第7話


「いつまで寝ているの、あなた」

 やさしい静江の声がする。瞼の向こう側が白んでいる。朝か。ゆっくり目を開くと、見慣れない灰色の蛍光灯が付いた天井が見えた。起き上がろうとしたが、手足が何かに引っかかって動かせない。首を回してみてみると、両手足を白いひもが縛っていた。

「わぁぁ!誰か助けてくれ!」

 手足が痛むのも構わず、私は絶叫しながら手足をめちゃくちゃに動かした。妻子を失った夢を見たかと思ったら、次は監禁されている夢だ。夢なら早く覚めてほしい。

「失礼します」

 のんきな声とともに、白衣の男がこちらをのぞき込んできた。

「高野さん、気が付かれましたか」

「えぇ!?一体全体これはどういうことですか!これは犯罪ですよ!」

 手足をばたつかせ精いっぱいの抵抗を試みるが、白衣の男は表情を一切変えない。大声に構わず私を見下ろしている。

「高野さん、ここがどこかわかりますか?」

「わかるはずないじゃないか!寝ている間に連れてきたのか?……まさか妻子に手を出していないだろうな?」

「落ち着いて下さい。ここは隣町総合病院です。あなたは会社の慰労会の最中に、脱水症状で倒れてこちらに運ばれてきました。治療中、急に起き上がったり暴れたりで危険だったので、急遽手足を縛らせてもらいました」

 慰労会?あれは夢ではなかったのか?周りを見回すと、天井から腕向かって点滴がぶら下がっており、ベッドにも物々しい柵が付いている。部屋の入り口からせわしなく動く白いスカートに帽子の看護婦が見えた。どうやらこの男は医者で、私は入院しているらしい。

「夢……いや、静江は、妻はどこにいますか?」

「奥様はお見えになっていませんね」

「だから、私の妻はどこにいるんだって聞いているんだ!」

 つい声を荒げてしまうと、医者は白けた顔をして出ていった。入れ替わりに困り顔の看護婦が入ってきて、私をなだめようと何か言ってきたが、何を言っているかわからずただひもを外そうともがき、息が切れておかしくなりそうな私に、看護婦は医者と同じような顔をして去る。誰も話を聞いて聞くれない。

「待ってくれ、私の家族は……」

 急に抗えない眠気が襲ってきた。口から出る言葉も、呂律が回っていない。そのまま私は目を閉じてしまった。

次に気が付いたとき、目の前にはあの東京からきて挨拶をしていた重役の脂ぎった顔があった。

「おぉ、気が付いたかい高野君!そらみろ私の顔が一番の気付け薬だろう!」

 病院にそぐわないハリのある声で、私はなんだか冷静になれた。

「お久しぶりです。こんな下っ端の見舞いなんてわざわざご足労かけまして」

「いやいや、大事な社員たちの一大事だ。早く元気になって復帰してもらわなきゃな!さて、次の病室に行くとするか」

 では、と片手をあげ去ろうとする重役を、秘書たちが追いかける。あまりのスピード感についていけず唖然と見送ってしまったが、枕元に大きな果物かごを置いた最後尾の秘書をどうにか捕まえ尋ねる。

「次の病室って、ほかにも入院している人が?」

「あぁ、高野さんは最後にお目覚めですからご存じないですか。あなたの同僚の方々も、あの日脱水症状で倒れてこの病院へ運ばれています」

 力の入らない私の腕をやさしく除けて、秘書は大きな足音を追いかけて去っていった。果物かごには、一級品であろうつやつやした果物が花束のように盛られている。かけられたビニールに、目が落ちくぼみざんばら髪の男が反射してぎょっとする。まじまじと見てみると、それは自分の顔であった。

 点滴はつながったままだったが、手足のひもはなくなっていた。寝たきりだった私の体は筋肉が落ちていて、ベッドから起き上がるのもやっとであった。一人で起き上がろうと悪戦苦闘していると、若い看護婦が慌てて駆け寄ってきて無理やりベッドへ寝かされた。前回の大立ち回りが頭をよぎり、今回は冷静を装って懇願してみた。

「私、どのくらい入院しているのですか?同僚の様子が気になります、会わせてください」

 若い看護婦は、私が暴れだす様子がないとみると明らかに安心した顔をした。看護婦は私を車いすに乗せて、病室から出してくれた。

「高野さんは1週間ほど入院されています。同僚の方々は皆さん気が付かれています。今は談話室にいらっしゃると思いますよ」

 独特な消毒液の臭いと、病院食のまずそうなにおいがする廊下を通り、明るく日のさす談話室へ通された。そこでは同じ服を着た患者たちが思い思いに過ごしていた。折り紙をする子供たち、将棋に励む年寄りたち、テレビ前でうなだれる枯れ木のような男たち。病院らしい風景だ。同僚たちの姿を探し見回していると、車いすはテレビ前で止まった。

「みなさん、高野さんが目を覚ましましたよ」

 落ちくぼんだ目が8つ、ぎょろりとこちらを見た。肌が黒ずみ、まばらにひげが生え、手足はかさついているのに、顔と髪だけ脂ぎっている。よく見ると、その枯れ木は同僚の片山、平田、吉川、岸元だった。彼らはただ私を見つめるだけで、何も話さない。

「高野さんが来たらいい刺激になると思ったのですが難しいですね。高野さん、よく話しかけてみてください」

 看護婦は私を置いて去っていった。黙りこくった同僚たちに戸惑いながら、言葉を選んで口を開く

「このメンバーが抜けたなんて、工場の稼働が止まっているんじゃないか」

 私だけでなく、彼らも工場では重要なポジションについている。自分のことしか考えていなかったが、一週間も休んだら工程にどこかしらに不備が出ているだろう。自分たちの帰りを待っているであろう後輩たち、上司たちを思い浮かべる。

「工場なんて……」

 片山がかさついた唇から、吐息のような声を絞り出す。

「全部、高野のせいじゃないか」

 平田が目を見開き、こちらに嚙みつかんばかりに車いすから身を乗り出す。

「お前はなんでそんな冷静でいられるんだ!」

 平田は止める間もなく立ち上がり、こちらへ歩き出そうとして床へ倒れこんだ。ばたんと大きな音がして、血相を変えた看護婦たちが走り寄ってくる。

「お前のせいで、吉川と岸田は腑抜けになっちまった!」

 平田が看護婦3人がかりでむりやり車いすに座らされる。しかしまだ私に向かって怒りをぶつけたりないようで、再び立ち上がろうとする。駆けつけた医者が注射器を点滴につないで中身を押し込むと、平田の眼が虚ろになり、崩れ落ちるように車いすに座り込んだ。なるほど、前回の私も薬で眠らされていたのか。動かなくなった平田は部屋に連れていかれたようだ。

 改めて全員の顔を見てみると、片山はこちらを凝視しているが、吉川と岸本は呼びかけてももうこちらを見ることはなく、テレビの方を見ている。しかし焦点が合っているとは思えない。ただその方向を向いているだけのようだ。看護婦が一人ずつ部屋に連れて帰る。

「静江さん、いないんだろ」

 最後に残った片山の言葉は、私に新鮮な衝撃を与えた。あれは夢のはず。洞窟なんてなく、静江と雄大は元気で、いつも通り家で私の帰りを待っているはずなのだ。そう言い聞かせるも、衝撃は私の体を痛みとして貫き、動悸がはじまる。冷静でいようと努め心の奥に押し込めていた感情があふれて、体が熱くなる。

「高野さん、落ち着いて」

 いつの間にか息が上がっていて、そばに立つ看護師にも気が付かなかった。口にあてがわれた紙袋で呼吸していると、どうにか落ち着いてきた。私の家族はどこへ行ってしまったんだ。そうだ、入院している同僚たちは、皆静江の友人たちと結婚した面子ではないか。

「まさか、彼らの家族も」

「えぇ、皆さん奥様とお子さんが失踪したと訴えています」

 私はまたくらくらきてしまった。あの恐ろしい出来事は夢ではなかったのか、あんなに冷たい表情で、彼女は私を捨てていってしまったのか、妻子がいない生活なんて考えられない。考えがまとまらず、思考は散らかるばかり。頭に血が上ったり、急に体の芯が冷えたりで、その日は全然寝付くことができなかった。


 カーテンの隙間から陽がさしてきて、いつの間にか朝になっていた。看護婦があいさつに回る声が聞こえ始める。しかし私の部屋に来る前に、急にあわただしい足音が聞こえ、病棟は騒然としはじめた。

「平田さんが!」

 数分もすると足音と騒々しさが落ち着き、何事もなかったように朝食の配膳がはじった。漏れる噂話から察するに、平田は病院から逃走を図ったようだ。うまくやったのだと思った。私もいち早く退院し、妻子の安全を確認したくてしょうがなかった。

「先生、私はいつ退院できますか。早く退院させてください。妻子を探さなきゃならないのです」

 私は、医者が来るたびに何度も直談判した。医者はうんざりしていたようで、何やら誓約書を書かされた後、3日後に退院の許可が出た。

「あの患者たち、取りつかれているよ。医者の領分じゃないな」

 医者のため息も気にならない。私はふらつく体をどうにか支えて、妻子の待っているはずの家に帰った。

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