川の子たちは帰る

北路 さうす

第1話

 ベンチに座って、コンクリートに守られた川を覗くのが私の昼休みの過ごし方だった。澄んだ水の中に山から流されてきた色とりどりの石があり、川の流れる音と木々の葉擦れを聞いて、つかの間の休息を楽しむのだ。

 いつも通り水面を眺めていると、上空を何かが横切る影が映った。大きな鳥かと思ったが、それはつばの広い白い帽子だった。悠々と滑空し、川へ落ちて流れていく。

「すみません、ここら辺に帽子を落としてしまって」

「へっ!?」

 流れていく帽子をぼうっと見送っていたら、後ろから声をかけられて驚いてしまった。振り返るとそこには見知らぬ女性が息を切らせて立っていた。白い肌が上気し、太陽を反射しているのかまぶしく感じた。短く切りそろえられた黒髪は、走ってきたはずなのに乱れ1つない。

「……帽子、多分こっちだ」

 目をそらし、私は言葉少なに歩き出す。初めて会った彼女の美貌に、気圧されていたのだ。彼女は大きな目を丸くして、少し遅れてついてきた。この川は、下流に飛び石のようなコンクリートが整備されている。あの大きな帽子はそこに引っかかっていると推測したのだ。

「あった!」

 予想通り帽子はそこにあった。後ろからついてきた彼女がうれしそうな声を上げて、川べりに駆け寄る。しかしコンクリートの護岸は強い傾斜になっていて、ワンピースの彼女が下りるのは難しそうだ。

「ちょっと待ってて」

 私はそこら辺の草むらから、長めの枝を探してきた。護岸のかすかな段差を頼りに川辺へ降り、枝で帽子をつついて引き寄せ、拾い上げた。

「しっかり洗うといい。この川、見た目はきれいだが想像よりも汚れているんだ」

「ありがとうございます。あの、お名前をうかがっても」

「高野です。そこの工場に努めている」

「まぁ、鳩の子工業にお勤めなのですね。私は静江と申します」

 私は休憩時間の終わりが近づいていることに気がつき、名残惜しそうにしている彼女を置いて、挨拶もそこそこにその場を立ち去った。今までかかわってきた女性とは違う、美しい彼女に気後れして、まるでうぶな学生のような態度をとってしまった。工場に戻った後も、寮に帰ってからも彼女のことが頭から離れない。そして己のひどい態度に悶絶するのであった。


 会社に帰った後も、彼女のことが頭から離れなかった。昼休憩になったとたん、一抹の希望をもっていつもの川へ向かう。いつものベンチが輝いて見える。後ろ姿からもわかる。あの帽子をかぶった彼女だ。

「高野さん、こんにちは」

 彼女は私に気が付くと、活発な少女のような笑みを浮かべた。新鮮に彼女の美しさに撃ち抜かれ、私は言葉に詰まってしまった。

「ここに来たら会えると思っていたのです。帽子のお礼がしたくて」

「いや、そんなお礼だなんて」

 やっと絞り出した言葉とは裏腹に、私は高揚していた。彼女が自ら私に会いたいと思ってくれた。心臓が激しく脈打ち、汗が噴き出してくる。顔はおそらく真っ赤になっているだろう。二重に恥ずかしくなった私はうつむいてしまう。

「私、両親が亡くなって久しぶりにここへ帰ってきたの。寂しい私のわがままだと思って、聞いてくださらない?」

 彼女が汗で湿った私の手を握った。薄くしっとりと柔らかい手だ。彼女はいつの間にかいなくなっていて、私の手にはきれいな字で住所が書かれた、繊細な花柄の付いた小さな紙が握られていた。


「お前がそんなうぶな反応をするなんて信じられないな。そんなに別嬪なのか?」

「今まであったこともないくらい美人だよ」

「私たちを目の前にしていうじゃない、高野さん」

 仕事終わりに同僚たちと行きつけのキャバレーで飲みながら過ごす。私はそれなりに女遊びはしてきたから、彼女にうまく対応できないのが信じられなくて、酒のつまみついでに話をしてみたのだ。きらびやかな店内でお気に入りの女の子たちに囲まれ飲むのは良い娯楽だった。しかし今の私は、静江さんのことしか考えられず、あんなに輝いていた女の子たちも色あせて見えるようだった。彼女たちの猛攻を、あいまいな笑みで返すしかできない。いつもの反応と違う私に女の子もはしゃいでいる。

「そんなきれいな子がいたら噂になってそうなもんだけどな」

「最近こっちに帰ってきたって言ってた」

「今度俺たちにも会わせろよ、仲良くなったんだろ?」

「まだそんなわけでは……」

 自分で処理しきれなくて相談したはいいが、いざ話そうとすると言葉に詰まってしまう。

 「やだ高野さん、その子に惚れこんでるじゃないの」

 結局私は真っ赤な顔を晒しからかわれただけとなってしまった。


 少ない休日のある日、私は彼女にもらった住所まで来ていた。美しい白い壁の一軒家だ。夏の日差しが反射し目が焼けそうだ。

 しばらく工場が忙しく、昼休みなんてなかったから、あの日以来彼女に会えていなかった。日にちも時間も決めておらず、行ったとて会えないだろうとは考えた。しかしいてもたってもいられなかったのだ。手土産一つ持たず身一つで突撃なんて、まるで付きまとってるみたいじゃないか。急に我に返り、踵を返して帰ろうとした。

「高野さん!」

 彼女の声がした。振り返ると、塀の陰から顔を出した彼女が見えた。

「来てくれたんですね。上がっていってください」

 庭いじりでもしていたのだろうか、麦藁帽をかぶった彼女の顔には網目模様の影がおちていた。ジーンズにシャツという素朴な格好は、彼女の華奢さも合わさり少年のように見えた。

「さぁ」

 彼女は玄関を開き、入るよう促した。私は誘われるがまま門扉を開いて庭に入った。刈りそろえられて青々とした芝生と、ひまわり、朝顔など季節の花が咲く花壇が目に入る。

「母の趣味だったんです」

 彼女は寂しそうに笑う。私は彼女が地元に戻った理由を思い出した。

「あ、ええと、この度は……」

「ふふ、お気になさらないで」

 彼女は私の失言などなかったように玄関に入っていった。それに続こうとしたとき、ふと涼しい風と生臭さを感じた。彼女の家の玄関は、異様なほど薄暗かった。明るく暑い外から入ると、急に水の底に引きずりこまれたように感じた。

「どうかしましたか」

 すでにサンダルを脱いで廊下へ上がった彼女が不思議そうな顔をしていた。目が慣れてくるとなんてことはない。趣味のいい洋風の家だ。薄暗いのは電気がついていないせいのようだ。

「女の一人暮らしで、なかなか力仕事や届かないところの手入れが追い付かなくて。玄関の電気も昨日急に切れてしまって……」

「電球、ありますか?私が交換しましょう」

 彼女は申し訳なさそうに電球を手渡した。電球の交換なんて大したことは無い。しかし彼女は感激して、埃のついた私の手を握ってお礼を言う。

「ありがとうございます!」

 流石に2度目となると、私だって動揺しない。

「このくらいお易い御用ですよ」

 私が微笑み返すと、彼女は顔を赤くして手を離した。前回はあんなに気軽に触れてきたのに、予想外にウブな反応をされて、私はまた胸が高鳴るのを感じた。

「色々、ありがとうございます。こちらで休まれてください」

 彼女にダイニングテーブルへ案内され、私は大人しく座って待っていた。磁器の花瓶にいけられた大輪の向日葵と向かい合いながら、白く繊細なレースのテーブルクロスの網目をみていた。


 彼女は冷たい緑茶と冷えた水ようかんを持ってきて、私の向かいに座った。

「こんなものしかなくてすみません。お口に合うといいのですが」

「いえいえ、急に押しかけてしまった私が悪いんです」

 水ようかんは、すっきりとした上品な甘さと冷たいのど越しで、ほてった体に心地よかった。

「とてもおいしいですね。これ、どこの商品ですか?」

「お口に合ってよかったです。お恥ずかしながら、私の手作りなんですよ」

 私はこんなおいしいものが作れるなんてと彼女の料理の腕前を絶賛した。彼女は恥ずかしそうに、現在の暮らしぶりや生い立ちを話し始めた。ぎこちないのは最初だけだった。彼女は都会の大学を出て事務員をしていたが、両親が相次いで病死したためこの村に戻ったこと、兄弟や頼れる親戚はおらず、昔の同級生に助けてもらいながら両親の残した家を守っているのだそうだ。

「郷里に御家族は……」

「老いた両親と兄が。両親の面倒は兄がみて、私が都会で成功して仕送りをしてくれるなら、帰らずとも文句は言われないですよ」

「あら、言葉に出さなくても寂しいとは思っているかもしれないじゃないですか」

「いやぁ、兄は結婚して同居しているからなかなか帰りにくくて」

 彼女の話を聞いているうちに、いつの間にか私自身も生い立ちを話していた。地方出身で、畑に囲まれた田舎な土地で、夏の夜にはうるさくカエルが鳴く地元。もう数年帰っていないが、数十年聞いて育ったあの音が生々しく蘇る。

 話し込んでいるうちに、いつの間にか外は暗くなっていた。夕方には帰るつもりだったのだが、長居しすぎてしまったようだ。時間が過ぎるのを感じないくらい、彼女との会話は楽しいものだった。

「すみませんこんな時間まで。帰ります」

 慌てて立ち上がり帰り支度を始めると、小さな声で彼女が言った。

「もうこんなに暗いんですから、泊って行ってはいかがですか?」

 彼女はうつむいて少し恥ずかしそうに赤らめた顔をうつむかせて、続けて言う。

「ここら辺には河童の伝説があるんです。夜更けに一人で歩いていたら、尻子玉取られて腑抜けになてしまいますよ」

「そんなこと、今どき信じる人なんかいませんよ。今は科学の時代ですよ。静江さんは面白い方だ」

 聡明な彼女らしからぬ冗談だ。そう言って笑うと、彼女は赤い顔のままそっぽを向いてしまった。さっきまでは落ち着いた大人の女性だったのに、まるで少女のようにすねる顔が、私の心をくすぐった。

「静江さんがいいのなら、また来てもいいですか」

 私は芝居がかった動きで、彼女の前でお辞儀をして手を差し出し誘う。

「ぜひ!」

 差し出された手に、温かく柔らかい彼女の手が重なる。ふたり握った手からお互いの熱が伝わる。私たちが恋仲になるのにそこまで時間はかからなかった。

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