第3話

 妊娠が分かってからの静江は、目に見えて憔悴していた。食べられるものがなく、かろうじて果物や氷を口にしても、すぐ吐いてしまう。私の激務も相変わらずで、火事に手が回らなくなった家は荒れ、どこからか生臭さが漂ってくるようになってしまった。見かねた私が仕事終わりに掃除をしようとすると、立ち上がるだけで気分の悪くなる静江が床を這うように近づいてきて、私の袖をつかんで来るのだった。言葉も発せられない静江は、虚ろな目で私を見つめ弱弱しく首を横に振るだけだ。職場の女性陣から生ごみなどの臭いもつわりの原因だと聞いて、掃除をしてにおいのもとを断てば静江も多少は過ごしやすいと考えてのことだったのだが、静江にとっては私に家じゅう掃除される方が嫌なようだった。

 思えば静江はなかなかに秘密主義だった。肝心なところはあいまいに濁して確信に触らせてくれないことがある。おおむねの生い立ちは話してくれるが、通っていた小学校の名前なんかはいまだ知らない。結婚した後も知らない一面があるのは、ミステリアスで魅力的だと感じていた。私自身も必要以上に行動を把握されたり根掘り葉掘り聞かれるのは好まないので、お互いさまでちょうどよいと思っていた。私は結婚後、狭くむさくるしい寮を飛び出し静江の住む白亜の一軒家へ引っ越した。部屋数は多く、夫婦の寝室のほかに書斎として使える部屋があるくらいだ。夫婦の寝室の奥に、「男子禁制」の2畳ほどの小さな小部屋がある。静江はその部屋に大切なものが飾ってあるといたずらっぽく笑いあいまいに返すだけで、今までついぞ入ったことがなかった。そこにある何かを暴かれたくないから掃除を拒否しているようなのだ。


 部屋の臭いに辟易し始めていた頃か。仕事から帰ると、家じゅうがきれいになっていた。驚いて玄関から一歩踏み入れると、久しぶりに聞く静江の笑い声が聞こえた。

 リビングに行くと、そこには同僚の妻たち、つまり静江の友人たちが彼女を取り囲んで談笑していた。

「あらあなた、おかえりなさい」

 久しぶりに聞く彼女の声とあたたかなほほえみ。私はうれしくて、しかし友人たちの前で彼女に飛びつくこともできず、まごついていた。

「急に押しかけてしまって申し訳ありません。どうしても彼女の力になりたくて」

「ご迷惑でなければ、時々お伺いして家事を手伝わせてください」

「彼女にはたくさん助けられてきたのです。今度は私たちが体も弱い彼女を助けます」

 黙ったままの私に、同僚の妻たちは口々に声をかけ去っていった。私はああ、はいと相槌をうつことで精いっぱいだった。最後の一人が帰ったあと、やっと話しかけることができた。

「慕われているな」

「私、そんな大層なことしていないのに、みんな張り切ってお世話してくれて。でも、しばらくお世話になりたいわ」

「もちろん。静江の好きなようにするといい」

 めったにお願いなどしてこない妻の弱弱しいお願いに、私は一も二もなく同意した。妻の両親はもうおらず、うちの家には頼れない。彼女たちの申し出は、本当にありがたい限りであった。出産までの数か月、彼女たちの協力のおかげで、私は静江をごみだめに住まわせずに済んだ。彼女たちと過ごすうちに、気力が戻ってきたのか、静江も本調子には戻らずとも、元気な日が増えていった。


 雪も残る2月のこと。息子の雄大は生まれた。妊娠中の不調からは考えられない、病院も驚く安産だった。静江の腕に抱かれる雄大は、彼女に瓜二つな白い肌と整った顔をしていた。

「俺に似ているところがないなぁ」

「あら。私のことが大好きなところがそっくりじゃないですか」

 いくらか血色の戻った彼女は、腕の中で眠る雄大のほほを軽くなでる。雄大は少しくすぐったそうに手足を動かすが、すぐにまた眠りだす。それをみて静江が小さく笑う。病室の窓からさす光も相まって、美しい絵画のようだった。私は彼らに1つも不自由をさせたくなかった。この幸せを体現した光景を絶対に守りたかった。心の底から湧いてくる気持ちに、つい涙がこぼれる。

「また泣いてる。お父さんは泣き虫だ」

 静江が笑って、私のこぼれた涙を掬い取った。

 

 雄大は大きな病気をすることなく、すくすく育っていった。同僚夫妻たちもどんどん子宝に恵まれ、遊び相手にも不自由せず楽しく暮らせているようだ。

 しかし、成長する雄大に反比例するように、静江の調子が悪くなっていった。雄大が3歳ごろまでは元気に過ごしていた静江だが、目に見えて衰弱していった。もともと線が細いのにどんどん痩せてしまい、私の半分もない細腕が痛々しい。病院に行かせるも、原因不明かもともとも虚弱体質のせいだから栄養を摂るようにと言われるだけだった。私は順調に昇進して課長になっていた。緊急の呼び出しはあるものの、現場に出ずっぱりだった頃よりは時間に融通が利き、できるだけ早く帰って家事を担うようにしていた。だが私には水仕事やリビングの掃除しかできず、家の空気はどんよりとしていた。それを見かねて、雄大を妊娠しているときのように同僚の妻たちが子連れで家に来てくれて、雄大と自分の子を遊ばせながら時々家事をやってくれていた。ほとんど雄大の遊び相手と静江の話相手のようだったが、彼女たちが来てくれると静江は明らかに元気になっていた。


「あなた、私今度の慰労会、久々に出てみたいの」

「今回の慰労会は野外でBBQだ。今の君には厳しいんじゃないか?」

 静江は体調を崩して以来、慰労会には出ていなかった。元気な時でさえきつかった人込みだ。今の静江には30分も耐えられないと思い反対したが、珍しく彼女はかたくなだった。

「みんなの旦那さんたちにも直接お礼が言いたいの。彼女たちもぜひ参加してほしいって言ってくれたか……無理はしないから」

 義理を大切にする彼女の気持ちもわからなくはない。私たち家族は、万全の態勢で慰労会に参加することにした。

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川の子たちは帰る 北路 さうす @compost

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