第2話
少ない休日のある日、ついに私は彼女にもらった住所まで来ていた。美しい白い壁の一軒家で、夏の日差しが反射し目が焼けそうだ。
しばらく工場が忙しく、昼休みなんてなかったから、あの日以来彼女に会えていなかった。日にちも時間も決めておらず、行ったとて会えないだろうとは考えていた。しかしいてもたってもいられなかったのだ。しかし到着してみてはたと気が付く。手土産一つ持たず身一つで突撃なんて、まるで付きまとってるみたいじゃないか。急に我に返り、踵を返して帰ろうとした。
「高野さん!」
彼女の声がした。振り返ると、塀の陰から顔を出した彼女が見えた。
「来てくれたんですね。上がっていってください」
庭いじりでもしていたのだろうか、麦藁帽をかぶった彼女の顔には網目模様の影がおちていた。ジーンズにシャツという素朴な格好は、彼女の華奢さも合わさり少年のように見えた。
「さぁ」
突然の訪問に嫌な顔一つ見せず、弾んだ声で彼女は私を招き入れる。私は誘われるがまま門扉を開いて庭に入った。刈りそろえられて青々とした芝生と、ひまわり、朝顔など季節の花が咲く花壇が目に入る。
「母の趣味だったんです」
彼女は寂しそうに笑う。私は彼女が地元に戻った理由を思い出し、またしどろもどろになってしまう。
「あ、ええと、この度は……」
「ふふ、お気になさらないで」
彼女は私の失言などなかったように玄関に入っていった。続いて、彼女の家に足を踏み入れる。彼女の家の玄関は明るく暑い外から入ると、空気が冷たく異様なほど薄暗かった。
「どうかしましたか」
すでにサンダルを脱いで廊下へ上がった彼女が不思議そうな顔をしていた。目が慣れてくるとなんてことはない。趣味のいい洋風の家だ。薄暗いのは室内の電気がついていないせいのようだ。
「女の一人暮らしで、なかなか力仕事や届かないところの手入れが追い付かなくて。玄関の電気も昨日急に切れてしまって……」
「電球、ありますか?私が交換しましょう」
彼女は部屋の中へ小走りでかけていくと、申し訳なさそうに持ってきた電球を手渡した。電球の交換なんて大したことは無い。すぐに終わった。しかし彼女は感激して、埃のついた私の手を握ってお礼を言う。
「ありがとうございます!」
「このくらいおやすい御用ですよ」
流石に2度目となると、私だって動揺しない。私が微笑み返すと、彼女は顔を赤くして手を離した。前回はあんなに気軽に触れてきたのに、と彼女の違う一面に、また胸がときめいた。
「色々、ありがとうございます。こちらで休まれてください」
彼女にダイニングテーブルへ案内され、私は大人しく座って待っていた。ふと見回すと、隣の部屋に続くふすまが開いていて、そこから黒い枠に入れられた2つの写真が見える。ご両親だろうか。長く見つめるわけにもいかず、正面にある磁器の花瓶にいけられた大輪の向日葵と向かい合いながら、白く繊細なレースのテーブルクロスの網目をみていた。
彼女は冷たい緑茶と冷えた水ようかんを持ってきて、私の向かいに座った。
「こんなものしかなくてすみません。お口に合うといいのですが」
「いえいえ、急に押しかけてしまった私が悪いんです」
水ようかんは、すっきりとした上品な甘さと冷たいのど越しで、ほてった体に心地よかった。
「とてもおいしいです」
「お口に合ってよかったです。お恥ずかしながら、私の手作りなんですよ」
こんなおいしいものが作れるなんて、自然と彼女の料理の腕前を絶賛する言葉が口から出てきていた。彼女は照れたように笑い、自身も水ようかんを口にする。上品に小さく切られた水ようかんが、桜のような唇に吸い込まれていく。あぁ、なんてかわいらしいのだろう。私はどうしても彼女をものにしたくなっていた。
「私一人っ子なんです。両親が死んだあとは頼れる親類もいなくて、同級生に助けられながらどうにか頑張っています」
日が陰って涼しくなるまでとひきとめられ、最初はぎこちなく会話をしていたのだが、徐々に彼女は自分のことを話してくれるようになっていた。地元をはなれ事務の仕事をしていたが、両親の死後、彼らが大切にしていたこの家を守るために戻ってきたという彼女の顔は、少し寂しげだった。
「郷里に御家族は……」
沈黙のあと唐突に自分のことを聞かれて一瞬言葉に詰まる。彼女のように波乱万丈なことはなく、特に開示するようなことはない人生だ。
「老いた両親と兄が。両親の面倒は兄がみて、私が都会で成功して仕送りをしてくれるなら、帰らずとも文句は言われないですよ」
「あら、言葉に出さなくても寂しいとは思っているかもしれないじゃないですか」
「いやぁ、兄は結婚して同居しているからなかなか帰りにくくて」
私はここから鈍行で数時間の地方出身だ。畑に囲まれた田舎な土地で、夏の夜にはうるさくカエルが鳴く地元。もう数年帰っていないが、数十年聞いて育ったあの音が懐かしい。こちらに引っ越してきたばかりの頃に、田んぼがなくて畑ばかりだから聞こえる声が違うことに寂しさを感じていたのを思い出す。
話し込んでいるうちに、いつの間にか外は暗くなっていた。夕方には帰るつもりだったのだが、長居しすぎてしまったようだ。時間が過ぎるのを感じないくらい、彼女との会話は楽しいものだった。
「すみませんこんな時間まで。帰ります」
慌てて立ち上がり帰り支度を始めると、小さな声で彼女が言った。
「もうこんなに暗いんですから、泊って行ってはいかがですか?」
彼女はうつむいて少し恥ずかしそうに赤らめた顔をうつむかせて、続けて言う。私はぐらついたが、隣の部屋の遺影を思い出しぐっと我慢する。
「ここら辺にはカワビトの伝説があるんです。夜更けに一人で歩いていたら、化かされて尻子玉取られて腑抜けになってしまいますよ」
「静江さんは面白い方ですね。そんなこと、今どき信じる人なんかいませんよ。今は科学の時代ですから」
聡明な彼女らしからぬ冗談だ。そう言って笑うと、彼女は赤い顔のままそっぽを向いてしまった。さっきまでは落ち着いた大人の女性だったのに、まるで少女のようにすねる顔が、私の心をくすぐった。
「静江さんがいいのなら、また来てもいいですか」
私は芝居がかった動きで、彼女の前でお辞儀をして手を差し出し誘う。
「ぜひ!」
差し出された手に、温かく柔らかい彼女の手が重なる。ふたり握った手からお互いの熱が伝わる。私たちが恋仲になるのにそこまで時間はかからなかった。
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