは勢い良く、そしていかにも重そうな音と共に、仰向けに床に倒れ込んでいた。

 

 今さら思い知るのも虚しさをあおる一方だが、体を動かすことはやはり得意ではないと、ヒナは改めて実感する。そんなおぼつかない足取りで、息を切らして出来る限りの速さで白く広がる廊下を走る。廊下にはスピアファミリーの部下達が、見渡す限りまで床に倒れ込み気絶している。

 ほとんど衝動的にダンを追いに来てしまったヒナは、館の前の茂みまで辿り着いた当初、自分の無謀さに頭を悩ませた。目的の二人が、どこにいるのか分からない。しかし入口の前で倒れている二人の構成員を目にしてヒナは、ダンが倒したのだろうとそう信じ、おそるおそる館の中を覗き込んだ。

中にはところどころ残り火が揺らめきながら、構成員達が倒れていた。中は恐ろしく静かで、ヒナがゆっくりと足を踏み入れても、人の気配はなかった。耳を澄ますと、奥から僅かに物音が聞こえてくる。ヒナはそのまま音のする方へと足を進めて、長い一本の廊下を走り抜ける。音は時折大きな衝撃を響かせながら、だんだんと大きくなっていく。この奥で、ダンさんとスピアが戦っているのだと、ヒナは争いを止める術も知らないまま、しかし足を前に進めた。

 何も出来ずただ待つだけの自分が嫌で。それではただ失ってしまうだけのような気がして。自分になにが出来るかは分からない。それでもヒナは、最悪の結末に抗う為に、その足を前に進めた。もう何も失いたくなくて。ただ誰も、悲しんでほしくなくて。そんなひたすらの願いを込めて走る。

「私もう……何も失いたくないんです。だからまだ……間に合うよね?」


 スピアは先ほどの威勢の強さなど見る影もないほどに、唸り声を上げて、貫かれた自身の右腕を押さえ、ゆっくりと立ち上がった。かすれた声で、表情を苦痛で歪ませながら問いかける。

「ふざけんな……テメェ…………一体、そいつは何だ…………っ!!」

「はっ、さーなぁ…………!!」

 そもそも答える言葉など持ち合わせないダンだが、かまわず不敵に言い返した。なにが起きたのか分からない以上、答えられないのは当然である。インフェルノが少し荷が重そうに右肩を下げながら手の甲に浮かべているそれらの貴金属は、澄んだ映し鏡のようにダンの姿を綺麗に映しこんでいる。緩やかな曲線を帯び、極限まで磨き上げられた銀の鏡のようなその爪は、この世のものではありえない。武器としては手のひらに装着する鉤爪――それが一番近いイメージだろう。

スピアに不敵に笑って見せたダンだったが、次にその鉤爪はテーゼの粒子と共に音もなく消えてしまった。やはり自分の代わりにインフェルノが、炎を具現化したもののようだった。インフェルノがまた姿を消し意識下で語りかけてくるが、しかし口調と呼吸は以外にも、かなり険悪なものに聞こえる。

『はぁー、はっー、くっ、何を……悠長に構えている、私達は奴を仕留めそこなったのだぞ……!? くっ、頭を狙ったつもりが、右腕で防がれるとは……!! やはり今の状態では、これが限界か…………!!』

「でも、ひとまず致命傷レベルのダメージは与えたじゃねーか。それにあいつの面に一発かませて、俺は少しスカッとしたぜ……!!」

 スピアはインフェルノの一撃で右腕に致命傷を負い、さらにダンからも顔面に打撃一発分のダメージを食らっている。戦況は悪くないだろうと、再び不敵にニヤリと笑った。

『バカが、傷などテーゼの力があればどうとでもなる……!! こちらは油断させ手の内を読まれないまま、短期で奴を仕留めなければならなかったのだ……!!』

 しかしインフェルノはというと、ダンの想像のはるか上をいく焦りようで、ダンに言葉を返す。

「ああ? なんだよそれどういう……」

『くっ、やはりそう上手くはいかないか。私がお前の奥の手であるように、奴も奥の手を備えているのだ。それを出されては、お前に勝ち目はない。同じく今の私にも、対処のしようがない…………!!』

「な……それってどういう…………!」

 ダンとインフェルノが嚙み合わない会話をしている最中、スピアは遂に内なる殺気の全てを爆発させ、怒り狂う。

「クソが、クソがクソがクソがぁぁぁっ!!! ザコの分際で、俺様の体に傷をつけやがってぇっ…………!!!」

 そのうなり声を耳にしたダンはスピアの方を向きなおす。すると左手から淡い緑の光の粒子――テーゼが浮かび上がり、右腕を包み込む。わずか数秒の後、スピアが押さえていた左腕から右手を離すとなんと、傷口がきれいさっぱり消えているではないか。どうやってインフェルノがあの銀の鉤爪を作ったのかは定かではないが、せっかく奇襲をかけてまで与えたダメージを、こうも安々と無くされてはたまったものではない。

「なっ、おいインフェルノ、あいつは俺の能力みてーなことも出来んのかよ……!?」

『違う、あれは奴自身の直接的なテーゼの力を媒体とした願望の具現化だ。お前の回帰の炎の五百倍程度のテーゼの消費量だろうが、テーゼの貯蓄さえあればあの程度のことはすぐにできる……』

「くっ、そういうもんなのかよ……」

そして傷口が完全にふさがるとスピアは、怒りで血走った表情をさらに狂おしいものに変えて、その研ぎ澄まされた殺気の眼光をダンへと向ける。

「じわじわと嬲り殺すつもりだったがもうやめだ! ぶち殺してやる……!!」

 そう言ってスピアは、左手でスーツの右腕を勢いよくその付け根までまくりあげ、今までで最悪の、狂気の笑みをダンへと向けた。

「見せてやるよ。これが俺様の力……圧倒的な、人知を超えた――破壊の力だぁ……!!!」

『くっ、最悪の展開だ……! 来るぞ!!』

「なんだ、一体何が…………!!」

 そして天に力強く突き出されたスピアの右腕、その上腕二等筋の表面に、淡い円形の印、紋章の様なものが浮かび上がる。

「召喚…………!!」

 不敵に放った単語に呼応するように、スピアの前方へ光を帯びた粒子――テーゼの力が集約を始める。それらはまたたく間におびただしいほどの光源となって、スピアの狂気の面を禍々しく照らし出す。そして勝利を確信した表情で、室内に響き渡るように、高々とその名を呼び上げた。


「――ぶち壊せ!! サイクロプス!!!」


 その言葉を引き金とするように、テーゼの集合体から膨大な量のエネルギーが周囲に衝撃波を響き渡らせる。衝撃はまたたくまに周囲の床や壁にひびを走らせ、遂には天井にまで到達する。テーゼの流動は幾重にも周囲に亀裂を生んで、ついには爆発を引き起こした。館は足元を残し、壁面から上が全て吹き飛んでしまった。たまらずにダンは目を閉じて、両腕で自分の顔を覆い隠した。

 酷く響く衝撃音を耳にした後、ヒナは長い白の廊下を走り終えた。その後、通路の出口に立って――ヒナは、またたく間に恐怖が体中を支配していくのが理解できた。ここは異界の入り口ではないのかと思って、動揺のあまりルイシから渡されたランプが手をすり抜けるのも分からなかった。

「………………っ…………………………!!」

口は吐き出す言葉を失い、瞳はまばたくことを忘れた。逃げなければならないのに、足ははりついて地面から動かない。完全にその場で硬直してしまう。それほどまでにヒナの瞳を奪ったものは、ひどく巨大で恐ろしく、この世のものとは思えなかった。

 それは、五メートルを優に超える巨躯の怪物。見るまでもなく筋骨隆々なその巨人は皮膚が地獄の生命のような濃さの緑で、大きな一つ目でぎょろぎょろと辺りを見回している。左肩から胸板まで鎧を纏っていて、右手には大きな黒い鉄の棍棒を持っている。

「はっ…………おいおい、なんだよこりゃあ……冗談にもなってねぇぞ…………!」

 震える声のダンは呆れ返り鼻で笑ってしまう。こんなものを人の手でどう対処しろと。それほどまでに突如現れた化け物は、ダンの力でどうにかできる範囲をゆうに超えてしまっていた。ダンは何も考えられずに唖然とし、ただ立ち尽くす。

『――あれは幻獣種、一定の域を超えた命題者が、己の兵器として従え呼ぶことの出来る、戦いの切り札だ…………!!』

「幻獣種……? じゃああれが、お前が言っていた………………!?」

 言葉を失い唖然とするダンに、インフェルノはただ一つの選択を怒鳴り散らす。

『やはりこのテーゼの質量……! バカが! 何を突っ立ている!! あれが出てきてしまった以上今のお前には万に一つの勝ち目も無いわ!! 早くこの場から逃げろ!! 今すぐにだ!!』

「「「ガガガッ、グァァァァァァァァァァァァァァァーーーーッ!!!」」」

 サイクロプスは大きな一つ目で辺りをぎょろぎょろ見回し終えると、鋭く生えそろった大きな牙の口で、大きな咆哮を響き渡らせた。続いてそれを呼びだしたスピアが、同じく大きな声であざ笑う。

「ククク…………ヒャァハハハハハッハァァーー!! なんだこんどこそ震えて声も出ねぇのようだな!! どうだ俺様のサイクロプスは、気にいってくれたかぁ!? 残念だがはなっからお前には、勝ち目なんかこれっぽっちもねぇんだよ!! 英雄気取りでバレーナを救う気でいたのかぁ? 無理無理無理ぃ! 不可能だよ! お前には何にも成せねぇ! 俺からはなんにも守れねぇよ!! 何せこの俺を、まんま敵に回したんだかんなぁーー!!」

『どうした、なぜ固まっている!? 奴の言葉など気にかけるな!! 早くこの場を去るのだ!!!』

 しかしすでに、他のどんな声も、ダンの耳には入らなかった。ほかの全ての言葉を遮断して、ダンはただ無力感で頭が満たされてしまっていた。

ダンは理想の為に逃げられなかった。負けるわけにはいかなかった。温かく優しいバレーナの町を救いたかった。ヒナの陽だまりのような笑顔を取り戻したかった。その為には――スピアを倒さなくてはならなかった。しかし勝てない。勝てる訳がない。先ほどまで自分が戦っていた相手が、人の形をしていたスピアだったからダンはまだ勝機を見いだせていた。しかし今自分が見上げるこの世のものではない何かは、明らかに人の手でどうにかできる領域を、大きく超えてしまっていた。それがいくら戦闘の訓練を施されてきたダンだったとしても、そんなもの何の役にも立たないと、容易に悟ってしまう。ダンの思考はまるで走馬灯のように、様々な疑問を張り巡らせた。自分はなぜこの場から動けないのか。なぜ、眠ったままでいられなかったのか。カノンはなぜ自分を呼び戻したのか。カノンの目的とは何なのか。インフェルノとは何者なのか。なぜ、自分の傍から離れることが出来ないのか。


自分には、生き返った意味があったのだろうか。


 答えられない。疑問ばかりが頭をよぎっていく。分からないことだらけだ。しかし答えてくれる者などいない。なのにこのまま。自分は何も出来ずまた死んでしまうのか。何も成せずに。何も出来ずに――また終わってしまうのか。

「危ない、ダンさんっ!!!」

 そしてダンは背後から悲鳴のような大きな声を浴びて正気に戻ると、とっさに後ろを振り返る。そこにはヒナが、ひどく必死な形相で自分に向かって叫んでいた。明らかな、この戦場へのミスマッチ。ダンは驚きを隠せず声を出す。

「ヒ……なっ……!?」

 次の刹那、言葉を中途半端に発しながら、ダンの視界は急転する。ひどく固い鉄の塊が、理不尽なまでに左半身へとめり込み、振り払われる。

「ガァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」

ドォン!! という鈍く図太い衝撃音が、周囲に大きく響きわたった。ダンの全身は建物の外、木々の生い茂る森の中へたやすく吹き飛ばされ、その木のうちの一本に直撃、激しく体を打ちひしがれる。


『…………し…………おい…………しもべ、目を覚ませ僕、しっかりしろ! 眠っている場合ではない、目を覚ませ!!』

「っ!!?」

 ダンは垂れ下がっていた自分の頭部をびくりと一瞬振動させて、意識を取り戻した。

『まったくヒヤヒヤさせおって、なにをのんきに気絶しているのだ……』

 どうやら意識を失う瞬間も分からない程、瞬時に気絶していしまっていたようだ。それほどまでにあの怪物の一撃は、ダンの左半身に多大なダメージを与えた。

「……俺は……うっ…………!!」

 体を動かそうとすると、ダンの左半身、おもに腕や脇腹に、重い痛みを感じた。ダンは多少表情を濁したが、同時に思いの他軽度の各箇所のダメージに疑問を抱く。自分が受けたあの鉄棍の一撃は、確かに左半身の骨を砕き、肉を壊したはずだった。

「あの建物からここまで吹き飛ばされたにしては……やけに体が軽症だぞ……。喋れんのが怖えーくらいだ……インフェルノ、お前が……?」

『そうだ、便利なのものだな……状態回帰というものは。お前にかわり私が、壊れた身体を創り直した。完治といかんのがひどく歯がゆいがな……おかげで使い果たしてしまったよ、お前が使えるテーゼは、もうほとんどゼロに近い状態だ……』

「……まさに、絶体絶命ってヤツか…………」

 命題者にとって原動力ともいえるテーゼの力の枯渇――それが何を意味するのかは、駆け出しのダンにとっても聞くまでもなく明らかだった。今の自分は、ほとんどただの負傷者だ。インフェルノの内から聞こえてくる声にも、先ほどまでの活気が感じられない。どこか静かで、失意の感じられる口調だ。

 とうとう追い詰められてしまった。戦う術を、失ってしまった。すると言葉を失ったダンに、先ほどの聞き覚えのある声が迫ってくる。

「……ダンさん……! はぁっ、はぁ……大丈夫ですか、ダンさん!?」

 ヒナが息を切らせながら、必死の面持ちでダンの方へと駆けよって来る。

「なんでここにいるんだヒナ……同業者の俺でもこのざまだ……早くここから離れ……ごほっ、げほっ!!」

ふと、壁面と天井の吹き飛んだ館の方角に目を凝らす。館の中からこちらを見渡すスピアはすでに米粒程度、呼び出されたサイクロプスはやっと今来たヒナよりも小さい程度だ。自分はどれだけ吹き飛ばされてしまったのかと、またダンは弱々しく鼻で笑った。

「はっ、はー……」

 息が苦しく、肩で呼吸をする。その度にダンは自分の肉体が悲鳴を上げるのが分かった。やはり、満足に動ける程に回復はしていないようだ。

「私ダンさんが心配で……やっぱりただ見ている事なんて出来なくて…………!! 逃げましょう、あんなのと戦う必要なんてありません……!!」

 そう必死に強く言うヒナに、ダンはうつむき表情を濁らせた。闘う必要は――ある。

「それじゃあ……ダメなんだ。俺を叩きつぶした後でスピアの野郎は……どの道バレーナの町をぶち壊すつもりだ。町の人間が全員束になって掛ったとしても……サイクロプスどころかスピアを倒すことすら出来やしねー……俺が何とかしなくちゃなんねーんだ、そうだろインフェルノ……?」

『……違いない、今あの町でスピアに対抗できる可能性があるとすればそれは同じ力を持つお前だけだ……だがやはり奴は、ヒナの宿を壊したことによって多大な量のテーゼをその身に宿している……今は堪えこの場から離れろ、命を拾うことが先決だ……!』

「無茶言ってんじゃねーよ、立つのがやっとの状態だぜ……」

 まだ虚ろな意識の中で、どの道それは出来ないとダンは思った。純粋にこの場から逃げ出そうとしても、かろうじて走れるかという今の状態の自分が、体中のあらゆる力を強化されているスピアから逃げ出す事など皆無に等しいだろう。さらには今この場にはヒナがいて、か弱いヒナ一人を逃がすにしても、やはりダンにはスピアを足止めしなくてはならなかった。

 まさに満身創痍。この後自分はどうすべきなのか。ダンはかすむ意識の中でせめてそれを考える。しかし戦う術を失ったダンに出来ることは、自分の命を盾にしてヒナを逃がしてやる事くらいだった。

かつてのダンの死には、確かに意味があった。意味も価値もなくただ死にゆくはずだったダンの命を、カノンは救ってくれた。しかもただ救っただけでなく、どこぞの馬の骨ともしれない餓鬼を傍らにおいてくれた。使用人として、生きる意味と、価値をくれた。よもや、何もなかったダンと対等に接してくれた。振り返ればダンには、その恩を表す言葉も見つからない。そんなカノンの命を、自身の死と引き換えに守り抜く事が出来たのだ。無二の親友を助ける事が出来た。そこには確かに、大きな意味と価値があった。しかし生き返った後の、この理解の及ばない現状はどうだろうか。

意味も分からずにこの世に命を呼び戻されて、自分が自分である意味をほとんど無くし、生きたままに死んでいる。自身がかつて生きた場所には、すでに身を預けられる場所などなく、暗闇の中に揺らめくカノンというただ一つの灯を追って、今自分はここにいる。

「ダンさんっ……!!」

「俺の事はいい、逃げろヒナ……!! お前の逃げる時間くらいは、俺が稼ぐ……!」

意味の知れない自分の命。そんな理由の見出せぬ命でも、目の前のささやかな恩人の為にまた命を散らせることが出来たのなら、まだましな死に様かもしれない。また返るべき場所へと返るだけなのだと、ダンは無理にでも、自分にそう思い込ませようとした――しかし。今しがたヒナに返した自分の言葉を思い直して、ダンはうつむき、悔しさで歯を噛みしめた。ここで自分が命を捨てようが捨てまいが、その後のヒナと、バレーナの町に訪れる結末は、なんら変わりはしない。スピアは町を気の済むまで壊し尽くして、自分に逆らおうとする者の命を奪い、非道と残虐の限りを尽くすだろう。つまり、カノンを燃えたぎる業火から救った時とは違い、今から訪れようとしている、自分の死にはなんの価値も、意味もありはしない。この数日足らずで分かった事として、ヒナは思いのほか聞きわけが悪い。今この場にいる事がそれを証明するように、自分がそうだと思ったことに関しては、梃子でも動きそうにない。運よくこの場を逃げ延びたとしても、恐らくの末路は容易に想像が出来た。

「……チク……ショォッ…………」

声を大にして叫び上げたいダンだったが、もはやそんな大声をはり上がる余裕もなく、内からこぼれた声は、とても低く、弱々しいものだった。意識を取り戻して僅か数分足らずで、自分はどれほどの思いを張り巡らせただろうか。そこでダンの考えは、当たり前の様に行き詰ってしまう。

「分かりましたダンさん……私、逃げます……!!」

 決意の表情を見せたヒナ。しかしダンの予想に反し、ヒナは慣れない手つきでダンと肩を組み合わせる。

「っ、おい、ヒナっ!?」

「残念ながら私には、これくらいしか出来る事はありません。でも……だから、一緒に逃げましょう……!!」

 ヒナはダンに肩を貸したまま立ち上がると、館に背を向けて、おぼつかない足取りで歩き始める。それはヒナにとっては急ぎ足で、前に進んでいるつもりなのだろう。しかしヒナの足取りは、女性ということもあるのだろうが、ダンには酷くおぼつかないものに見えた。いつスピアとサイクロプスに追いつかれ、止めを刺されたとしても、全く不思議ではなかった。

「俺を担いで逃げるのは無理だ……! 俺の事はいいんだ、いいから一人で逃げろ……!」

「ダメです、そんなの嫌です! なんでそんなに簡単に、自分を捨てちゃうんですか……!」

 いくら言っても聞かないヒナを説得するために――ダンは語りたくもない真実を語る。

「俺は……すでに一度、命を落として死んじまってるんだ。けれどカノンがテーゼの力を望王の力で踏み倒して、俺は生き返った……だからいいんだ。すでに全部失っちまって、空っぽの命だ。お前の命とじゃあ、重さが違う……分かってくれ、ヒナ……!!」

 ダンの方を向いて一瞬の間沈黙してしまったヒナだったが、その後にまた前を見据えて歩き出す。表情は、いっそう険しさを増している。

「それは間違ってます……!!」

 なおもゆっくりと足を前に進めながら、恐らく初めてヒナは、ダンの言葉を否定した。呆気にとられているダンに構わず、ヒナは言葉を続ける。

「ダンさんは、生きています……! 自分の意志で、自分の足で、この町に辿り着きました……! インフェルノさんと共に、私と、シェリちゃんと、リガスおじさんと、町の皆さんと出会って、触れ合って……この町を知りました……!! そして私の宿を、この町を思って、救おうとしてくれたじゃありませんか……!! ダンさん……それのどこが、その命のどこが……! 空っぽだって言うんですか…………!!!」

「ヒナ…………!」

 ヒナの前を見据えるその瞳を目の当たりにして、ダンは歯を食いしばった。ヒナのその意思は、ダンがヒナに語った、真っ直ぐな理想そのものだった。たとえ終わるかもしれない最後の瞬間までその意思を曲げない、揺るぐことのない意志の力。そんなヒナの強さにダンは、心を打たれてしまう。ヒナのその言葉は――ダンの誓った定義そのものだった。

「信じ続ける限り、願い続ける限り……終わりになんてなりません…………!! だからっ……!!」

 ヒナがそこまで言いかけた所で、鉄棍が地を打つ巨大な衝撃音と共に、周囲を揺るがす。

「きゃあっ!?」

不安定な態勢でダンを抱えていたヒナは、バランスを崩してもろとも地面に倒れ込んでしまう。と、それに代わって吹き飛んだ館の方から、ズシン、ズシンと大きな足音と共に、甲高く憎たらしい声が、笑い交じりに聞こえてきた。

「ヒャハハハハハハハハァ!! オイオイどうした、ぶっ壊した宿の娘の、ヒナちゃんじゃねぇかーー!! こりゃあいい、わざわざ出向いてくれるたぁ壊す手間が省けたぜぇ!!!」

 満面に歪みきった身の毛のよだつほどの狂い顔で、スピアは汚く笑い散らす。ヒナは険しい表情をスピアに向けて、大きな声で言葉を放つ。

「あなたには失うことの悲しみが……無くすことの悲しみが分からないんですか……!?あなたにだってかけがえのないもの……大切なものがあるはずでしょう……!?」

 ヒナのその言葉に、スピアは当たり前のように自分の思想を豪語する。

「ああ、そりゃあるぜ!! それは俺様! 自分自身だ!! 俺自身のこの肉体だ!! 力のあるものだけが望みを叶えられる!! 理想を掴み取る事が出来る!! それを成すのは俺自身のこの肉体よ!! それさえありゃあなんにもいらねぇ!! 全部壊れてもかまわねぇ!!! 力さえありゃあ何でも手に入るんだからな!! ヒャハ、俺が人間じゃあないだってぇ? そりゃあそうさ、俺は命題者――人を超えた、選ばれた存在なんだからなぁーー!!」

 もはやスピアの怠慢と増長は止まることを知らない。ただ狂って、いつでも終わらせる事が出来るのだと、高笑いを繰り返すのみだ。

『もはや人の世の摂理を忘れている……本当にこの上ない、最悪の命題者だ…………!! こんなゴミ以下の者に、私達は……バレーナの町は…………!!』

 インフェルノも唸るように、怒りの言葉を漏らす。極めて不条理な、誰一人理解の出来ない運命が、目と鼻の先に迫っていることを、この場の誰もが、認めざるを得えなかった。

「ヒャハハハハハ!! そうだヒナちゃん、今から死に逝くテメーに、俺様がいいこと教えてやるよ!! それもとびっきりの、スペシャルサプライズ!! テメーがずっと知りたかった事だ!! なぁヒナちゃんよ、お前のクソオヤジ……ミラン・マキノが、なんでかけがえのない愛娘を残して、姿を消したか知ってるかぁ!? 知らないよなぁ、知りたいよなぁ? 俺は知っているぜ!! お前のオヤジに、一体何があったのかをよぉーー!!」

「えっ…………!?」

「な……」

『っ!?』

 すぐ横のダン、その精神下のインフェルノも、短く言葉を口にする。しかしやはり、一番の動揺を露わにしているのは、ヒナに違いなかった。

「いいか冥土の土産だよぉく聞けぇ!! お前の親父は! 命題者だった!! だからこの俺様が!! 壊してやった!! このスピア様の、テーゼの糧にしてやったのさぁーー!!」

 スピアの口から吐きだされた言葉を、ヒナが理解出来るはずもない。ヒナは表情を歪め、一瞬時が止まったように硬直した。そしてその後、明らかな拒絶の言葉で、その真意を否定した。

「そんな筈ありません! お父さんがあなたなんかに……そんなことあり得ません!!」

「ならそれこそ奴はどこへ行った!? かけがえのない娘を置いて一人何処へ!? 一人放浪の旅へってか!? んなことあり得ねぇんだよ!! お前の身を案じることが、あの男の願いだった!! ミランは俺に向き合いこう言ったぜ!! あの町から手を引け、さもなければお前に待つのはその身の破滅だとな!! 俺は鼻で笑ってやったぜ、そんなこけおどしでひるむような奴は、マフィアにはいねぇんだってな!!」

 スピアの言葉は途切れることを知らずに、その真意を語り散らしていく。それを聞くヒナの表情は、いつ崩れてもおかしくないというほどに絶望的だ。

「そんな……嘘……っ!!」

「奴は笑っちまうほどのザコだったぜぇ!! テーゼの力を使うまでもねぇ、最初の一発でいともたやすくテーゼになって消滅しやがった!! お前のオヤジの骸が見つからねぇのはそういうことだ!! 命題者は命を失うと、その体は消滅しちまう!! テーゼの粒子に変わってなぁーー!!」

 語り終えてスピアが狂ったようにまた笑い始めると、ヒナは力なく膝から崩れ落ちた。両手で耳をふさぎ、せめてもの拒絶をする。

「嘘……嘘…………!! そんなこと……絶対に信じません…………!!」

「クク、強情だなぁヒナちゃんよぉ……! 喜んでくれねぇのかぁ? せっかくめでてぇ記念日に、祭り上げてやってんのによぉーー!?」

「記念日……!? 一体何を言って…………!!」

 ヒナは混乱しながら、怯える口調でほとんど反射的に言い返す。

「気付かねぇか……? テメーのクソオヤジが行方不明になって、今日で一体何日目だよぉーーー!!」

 スピアの言葉を聞いて、ヒナは深い悲しみの中で答えを悟った表情をした。そのヒナの面持ちに絶望以外の感情は見受けられない。耳をふさいでいた両手は力を失って草木の生い茂る地面へと垂れ下がる。

「ははっやっと気付いたか? そうさ今日でちょうど一月だ!! 俺がテメーのオヤジを消してやってからなぁーー!! ククッ、最高のぶっ壊れ顔だぜヒナちゃん!! わざわざ一月も、待ったかいがあったってもんよぉーーー!!!」  

 無慈悲にも――スピアはヒナの父ミランが行方をくらましてからの月日を知ってしまっている。前日にヒナが宿で、明日で一月だと言っていたことを、ダンも確かに覚えていた。

「そんな……お父さん…………お父さん…………なんで」

 認めたくなど微塵もないが、先ほどのスピアが口にした言葉は、嘘だと言い切るには現実味を帯びすぎていた。信じたくなどないが、消息を絶ってからの計画された犯行から、ヒナの父ミランを消し去ったのは、スピアで十中八九間違いないだろうと。それは傍らで共に話を聞いていたダンにも認めざるを得ない。ヒナはもう何も考える事が出来ないといったような、完全な放心状態だった。先ほどのダンを勇気付けた時と打って変わって、これ以上ないほどに表情は痛々しく感じた。

その姿は魂の砕けた廃人の様な、目を向けられない程のもので、思わずダンは目をそむけ瞼を閉じる。

「ヒャッハァ!! ありがとよぉーーヒナちゃん、最高の表情だ!! 怒ることも泣くこともわめく事も出来ねぇ、全部ぶっ壊れた最高の表情だぜぇ!! ヒャァーハッハッハッハッハァ!!」

 そしてこの状況で声を大きく響かせて高らかに笑い上げる視線の先のスピアに、こいつは一体何なのだと、先ほどとは比べ物にならない程の蠢く怒りの感情が、ダンの体中を、烈火のごとく駆け巡る。

「……おい、インフェルノ…………残念だが今の俺には……スピアを倒す方法なんざ考えもつかねぇ…………だから頼む…………お前は望みを統べる者、望王なんだろ……!? あのクソ野郎を倒す力を、俺にくれ…………! アイツの野望を阻止できんなら俺は…………この命燃え尽きようとも構わねぇっ…………!!!」

『それは私も同じ思いだ…………しかし叶わんのだ、今の私は、億分の一ほども、力を出せはしない…………』

「…………どういうことだ…………??」

 ダンは静かに、しかし確かな意思を持って、インフェルノに問いかける。インフェルノは、かすかな炎の揺らめきと共に姿を現し、右の人差指で、自分の首元を指さす。

「これを見ろ……私の首に、首輪が付いているのが見えるだろう。これは飾りなどではない。私の力を抑止するための枷なのだ。この金と銀の首輪の枷のせいで、私はほとんど自分の力を使うことが出来んのだ…………」

 なるほどそれはインフェルノが最初から首につけていた豪勢な金と銀の装飾の首輪で、月の光を浴びてきらきらと輝いていた。

「……それを外せれば……あの狂った破壊主義者を、怪物ごとブッ倒せんのか……??」

「ふん…………造作もない。赤子の手を捻るよりたやすいわ…………」

「……もう一つだけ聞かせてくれ。その首輪を壊せりゃあ、俺達は生きれんのか……?」

「決まっているだろう……しかし、所詮それも世迷い事だ。事実こうして私達は、今死に逝こうとしているのだからな…………」

 インフェルノはそう言って、力なく憂いを帯びた表情でうつむいた。しかしその言葉は暗闇に差し込むただ一点の光として、ダンの瞳の色を変える。

「その首輪を、壊せばいーんだな…………?」

 そう言ってダンは、樹木に寄りかかっていた背の重心をだらんと前に傾けると、砕けた右手よりはましだと思って、左腕を伸ばしインフェルノの輝く首輪へと触れた。

「無駄だ僕、出来るならとうにお前にそれを頼んでいる……この首輪は壊そうとする者の身を地獄の業火が焼き尽くすように出来ている……いかに炎を操るお前でも、業火には耐えられん……強大な命題者が命を捨てる覚悟で挑み、やっと解けるかどうかの凶悪極まりない呪いなのだ……!」

 力なく可能性を否定したインフェルノに、ダンは冥土の土産ともとれる不敵な笑みを浮かべる。

「……またとない機会じゃねぇか。どうせこのままじゃ、あの脳筋野郎にやられちまうんだ。たとえまた焼け死ぬことになっても、こっちの方が百倍もマシだ…………!!」

「やめろ僕、私が言っている事は大げさなどでは無い! 奴が私に掛けた呪いは生半可なものではない……!! 本当に対象者を骨の髄まで焼き尽くす、凶悪極まりないものだ!! それに、それだけではない」

 インフェルノは自らの首輪に課せられた呪いの恐ろしさとは別に、一つの懸念を付け加える。

「何か、開けてはならない箱の気配を感じるのだ。私は意識を取り戻してから、ずっとそれが気がかりだった。このまま、首輪の状態で保持しておかなくてはならないような、そんな禍々しいテーゼの気配が首輪の内にある」 

「――構わねぇよ……!」

 ダンは願った。命題者として、スピアを倒すことを。ヒナの敵を討つ事を。バレーナの町を守ることを。インフェルノの呪いを解くことを。そして――生きることを。

 込められるだけの思いを込めて、首輪の破壊を祈る。命題者として、もはや枯渇同然のテーゼで、その理想を願った。

「壊れろっ……!!!」

 しかし、願いの後に突如ダンの身を襲った炎は、インフェルノが言っていた通り、この世のものではなかった。ダンの体から燃え上がったそれは、青と黒が混じり合った、まさに業火と呼ぶに相応しい、禍々しすぎる炎。

「ぐ…………あぁっ……!!!」

炎はまたたく間にダンの全身を包み込み、身を焼く灼熱となる。炎は器用に、ダンの衣服は燃やさず、肉体だけを焼き尽くし、命を奪おうとする。命題者として炎に耐性を持ったダンの身を焼く黒炎はやはり、並み大抵の炎ではなかった。炎の影響を受けないはずのダンの身を焼くのだから、想像を絶するほどの温度なのか、もしくは全ての理を無視して生命を死に至らしめるのか――確かに業火がただの炎ではない事は一目瞭然、明らかだった。

「ぐっ、ぐぅぅぅっ、あぁっ……………………!!!」

ダンは唸りながら思い出す。業火に身を焼かれながら、その身を死に至らしめたあの日の炎を。再び燃え盛るその身にかつての自分を重ね合わせる。あの日の自分は、確かに使命を全うして、そして死んだ。だがしかし、今の自分は違う。まだ、何も成してはいない。何一つとしてやり遂げてはいない。己が望みのいずれも――叶えてはいない。

「っ!? ダンさん!?」

「ヒャハハハハ!! 何だぁおい、とうとうテーゼが無くなって、体すら維持出来なくなっちまったかぁ!? 滑稽にも程があるぜ、こりゃあいい!!」

 ヒナとスピアがダンの身に起きた異変に気付く。スピアはまた狂ったようにバカ笑いをしながら汚い言葉でこちらをけしかける。ヒナはダンの身を案じ、ダンに寄り添う。それでも器用なもので、ダンの身以外は草木一つ燃える様子はない。業火はダンの命だけを奪う為に、ごうごうと燃えたぎる。みればダンの肉体は――あちこちが黒く焼け焦げていき、少しずつ灰と化していくのが分かる。ダン達を汚すスピアの声がとめどなく続いたが、もはや気にも止めずに、下をうつむいたまま、ヒナとインフェルノに、ダンは語りかけた。どんなに酷く身を焼くあの世の業火だろうと、既に命を賭したこの意志の前には微々たるものだ。そんなことを思って、ダンは再び口元に不敵な笑みを作る。

「はっ……最初はよぉ…………この命使って……あのクソ野郎を倒せんなら……それもいいかと思ったぜ…………けど違う……そうじゃねーよな……俺は……死ぬまで……生きなくちゃなんねー…………だってたとえ何があったって…………俺たちゃあ今こうして笑って……泣いて……願ってんだ、もんな…………なにかを掴むため……叶えるために……守るためによ……」

 ダンはもがき苦しみながらも、一縷の希望を託して身を焼く黒炎に抵抗を見せた。黒炎はなおも勢いよくダンを死に至らしめんとして黒く黒く、燃え盛った。しかしなんと――ダンの体を覆いつくしていた禍々しい黒さの中に、一瞬ボッと、赤とオレンジ色が混ざった発火が混ざり、インフェルノはその異変を察知する。

「!? 僕、どういうことだ!? 今一瞬、お前の炎が……力を使う分のテーゼなど、もう残っていないはずでは……!!」

 後に続き幾度も発火を見せた赤とオレンジの炎は、ダンの身体を元に戻そうと治癒の効果を働かせる。それはダンが命題者として起こした、土壇場での奇跡。ダンは今まさに、命題者としての誓いを遵守したことによりその身にテーゼの力を生み出すことに成功していた。生死の狭間で、無意識にテーゼから状態回帰の炎を生み出し、呪いの炎に抵抗を見せる。

「……だったら、それ追わねーでどうするよ…………俺は生きるぜ…………たとえ目の前に、なにがあったって……死ねねーよ……! まだこんなとこじゃあ…………俺は生きる…………! だってここにいるってことは、それだけで……願いを……理由を……! 理想を持てるって、ことだからだ……!!!」

 ダンの意志と共に、呪いの炎はいっそう激しくダンの身を燃やしていく。しかしそれでもダンの、灼熱の意思は揺らぎない。その業火をものともせず、インフェルノの首元の枷の破壊、その一点のみを願う。ダンの状態回帰の炎も治癒の力で及ばずながらも助力をし、そして――。

 

ピシリという鈍い金属音と共に、金と銀の首輪に、小さな亀裂が走る。


「ダンさん…………! 首輪に、ヒビが……!!」

「バカな…………信じられん…………!! 僕の意志が呪いを掛けた術者の定義を……上回るというのか…………!!? そんな…………こんなことが…………!!!」

 インフェルノが、今までで一番の驚きを見せる。次に、自分の手とは異なる、細くつややかな両腕が、ダンの首輪を握る左手に重なる。それは――ヒナのものだ。

「ダンさん…………ありがとうございます…………確かにそうです、その通りです…………!! ここは…………終わりの場所じゃありません…………!! 確かにお父さんには……もう会えないかもしれません…………でも私は……確かに意思を持ってここにいます…………何かを望み進むことができます…………きっとお父さんも、お母さんだって……私にそれを願います!!」

 身を焼く炎の痛みなどもはや感じない。業火など、この体を流れる血の熱には、はるか遠く及ばない。ヒナに添えられた左手に、ダンはさらに力を込める。

 ピキッ、ピキリと、首輪に幾重にも亀裂が走る。亀裂は徐々に、大きなものとなっていく。

「なんという、我がインフェルノの……赤の望王の力を封じ込めた枷の首輪が……………!!!」

 待ってろカノン。俺にまた、理由を与えたのはお前だ。例え何度。幾多もの障害が目の前に立ちはだかったとしても。それを全部乗り越えて。俺はお前に合いに行く。お前が世界を壊すのなら。俺がそれを止めてやる。お前が嘆き悲しむのなら。俺がお前を救ってやる。この命を再び賭して。またお前を救ってやる………………!!

その身に紅蓮の意志を灯し、ダンは遂げるべき理想を抱いて、そして己の心血を、ただ一つの言葉に込め、叫んだ。


「砕けやがれぇぇぇぇぇーーーーーー!!!」


 それは、望みの王の想定を超えた、紛れもない奇跡。インフェルノの力を封じ込めた金と銀の首輪の枷は、音もなく二つに砕け、割れ落ち、テーゼの粒子となって消失した。 

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