インフェルノ・イデア

にしき

―俺を生き返らせた親友が世界を滅ぼしそうなので―上

■プロローグ


 走る、走る、走る。決死の覚悟を以て。辺り一面を広大な火の海と化したエテルニア邸は、死地としてすでに一刻の猶予もないことを告げていた。それでも従者として――そして友として。己が主の活路を探す。目前ではかつて銀装飾を施され佇んでいた大極柱が、今は文字通りの火柱となって赤黒くごうごうと燃え盛っている。

「……っ、まだ走れるか、カノン!」

「はぁ、はぁ……まだ、大丈夫さ……ダン。けど少し、息苦しいかな……」

従者ダン・アッシュネスは主人カノン・エテルニアを、なんとかこの窮地から救い出さなくてはならなかった。しかし、足取りの遅くなってきたカノンに気を留め、ダンは歩幅を合わせながら歩く。

普段から何かと活発なダンであればまだしも、読書や音楽をたしなむことの多いカノンには、この状況が重荷であることが明白だった。そしてダン自身も、そろそろ呼吸が苦しい。やはり、残された時間はそう多くない。

「はーっ、はーっ、頑張れカノン、もうすぐ出口……――!?」

突如、ダンが視界から振り切った今しがたの大極柱が焼け落ちるとともに、天井がダンとカノンの頭上めがけて崩れ落ちる。

「――カノン! 上だ!!」「……えっ!?」

 頭上から降り注ぐ危機に素早く察知するダン。代わってカノンは、反応が一瞬遅れてしまう。「―――――!!」

 カノンの一瞬の遅れに際したダンは、即座にその場で走ることを止めて力の限りカノンを右の肩で突き飛ばした。そして――。

天井の崩れ落ちる轟音と共に、ダンは燃え盛る瓦礫の山に飲み込まれてしまう。

「ダン!? そんな、僕をかばって……!!」

 まだ視界から何とかカノンの様子は窺えるものの、すでに潰れているのだろう、両足の感覚がない。脱出は不可能。

 そしてダンは、潔く自分の命運を悟った。

「言ってる場合じゃねぇ! お前は早く外に出ろ!!」

「そんなのだめだ、僕は、君を置いてなんて……!」

「俺に構うな!! まっすぐに出口を目指せ!!」

「……………………っ、」

 ダンのその言葉にカノンは一瞬険しい表情を作った後で、「すまない」と一言だけ呟き、ダンに背を向け出口へと走り出した。

 ダンにはまだ些かの懸念はあったが、すでに外は目前であって、すぐにカノンが大広間の出口へ姿を消していく姿をその目に焼き付ける。

「無事に出られた、みてーだな……」

後に残されたダンはうつろな意識の中不意に、今日くらいはと、執事の服に袖を通したことを思い出した。口調や所作、姿勢、素振りまで、どれをとっても使用人としてまるでなっていなかっただろうが、「そのほうが君らしいよ」と言ってくれたカノンの笑顔を思い出す。結局のところ、暗黙の了解として、ダン・アッシュネスの役割は主人の護衛、その一点のみだった。物騒な武器商を営むエテルニア家――その跡継ぎであるカノンは旧友に当たるダンを側近として信頼し、二人の関係は成り立っていた。当然のごとくダンにとって、今こそが自身の使命を果たすべき時に違いなかった。

なぜ、もっと早くこの異常に気付けなかったのか。ダンは、齢十八にして自身の不甲斐なさを噛みしめる。しかし、すぐ次の瞬間には――。


「どうだカノン、最後に……いい仕事、できただろ……?」


その身を焼く業火の中、潰える寸前の意識でダンは、それでも一抹の安堵を覚えるのだった。



■第一章


 二つの瞳はゆっくりと開かれ、広がる闇夜の世界を映し出した。そしてつかの間の空白の後、少年は自らの記憶を思い起こす。

(俺はダン・アッシュネス……商業都市バルトヘントの、エルテニア家に従者として仕えていた……)

ダンは自分が何者であるかひとまず理解し、まだあいまいな記憶のまま足元で輪を描く淡い緑の光に疑問を抱いた。光源は今も地面から幻想的なオーラを放っている。

見当がつくはずもなく視界の先に目を配って、ここが商業都市――バルトヘントの下町、その広場の一角であることに気付いた。すでに夜も更けているだろう、人の気配などなく、静寂があたりを支配している。

「――永く。久しいね、ダン」

「っ!?」

 ダンはとっさに振り返る。なんの気配も感じられずにいた中、後ろから声をかけられたのだから。

「本当に――君に会いたかった。やっと……それが叶った。君と再び、言葉を交わせる」

 その声の主を、ダンが忘れるはずもなかった。彼カノン・エルテニアとは、主従の体裁こそあれど、幼少期より日々を共にしてきた、盟友と呼べる間柄だ。

 カノンの高貴ゆえに良く整った顔立ち、その表情を、夜の月明かりが照らし出している。再開を待ち望んでいたはずの彼は、しかしダンから10メートルほどの距離をとり、その場から歩みを進める様子はない。まるで氷塊のような冷たさの瞳と共に、喜びと悲しみをかき混ぜた複雑な表情だ。ダンの知りえるカノンの温厚で角が立たない印象とは、だいぶかけ離れているように思えた。この状況は、明らかに異質だと。いかに無骨なダンと言えど、仕向けたのはカノンだと容易に推測ができた。

「カノン、こりゃどういうことだ? 心当たりが無けりゃ記憶もなんだかあいまいなんだが」

 ダンの問いかけの後、カノンは思慮深くダンを見据え、そして言葉を返した。

「ダン、僕の十七の誕生日を覚えているかい?」

「お前の誕生日……あぁそう、そうだ」

 それは、ダンにとって最近の出来事だった。屋敷で誕生パーティーが開かれるということで、わざわざ新調したスーツを着込んで、カノンを祝ったことを覚えている。

「お前はその日の主役にもかかわらず、俺と地下の酒造庫でシャンパンを飲んでた。『あんな建前だらけのパーティーまっぴらだ』ってな。俺を笑わせた後でお前も笑った……その後で……」

「あぁ、懐かしいね…………それで?」

 ダンの身に戦慄が走った。明らかな不条理。身を焼く炎の感覚。自分自身が今ここに存在していることの――矛盾。

「いつの間にか屋敷のあちこちが……炎の熱に焼かれていた。地下にいた俺たちは逃げるのが遅れて、地獄のような熱さで……もうろうとする意識の中、なんとか出口に差し掛かった所だ……カノンの下に、火柱の塊が崩れ落ちてきて……俺はそれをかばった。俺は瓦礫の下に生き埋めになって、それで……」

「そこから先に、君の記憶はないよ」

 カノンは静かに断言した。それはダンの結末と異質な現在を意味している。

「君はあの日、命を落とした。僕の身代わりとなって」

「…………嘘だろカノン、悪い冗談だと言ってくれ……!」

 ならば何故、自分はこうしてカノンと会話をしているのか。ここが冥府の底だとでもいうのだろうか。ダンは自分の身に何が起きたのかまるで理解が及ばなかったが、カノンの憂いに満ちた表情で、彼が何らかの、人の道を踏み外していることだけを悟った。

「君がいなくなってから、僕は深く悲しんだ。まるで半身を失ったかのように……僕は絶望の淵にいた。そんなとき、『声』が聞こえたんだ」

「声、だと……!?」

カノンの顔色を覗き込んだダンは、その瞳がほとんど色を失っていることに気付いた。人の目であるはずが、まるで人形劇のくぐつの様だ。

「声の主は器を探していた。自身が現実の世界に干渉するための器を――それに相応しい者が僕だと。魂を捧げ忠誠を誓えば、どんな願いも叶えられると。声の主は僕に告げた」

「おいカノン……お前、一体どうしちまったんだ……!?」 

ダンには、全く見当がつかない。そんな幻聴が、日常的に聞こえてくるはずがない。魔術や伝承など、その手の類にカノンが魅入られてしまったとしか判断がつかない。

「……僕は、その誓いを受け入れた。『望みの王』……その存在にこの身と魂を捧げ――君の体を再生させた。君の魂を、この世に呼び戻した」

『呼び戻した……!? なんだそれは……そんなことがっ……!」

 そんなことは不可能だ。その不条理がまかり通るのなら、どうして人は死を悲しむのだろう。

「名残惜しいけれどダン……今はまだ、安らぎの時じゃない。僕の言葉は忘れてくれ。そしてその時が来るまで、どうか穏やかに生きてほしい。このバルトヘントに戻ってきたのも、君に会いたいと願うただ一心からだ。今の僕には願いが……叶えなければならない理想がある」

「っ、カノン!!」

 カノンは、ろくな説明もせずにダンに背を向けると、その場を去ろうとする。ダンはカノンの歩みを止める為に前に乗り出すが、バランスを崩し地面に身を打ってしまう。

「なんだ、これ……!? 足が……」

 ダンは自分の足が、鉛のように重くなっていることに気付いた。不可解な力で、移動の自由を極端に阻まれてしまう。まだ足元を漂う緑の光源が、何か関係しているのかもしれない。

「さよならだダン、僕は行くよ。この進みを止める訳にはいかない……僕は必ず、願いを成し遂げてみせる。たとえその代償に――この世界が滅びようともね」

カノンがダンに背を向け放った言葉は、ひどく冷たく、ゆえに揺るぎないものに感じた。カノンは途方もない野望を背負いこみ、変わってしまったのだと、ダンは考えざるを得なかった。

「……この世界を……壊す……!? 何言ってんだ……お前っ……!」

「…………僕は失った。かけがえのないものの全てを……この世界は僕には酷すぎる。僕は僕の世界を取り戻すために……この世界を切り捨てる。そう、言ったんだ」

カノンの表情には、迷いの類が微塵も混じっていなかった。その相貌に宿っているのは、光なき純粋な狂気。旧友だからこそ、ダンにはそれがすぐに分かってしまう。カノンは揺らぐことのない意志で、この世界と引き換えに、遂げるべき願いの成就を望んでいる。

 ダンの意識はひどい混乱に襲われたが、それでもしがみつく様に、カノンにまた言葉をかける。

「分かるように説明しろカノン……! なんで、どうしてお前は、俺をっ…………!!」

 ――俺を、生き返らせたんだ。


「ダメだカノン、こんなの間違ってる――いや、間違ったのはわたしのほう……だったのかな」

「いいや、君も僕も……間違ってなんかない。君がこの力をくれたから、僕たちはまた再会できた。ダンも……生き返らせることができた」

 カノンの言葉の度に、彼女は言葉を失わざるを得なかった。彼女も現在のカノン同様に人の枠組みから一線を画した特異な存在であったが、それでも死者の蘇生に限ってはその手段を知りえず、到底不可能な事象に違いないと思えたからだ。ましてや、世の理から外れ、常人と体の造りが異なるこの身を、現世に呼び戻す手段など。

「きみがどうやって摂理の法を搔い潜れたのかは分からない。けれど、その対価に支払ったのは……!」

「この小屋だけは残しておいた。君がいたこの場所だけは、消すことができなかったから……もうじき夜が明けるころだね。朝が来ればダンが目を覚ますはずだ。それまで、ダンを見ていてあげてほしい。その後のことは……案内役も残していくから心配はいらない」

 そう言ってカノンは身をひるがえし彼女に背を向けた。哀愁を漂わせながら、とても、どこかもの恋しそうに。

「自分が何をしたかちゃんとわかってるくせに……だからきみは、こんなことをしてまで生き返らせたダンに正面から向き合えないんだ……! こんな、こんなことって……」

 背中越しに向けられた彼女の言葉にカノンは、一瞬間を置きうつ向いて、そして、また身を翻し――彼女を抱き寄せた。

「ごめん、こんな中途半端な再会しかできなくて……! 待っていて欲しい。僕は必ず、君を取り戻してみせる。君と僕とダンの三人で……! 笑いあえる幸せな世界を取り戻すから……だから、どうか……僕を忘れないでほしい」

「――っ、カノン…………」

 もう、自分が何を言っても無駄なのだと。その身の全てを賭して、他のなにもかもを犠牲にしてでも、彼はいつかの幸せな日々を取り戻すつもりなのだと。自らの宝物だった日常からカノンの覚悟を悟り、彼女は咎めるのをやめ、静かに、カノンを抱きしめ返した。


「………………」

朝だ。鳥の囀りが聞こえる。最初に目に留まったのは、どこかで見たことのあるような――馴染み深い木目の天井だった。エルテニア家の彫刻が施された大理石の天井ではなく、古んだ木の天井。ダンは、覚えがあるベッドの上で目覚めの朝を迎えたのち、自身の記憶があいまいなことに困惑する。辺りを見渡す限り、生活感のある独り身用の小屋であるようだった。

「あぁ……昨日のあれは本当に現実かよ。しかもいつの間にどこぞのベッドの上だ、あいつがご丁寧に手配して、運んでくれたっつーのか?」

窓からは、日の光がさんさんと差し込んでくる。けれど夢などではない。夢であってほしいが、はっきりとよみがえる記憶が、あの深い夜の終わりに、自分が意識を失ったことを告げている。しかし、いよいよカノンが一体何をしようとしているのか、確信には至れなかった。ダンは天井を見つめたまま、自分の奥歯を嚙んだ後、もはや口癖のように、昨日の今日でもう何度目かも知れない言葉を繰り返した。

「ちくしょう、一体何が起きてやがる。訳分かんねーぞ」

ダンが困惑したままでいると、不意に小屋の扉が開いた。一人の小柄な女性が中に入ってきて、ダンに声をかけた。

「よかった、ちゃんと目が覚めたんだね。気分は……どうかな」

 気さくに話しかけてきた女性は背中のあたりまで伸びる淡い緑髪をなびかせながら、こちらの様子を窺ってきた。落ち着きのある青を基調とした町娘の恰好をしていて、年齢はダンと同程度だろうと思われる。

「……そうだ、ここは俺がガキの頃に見つけた秘密基地で……お前は……っ、悪い、知らない間柄じゃないはずなんだが、どうにも記憶が」

 そしてダンの思考を苛んだのは、知らないはずがないのに思い出せないという、ひどくもどかしい感情。すると、目の前の町娘らしい女性は少し残念そうな様子で、

「うん、秘密基地はご名答だね。わたしの記憶がないのは偶然なのか、意図的にか……ダン、わたしはきみのことをよく覚えてるよ。わたしたちは親しい間柄だったんだ。カノンを加えて、三人で」

「カノンを、あいつを知ってるのか!? あいつは、今どこに……!」

 とっさに、なかなかの剣幕で大きな声を上げてしまうダン。けれど町娘は、ダンの態度にひるまずに、どこか懐かしそうに、哀愁のようなものを漂わせながら言葉を返す。

「……ごめんねダン、もうあんまり時間が残されていないみたい。今のわたしはここ、バルトヘントだった場所の風景みたいなものだから」

「なんだそれ、バルトヘントだった場所……? そうだ、ここは商業都市バルトヘントなんだよな? にしては、なんだか静かすぎじゃねーか? なんつーかもっと、客寄せの声とか、馬脚の足音とか……ガヤ音が聞こえてくるはずだと思うんだが」

 ダンがそう意見した後で町娘は、返す言葉に困ったように、表情を曇らせながら立ち上がると、

「……誰かがきみに説明しなきゃいけないんだ。その役割がわたし」

 そう言った後で町娘は、ダンを扉の前まで招きこんだ。

「さぁ、外に出よう。まずはこの事実を……受け止めなくちゃいけない」

「一体全体どうしたってんだ? そうかここ、街はずれで――」

 そう言った後で、ダンは言葉を失った。頭の中が白くまっさらになってしまい、つかの間の時、静寂がその場を支配した。自分の目を疑ったその後で、町娘の表情の深刻さの意図を、どうにか理解することができた。バルトヘント、ダンが育った貿易の大都市のあった場所は、目の前の小屋以外の一片を残さず、全てがさら地と化していた。

「おいあんた、嘘だろ? なんの冗談だよ、ここがバルトヘント? そんなはずねーだろ!? ここはただの荒れ地じゃねーか!!」

「……ダン、まずは真実を受け入れてほしい。ここはつい昨夜まで、バルトヘントがあった場所だ。そして今はどこでもない。きみが生き返るのと同時に、全て消えてなくなった」

「消えて……なくなった!? なくなったって、ここには何十万ってやつらが住んでて、」

「全部消えてなくなったんだ。街も、人も、ここにあった全部。君の蘇生と引き換えに」

「……………………!?」

 ダンがその事実を受け入れられるはずはない。望んでいるはずもない。言葉通りのこの街のすべてと、ただ個人の二度目の生。つり合いが取れているわけがない。無かったことにできるのなら、迷わずこの命を差し出す。

ダンは、足元から音もなく崩れ去り、地面に両膝をついた。そして、思わず後悔の念がのど元を通って――罪を背負った懺悔の言葉になる。

「俺は……まだ赤子のころ、この街の孤児院で引き取られた孤児だった。アルバの孤児院のじいさんとばあさんにはいつも世話を焼かせて迷惑をかけて……それでも一人で働けるくれーまで俺を育ててくれた。だから俺には言葉にできねーほどの感謝があった」

 そのことを確かに覚えていた町娘は、今はただ短く「うん」とだけ答える。

「カノンのとこで働くようになって俺は……いい稼ぎができるようになって、その金で孤児院のガキどもに旨いもんを腹いっぱい食わせてやれるのが何より嬉しかったんだ……」

「その話も……お酒を飲むたび言ってたよね」

 その不条理の矛先をみつけられずに、ダンは前のめりになって、壊れそうなほどに握りしめた拳で、地面を力の限り叩きつけた。そしてありままむき出しの感情を、バルトヘントなき後の大地に吐き捨てる。

「もう……どこにもいねーのかよ!! あいつらの満足そうな顔は、もう二度と見れないのか! 俺なんかより、あいつらの命のほうが、よっぽど……!!」

「…………」

 町娘は、複雑な感情を隠しきれなかったが、それでも――これが自分にできる最後のことなのだと、同じく地べたに膝をつき、ダンに寄り添うようにして自身の心の内を告げた。

「ダン……どんなに納得のできない理不尽だったとしても、事実としてこれはきみに与えられた二度目の生。そして、これから先をどう生きるのかも君の自由だと思う。君はもう人の理の外側に立っている……尚のことかもしれない。バルトヘントの人たちの無念を思って復讐する権利だって今の君にはある……そして、今のカノンに力のきっかけを与えたのはわたしだから。わたしにも罪はある」

 ダンは、町娘の言葉の意図が正しくくみ取れなかったが、無念や復讐といった言葉が、今の自分の原動力になりうるものだという事実を実感する。しかし町娘は、

「それはカノンにとって君が、かけがえのない人だったっていうこと。彼が生まれ育ったこの大都市を犠牲にしてでも、君ひとりに生きていてほしかったって事実。だから……」

 ダンと目を合わせ町娘が心の内を告げる最中――遂に、その時が訪れようとしていた。彼女の身体の周囲を、緑色の光源が取り囲む。

「なっ、お前――」

 いきなりの事態に困惑するダンだったが、思い返せばその光源は、自分が生き返ったらしいときの周囲を照らしていた光源と同じものに思えた。

「……これはテーゼの光。全ての存在を司る始まりの元素。今のわたしはバルトヘントだったテーゼから再構成された過去のわたしの記憶。自分の使命に意識を集中させて今まで留まっていることができたけど、バルトヘントがきみ自身に変わったから、そろそろ存在を保つのが限界みたい」

「それって、お前……このまま消えちまうってのか!? いったい、何が何だか……」

「本当のわたしは、もうこの世界のどこにもいないの。今のカノンはその事実……現実に囚われてしまってる……多分今のカノンには、願いに応じたテーゼの力さえあれば、できないことはないんだと思う。原理は分からないけど、やろうと思えばこの世界を丸ごとテーゼの光に変えて、滅ぼすことだってできるはず……」

「なっ、嘘だろ……そんな、そんなことが、本当に今のあいつに!?」

 今の町娘の言葉は――あの再会の夜に、カノンが言っていた言葉の真意とほとんど一致しているように感じる。

「死者であったきみを蘇らせることは――わたしたち『命題者』の力を使っても叶わせることはできないの。そういう制約がかかっているから……ましてやただでさえ普通の人と体の造りが違う命題者(わたし)を再構成するなんて」

 次に彼女が告げた制約の意味は、今のダンにはほとんど理解が及ばない。ダンが返す言葉をなくしたままでいると、町娘ははっと我に返って、

「最後だっていうのに話がそれちゃったね。それで、これからわたしが言うことはただのわがまま。一方的で無責任なだけの、きみへのお願い」

「……あぁ」

 そういうわりに彼女の瞳は愁いを帯びながら真剣のそれなので、ダンも素直に、彼女の誠意をくみ取る。


「ダン、カノンを助けてあげてほしい。それができるのはもう、この世界できみだけだから」


 彼女のその言葉を受けて、ダンは一つの真実に気付いた。カノンは彼女と自分以外の過去を――全て切り捨ててしまったのだと。その後でダンは、また少し下をうつ向いたが、彼女にもう時間が残されていないことを悟って、

「こんな時に悪い、やっぱしまだ思い出せねーんだ。お前、名前は?」

 本当に――これが最後の時であることを痛感し、目元に涙を浮かべながら、苦笑いをしてみせる町娘。

「……そっか、それがやっぱり寂しいけど……わたしはロメリア。ロメリア・アルスト。いつかちゃんと――思い出してね?」

 今の自分に、出来るだけのことはした。後のことは、お願いします――そう思いながら、自ら亡き後に目を覚ますだろう、『あの人』へと手綱を託す。

直後、彼女の身体は緑の光源――テーゼに変わり、消失した。

ダンは実質初対面だろう彼女がこの世にもういないという事実に、なぜか半身を失ったかのような苦痛を覚えた。出会ってからわずか数分足らず、どうしてこれほどまでの痛みなのか、今のダンには見当がつかない。ダンはやけっぱちになり、そのまま地面に大の字で寝ころんだ。

「あぁくそっ、俺はどうすればいい……頭ん中がぐちゃぐちゃだ」

 ダンはまだ頭の中が混乱したままで、気持ちの整理もできなかったが、唯一、あの町娘――ロメリアの、カノンがバルトヘントを犠牲に自分を生き返らせたことこと、そしてカノンを助けられるのが、もうこの世界で自分だけという言葉を受け入れる。

「カノン、お前は……俺にどうしろってんだ。余計に訳が分かんねーぞ」

「私も訳が分からん。一体何が、どうなっているというのだ……!?」

 そんなこと知るか。質問に質問を返されても困るだけだ。他人に聞かれてすぐ答えられる様な疑問なら、わざわざ物思いにふけって地べたに寝転んだりしないと、ダンはふてくされながら言葉を返そうとする。

「そんなの俺が聞きてーくれー……だっ……!?」

「聞きたい事が山ほどあるぞ……? よくもまぁ従者の分際で、主人をこのような姿で幽閉し……のうのうと生きていたものだ!!」

 そしてようやく不自然に気がつく。自分とは異なる、もう一つの声。その声は聞き覚えのない幼さと共に、ダンへと混乱に似た違和感を与える。ダンはゆっくりと自分の首を、声のする前方へと向けた。

 移り変わった視界の先には、恐らく十歳程度だろう、幼い姿の少女がいつの間にか馬乗りで、こちらを鋭く睨みつけていた。めらめらと燃える瞳はとてもきれいな赤色で、同じく真っ赤に輝く長い艶髪をきらきらと腰の辺りまでなびかせていた。ダンの赤茶けた地味な癖毛とは比べることも愚かに思えるような、まるで真紅の宝石の可憐美だ。そして首には純正の、めったにお目に掛れないだろう、金と銀のぎらぎら輝く首輪を輝かせている。まさにどこぞの王族のお姫さまが、と言った所だ。彼女は華奢な両腕でダンの胸ぐらを握りしめ、その真紅の瞳に、明らかな怒りを灯している。ダンに心当たりが全くない辺り、完全に自分と誰かを間違えている。 

「………は? お前、誰……」

「ここで会ったが百年目! 我が僕(しもべ)よ! 主に背いたその罪……己が身を持って体感しろーーーっ!!」

 議論の余地も介さず少女は、華奢な体でダンめがけて飛びかかると、その首元へ勢い良く噛みついた。少女の租借力である為に、大事に至ることはないだろうが、肉食獣のごとく食いちぎりに掛ってきた少女の牙のダメージは、想像の範囲をゆうに超えていた。

「いってぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーっ!!!」

その時バルトヘント跡の大地に、叫び声が大きく響き渡ったのは言うまでもない。日の光がさんさんと降り注いで、一日の始まりを告げていた。小屋の中の幾ばくかの銀貨、カノンの字で記された手紙、そして三人が映ったいつかの写真に気付くのは――その後すぐのことだった。

 

広大なレヴァイア大陸全土の生命を巻き込み争われた比類なき血の惨劇――天空(クロノス)大戦。大陸を統べる者は天を統べると語り継がれたことがかの所以となる。結局の所、北も南も西も東も、どの大陸の覇者達も、大地を死で溢れ返らせただけで、レヴァイアの統治に至る事は出来なかった。長きにわたる戦乱の後、国の先導者達は失ったものの大きさを知り、停戦条約のもとに大戦の幕を閉じたのだった。

そんな欲望と因縁が渦巻く時代の影に、己が望みを求めて、禁忌の力を振るい、戦場を駆け抜けた者達がいた事は、すでに葬られた歴史である。その存在を賭して、命を燃やした人ならざる者達は、世の深淵にて『命題者』と呼ばれた。彼らの存在は誰の口からも公にされることはなく、知るものは知らぬふりをやり通した。

血の終戦から緩やかに、世界に十年の時が流れた。人々はやっとのことでありふれたささやかな幸せを手に入れ、真っ当な生を謳歌しつつあった。


命題者を知るものは、彼らを抑止する術もなく、恐れ、無いものとして目をそむけ、そして忘れることにしてしまった。


 世界の東、イースト大陸の中でも屈指の商業大都市バルトヘント(がかつてあった地)と、海を越えて他大陸との流通の窓口を担う港町ファレナ。その二つの都市の間に、商人や旅人たちの中継地として、田舎町、バレーナは存在している。まだ薄暗さの残る早朝、バレーナで唯一の宿屋、オーベルジュ・マキノから、一人の旅人が旅立とうとしていた。宿屋の娘ヒナ・マキノは、不安を交えながらそれを見送る。

「短い間ですが、お世話になりました。昔ながらのいい宿ですね」

「あっ、ありがとうございます。けれど気を付けてくださいね、最近はまたランスファミリーが何を嗅ぎつけてか町中をうろついています…………どうか、お気を付けください」

 最近のバレーナの町ではまた例のマフィアグループ、ランスファミリーがちらほら見受けられるようになっていた。グループのリーダー、ランスはずる賢く計算高い男で、表立って目を引くことはしないが、裏では禁薬の取引、殺人や暗殺、密輸、密造、恐喝など、悪いうわさが後を絶たない。そのせいで町の外からやってくる客人たちは、屈強な用心棒を携えて出入りするか、中継を介さずにそのままバレーナを通り越すようになっていた。ついこの間まではそれなりの賑わいを見せていた田舎町も、そんなランスファミリーの黒い噂話によって、すっかりと低迷の一途を辿ってしまっていた。最近ではこの宿屋を利用する人もめっきり減ってしまって、実際この宿に泊っていた客人も、今旅立とうとしている青年一人きりなのである。穏やかで物静かな印象の青年は、自分と同じくらいの年代だろうか。体は細身で、透き通った水面のような水色の頭髪、雰囲気は高貴なものを醸し出しているが、しかし旅人だと語るような、そんな力強さは感じられない。だからヒナは、久々の客人が旅立ってしまうのも少し悲しかったが、それ以上にランスファミリーの事を懸念して、旅人に用心の言葉を告げた。

「分かりました、細心の注意を払います。お気遣いありがとうございます」

 そう言ってほほえみかける旅人の表情に、ヒナは不覚にも一瞬見とれてしまう。彼は議論の余地なく、何とも言えない二枚目だ。その後に旅人は、ああそうだと、思い出すようにつぶやいた。

「もしかするとこの宿に、僕を訪ねてまた旅人が現れるかもしれません。その際はお手を煩わせるようで申し訳ないのですが、言伝をお願いしたいのです。カノン・エルテニアは、港町ファレナへ向かったと」

 頼みますと、最後まで心配そうな表情のヒナに別れのあいさつを告げ、カノンは町の北口へ歩き出した。


 町の端を示す木組みの柵を伝いに歩くこと数分、石造りの柱を目印にした町の出口が見えてくる。それはちょうど大地が明るみを帯びた頃合いで、カノンの視界の先に緑の大地が延々と広がっているのが分かる。これまでに通った旅人が地面に道標を示しており、その先にはうっすら大地と海の境界線が覗える。その情景は少なからずカノンの内の探究心を刺激したが、

「よう兄ちゃん、こんな早くの旅出なんて、随分慎重じゃねぇか。何をそんなに用心してんだ…………?」

 石柱の蔭からゆらりと姿を現した怪しげなスーツ姿の男達に、カノンは行く手を阻まれてしまった。カノンの視線の先で彼を待ち構えていたのは、ランスファミリーのボス・ランス本人と、その手下四人。ランスは紫色のスーツを身にまとい、オールバックにかき上げた灰色の髪の上に、黒のサングラスを乗せている。部下たちも黒のスーツを身につけ、同じサングラスで目元を隠している。

「…………なんてことはありませんよ。たちの悪い輩が町の空気を濁らせているので、せめて当人に出会わないよう早朝の旅立ちを決めたのですが……このありさまです」

「は…………随分な物言いだ。その輩の一人が先日、原因も分からず変死したぜ。その時逃げ延びたうちの一人が、殺ったのはてめぇだとよ…………!! はっ、どう落とし前付けてくれんだ、あぁ!?」

 常に命のやり取りが身近にあるギャングの世界で、怒り狂うランスではない。内に煮えたぎる激情を制し、ランスはカノンを威嚇した。

「……このまま行かせてはくれませんか? この道の先の空と海と大地を眺めながら、晴れやかな気分でこの町を旅立ちたい。あなた方もこの町の近辺で好き勝手にやりすぎた……引き際が肝心でしょう」

カノンはランスに、せめてもの提案をした。それだけカノンは今の晴れやかな気分を、阻害されたくなかった。

「ふん、何を言い出すかと思えば…………どうやって俺の部下を仕留めたか知らねぇが、四人がかりだ! 殺っちまえテメェら!」

 今か今かと身構えていた部下達は、スピアから指示が下されると同時に、懐からジャックナイフや警棒など物騒な凶器を取り出し、一斉にカノンに襲い掛かった。しかし。

「ぐ…………? ぉ…………がっ…………!」

部下達は皆、途中で立ち止まり、喉や胸元を抑えながら崩れ落ちると、もがき苦しんで遂には動かなくなった。その後でカノンは、

「…………落とし前ですか。そうですね、ならこの件…………」

微動だにもせず、一瞬視線を落とした後、何食わぬ口調で答える。


「あなた方の命で、幕引きというのは…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………???」


次の瞬間向けられた瞳には、悪徳を生業とするランスを以てして、凄まじい敵意が込められていた。人一人には測ることの出来ぬ、深すぎる憎悪。殺意に満ちた眼光が、凍てつくほどの冷たさをもって、ランスの身に死兆を駆け巡らせた。        

一瞬の硬直の後、ランスはなんとか口を開く。

「…………ははっ…………分かるぜ、その目…………目を見りゃわかる…………予想通りだ…………この世の理の向こう側…………その先の超越を知る存在…………………………命題者」

 声を張り上げながら語るランス。カノンは依然、冷たい表情でランスを窺っている。ランスの表情には、明らかな動揺の色が出ている。

「はっ……なんて奴だ、こいつは驚いたぜ。俺は目を合わせりゃそいつがどんな奴か大方の見当がつくのよ…………しかしお前はそれを一切悟らせねぇ…………」

 スピアは言葉に焦りを混じらせながら、なおも測るように口を動かす。

「お前が命題者ってのは分かる……分かるが本質が見えねぇ……テメェ何もんだ?」

「残念ながら、貴方に語る言葉など持ち合わせてはいませんよ…………さぁ、覚悟はよろしいですか?」

「くくっ、そうか…………いいぜ、そういうことなら…………」

 言葉の途中でランスは頭を垂らし、右手で自らの右目を覆い隠した。

「そのテーゼ、頂く!!!」

言葉を言い終えるのより先に、不意を突いてランスは、歪んだ笑みと共にカノンに先手を取った。ランスの深い青の瞳が怪しく輝いたかと思うと、眼光はなんと、直視していたカノンの体中の動きを束縛した。かすかに動揺の色を見せるカノンに、ランスは大胆に、そして不敵に笑い声を上げた。

「はははははははははっ!! 掛ったなバカが!! 俺は悪徳主義の命題者!! 悪行を重ねることで望みの元素――テーゼの力を蓄積させる!! 能力は身体機能の束縛!! この目と直視した対象者の体の動きを奪う……そして……」


「――召喚(サモン)!! 這い出でろ、バジリスク!!!」 


ランスの放った『召喚』の言葉を引き金にして、カノンの周囲の、バレーナの景色は一変した。膨大な量の光り輝くテーゼ――理想を現実へと昇華させる力の源と共に。人間など丸飲みにしてしまうほど巨躯の大蛇が、カノンの目の前に現れた。 

「コイツが俺の奥の手……幻獣種(アニマ)バジリスク!! この大蛇は……目を合わせた生命の存在を石化させる!! 体の自由を奪われたお前は、この蛇眼から逃れることは出来ねぇのさ!!!」

 ランスの言葉に偽りなどなく、カノンは目前の大蛇に見入られ、足元から見る見るうちに石化していく。ランスはすでに敵討ちのことなど忘れて、下品に、害悪の笑みを浮かべながらカノンの石化をあざ笑う。

「どんなに底が知れなかろうが、強大だろうが関係ない!! 無様に石に変わり果てて、俺のテーゼの糧となれ!! 死ねぇぇぇーーっ!!!」

 カノンの体はみるみるうちに無機物の大理石と化していく。しかし――。

「…………くだらない、くだらないよ」

カノンの体を侵食した大理石は、右の瞳に差し掛かった所でその浸食を止め、小さく亀裂が入った後、拡散し、そしてはじけ飛んだ。その下の、カノンの表皮は無傷である。

「!? バカな、どう言うことだ…………! バジリスクの石化を阻止できるはずが…………!!」

技を破られたランスは、何が起きたのか状況を飲み込むことが出来ずに、慌てふためき、そしてカノンを、改めて問い詰めた。

「な……なっ……! 貴様、何を……一体、何者だっ…!?」

「何を凄んだかと思えば――その程度のまやかしが、僕の誓いに届くとでも…………??」

「な……そんなっ……ふざけるなぁぁぁ!! バジリスク!! 奴の……奴の息の根をとめろぉぉぉーーっ!!」 

 主人の命を受け、大蛇はその口を大きく開きながら、カノンめがけて襲いかかる。カノンに向けられた鋭く尖った牙は――しかしカノンには届かず、目前で完全に勢いを停止してしまう。

「…………散れ」

 カノンが吐き捨てた言葉の後で、スピアはいよいよ自身の目を疑った。スピアの理想兵器バジリスクは、カノンが手を触れると、その強固な鱗をテーゼの源に戻し、音もなく消滅してしまった。 

命題者にとって最大の戦力、最後の切り札である幻獣種の喪失は、事実上の敗北を意味していた。後に一人残されたランスは、醜い表情のまま、バジリスクの消え失せた後の虚空を見つめ唖然とする。 

「……………………そんな…………こんなことが……………………」

「さて、残るは本当に…………あなた一人ですよ」

「わ、分かった、すまなかった……! 俺が本当に悪かった……!! だからこの通りっ……い、命だけは助けてくれ…………!!」

「この状況で何を言い出すかと思えば、自分だけが助かりたいと?? ただただ愚かだ……もういい。本当に、これ以上関わりたくなどありません。けれどこのまま、見逃すつもりもない」

 そしてカノンは、またゆっくりと歩み出した。

「やめろ…………来るな、来るな…………!」

 スピアの表情からは、どんどん血の気が引いていったが、カノンにはすでに、どうでもよかった。一歩、二歩と、カノンの歩みがスピアに迫る。もはやスピアにとってカノンの存在は、無慈悲に命を刈り取る死神に違いなかった。ついにカノンの足どりは、スピアの前にまで及び――そして。

「や…………やめやめやめ、やめりゃっ…………!!!」

 次の瞬間スピアの肉体は何の変哲もなく、ただカノンがその隣を通りすぎるのと同時に弾け飛び、テーゼとなって消滅した。




『………………平野、平野、平野、平野……!! おい、目的の街はまだか!? 同じ景色ばかりで私は、いい加減飽き飽きしているのだ……!!』

 すでに日の登り切った正午。がたごとと揺れる馬車の荷台で、木目の入った壁に寄りかかりダンは、自分の頭の中に響き渡るその声に、うんざりした表情で答えた。

「お前な、その質問何度目だよ……もうじき着くだろ。ちっとは静かにしてらんねーのか、インフェルノ」

通算で六度目。ダンは一応覚えていたが、そう言わずにはいられなかった。

『知ったことか! だいいちまだ納得が出来ん!! なぜ私がお前と共に旅になど出なければならんのだ……?? せめて何か面白おかしい事をやって、私の憂いを紛らわせてみせるのが道理だろう! そら、何かやってみろーーっ!』

 そもそも少女は姿を消したままどこにいるのかも知れず、無理難題が過ぎるとダンは思った。一応声が聞こえては来るものの、耳で聞くのではなく頭に直接響き渡ってくる感覚に近い。 端的に言って、少女が人間ではないことだけは確かだった。そんな彼女の名前はインフェルノ。あの世の灼熱地獄の名を冠していた。ひしひしと伝わる現実感の無さにため息をつきながらダンは、希望も持たずにせめてもの提案をした。

「お前な、だったら姿現してこっから外の景色でも眺めてみろよ。あの小屋からここまでの道のりを考えただけで…………涙が出るぜ」

『バカかお前は、いやバカか!! 今私が姿を現してお前を罵倒している所を馬車をひいている老人に見られてみろ!! 不審がって明らかな異質の目を私達に向けるだろう、お前だけでなく私にもだ! 私はそれが気に食わん!!』

それもそうかと、ダンは疲弊して回らなくなっていた頭で考え直した。徒歩でバルトヘントの街を出たダンを、親切に声をかけて乗せてくれた馬車の主人。その恩を謎の少女の喚き声で混乱させるのも、確かに愚かな事だろうと。ダンの前に唐突に姿を現したこの謎の赤髪少女は、ダンと誰かを勘違いして噛みついてきた挙句、反省の色も見せずにこのありさまで、子供の扱いに多少は長けたダンとしてもお手上げ状態だ。


バルトヘント跡地を旅立つ三日前の当初、ダンは残された手紙の内容から、なんとかカノンの足取りを見出した。しかしその時のダンに自分の足以外の通行手段があるわけもなく、ひとまず中継地のバレーナまででも、最短で三日はかかる。そして休み休み野営をしながらでもない限り、到底移動できる距離ではなかった。さらに託された銀貨が二十枚(計二万アイン)ほどでは長旅などもってのほか、たかだか三日程度の食事と宿賃ですぐに底をついてしまう。 さしあたってこの銀貨二十枚という額からはカノンの思惑がそれとなく推測でき、ダンが後を追うことをあまりよくは思っていないようだった。しかし小屋の中にこもっていても始まらないと思ったダンは、小屋から必要そうな食料や小道具をありがたく拝借して旅路を整えた。そして出入り口横の棚上にあった錠前で扉にいちおう鍵をかけ、その足で大地に踏み出したのだった。

最初は自らの足でダンと共に歩いていた少女も、小一時間ほどたった頃には疲れたと言って、体を炎に変えた後、その姿を消した。どうやら少女は霊体となりダンの体に乗り移れるらしく(受け入れるのにそれなりの時間を要した)、早々にダンの頭の中で文句をぼやくようになっていた。それからダンは、聞こえてくる少女の文句に何とか耐え、ろくに飲まず食わず、そして寝ず一心不乱に目の前に広がる広大な大地を歩き続けた。故郷のバルトヘントを代償に生き返った自身の存在意義を追い求める心が、その足どりを止めてはくれなかった。

一心不乱に迎えた四日目の今朝、ダンの前を一台の馬車が通りかかり、そして少し追い越したところで止まった。五十代半ばほどの馬車の主人は、ダンに目的地を尋ねると、「ちょうどいいや若いの、乗ってくかい?」と、気前よく運搬物資と共に、ダンを荷台に乗せてくれた。文字通り三日間を不眠不休で歩き続けたダンにとって、その偶然は奇跡のような、救いの手だった。

そんなこんなでしばしの休息を取りたかったダンだったが、頭に響く少女の戯言をあーだこーだと聞かされて、今に至るという訳なのだ。

『次の町を視覚で確認する努力くらいして見せろー! まだ何も見えんのか!?』

 そうは言っても荷台の中から確認できるのは、手綱を引いて馬を走らせる主人の背中くらいだった。仕方なくダンは、少し声を高く上げて問いかける。

「悪いじーさん。バレーナの中継地まで、あとどんくらいか分かるか?」

 ワンテンポ置いて主人は、同じく少し高い声でダンに言葉を返した。

「もう、目と鼻の先さ。今ちょうど町の外観が、うっすらと見え始めてきた所だよ」

「すまねー、ありがとなじーさん…………だとよ。どういう理屈かは知らねーが、聞こえてるんだろ? もう少し我慢してろって」

『はぁーまったく、つまらん奴だ。お前のような奴と共に旅をするなど、呆れてものも言えんわ……』

今までギャーギャー騒ぎ立ててただろと、心の底からそう思ったダンだったが、そんなことを言い返した後で、また噛みつかれてはたまらない。声の主が呆れて静かになった所でダンは、カノンが小屋の机においていった、あの手紙を読み返した。


 エンパイア歴201年 9月1日

 君の意識が戻らないままにこのバルトヘントを旅立つ僕を、どうか許してほしい。

君が僕に代り炎に身を焼かれてから、一年の歳月が経った。けれど僕は君が命を落とした事実を、未だに受け入れられていない。けれど、君もまたこう言うだろう。僕が生きていてよかったと。それを心から祝福してくれるだろう。だから僕は、双方の願いを、現実にすることを選んだ。君が生きて今そこにいることを僕は心から望んでいる。どうか君が、強く、強くあることを。


僕が掲げた理想を現実に変えた時、僕は君を迎えに行く。その時を夢見て、僕は海を越え、また旅を続けるよ。時が満ちるその日まで、ひとまず、ここに別れの言葉を。


 僕たちをつなぐ絆が、永遠であることを祈って。


無二の親友ダン・アッシュネスへ


                              カノン・エルテニア


手記を読み返した後でダンは、共に添えられていた一枚の写真を手に取った。自分たちの外見は今とほとんど変わらず、そう遠くない日に三人で撮ったらしい。新しめの写真だ。写真の中では中央の少し照れくさそうなカノンを、ダンとロメリアが両杯から挟んで笑顔で笑い合っている。ダンが手に持ったグラスから、場所は酒場、テーブルの上にはイチゴのショートケーキがあり、カノンの誕生会であることが分かる。

物思いにふけった後でダンは、現状が情報不足すぎると思った。ダンは目覚めの朝を迎えた後、ほとんど衝動でカノンを追う決心を固めたが、肝心の足取りが掴めない。そもそも勝手に姿をくらますカノンもかなり身勝手だと思ったが、手がかりとして残されたのは手紙に記された『海を越え』の四文字だけだ。今バレーナの中継地を目指している理由も、その先の港町ファレナへの近道だけという、なんとも心もとない話である。カノンがすでに常人で無い事は分かり切っていて、まともに航路を目指すものかと疑問に思いはしたが、これくらいしか出来る事が無いというのも酷くまっとうな理由である。眠りに着いた死者を一年越しに生き返らせた後で、いったい何をしでかすつもりなのだろうか。安らかに眠らせておいてくれたほうがありがたかったと、ダンは何度目かにまた、そんな思いを抱く。

しかし今さら考え込んでも疲れる一方だったので、ダンはその思いを心の奥底にしまいこんで、また壁に寄りかかり、少しだけ瞳を閉じた。  


「さ、着いたぞ若いの。田舎町バレーナだ」

 主人は入口の前で馬車を止めると、後ろの荷台に乗っているダンの方を向いて話かけた。ダンは荷台から降りて外に出ると、馬に乗ったままの主人に、感謝の言葉を告げる。

「ありがとよおっちゃん……本当に助かった。ついでで悪いんだが、ここから宿屋への道は分かるか?」

「宿屋かい? この道を真っ直ぐ行けばすぐに着くよ。この町は小さな中継地だから、宿屋は一軒だけさ」

主人は、手綱を持つ方とは逆の左手で、町の正面を指さして、すぐにそう答えた。

「なるほど、そいつは手間が省ける……恩に着るぜじ、本当に、ありがとうよ」

「なに、ついでに乗っけてきただけさ。礼には及ばんよ。まだ若いのに旅人やってるなんて、肝がすわっとるもんだ。それじゃあな、無理はしなさんな」

 そう言うと主人は町には寄る気配を見せずに、馬の手綱をぴしゃりと敲いて公道を駆けていき、消えていった。中継地で休まず先に進むとは、何か急ぎの用でもあるのだろうか。ダンは少しの間馬車を見つめたが、不意に我に帰り、自分の足で宿屋を目指した。


「ここ……だよな」

『ふむ、なんとも一般的な、オーソドックスさの宿だ』

 少し歩いた後でダンは、目的の宿屋をみつけ足を止めた。入り口の目上の看板には、「オーベルジュ・マキノ」の名が掲げられている。看板の周りには銅で造られたツタのアーチと子鳥の工芸が施されている。二階建てで、外観の石積みの色は白、屋根には赤のレンガが積み上げられた、確かに正統派の宿屋だった。ダンが入口の取手をつかみドアを開けると、チリンとベルの音が鳴り響き、カウンターの宿娘と目があった。淡い黄色のショートヘアに赤と緑のチェック柄のバンダナを巻いている、慎ましい印象の若い女性だ。茶色のエプロンも雰囲気にマッチしていて、落ち着いた印象を受ける。おそらく、ダンと同世代と思われる。

「あっ、こんにちは。宿をご利用ですか?」

 宿娘は一瞬間をおいた後、ダンに声をかけた。その言葉は、どこかぎこちないようにも感じる。

「……悪い、一つ尋ねたいことがあってだな……この宿に、カノン・エルテニアが泊らなかったか?」

 たとえ一縷の望みだったのだとしても、ダンは問わずにはいられなかった。それが今のダンにできる、生き返ってしまったことへの、ただ一つの償い。今の自分に出来ることはそれくらいしかなかった。しかし次の彼女の返答は、ダンの心を大きく突き動かすものとなる。

「カノン・エルテニアさんですか? その方でしたら……はい、昨日の早朝にこの宿を発っていきましたが……お連れの方ですか……?」

 少女は宿泊者名簿の一番上に書かれた名前を一応確認して、はっきりとそう告げた。ダンの表情は、彼女のその言葉で一気に豹変する。

「なっ……本当か…………? カノン・エルテニアは、この宿に泊まったのか…………!?」

 疲労の為、ほとんど無気力状態のダンだったが、驚きのあまりカウンターに両手をつき身を乗り出した。

「はい、確かに。昨日のことでしたので、名簿にも確かに名前がありますし」

「そうだ、写真が――この、真ん中の男だよな?」

 ダンはカノンが小屋の机の上に置いていった、三人が写った写真を荷物袋から取り出し、宿娘に見せる。

「はい、その方で間違いないと思います。者静かでしたが、穏やかで優しそうな方でした」

 ヒナの語る印象から、ダンも同じく確信を抱いて、目の色を変えた。現在の時刻は昼下がりといったところ。このカノンにたどり着くひとまずの旅は、予想以上の速さで終結を迎えるかもしれない。その思いを抱き足早にダンは、身を翻し宿屋を出ていこうとした。

「助かったぜ…………ありが、っ…………!?」

 振り返りざまに一言礼を言おうとしたダンは、不意に膝から床に崩れ落ちてしまう。

「あのっ、大丈夫ですか……!?」

『ふん、この三日間、寝ず食わずで歩き続けたせいだ。なにもおかしくはないだろう……このまま町を出て、野垂れ死にする気か…………?』

 自分の意識にまた傍若無人な少女の声が聞こえてくるのと同時に、宿娘がダンを心配し寄りかかってくる。ダンは気を張って、頭の中の意識に言葉を返した。

「はっ、笑わせんなよ。そんな簡単に、死ねるわけがねーだろ……!」

「…………? …………??」

 目を丸くして呆気にとられている宿娘を気にする余裕もなく、ダンはしゃがみこんだままなおも自分の意識に語りかけてくる声に耳を傾ける。 

『は、何という愚かな。呆れた奴よ』

「俺はあいつの行いを問い詰める為に生き返ったようなもんだ……死ぬのなんざ怖くねぇ。死ぬ気で追って、あいつを見つけ出してやるよ……!!」

 ダンはそこまで言い切って初めて、現実の宿娘の声が、自分へ向けられている事を悟る。

「あのっ……本当に大丈夫ですか…………!? せめて、少しでも休んでいかれた方が……お代は結構ですのでっ……!!」

 ダンは宿娘、ヒナの言葉を聞いて、一瞬その場で固まって動けなくなってしまった。そして次に、ゆっくりと首を声の聞こえてきた方に曲げると、表情を引きつらせながらゆっくりと言葉を口にした。

「……その、聞いてたのか、今の……」

「あの、お客さんが何もないドアの方を見ながら独り言を呟いていたので……顔色も悪く相当お疲れのようです……こんな状態でみすみす行かせる訳には行きません…………! どの部屋も空いてますので、少しでも休んでいってください……!」

 厄介なことに、目の前の宿娘は本気で自分のことを心配しているようだと、ダンはやや複雑な気分になった。確かに疲弊してしまっていることに違いはないが、そのせいでありもしない幻が見えたり、虚空と会話をしている訳ではない。自分は間違いなく、実現する存在と会話をしている。しかし、それを口頭のみで初対面の宿娘に伝えきることは不可能に近く、極めて困難に思えた。

「ああ、いや気にすんな……大丈夫だ、俺は何もおかしくない」

 額から汗を流してあたふたしながら、そう答えるのが精一杯のダン。

『バカが。今の状態の私の声は僕であるお前にしか聞こえない。何をうっかり口に出して喋っているのだ、バカが』

「うっせえ、二度もバカを言う必要が……!」

「ま、また……この町の医院でよければ、ご案内しましょうか…………!?」

 さらなるへまを踏み直し、もうすでに手遅れだと、ダンは諦めながら後悔した。いくら判断能力が鈍っているとはいえ、こう何度も一人で語り散らしている所を見られては、後で何を言っても永遠につじつまは合わない。

冷静に考えてみると、カノンの手がかりを知るかもしれない目の前の彼女は、今の自分にとって重要な参考人とも言える。自分のことを幻聴と幻惑でできた変人だと判断されると話が明後日の方向に遠のいてしまう可能性もある。初めに己の健全さを証明し、その後で話を聞かせてもらおうという結論に至ったのだった。

「その……なんだ。見ず知らずの旅人なんかに、気を使わせてしまってすまない。けど別に、俺は見えないものと会話をしてるとか、そんなんじゃねーんだ。まぁ確かに、このままじゃ見えるもんも見えねーんだが……」

「…………は……はい…………???」

 さらに困惑して首をかしげるヒナに、俺は何を言ってるんだと、くせだらけの赤毛をかきむしった後、意識下で先ほどのそれに語りかけた。声に出さずに話すのは、未だ慣れないダンである。

『ほら、出てこい……インフェルノ。俺が正常な人間だってことを証明しろ』

『何をざれ事を。私とこうやって会話をしている時点で、お前は正常などとはほど遠い』

『いいからいちいち上げ足を取るな……出てこいよ。話がもっとこじれちまうだろうが』

 目の前の宿娘にとっては沈黙でしかないのだが、その意思下での対話の後、彼女にとって驚くべき事が起きた。まだ忙しない表情で立ちあがったダンの左横から、突然発火が起きたかと思うと、次に炎は人の形を作り、そしてダンのちょうどわき腹ほどの背丈の、幼い少女の姿となったのである。当然のことながら、宿娘の日常で、こんな非現実的な場面と遭遇する機会など、万に一つもありえない。ヒナは目を丸くしながら、ただ茫然とする。

「ひ……火の、妖精さん………………?」

 そして童話やおとぎ話程度の知識から振り絞った言葉を、ヒナはぽつりと呟いた。

「……ふん……全く、頭の回らん僕よ」

「妖精なんてかわいいもんじゃねーよ。むしろ、世界を牛耳ろうとする魔王さまっ……てぇ!! 噛むな、いててててぇぇぇぇぇ!!」

 ダンが言いきるより早く、インフェルノはその尖った二本の八重歯で、勢いよくダンの左手に噛みついた。ダンはぶんぶんと左手を振り回し彼女を振り払おうとするが、効果は見られない。防衛本能が働きダンは、インフェルノに弁解の言葉を告げる。

「分かった、訂正する!! さっきの魔王は訂正する!! お前は可憐だ! 可愛い妖精さんだ!! だから早くっ、この手を離せっ!!」

 そこまで言ってようやく、インフェルノはダンの左手を解放した。そしてダンは、さらに表情を引きつらせ、左手をさすりながら、訳が分からないまま呆気にとられているヒナに向かって、弁解の言葉を口にした。

「…………とまぁそういう事だ。俺はダン・アッシュネス。こっちのはインフェルノだ。こいつは炎になって姿を消せる。消えてる間は俺ん中にいて意識下で俺と会話を出来る。それは俺にしか聞こえないんだ。だからさっきのは独り言じゃなくて、こいつと話をしてたって訳だ」

「は、はぁ…………申し遅れました、私はヒナ・マキノといいます」

 事態の解決に至った様子はなく、むしろ問題を増やしてしまったとすら言えるが、まともな話はできるようになったはずだと、ダンは一先ず呼吸を整えた。そして、珍妙な空気を少しでも変えるために、カノンのことを聞こうとした――まさにその時。鈴の音と共に、ダンの背後の扉が再び開かれた。


「ようヒナちゃん。邪魔するぜ…………?」


中に入ってきたのは、酷くイメージの悪い、全身黒ずくめのスーツ、そして同じく黒い色のサングラスをかけた、三人の男たちだった。小柄、長身、体格のいい男と、特徴が掴みやすい。

「出ていってください、あなた達と話すことなんか、何一つありません…………!!」

「そうはいかねぇぜ……俺たちゃ新しいファミリーのボス、スピア様から言伝を頼まれてここに来てんだ……なぁヒナちゃん、大人しく引き渡した方が身のためだぜ? この宿屋、オーベルジュ・マキノをよ」

 最初に入ってきた小柄の男が、さも気安く、ヒナに宿の譲渡を求める。みるみるうちに、先ほどまでの穏やかだったヒナの表情に怒りの色が灯っていく。

「ふざけないでください……!! このオーベルジュ・マキノは、父の魂です!! そんなことが、出来る筈がありません!! 私の命に変えてでも、私はこの宿を守ります……!!」

 すると次に、長身の男が、いやらしい口調で、威圧を交えながら喋り出す。

「大人しく従った方が身のためだ……ランス様の右腕だったスピア様が、新しくボスの座に就かれた……!! スピア様は以前のランス様のように甘かねぇ……!! ランス様はリスクとデメリットを考え直接的な危害は加えずに裏での暗躍に重きを置いていたが……今のボス、スピア様はそんな回りくどい真似はしねぇのよ……! 直接力による武力行使で、手始めにこの町を支配するおつもりだ……!!! 最初の一手として、この宿を占拠して、町の住民どもの出方を窺うおつもりなのだ……従っておいた方が身のためだぜ……取り返しがつかなくなる前にな…………!!!」

 男が脅迫じみた発言を終えるや否や――ヒナはうるし木のカウンターテーブルを握りしめた右手で勢いよく叩き付けた。そしてすぐに、震える声でファミリーの三人へと言葉を向けた。

「帰ってください…………!! 何があろうと絶対に…………!! この宿は渡しません…………!!!」

 揺るがないヒナの態度を見て体格の良い男がちっと舌打ちをした後、三人は身を翻し宿から出ていく。そして扉の前で小柄の男が、去り際に最後の言葉を吐き捨てる。

「これは単なる脅しじゃねぇ。取り返しがつかなくなる前に、大人しく宿を明け渡す事だ」

 男達が消えた後も、ヒナは少しの間、カウンターに叩き付けた右手を固く握りしめたまま、下をうつむいていた。

「……全く、何と気分を害する連中だ」

 インフェルノはファミリーの出て行った後のドアを鋭く睨みつけ、嫌悪感を吐き捨てた。部外者のダンからしても、応じられるはずがないことはすぐに分かった。何の条件もなく、無償で宿を引き渡せと言われても、そんな話を受け入れられるわけがない。ボスであるらしいスピアという人間に、呆れてバカらしさの類まで感じてしまう。そしてつかの間の沈黙の後、ヒナは、何とか笑顔を取り繕って、ダンに声をかけた。

「酷い所をお見せしてしまって……申し訳ありません。奴らランスファミリー……いえ今は、スピアファミリーと名乗っているのでしょうか……以前は巷……港町ファレナで禁薬の取引、殺人、暗殺……密輸、密造、恐喝など……裏の方面で動くグループだったのですが……最近では弟分だったランスも力を付け始め……この町にも被害を及ぼす様になっていたんです。あの人たちはこの宿がバレーナの元締めと考えているようで、占領して影響力をつけようとしているんです。ですがこの宿は……私と父の、大切な宿なので」

「そうか……オヤジさんは、今どこにいるんだ?」

「分かりません。父はある日突然……姿を消してしまいました。明日でちょうど一月になります。消息は不明で……その後どうなったのか、誰も手がかりはつかめていません」

 ヒナの悲しそうな答えに、失言だったと思い知るダンだったが、極力表情には出さずに、速やかに謝った。

「そうなのか……すまん、悪いことを聞いちまった」

 ヒナはいいえ、気にしないで下さいと言いながら、頭に巻いていたバンダナをほどき手に取ると、それを見つめながら父の話をした。

「このバンダナは、父がいつも頭に巻き付けていたものなんです。いなくなってしまった日に限って、忘れてしまっていたみたいで……今は、私のお守りみたいなものなのですが。父は、この宿をとても大切にしていました。それに父は、多少の無茶を返りみない芯の強い人でした……何か大きな問題を背負って、それで今は帰れないのかもしれません。私には父が、簡単に死んでしまうような、そんな人にはとても思えないんです。だから……なので。私は、ここが父の帰ってくる場所だと信じて、この宿と一緒に……待ち続けたいんです」

「そうか……強いな。恐れ入るぜ」

「気にいったぞ宿の娘……ヒナといったか。なかなかの魂の持主だ。この堅物男にも、見習わせなければなるまい」

「おいインフェルノ。今そこの……ヒナと俺の間に、かなり扱いの差を感じるんだが」

「ふん、当たり前だろう。今、お前はまがいなりにも、私の僕であるのだ。しかしはっきり言って、私はお前をこれっぽっちも認めていない。私はお前の外見が気にいらん。好かん」

 はっきりと断言したインフェルノの言葉に、ダンはすこぶる理不尽な私情を感じた。

「おい……ちょっと待てよお前。つーことは何か? お前、ぱっと見の第一印象だけで俺を判断したってことか!?」

「ふん、何も私は望んでお前と契約を結んだ訳ではないのだ、どう判断しようが私の勝手だろう。全く、こんな目つきの悪い男と時間を共にせねばならない、こっちの身にもなって欲しいわ」 

理不尽なインフェルノの言いように、ダンは言葉を失う。当然のことながら、ここまでインフェルノに嫌われるようなことをした覚えはない。泣きたくなるのも道理だ、と思うダン。

「お前なぁ……」

「あはは……二人とも、御静粛に……」

 苦笑いしながらも、少しばかり明るさを取り戻すヒナ。身を削る思いはしたが、数分前の緊迫した状況からは何とか脱出できたはずだと、ダンは少しばかり安堵した。するとまた唐突に、チリンと、今度は少し忙しなく、ベルの音が宿に響き渡る。

「……ヒナ……! いた! 大丈夫!?」

「あの野郎ども、さっきまた宿に入ってきたじゃねぇか! 怪我はねぇか、ヒナちゃん!!」

 勢い良く扉を開き、中に飛び込んできたのは、ダンやヒナと同年代だろう少女と、四十代中ほどの男性だった。二人とも茶色のかかった頭髪で、少女の方は肩までかかるほどの髪の毛先を、くるんとカールさせている。男の方は顎に髭を生やしており、細かいことは気にしないような印象を受ける。二人ともよく似た顔立ちと雰囲気を醸し出していることから、親子なのだろうと想像は容易だ。

「あ……シェリちゃん、リガスおじさん。大丈夫です、私はほら、この通り……」

「でも、やっぱり顔色悪いよ。奥で、少し休もう? 私も一緒に付き合うから」

「え、そんな……悪いよ。心配かけちゃうし……」

「いいのいいの、そんなの気にしない! お隣同士の仲でしょ? こういう時は助け合うもんなの。ごめんね、旅人さん達。おとうさん、ちょっと店番よろしくね」

おう、任せとけ、と言いながらカウンターで身構える男。その後で一度こちらに背を向けた宿娘のヒナは、ダンの方を振り返った。

「あの、宿はこんな状況ですが、お疲れの様子です。よかったら泊っていってください。さっきみたいな事で気が休まるかは分かりませんが……お代は結構ですので、ぜひ」

 そう言うとヒナはシェリに連れられ、宿の奥に消えていった。残されたダンとインフェルノに、カウンターを任された男、リガスが話を振る。

「話すのが遅れたな、俺はリガス・モンテってもんだ。さっきのは娘のシェリ。ちょうど向かいでワイルドキャットって飲食店を営んでてよ、こことは昔から仲良くさせてもらってんだ。よかったらメシ食べてってくれや。んで……その場にいたってんなら分かる通り、今この町は例のスピアファミリーに目ぇ付けられてんだ。まぁ、すんなり泊ってけとは勧めらんねぇが……どうする? 宿代はいらねぇらしいぜ」

「いらねーって……そりゃタダで泊まれたらありがたいけどよ、そういうわけにも……」

「ふふっ、路銀がたったの銀貨二十枚かと唸っていたのはどこのどいつだったか」

「ちょっ、お前な……言わなくてもいいことを」

 話に水を差すインフェルノに、ダンはばつが悪いといった表情を作る。そんな二人のやり取りを見ていたリガスは唐突に、

「なんだ兄ちゃん、若いなりにどうも胆が据わってると見た。がたいも悪くねぇし、腕っぷしに自信はあるか?」

「いや、まぁ……金持ちの家の付き人っつーか、護衛役みてーな立ち位置だったから、あるにはあるな」

「ビンゴだな。それじゃあこの宿に泊まってるうちは、宿代はなしでいい。その代わりヒナちゃんが危ない目に合いそうだったら、助けてやってほしいんだ。ヒナちゃんには俺が、よろしく言っておくからよ」

 リガスの提案を聞いて、ダンは少し考えた。まだ当の本人――ヒナからは、カノンに関する情報を聞くことは出来ておらず(知っているとは限らないが)、ここからすぐ旅立とうにも、やはり体力の限界は近いようだ。先ほどインフェルノが言っていたように、旅路で早々に無茶をしてのたれ死ぬというのも冗談では無いように思える。なにより――また誰かに必要とされることに存在意義を感じたダンは、それを決断したのだった。

「そういうことなら……ダン・アッシュネスだ。一晩、世話になるぜ」



■第二章

 

 リガスの提案を受け宿屋オーベルジュ・マキノへの宿泊を決めたダンは、部屋の01号室を選んだ。二階への階段を上がると、すぐに01号室の部屋番号がダンの目に留まる。扉の取っ手を押すと、ギィと、扉が古い木の音を鳴らした。部屋の中は、二人で泊まるには十分な間取りの広さだ。縦長の窓に付けられた薄い緑色のカーテンと十分な広さのベッドが二つずつ、木の床には赤色の絨毯。おおよそ万人がイメージしやすい宿屋だろうとダンは思った。ほかに並の大きさの丸テーブルが一つと椅子が二つあり、インフェルノはそのうちの一つにもたれながら腰かけ、ご大層に足と腕の両方を組むと、ダンに背を向けながら話かけた。

「ふむ、これがタダなら悪い話ではない。それで? これからどうするのだ。この町で……カノンとかいう男の情報を探るのか?」

 ダンはインフェルノに言葉を返すよりも先に、靴を脱ぐとそのまま仰向けにベッドに倒れ込んだ。そしてやっと、ダンは自分の体が疲労で疲れきっていることを理解した。自分の右腕で額の汗をぬぐった後で、それとなくインフェルノに言葉を返す。

「…………ああ、それくらいしか…………することはねーだろ。最初にあのヒナって宿娘にひとまず…………カノンのことを聞かねーと…………」

「なら特別に、善意で一つ忠告をしておいてやる。この町は、小規模ながらそれにしてはテーゼの濃度が濃い。もしかするとお前のほかにも別の命題者がいるかもしれん。早死にしたくなければ、周囲に気を配りながら行動することだ」

 上から目線の態度には変わりがないが、インフェルノはおそらく初めて、自身の親切心でダンに忠告をした。契約を交わしたダンが命を落とし消滅することになれば、今の現状では自分自身も有無を言わさずこの世から消滅してしまう。それを伝える為の忠告だったが、ダンから言葉は帰ってこない。

「………………?」

 主のありがたい忠告を故意で無視したのなら、また灸を据えてやろうと自身の鋭い八重歯をぎらつかせたが、その思惑は案の定、失意にかき消されたのだった。


「ふん……まぁ、無理もない……」 


 後ろを振り返ると自らの僕であるダン・アッシュネスは、額に右腕を当てたまま、すーすーと、小さく呼吸をしながら眠りについていた。この男は事の発端である友を追い求め丸三日間をほとんど休まず一心に進み続けた。そのひたむきな意思を、インフェルノはここにきてほんの少しだけ認めた。インフェルノはダンをそのまま眠らせておくことに決めたが、それでも退屈なことには変わりがない。インフェルノは少し考えた後に、宿内を散策することにした。

 自身の01号室の扉を閉めると初めに、向かい合わせの02号室がインフェルノの目に留まった。些細な好奇心で通路を端まで進むと、部屋が全部で八つほど設けられていることが分かる。そのうちのいくつかの扉を開き中を覗いてみたものの、これと言って興味を引くものはなく、まぁ、小さな田舎町だ、期待するのは間違いだったと階段を下りた。するとカウンターで代役を任された、椅子に腰かけている中年の男と目線が合う。階段を降り近づくと中年の男はなんだい譲ちゃん、遊び相手探してんのかと、ずうずうしく話かけてきたので、「うむ」とだけ言葉を返して宿の裏方に進んでいく。すると、番号のついていない部屋をみつけ、その中から話声が聞こえてきた。インフェルノは、特に考えもせずに扉の取っ手を押すと、鍵もかかっていなかったため、おもむろにその中に入った。中では、先ほど宿の奥に消えていった女子二人が、ベッドに腰掛けながら、何か話をしているようだ。

「あっ、あなたさっきの! えーと……」

「こんにちは。インフェルノさんで、いいんですよね?」

 二人のこちらへの視線に気付き、インフェルノは相づちを打つ。

「うむ。いかにもインフェルノとは、私を指す誇り高き真紅の名だ」

「インフェルノ……? あは、すごい名前だねー。皆には内緒にするから、お姉ちゃんにだけ、ほんとの名前教えてくれないかな?」

「なっ…………!!」

 短く呟くと、インフェルノは固まりながら表情をこわばらせた。自分を子供扱いしただけでなく、さらにその名を、何かの遊びでつけた仮名だと思われてしまっているのだ。インフェルノは訳が分からなかったが、その理由が自身のギリギリ一ケタか二ケタかという、幼い身なりのせいだという事に気付く。

「小娘が、バカにするなっ……! 私はお前達よりも、はるかに年上だ! 今はあのド三流のせいで満足に具現化できずにこんな身なりだが、本当はぼんきゅっぼんですーぱーだいなまいとぼでぃーな……国を一つ傾かせる程の絶世の美女なのだ!!」

それを聞いたシェリは、自分と同じくきょとんとしているヒナと表情を見合わせると、腹を抱えて笑いだした。ヒナはというと、つい先ほどインフェルノがダンの呼び声に反応して現れた浮世離れの登場場面を目撃しているせいか、想像することは難しいが、真実なのかもしれないといった表情で、意味深にインフェルノを見つめていた。

「そうなんだ! すごいね、インフェルノちゃんて! そうなるともう絶対、只者じゃないよね!!」

 次の瞬間、その言葉を待っていたと言わんばかりに、インフェルノは身を乗り出した。シェリがまだ笑い半分で自分を見ていることは一向に気に食わなかったが、自らの正体を明かせば、そのあまりの大きな肩書に、ひれ伏すだろうと確信した。

「いいかよく聞け!! 私は望王(ぼうおう)インフェルノ!! この世においてその望みの限りを許された、世の覇権を握る王座の内の一角だ!! 私はとっても偉くて、そして誇り高い存在なのだ!! どうだ恐れ入ったか、凄いだろう!!」

 その言葉を聞き、またわずかな静寂が訪れる。そしてそれが破られるのと同時に、シェリはインフェルノに抱き付いた。

「あーもーかわいいなー!! なんていうんだろう、これだから世の中を知らない幼女ちゃんは!!」

「なっ、貴様……何を……! 離れろ…………っ!!」

 頬ずりしながら抱きついてくるシェリに、インフェルノは困惑した。それがあの僕の様な野蛮な男共であるのなら、いっそ食いちぎるつもりで噛みついてやっても構わなかったが、女であるなら話は別になってくる。女は容姿も大変重要な生き物で、その体に傷跡を残そうとは、さすがに思えなかったからである。そして感覚的に、好意を持って自身は抱きしめられていると分かっていた。振りほどこうともしたが、意外に強い力で抱きしめられているので身動きが取れなく、インフェルノはそのまま、抱擁を解かれるのを待つしかなかった。

「離せ……もう……そろそろ離せぇ……!」

「あっシェリちゃん、インフェルノさん困ってるよ、そろそろ離してあげないと……」

 すぐ横から聞こえたヒナの声でインフェルノは、シェリの抱擁からやっとのこと解放される。

「それにしてもインフェルノさん、あの……ダンさんでしたよね。どうして二人で旅を?」

 いましがたのインフェルノのイメージの追い付かない自己紹介も、あながち嘘ではなさそうだと思ったヒナは、率直な興味本位で問いかけた。

「知らん。私が一番、それを仕組んだ誰かに問い正したいのだ。なぜかは分からんが、私と奴は強制的な仮の契約関係にあって、互いに離れる事が出来んのだ。しかし私はそれを企てた人物に覚えが無い。覚えはないが、我が僕が追っているという、カノンという男がやったというのが一番怪しい所だろう……そ奴を追って、我らは共に旅をすることになってしまったのだ……」

 気に食わないと不満の表情を作り、インフェルノは呟いた。望王であるはずの自分が、誰かに突き動かされ駒のように扱われている。歯がゆいことこの上ないが、契約関係を破棄する術を、現在のインフェルノは持ちえない。そんな自分の無力さに腹が経つ。

「……あの男は命題者だ。そうである事を選んだ以上、目的を、望みを叶える為に進み続けなければならん。命尽きるまで、自身の生き方を貫き通さなければならない。拒むことも、曲げることも許されない――それが命題者の定められた運命なのだ」

 


『……………………僕は失ったんだ。かけがえのないものの全てを…………この世界は僕には酷すぎる。僕は僕の世界を取り戻すために…………この世界を切り捨てる。そう、言ったんだ』

カノンの言葉には、迷いの類が微塵も混じっていなかった。純粋な狂気。旧友だからこそ、ダンにはそれがすぐに分かってしまう。カノンは揺らぐことのない意志で、この世界と引き換えに、叶えるための願いの成就を望んでいる。

 ダンの意識はひどい混乱に襲われたが、それでもしがみつく様に、カノンにまた言葉をかける。 

『分からねぇ…………分かるように説明しろカノン…………! なんで、どうしてお前は、俺をっ……………………!!』

 ――俺を、生き返らせたんだ。

 カノンはダンの言葉に答えない。少し間を置いた後、代わりに自分の行く先を告げる。

『…………僕は……世界を巡って旅をしている。僕の理想を叶えるための力を求めてね。僕が望みの王と結んだ誓いは、この街にいるだけでは到底叶えられない。世界を駆けてやっと叶えられるかどうかの、果てしなき大願だ』

『カノン、そんな言葉で逃げられると思うな……! お前は……どうなるんだ、そいつに着き従って、人の道を踏み外して…………! お前は本当に、報われるのか…………!?』

『…………ふふっ、こんな状況で他人の心配かい? 本当に、君らしいね。そんな君を、僕はもう一度見たかったのかもしれない』

 ダンに背を向けるカノンの口調が、少しばかり和んだ。ダンはカノンの心境に思いをはせる。死者の眠りを妨げることが、いかに善良だったカノンらしからぬ行為かを。ダンが生き返った事には――それ程に強い思いが込められているのだと。

『はぐらかすのはやめろよ…………手に取るように分かるぜ。何年お前のその面拝んだと思ってやがる……お前は助けが欲しいはずだ。一人じゃ大きすぎる野望を背負って…………俺に助けを求めてるはずだ……! その為に、お前は俺を生き返らせた…………!!』

『……………………もし、そうだとしたら?』

 カノンの声色が、微かに震える。

『なに、これまで通りだ。正しいと思ったら手を貸す。間違ってると思ったら…………力ずくでも止めてやる』

『…………僕が今立っている場所は、いつ命を失うかもしれない地獄に違いない。とても助けを望めるような所じゃない。そして何より、これが僕自身の意志だ。それでも君は、僕にかかわるって言うのかい?』

 カノンがどれだけの思いで自分を生き返らせたのか、ダンには思いもつかない。しかしダンは、目の前の酷く苦しそうな友人から目をそらせるほど、世渡りがうまくもなかった。

『は、笑わせんな。わざわざ生き返らされた後にお前のそんな顔見せられて、何くわねー顔で生きられっか。いいぜ、地獄の底にだってつき合ってやるよ…………!!』

『………………………………………………………………』

 つかの間の沈黙の後、真意に迫った友の言葉にカノンは振り返り、悲哀の表情で笑いかけた。そして一瞬だけ瞳を閉じて、カノンは微笑を混ぜながら自分の胸の内を少しだけ晒す。

『いくら強がっても、君には隠しきれないか…………さすがだね、君は僕にとって、唯一無二の親友だ。ねぇダン……………………』

 カノンが次に作ったその表情は、まるで世界がすでに終わりを迎えているような、そんな、心をえぐる笑みだった。


『――君は、僕を救ってくれるかい…………?』


「…………っ!!」

ダンは倒れるように眠りに着いたベッドの上で、自らの意識を取り戻す。それは自分が生き返りカノンと再会を果たしたあの夜の日の、命題者として契約を交わす直前の記憶――その断片。

「あの時の夢…………」

 カノンとのあり得ないはずの再会がダンの身に鮮烈に記憶された事は言うまでもない。本来それは、刻まれるはずのない記憶なのだから。そう思うのと同時に、体中が嫌な汗をかいているのを感じた。思えばここ数日、水を浴びる事などできるはずもなかった。そう思ってダンは、宿の勝手を知るために、辺りを見回した後、ひとまず先ほどインフェルノが座っていた物と向かい合わせの椅子に腰かけた。そして、おもむろに木製の丸テーブルに目を向ける。すると、机に貼りつけられた一枚の注意書きに目が止まり、そこには丁寧な字で『浴場は一回カウンターの奥になります』と書かれている。ありがたいと思いながらダンは、部屋の外へ出ると階段を降り、浴場へと続く通路を進んでいく。すぐに浴場の看板が目にとまり、ダンは扉を開き中に入った。


 体中のいやな汗を洗い、服を着替え直したダンは、浴場にあったタオルの一枚で髪をかきながら、聞き覚えのある声がするカウンターの方へ向かった。見れば、先ほど宿の奥に消えていった二人が窓際のソファに座ってインフェルノと何やらじゃれ合っている。

「ほらおいで、インフェルノちゃん! お姉ちゃんがだっこしてあげるぞー!」

「止めろバカ者、ヒナ、こやつになんとか言ってやってくれ!!」

「ダメだよシェリちゃん、インフェルノさん困ってるから」

 そう言ってインフェルノを抱きかかえながらシェリを止めようとしつつ、ヒナの口元にも笑みがこぼれているので、微笑ましいことだと思うダン。そして目の前のインフェルノが見た目の年齢相応に年上の女子二人に手玉に取られているのを見て、なんだか笑ってしまいそうになった。

「おう、よかったじゃねーかインフェルノ。遊んでもらえる相手が見つかって」

「ふざけるな僕が、また噛みっ……止めろシェリ、ひゃはっ、く、くすぐるな!」

「あっどうもすみません、シェリちゃんがインフェルノさんのことを凄く気に入っちゃったみたいで……えーと」

「いやいやもっと遊んでやってくれ、どうも俺には懐かんみてーだ。あと、一晩よろしく頼む」

「いえいえ、こちらこそ宜しくお願いします。シェリちゃん、ダンさんが様子を見に来たよ」

「はじめましてこんにちは! てな訳でインフェルノちゃんはしばらく私が預かった!」

「くうう……おいヒナ、助けぇ……」

 シェリは今も、インフェルノの両手を持ち、両手を左右に振ったりして遊んでいる。もはや、どっちが遊ばれているのか分からないとダンは思った。まさに、新しい人形を手に入れて無邪気に遊ぶ少女のようだ。

「ああ、さっきのオッサンの娘さんか。なるほど、よく似てんぜ」

 何ともノリのよさげな雰囲気が、そっくりだとダンは思った。親子であればその辺りは、切っても切り離せないものなのだろう。

「あはは、そうですね、シェリちゃんはお母さんよりもお父さん似です。さて、と」

 そこまで言ってヒナは、三人で並んで腰かけられていた椅子の一つから立ち上がった。

「私はこれから、晩ごはんの食材を買いに行ってきますので」

 ヒナのその言葉の後で、ダンはふと自分のすべき行いを思い出した。この宿に泊っていったカノンのことについて、何か知ってはいないだろうかと。後から何か思い出してくれるかもしれないし、護衛の役割も兼ねている。

「なぁその買い物、付いてってもいいか? リガスのおっさんがあんたのことを気にかけてるからな。あとついでに、カノン・エルテニアのことを聞きたいんだが」

「えっと、それ程お役に立てるとは思えませんが。宜しければ」

「いや、ないならないで構わねーよ。ただで宿泊めてもらってんだ、気は使わないでくれ」

「いいじゃんヒナ、今はスピアファミリー達が街をうろついたりしてんだから、ダンくんにしっかり守ってもらいなよ」

シェリはインフェルノに背後からもたれかかりながら二人を覗き込んで、さらっと答えた。

「スピアファミリー……ああ、さっきの奴らのことだよな」

「はい、確かに私は目を付けられてますので、注意が必要なんですけど」

「ああ、そういうことだし付き添うぜ」

そうですか、ありがとうございますと、ダンに微笑みかけると、ヒナはシェリの方を向いて、また店番を頼みこむ。

「それじゃあ私は、今晩の食材を買いに行ってくるね。宿番お願い、シェリちゃん」

「よし任された! インフェルノちゃんと私がいれば、この城は絶対に落ちないから安心しなさいな!!」

その言葉に誰よりも早く反応して、インフェルノがうなり声を上げる。

「なっ……! ちょっと待てお前ら! この私を置いてゆくのか!? 待て! 私も一緒にっ……!!」

「インフェルノさん、シェリちゃんを宜しくお願いしますね。それでは、行ってきます」

 ヒナにはインフェルノのその悲鳴が、子供らしい照れ隠しに聞こえたようだったが、ダンにはそうは思えなかった。明らかに引きつった表情からの救命信号だったが、どの道自分といるときの態度を考えると、あやす相手がいてくれる分楽であり、そこはスルーを決め込んで、ヒナが開いた出入り口のドアの後に続く。

「待て、行くなっ……本当に待てぇぇぇーーー!!!」

 その時ダンにはインフェルノの心からの叫びが聞こえたような気がしたが、それは聞かなかったことにして、ダンは後ろ手で出入口のドアを閉めた。


「ふふ、インフェルノさん、楽しそうでよかったです。それにシェリちゃんも」

 バレーナの街を歩きながら、ヒナは無垢にそう笑った。やはり素直に、二人は仲良くじゃれ合っていると思っているらしい。ヒナはちょっと天然が入っているなと思いながらも、一向に問題はないだろうと、ダンは頼もしく言葉を返した。

「全く、思わず驚いたぜ。俺といるときとじゃ、天と地ほどの差があったぞ」

皮肉を交えながら笑うダンに、ヒナは疑問を問いかけた。

「あの、お聞きしてもいいんでしょうか……さっき私の自室でインフェルノさんが、自分のことを話してくれたんです。私は、願いを叶える王様だとか……あれって、どこまでが本当の話なんですか……?」

 問いかけるヒナの表情には、先ほどと同じく純粋な興味が見て取れた。何も言いふらそうだとか、騒ぎ立てるようなことはなさそうだったので、ダンは素直に自分の意見を答えることにした。

「……さぁ、どうだろうな。あいつは見たまんま自尊心の塊みたいな奴だから、嘘なんかつかないはずだけどよ。俺自身、あいつと出会ってまだ数えるくらいしか日が経ってねーし、あいつもあの態度だから、まだそんな詳しく聞けちゃいねーんだ」

「そうなんですか……」

質問した側であるにもかかわらず、どう答えていいか分からなくなったヒナは、ただ短く声を返すだけとなる。

「けどあいつの言ってたことを分かっている限り整理すると、あいつはこの世で願いを思うままに叶える力を持った望王っつー奴の一人らしい。もちろんタブーはあるけどな。で、そんな無茶ができんなら、もう好きにしろって話なんだが、あいつもどうやら訳ありで、今は思い通りに力が使えないんだと。そんだけならまだしも、どこかの誰かに、無理やり俺と契約を結ばされちまったもんで、俺から離れられないらしい。俺は俺で、追ってるカノンって奴と契約を結んで『命題者』ってのになったんだ。それをインフェルノに教えたら、やっぱりあいつが怪しいって話になって、結局カノンを追ってる訳だ」

「……命題者……? それは何なんですか……? そもそもダンさんを命題者にしたって事は……カノンさんも命題者なんですか……?」

「ああ、そうだ。命題者と契約を結ぶとそいつもまた命題者ってのになる。そんでもって、テーゼって元素を扱えるように……って、大丈夫か? 頭こんがらがってくるだろ」

 ヒナの、口を開けてぽかんと立ち尽くしている様子を見て、ダンは彼女を気にかけた。

「わっ、すみません、田舎育ちの私には、浮世離れした話だったみたいで……よく分からなくなくなっちゃいました……」

「いや、無理もねーよ。こんな話俺だって、初めて聞いた時は自分の耳を疑った。んでもって命題者には、願望を現実に変えれる力があるんだと。カノンはその力を使って、なにか仕出かそうとしてやがる」

 ダンの意味深な、真剣身を帯びた表情を見て、ヒナも思わず息をのみ込む。

「何かを……仕出かす、ですか?」

「ああ、願いを現実に変えるには、その願い相応のテーゼって力が必要だ。それは俺達の生きてる世界を構成している一番最小、始まりの元素ってものらしいんだが、実現から遠い願いほど、テーゼの力を大きく使う。極端案な話、この世のテーゼを全部使っちまうと、世界は自分を維持できなくなって、すぐさま崩壊しちまうらしい」


たとえその代償として――この世界を壊してでもね


 あの時カノンが口にした言葉の意味を、ダンは理解した上で、それを食い止める為の意思を示す。

「あいつはこの世界を失ってでも叶えるべき願いがあるって、確かにそう言ったんだ。カノンは命題者で、その後ろに控えるはずの望王は、無限に近い量のテーゼを使役している。カノンの願いがなんなのか……それを問いただすためにも、俺はカノンを追わなくちゃならない」

 カノンの凍てついた瞳を、ダンは忘れることが出来なかった。あの目は確かに、何を犠牲にしても構わないと語っていた。旧友のダンには、確信に似た感情があった。

「この世界が危ないって事ですか? もしカノンさんの願いが、そんな危険なものだったら……」

「――ぶん殴ってでも止めるさ、俺が……旧友として」

 ヒナにはそういうダンの真っ直ぐな決意の表情が、とても頼もしく感じた。そして二人の繋がりはとても強固なものなのだと、確かにそう感じた。

「はい、世界の行く末はダンさんに託されてるみたいです。宜しくお願いします」

 そう言ってほほえんだヒナの笑顔がなかなかに魅力的だったので、ダンは反射的に目線を反らす。そして、バレーナの街の様子について話題を変えた。

「にしても、なんだか町が静かだよな。なにかに怯えてるっつーか……あ」

 そこまで言葉にしてダンは、理由に大方の見当がついた。

「そうです、この街では今、スピアファミリーが目を光らせていますから。街の東の森……そう遠くない場所にアジトとして館を構えているのですが……ボスが知能派のランスから強硬派のスピアに変わったせいもあるのでしょう、町の人達も怖がっているんです……彼らが町で怒鳴り散らすことは珍しくありません。予定の日にちを過ぎても町に運搬物資が届かなかったり……父のように行方が分からなくなってしまった町の人達も一人や二人ではないんです。この街は今、近隣の町や都市……外から疎遠になりつつあります。町が静かな原因は、どう考えてもスピアファミリーのせいなんです……!」

 ヒナは僅かに語尾を強めて、感情を言葉にした。町の人達に突っかかるだけならまだしも(全然妥協出来ないが)、町へ荷物を届ける所を狙われたり、町の住民が人さらいに会うようなことがあるのだとすれば、いよいよ放っておける問題ではない。それこそ明日には、自分がどうなっているかも分からない。

「なんだそりゃ、人がいなくなるとか、本当にただ事じゃねぇだろ。町の住民たちは、なにか対策を打たねーのか? 首都に申請書して、兵士を派遣してもらうとか……」

「その手はすでに打ちました、ですがこんな小さな田舎町まで手を回す余裕はないみたいなんです……それで、ファミリーと直接話し合おうと動いていたのが父でした……でも、父が行方不明になって、町はまた……」

「そうか、それは…………救われねー話だ」

 ダンが下を向いて小さな声で呟くと、ヒナはまた少しだけ悲しそうな顔をした。しかし、ダンに気を配ってか、すぐに笑顔を作って見せる。

「でも、いつまでもふさぎ込んではいられません。ダンさんのように、それでもあの宿屋を必要としてくれる人がいますから。私が幼いころに、父が言ってた言葉があるんです。今でもよく、覚えてます」

「…………言葉……?」

 その言葉というのがふと気になり、ダンはヒナの方に視線を戻した。ヒナは、明るい表情で空を見上げている。


「『下を向いて泣いてばかりいても始まらない。そういう時こそ、上を向いて笑ってやろう』」


 手さげ袋を持った両手を後ろで組み、穏やかな口調で喋るヒナ。そしてすぐにダンの方を振り向くと、歩きながらその言葉の意味を話す。

「私の母は、私がまだ幼いころ……インフェルノさんよりもっと幼かったと思います、長い眠りにつきました。流行り病だったみたいです。その頃の私にはまだ、その意味が分からなくて……お母さんに会いたいって言って、泣いてばかりいたんです。最初のほう父は、私が泣きやむまで、私を抱きかかえてくれていました。でもそれから一月ほどたった後、父は私にさっきの言葉を告げたんです。きっと、過去に縛られて留まり続けるよりも、未来を見て進んで行けって事だともいます。父は本当に、強い人だと思います。私は父のようにはなれないけれど……それでも父の言葉は、今も私を支えてくれていると、思います」

 その言葉はヒナにとっての、困難を乗り越える為の魔法の言葉なのだと思うダン。両親が共にいなくなった事への、ヒナの心境は相当苦しいものだろう。しかしその言葉が今もヒナを支えているのであれば、ヒナの父は本当に、頼れる人だったのだろうと考える。そしてその言葉で前に進んでいこうとするヒナも、同じく強い人間なのだと、ダンは思った。

「いいや、お前も十二分に凄げーよ。オヤジに負けない強さを持ってる。希望を捨てないで、がんばれ」

 そう言ってダンも、笑みを作り笑い返した。そしてヒナの買い物に同伴している事の真意を思い出し、改めて話題を振り直した。

「っと、忘れる所だったぜ。カノン・エルテニアについてなんだが、何か知らねーか? どんなに些細なことでもいい、なんて言ってたか、どこに立ち寄ったかとか」

 ダンに話を振られて、ヒナは意味深に右手をあごの辺りに当て、考え出した。

「うーん、そうですねぇ……カノンさんは一晩だけ宿に泊まって行きました……シェリちゃんの所の飲食店でご飯も食べてましたけど……この宿を気にいってくださって、ファミリー達の事はやはり気にかけていて……ほかには……何かあったような、何もなかったような……」

 何かが引っかかっているようで、少しの間ヒナは歩きながら腕を組んだり頭を抱えたりした。

「………………あっ!」

「おっ、何か思い出したか!?」

「ダンさん、あそこの卵安いです! えーと、お一人様三つまで……ダンさん、一緒に買ってもらってもいいですか!? あ、あっちの干し肉も激安です!! まとめて買いです!!」

 市場の一角で足を止めて、そう言い切るヒナ。ダンも品物に目を向けると、確かに叩き売り同然の値段だった。ヒナの勢いに負けて、ダンも素直に、その意向をくむ。

「お、おうっ……!」

 そんなこんなで結局、ダンはヒナの助力に応えて、結構な量の食材を買い込んだ。肉やら野菜やら飲料やらが、ダンの両手買い物袋からはちきれんばかりに詰め込まれている。正直なところ、規格外の重さだった。手さげの袋が破けないか心配になる。

「あはは……ごめんなさいダンさん、いつもと違って二人だったので、ちょっと買いすぎちゃいました……片方、私が持ちます」

「い、いや。大丈夫だ、これくらいなら……にしても、ほんと結構買ったよな、何日分くらいあるんだ……?」

「いえ、実は今日はちょっと特別な日でして……それで多くなっちゃったんです。あの、本当に大丈夫ですか? やっぱり片方私が……」

 男には、やらねばならない時がある。それが今なのだと、顔を多少引きつらせながらダンは自分に言い聞かせた。第一、片方だとしても、この量の荷物を、ヒナがちゃんと持ちきれるのか怪しかった。

「ああ、何てこたぁねーよ、行こーぜっ……!」

 そんなこんなで二人は、宿に向かって歩き出した。




 宿に戻って山盛りの買い物袋を床に置くと、両腕が確かに悲鳴を上げているのが分かる。そのためか、まどろみがダンをまた眠りへと誘おうとする。寝れるときに寝ておこうとダンは、買い物袋をカウンターにもたれかけさせようと引きずっているヒナと、ソファの上でこりゃまた買い込んだねと、暇を持て余しているシェリに言葉をかけた。

「それじゃ、俺はまた部屋でひと眠りしてくるわ」

「ダンさん、ありがとうございます、本当に助かりました。夕食もご用意しますが、どうしましょうか……?」

 正直、ほとんど飲まず食わずだったため、腹は減っている。しかし宿代を払わずに晩飯までご馳走になるのもどうかとは思ったが、あまり頭が働かなかった為、それとなく返事をする。

「ああ、それじゃ起こしに来てくれ。ありがたく頂くぜ……」

「分かりました。それでは、準備ができ次第お呼びしますね」

「……ん? そう言えば、インフェルノは部屋か?」

 そう言ってシェリに話かけと、

「いやー、ついさっきまで私とねこタンゴダンスを踊ってたんだけど、疲れたって言って部屋戻っちゃったよ~。また踊ろうねって、言っといてくれないかな?」

「……あー、そうか、分かった」

 あまり深く考えずにダンは、二階への階段を上がると、01号室の扉を開き中に入る。ベッドの方に目を向けると、その片方にうつ伏せに倒れ込んでいる、インフェルノのようなものが見て取れた。

「おい、生きてるか……?」

 人一人の尺度で測れるはずもないだろう、望みの王インフェルノに向かって、生存の有無を確認するのもおかしな話ではあるが、ダンは言葉をかけずにはいられなかった。それ程に、目の前のインフェルノのようなものからは、生命力を感じ取ることができなかった。しかし奇跡的にインフェルノから、生存を告げる言葉が返ってくる。

「なんだお前か……この……逆賊……裏切り者……反逆者めが……私は今…………精神に大きな支障をきたしているのだ…………気易く、話しかけるなぁ…………」

 極度の精神的ダメージのあまり、語尾がへにゃりとしてしまっている。よほどシェリとのマンツーマンが答えたのだろう。ダンへの特融ともいえる勝気な姿勢にも勢いがまったく感じられない。適当に話を振って返答を待ってもいいかと思ったが、あんまりやり過ぎると、またあの八重歯の餌食になってしまうと考え直し、横の空いているベットに横になるダン。

(もうひと眠りだな……)

 そう思って目を閉じると、確かな疲労感がまたダンの意識を支配した。今ならいくらでも寝れるだろうなと、そんなことを考えて、ダンは意識が遠のくのを感じた。


「「起きろぉぉぉぉぉーーーっ!!!」」

「うおおおおおっ!?」

 その掛け声で一気に、ダンは意識を取り戻した。二人がかりの大きな声が、必要以上に部屋中に響き渡った。ダンは勢い余って、ベッドから転げ落ちる。

「な、な、何だお前ら! そんな大声で叫ぶな、心臓に悪いだろうが!!」

「これが叫ばずにいられるか、宴の時間だ、僕!!」

「ウチらが、腕によりをかけて作ったよ! さぁ、起きた起きた!!」

「おいおい、そんなせかすな……!」

 まどろんだままのダンを、インフェルノとシェリが揃ってそそのかす。仕方なくベッドから立ち上がり、扉も閉めずに階段を降りる。すると飛び込んできた光景は――いくつものテーブルの上に並べられた、豪華絢爛、旺盛な食材の数々だった。七面鳥、豚の丸焼、焼き菓子の綺麗なデザート、上質な酒、果実のジュースなど、その他もろもろ豪勢な料理の数々が、ダンの視界に飛び込んできた。そしてその周りには、二十人程度の大人子供が、楽しそうに喋りながら、目の前の料理を食している。

「あ、お目覚めですかダンさん」

 大人達と話をしていたヒナが、ダンに気付き、こちらに駆け寄ってくる。ヒナが昼間に買い込んだ大量の食材の意味を、ダンは今やっと理解した。

「おいどういう事だこりゃ、こんな豪華な……ちっとばかし気が引けるぜ」

「本当に偶然なんですが、今日は町の人達と慰労会を開く事になっていたんです。今日はちょうどこの宿の、創立記念日でして」

 ヒナは横ではにかみながら、ダンに事の説明を補足した。なんでもテーブルと料理をワイルドキャットから持ち運び、わざわざこの宿で慰労会を開いたのだそうだ。

「よう旅の少年、お前は運がよかったな。まぁ今日は遠慮せずに、たらふく食ってってくれ。本当に、山のように作ったからな」

 シェリの父、そして飲食店ワイルのキャットの店主リガスはこちらに気付くと、自慢げに歩み寄ってきた。確かにこの山のような料理たちが、そう簡単になくなるとも思えない。本当に遠慮などする必要が無いほど、盛大に盛り付けられている。するとリガスの後ろから、彼の肩程度の頭身の、小柄な男性が出てきたのに気がついた。眼鏡をかけた、気の小さそうな老人だった。老人はダンの方に視線を向けると、一礼して喋り始めた。

「こんにちは、旅人さんでしたか。私はこの町の町長を請け負っています、ドルフ・ブラウンと言います。なかなかに危険な連中がはびこっていはいますが、どうぞゆっくりしていってください」

「……はあ、こりゃどうも」

 ダンは、二つ返事で町長に軽く会釈した。その後で町長は、その視線をヒナのほうに移す。

「ヒナちゃん、連中は今日も宿にやって来たみたいだね。何かまずい事はなかったかい?」

「いえ……大丈夫です、特には。ただボスがスピアに変わって、前とは違うとか……そんなことを言っていました」

 それを聞くと町長は、腕を組んで、なにやら難しそうな表情をした。

「ふむ……やはりそうか。早々に、なにか策を講じなくてはならんかもしれん……」

「まぁ、今は慰労会だ。難しい話はおいといて、楽しく飲み食いするとしようぜ……少年、酒はいける口か?」

ドスンと椅子に腰かけると、リガスはダンにそんなことを言った。ダンは少々あきれ顔で、リガスに言い返す。

「おいおいオッサン、俺はこう見えてもまだ十七だ。そんなに、飲み慣れてるように見えるか?」

「いいんだよ、今から飲み慣れればな。それにここに集まってる酒はどれも、町中からかき集めた選りすぐりだ。めったに飲めるもんじゃねぇんだぞ、ほら」

 そう言ってリガスは、置いてあったグラスをダンに持たせると、いくつかある酒瓶の一つの口を開け、ダンのグラスにそれを注いだ。ダンは注がれた酒を見て一瞬、どうしたものかと考えたが、ここで断るのもおかしいと思い、一気にそれを飲み込んだ。

 酒に含まれる強いアルコールの風味に、ダンは苦い表情を作る。それを見たリガスは、笑いながらダンを讃える。

「あっはっはっ!! いい飲みっぷりだなぁ少年! こいつは結構度が強い酒なんだが、それだけいけりゃあ、すぐに飲み慣れるさ!!」

 そう言ってリガスは、ダンの背中をたんたんと叩いた。すると横から、女性がリガスに話かける。

「ちょっとあんた、まだ若い子じゃないの。何無理して飲ませてんのさ!」

「大丈夫だって。男ってぇのはこういう道を通ってだな……おっと、紹介がおくれたな。こいつは妻のルイシってんだ。どうよ、それなりの美人だろ?」

 リガスの妻ルイシは茶髪の長い髪をなびかせた、リガスと同年代ほどの女性だった。くっきりとした目元がその性格を物語っているようで、なるほどシェリの母と聞けばこれまたうなずける、しっかりとした女性だった。

「何言ってんだい、飲みすぎるんじゃないよ。この後は例のスピアファミリーについて、話し合いをするんだろ?」

「話し合い?」

 ダンは不意に、その言葉に耳を傾けた。リガスがダンに説明をする。

「ああ、この慰労会がお開きになった後は、俺んとこの店で、今後の為の作戦会議をする事になってんのよ。いくらなんでも、このまま見過ごしとく訳にはいかねぇんでな」

「ああそうなのか。やっぱ考えてんだな、色々と」

 ダンが当たり障りのないように言葉を返すとリガスは、そんなつまらん話よりもと、酒の入ったグラスを片手に、昔を懐かしんでみせる。

「お前さんもその年で旅人なんざ、よくやってるもんよ。俺の、若かりし頃を思い出すぜ」

「ん? なんだオッサン。あんたも、若いころは旅人やってたのかよ?」

「いいぜ、昔話をしてやるよ。俺とヒナのとーちゃん、ミラン・マキノの話だ。なぁ少年」

 リガスは右手に持ったグラスの酒に口を付けると、砕けた表情を多少整えて、ダンに語りかける。

「……お前は、天空大戦を知ってるか…………?」

 その語句を耳にして、ダンを含むその場の全員が、僅かな間時を止めた。しかし構わずリガスは、話を続ける。

「知らないはずねぇよな。なんたってあの大戦は大陸支配っていう人の力が及ぶはずもねぇもんに王族や貴族が取り憑かれて、人様の人権を踏みにじった結果起こっちまった争いだ。まさに、どんな手を使ってでもってことだな。よっぽど上に立ってた連中は、大陸全土を支配したかったんだろうよ……命を命と思わず奪い合って、平気で野に捨て置くような、血も凍りつく虐殺劇さ……けどよ、そんな時代でも、人と人は巡り合うもんだ。叱るべくしてな」

 リガスは、酒を飲みながら、思い出すように語る。

「俺も兄ちゃんくらい若けー頃は、一端の料理人目指して、世界中を旅して回ったもんよ。すでに戦争の真っただ中だったがな。きっと俺は、そんなくだらねぇ事に付き合わされるのが嫌だったんだ。代わりに食糧難で飢えた奴によく賄いをご馳走してやったがなぁ」

 苦い表情で語るリガスの口調には、しかし昔を懐かしむそぶりすら見える。

「俺がちょうど北の大陸を旅していた時に、戦争はさらに激化してよ。俺は戦争なんざ興味はねぇって言い張ったんだが、どうも西大陸の間者の疑いをかけられちまったみたいでな。死ぬか兵士として戦争に出兵するかの、二択を迫られちまってよ。そらぁ、出兵するしかねぇわな」

「……いやオッサン、アンタえれー時期に旅人やってんのな……」

 戦時中の過酷さはもちろん伝わってきたが、その最中に世界を回っていたリガスにダンは多少の呆れた感情を抱いてしまう。もちろんここまでの話を聞いただけでも、たまったものではない。しかしリガスは若いころは多少の無理もしてみたくもなるもんだと、構わず話を続ける。

「さすがに俺も、死を覚悟したぜ。なんせその時代の人間の死因なんて、七割が戦死だったからな。そんでもって、適当に編成された十五、六の部隊に、放り込まれる訳よ。皆今にも死にそうな、酷な面ぁしてたぜ……んでもってその部隊の指揮を執る、部隊長様のご登場な訳だ。その時代の上の奴らなんて、大抵は神経すり減らして部下を人として見れない奴か、兵士を盾にして自分だけ生き残ろうとする、ゴミクズばっかな訳よ。さて俺の舞台には、どんなゴミ隊長様が来るのかとしかめっ面で待ち構えてた。そんなこんなで、いざ御対面な訳だ。んで現れた部隊長様を見て俺は、当たり前のように違和感を覚えたぜ。自分と同じくれぇの十六、七の若さだった事にも驚いたが、こいつは、この時代に、生きた人の目をしてるってな。おかしな話だろ、狂いすぎてる環境のせいで、当たり前の事が珍しく感じまったんだよ……俺は」

 リガスの言葉から察するに、その時代はよっぽど常軌を逸していたのだろう。しかしその語りから察するに、やはりリガスはどこか楽しげにダンに映る。

「んでクソ煩わしい鎧を身にまとって、銃と剣を持たされて戦うが、初戦からすでに戦況は厳しい。初戦で生き残った俺の隊の兵士の数は半分になって、また次の生き残った別隊の兵士と合併していくんだ。それを何度か繰り返して、四回目の出兵の時には、最初に組まされた隊の兵士は、誰もいなくなっちまってたなぁ……本当に、ひたすら無慈悲な戦争だったぜ。人の命を、何だと思ってやがるってんだ」

 リガスが始めた戦争の話は、本当に返す言葉も探さなくてはならないような、酷く無情なものだった。しかしリガスは、返ってくる言葉など待たずに、そのまま語り続ける。

「ただ、部隊長サマだけは別でよ。俺と同じく、しぶとく生き残ってやがったぜ。思えば俺は、ずっと同じ部隊長の指揮を受けて戦争をしてたのよ。んで四回目の戦闘から帰還した後に、俺は声をかけられた。その部隊長様にな。俺が…………生きた人の目をしてるってよ」

 そう語るリガスの表情は、また楽しそうに映る。それは確かに、忘れもしない記憶のワンシーンなのだろう。

「妙に感じるものがあった俺は、部隊長を信じて戦ったぜ。それから、一年がたったころか。一流の料理人目指してた俺は皮肉にも、一流の兵士の長よ。構わず、賄い料理は作ってやってたがな。信じて着いてったその部隊長の指揮のおかげだったが、そいつも昇格して司令官みたいな事やってたぜ。全く、恐れ入ったよ、そいつにはな。その頃には俺とそいつはいわば戦友みてぇな間柄でよ、戦争が全体の終盤にさしかかる頃に、俺に驚く事を言ってきやがった」

「驚くこと?」

 ダンはようやく言葉を返した。何も考えず純粋に、それが何なのか気になった。

「自分はこの戦線を五分に戻せば、司令官の任を下りれることになっている。どこか、後生をゆっくり暮らせる土地を知らないか、ときた。何の縁でか、そんときにゃ俺も戦線を離脱して、軍を除隊出来ることになったのよ。それで言ってやったぜ。東の大陸に、それは平和な、バレーナって田舎町があるってよ。そしたらそいつは笑って、田舎か、それは楽しみだって言ってよ。んで結果を出せれば、俺たちにとって次が最後の戦場だ。俺の信じたそいつはすでに疑うまでもなく類い稀な戦術眼の持ち主で、軍略を星の数ほど知っていた。けど――最後と括ったその戦線の状況は、誰の目からどう見ても、完全な負け戦だった。場所は今後の戦況を大きく左右する重要な局地で、当時西の大陸と交戦状態にあった北の大陸はそのラインを落とされれば再戦は不可能。負けが決まってしまう戦況だった。だがやっぱりそいつは天才だったぜ。戦況は最悪で、活路なんて俺には見出せなかったが、そいつは一般人には考えもつかねぇ奇策の情報戦で戦争を五分に戻して見せたのよ。頭の出来が違うのは知ってたが。そいつが、本当に凄い奴だったってのを、俺はその時初めて痛感したわけだ」

「マジか。本当に、スゲーんだな、その指揮官ってのは」

 知りえる筈もないリガスの戦友は、本当に凄い人物だった。それがリガスの語りからひしひしと伝わってくる。

「ああそうさ。んでもって戦況をまた五分にしてみせたその司令官と俺は、戦争を放り投げてやって来た訳だ。この、バレーナの町にな。さぁここで問題だ。その司令官ってのは、一体誰だと思う、旅の兄ぃちゃん?」

 答えを見つけるのに、時間はかからなかった。リガスは話の冒頭部分に、それが誰の物語かを告げている。

「ヒナのとーちゃん、ミラン・マキノ……か」

「ああそうさ御明答。ミランはパッと見は物静かな男だったが、外見とは違って根に一本筋の通った、かなり頭の切れる奴だった。町でも問題やいざこざが起こった時にゃあ、真っ先に動いてく、この街の中心人物だったのよ。今この宿で飲み食いしている連中も、ミランに助けられたり、関わりのある連中ばっかりだ。ミランがこの街の、繋がりを作ったと言ってもいい。今皆一丸となって目の前の問題に向き合っているのも、きっとあいつのおかげだ。それくらい俺達にとっちゃあ、誇れるやつよ!」

 それを聞いて、近くにいた体格のいい中年の男は、リガスの言葉に呼応する。

「ああそうさ、ミランさんには、流通先の商人ともめていた問題を、解決してもらった事がある! あの時は本当に助かった!」

 続いて近くの初老の女性も、その会話に続いて話す。

「あたしなんか、荒れちまった農地の事を相談して、助言通りに土地を耕したら、すっかり元通りになったんだよ!」

「それだけじゃねぇ、干ばつで町中が水不足に襲われたときに、川の水のろ過をして、町中を救った事あってあるぜ!」

「ほかにだって……」

 宿中の人々がダンに語りかけて、ヒナの父、ミラン・マキノの話をして聞かせる。誰もが目を輝かせて栄誉を伝えてくるのでダンは、考えずともミラン・マキノがこの街にとってどういう人物だったのか、簡単に理解できた。

「ヒナちゃん、あんな奴らに負けちゃいけないよ、あたし達がついてるから!」

「そうさこの町の人達はみんな、ヒナちゃんの味方だからね!」

「その通りです、皆一丸となって、スピアファミリーと戦いましょう!!」

 周りにいた何人かがヒナに声をかけた後、町長のブラウンが宿にいる全員に聞こえるように声を上げた。周囲の人達はさらにそうだ、あんな奴らに負けるもんかと、一致団結の意思を強めた。

「ヒナちゃん家とウチは、もう家族みたいな付き合いさ。何かあった時には、すぐにワイルドキャットを尋ねればいい。ねぇリガス?」

「ああ、ルイシの言う通りだ。何かあってもなくても、いつでもうちに来ればいい。シェリもその方が楽しいだろうしな」

「もちろんだよ! ヒナなら、いつでも大歓迎! そのつもりでいてね!!」

 シェリの両親が会話を交わした後に、シェリ自身も大きく賛成した。シェリと手をつないでその横に立っているインフェルノも、続いてヒナを讃えた。

「驚いたぞヒナ、お前はこんなにも大勢の者たちに支持されているのだな。お前は一人などではない。それは誇るべき事だ」

「おじさん、おばさん、シェリちゃん、インフェルノさんまで……! 皆さん……ありがとうございます。私も、スピアファミリーなんかには絶対に負けません……!!」

 そうだ、その意気だと、周囲の人たちはさらにヒナを勇気づけた。ヒナの表情からは、不安や恐れの類の様なものが、消え去ったようにダンには映った。そして自分も最後に、ヒナに応援の言葉をかけた。

「その調子だヒナ。こんだけの人達が味方についてりゃ、あんな奴らに屈する理由なんざ何一つねぇよ。堂々と、胸張って誇れる」

 ヒナは、瞳に涙を浮かべた。それを右手の人差指で拭うと、仕切り直しの声をかける。

「ダンさん……はい! 皆さん、本当にありがとうございます。今日はこの慰労会を、心ゆくまで楽しみましょう!!」 

 各自飲み物の入ったグラスを片手に持ち、ヒナの乾杯の掛け声と共に、グラスを高く掲げて、それを飲み干した。ダンも先ほどの酒をまた注がれ二杯目を飲み干したが、やはりそう簡単に慣れそうにはなかった。各自皿に料理を盛ると、それを銀のフォークやスプーンで食べ始めた。横のリガスが、ダンにまた声をかける。

「さあ飲め少年、酒はたらふくある。これも何かの縁だろう、今日は付き合って貰うぞ?」

「うっ……」

 そう言ってダンのグラスにまた酒を注ぐリガスの企みから、逃げる事はできそうになかった。どちらかといえばろくに食事をとっていなかったので、料理をご馳走になりたかったダンだが、またとない機会だろうとしぶしぶ了承をして、再び注がれたグラスの酒を、また一気に飲み干したのだった。


「ったく……あのオッサン、いくらなんでも、飲ませすぎだろ……うっ……俺はまだ……十七の青少ね……だぞ…………」

 しばらくの間リガスの酒の相手をしていたダンだったが、周囲の面々曰くリガスは酒豪であるらしく、そのペースに飲まれたためか、さすがに具合が悪くなった。少し外の風に当たってくると席を立って、裏戸から宿の外に出たのだった。もつれた足で壁に寄りかかり、左手でくらくらとする頭を押さえていると、また裏戸が開き、自分に声が掛けられた。

「あっダンさん、大丈夫ですか?」

 ヒナがダンに気にとめて、様子を窺いに来たのだった。右手にはグラスを持っている。

「ああ、なんてことはねー……少し休んでれば……もー酒はいらねーけど……」

「いえ、これは普通の水です。少しは楽になると思います」

「ああ、そうか、水か……」

 そう言ってダンはヒナからグラスを受け取って、水を一気に飲み干した。なるほど確かに、多少気分が楽になったので、少し間をおいてダンは、ヒナに礼を言った。

「ふぅ……ありがとな。にしてもヒナのとーちゃんは皆に好かれてたんだな。あのオッサンときたら、さっきからその話しかしねぇ。ほんとにすげー人だったんだな」

 その言葉を聞いてヒナは、嬉しそうに笑った。そしてダンと同じく壁に寄りかかり、話し始めた。

「昼間にも言いましたけれど……やっぱり私には、父がいなくなった気がしないんです。幼いころに亡くなった母とは違って……まだどこかで生きてるんじゃないかって。やっぱり父は凡人な私とは違って、普通の人じゃありません。どこかで生きてるって……死んじゃったって実感が無いんです。おかしいでしょうか」

「いいや、そんなことはねーさ。すげー人だったんだ。気持ちは分かる」

「……そうですよね、ありがとうございます。やっぱり私、諦めきれないんだと思います……父のことが」

 ヒナの憂いを帯びた笑みを目の当たりにして、ダンは物思いに昔を振り返る。ダンにもまた同じように、諦めきれない気持ちがあるのだから。

「……ヒナ、バルトヘントの街を知らないか? このバレーナの町の東に隣接していた、でっかい商業の街だ」

「……えっと、ちょっと記憶にありません。バレーナの東には当分、荒れた大地が広がっているだけだったと思うんですが」

 帰ってきたヒナの返答に、ダンは驚きはしかかった。バレーナに来る途中、拾ってもらった馬車の主人にも同じことを聞いて、同じような言葉を返されている。おそらくバルトヘントの街に関する事柄の全ては、この大陸の人々の記憶から消えている。

「そう、だよな。悪い、今のは忘れてくれ……ここはなかなかの町だ。ガキん時の、世話んなったアルバの孤児院を思い出す。皆一丸となって、支い合えてる」

「孤児院の……出なんですか?」

「ああ、いわゆる貧窮孤児って奴さ。赤ん坊の頃、孤児院の前に置かれてた所を見つけられたんだと。初めの六年間は、ずっと孤児院生活さ。ほかにもいろんな理由で集められた孤児たちがいて、一緒に暮らしたもんだ。だから……親ってもんが俺にはいなかったけどよ、その分孤児院での繋がりは凄く強かったと思う。子供でも働ける仕事を探して、代わりに食料や日常で必要なもんを貰うんだ。戦時中だったから色々厳しかったけどよ。孤児院の外の大人たちも……孤児院を応援してくれて、その辺りの支援で、アルバの孤児院は成り立ってたのさ」

「温かいですね……支え合って、確かにバレーナの町みたいかも」

「んでもってだな……ガキの頃の俺はある日、すげー奴と知り合いになったんだ。それがエテルニア財閥の御曹司、カノン・エテルニアさ。何がすげーかって、移動するたびにいちいち、白い馬の馬車に乗って移動すんだよ。それに着ている服も俺のぼろ布なんかとは全然違ってた。上品な絹と刺繍が施されたきらきら輝く服を着てんだよ。馬車を引く奴とは別に、大人の使用人が二人も付いてんだぜ、目を引かねー訳がねぇ」

 それを聞いて、ヒナは口を大きく開いて驚く。

「財閥の…御曹司ですか…!? なるほどどうりで、凄く気品にあふれた振る舞いをされていました」 

「ああ、だろ? 俺とカノンが友達になってからは、毎日、アルバの孤児院に遊びに来るようになった。そんときに持ってくるみやげの食べ物が毎回毎回凄くて、孤児院の連中は皆、どうしてそんな凄い奴と友達になれたのかって不思議がってたもんだ」

「確かに気になります、そんな凄い人と…どうやってお近づきになったんですか?」

 ヒナも不思議に思って、ダンに答えを求める。ダンはおもむろに、昔をなじみながら答えた。

「そうだな――あの日、カノンは馬車に乗って外に出てんのに、退屈そうに童話の本を読んでた。あぁ、とにかくつまらなそうだった。子供心にそれを悟った俺は、買い物がてら止まってた馬車から使用人の片方が降りた後、入れ替わるように身を乗り出した。そしてあいつに言ってやったんだ。『お前なんか、つまんなそーだな』って」

「ダンさん、すごい行動力ですね。付き人の方に怒られませんでしたか?」

「あぁ、実際怒鳴られかけたんだが、あいつはまんざらでもなさそうに付き人の言葉を遮って『見ての通りだけど』って答えた。そしてその後で『なにが目的?』ときた。俺は思い切って『お前の知らねーもんを、お前にやるよ。代わりに、俺の知らねーもんを、俺にくれ』そう言ってやったんだ」

「自分の知らないものの…交換ですか??」

 ヒナはいっそう、不思議そうに首をかしげた。ダンはなおも楽しそうに答えた。

「したらあいつは最初、表情を僅かに変えて、『それはどんなもの?』って、微かに興味を示してきた。俺はチャンスだと思ってここぞとばかりに、楽しそうな表情を作って、『お前の知らない、俺の自慢の景色さ』って答えてやった。カノンはそこで初めて表情を変えて、『面白そうだね』って答えた。最初はなんか、凄いもん貰えねーかなって、一回きりの軽いつもりで言ってみたんだ。前払いだって言ったら、カノンは自分のポケットから、お高く止まりそうな銀の装飾のハーモニカを俺の手に渡したよ。あんがい素直にくれたもんだから、俺も素直に近くの川辺で魚の捕まえ方を教えたり、孤児院の奴らと一緒に作った、秘密基地に案内してやったりしたよ。今となっちゃどー考えても銀で出来たハーモニカなんぞとはつり合いが付かなかったがな。で、日も暮れて一通り案内し終わったんで、適当にきりあげて孤児院に戻ろうとしたら、カノンの奴、『また何か持ってくるから、一緒に遊ぼう』と来たもんだ。最初はなんかもらえんならまぁいいかって思ってたんだが、そんなこんなで遊んでるうちに、気が付いたらお付きの護衛人だよな。全く、人生何があるか分かんねーよな」

 そこまでの話を聞いて、ヒナは瞳を輝かせてダンを称賛した。

「凄いですねダンさん、それこそ、運命のめぐりあわせですよ!」

「だろ? 俺にもひもじくて辛れー時があったけどよ。明日には何があるか分かんねー。それこそ奇跡が起きるかもしんねーしよ。諦めんのは、全部が終るそん時だけでいいんだぜ」

 ダンの言葉を聞いてヒナは自分の行いが少しだけ報われた気がした。目じりが熱くなる。

「……そう、ですよね。その通りです。この宿が続く限り私も……父の帰りを待ち続けます。この宿で、この場所で。上を向いて、笑顔で」

そう言ってヒナは夜の星空を眺めた後、

「ありがとうございます、ダンさん」

うるんだ瞳でダンに、穏やかにほほ笑むのだった。


 その後、部屋に戻り眠りに就きたかったダンだったが、リガスを主犯とする町の大人たちに、また運悪く捕まってしまった。乗せるのが上手い町の住民達の誘いにダンは判断を怠り、やってやろうじゃねーかと、その挑戦を受けてしまったのだった。

「ちょ……と、う……席……はずすっ、ぜ」

とうとう吐き気をもよおしてしまったダンは、酒の席を立つとまさに千鳥足で、宿の奥の洗面所を目指した。朦朧とする意識の中で、そこが浴場、そして入浴中の看板が掛けてあることにも気付かずに、ダンは扉の取手を引いて、浴場のドアを開いてしまったのだった。

 なんと都合のいい……いや、悪いことだろう。扉を開きダンの視界に飛び込んできたのは、入浴を済ませて、にわかに濡れた髪でこれから体を拭こうという、風呂上がりの三人娘の姿だった。

 その三人とは、いうまでもなくヒナ、シェリ、そしてインフェルノ。

 ダンは思わず、すでに喉まで昇ってきた吐き気を、全て残らず飲み込んでしまった。

 入浴を終えた後の少女達は、ほてって頬が赤く染まっていた。ヒナは想像通りの豊かに膨らんだその胸部をふるふると震わせていて、肉好きのよい健康的な体は、まさしく田舎の娘を体現している。シェリは、ヒナよりも若干身長が高く、すらりとスレンダーな体系をしていて、ヒナよりも胸は控えめだが、綺麗な形の整った体つきだ。いずれも発育が覗える二人。それに比べインフェルノは、年相応と言ってしまえばそのままのまな板で、これといって説明することはない。あえて語るなら、三人の中で一番体を赤く染めていて、いつも以上に赤みが強調されていた。

「きゃあっ、ダ……ダンさん!?」

「え、ちょっと!? わ、わーーっ!?」

「………………僕っ…………きぃさぁまぁっ………………!!!」

 ヒナとシェリの反応は、いたって正常な、年相応のものだ。それに比べインフェルノの視線は、とても小さな子供のものとは思えず、想像も出来ないような鬼の形相で、こちらを睨み殺さんばかりの勢いを放っている。怒りと羞恥心で頬を赤く染め、やわ肌に目を疑うほど何本も、血管を浮き立たせている。そして左手のタオルで身を隠したまま、近くの風呂桶をみしりと音が聞こえるほどに強く握りしめると、大きな叫び声と共にその風呂桶を、力任せにダンに投げ飛ばした。

「消え失せろ!! 愚か者ぉーーーっ!!!」

 インフェルノの投げ飛ばした風呂桶はがこっという木の音を立てて、見事にダンの脳天に直撃。ダンは後ろによろけながら体制を崩し、そして意識を失って倒れこんだ。ダンはその日、思いもよらない形で、夜の眠りに着いたのだった。

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