殺意の向こう、そして彼女は名乗りをあげた
視界が赤と黒で明滅し、
「はぁ、はぁ――」
呼吸は獣のように荒く、
「蜜実」
声は亡者のように。
自分が――自分が塗りつぶされていくのを感じる。
欲求に寄る支配は凄まじく、強烈な支配に抗えるものはなかった。
カラカラカラ、先を削った木をひきずりながら、落ち葉を踏みしめる。
殺意が僕を乗っ取って、体と脳も僕のものではなくなってしまった。
少なくとも、僕の知る葦名頼道は、人を殺そうとするような人間ではない。
一般的で、模範的で、普遍的な男子学生だ。
「はぁっ……!」
せっかく鋭利にした枝先を力任せに地面へと突き刺す。合理的じゃない。
葦名頼道はもう少しスマートな人間のはずだった。
あまりに変わり果てた自分に、切なくなる。
なんとなくゲームをして、マンガを読んで、幼馴染とくだらない話で笑って――僕の日常は地味なものだけど、それでも幸福で大切なものだった。
「蜜実……!」
その悪魔のような声は誰のもの?
他ならぬ僕だ、僕が出している。
胸に、心臓ごと燃やし尽くしてしまいそうな灼熱を抱えて。
悲しい――ではなぜこの悲しいという気持ちも、切ないという気持ちも、泣き出しそうな想いも、一緒に燃やし尽くしてくれないんだろうか。
ここにいる僕はなんだろう?
殺人鬼と化した僕を、悪鬼の如く顔を歪める僕を見て、涙を流しているこの僕は一体、何者なのだろうか。
――考えても無駄か。
どうせ今に全て台無しになる。僕は蜜実を殺し、そして僕も罰を与えられるだろう。
朱彩に申し訳ないな。ここまで付き合ってもらったというのに。
彼女は僕の日常である。幼いころに両親を亡くした僕と、今の今までずっとつきっきりで居てくれた。蜜実が現れてからおかしくなった僕を、はみださないように、日常に留めようとしてくれていた。
だというのに、僕と来たらなんて情けないことだろう。
僕の泣き言も虚しく、足は止まらない。
もう十分もすれば蜜実の館に着くところだ。そして、惨劇が始まる。
蜜実――蜜実か。
殺意と切り離された僕は、意識を逸らそうと努力してきた蜜実のことをようやく考える
そもそも何故僕は、彼女を殺そうとしたのだろうか。
どうして、彼女なんだ?
何かの要因で――例えば、青い蝶を見て狂ってしまったというならそれは別に良い。だけど、どうして、その対象が初対面の蜜実である必要があるのか。
誰でもいいなら、朱彩でもいいはずだ。そもそも青い蝶を見て狂ったのなら、時間差が過ぎるというものだ。
僕が青い蝶を見たのは榊と出会った時――いや、違う。きっと、もっと前に見たことがある。
記憶を辿る――そして、ある時を境に、やはり途切れてしまう。
どうしても思い出せない幼少期、僕はショックでその頃の記憶を失っていた。
今思えば、そこに青い蝶の記憶があったんじゃないだろうか。
榊と出会った時に確信したんだ、青い蝶はいると。でも、その最初にあった煙のような、夢みたいな光景は、僕の消えた記憶の中に存在していた。
それほど前に見ていたなら、今さらおかしくなるなんて不思議な話だ。オカルトな話なのだから、法則性も、ルールもないかもしれないけど――それでも。
それでも、僕は否定しようと思う。自分の感覚を頼りに。
時間差ではなく、トリガーだった。蜜実との出会いは、間違いなくトリガーだ。
タイミングの問題じゃない。僕の殺意の対象が蜜実に偏っているのがその根拠とも取れる。
そして、疑問は最初に戻ってくる。どうして彼女なのか。
なにかきっと理由があるはずだ。
だとしたら、理由ごと闇に葬られるのか――それは、本当に良いこと?
深く、深く問いかける。自分の奥深くに。
潜って、潜って、埋没していた奥底に、大切なものが眠っていた。
――生きてれば、いいことあるから。
誰かの言葉。僕が後生大事にしている言葉だ。
その声に反応するように足の動きが鈍ったような気がした――闇の中に見えた一筋の光明。
僕は間髪入れずに、自問を畳みかける。
理由もわからずに殺すのか? 納得もいかずに殺すのか? 幸せな日常を放棄して、全てを失って殺すのか!? それでいいのか、葦名頼道!
本当に、それが良いことだと言えるのか!?
幾重にも重なる問いかけの果て――奇跡だったのかもしれない。
「う、わぁぁぁぁ!」
咆哮。
何が起きたかわからない、ただ一瞬だけ、戻った腕の感覚に気付いて――僕は自分の太ももに鋭い枝先を突き刺した。
「あぁぁ!」
痛い、痛い!
視界がぐるぐる回る。空が、木々が、地面が、スライドショーのように映り変わっていく。ようやく、空の景色でぴたりと止まる。
痛みのあまり転げ回っていたようだった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
冷や汗を流し、息を荒げ、太ももが焼き付く感覚をただ耐える。
恐る恐る、痛みを感じる方へと視線を向ける。
枝先は数センチ、僕の肉に食い込んでいた。破れた制服から血が滴っている。
さて、これを抜かなければどうにもならない。次に来る痛みに歯を食いしばりながら――勢い任せに引き抜いた。
「うぐっ……!」
激痛。
しかし備えていた甲斐があってか、もう一度転がり回らずには済んだ。
「あぁ……」
先ほどまで突き刺さっていた凶器を頼りに立ち上がる。支えがなければ、流石に山を下りきる自信はなかった。
とてつもない代償――我に返ることはできた。血も、痛みも、体も、今はまぎれもなく僕のものだ。
「耐えましたか」
咄嗟に振り返る――足の痛みも忘れて。後ろから聞こえる声が、見知らぬ誰かのものだと気付いたのは振り返ってからだった。
「素晴らしいですね、レアケース。島根来ができて以来の逸材です」
木々の間から現れたのは――人? 人だった。いや、果たして人なのだろうか。少なくとも人語を話し、体付きも人のものではある。小さい、声色から察するに、少女のものだ。
目の前にいるのは、恐らく僕よりも少し年下の女の子に違いない。
だけど、真のところはわからない。
なぜなら彼女の表情が見えなかった――真っ黒なペストマスクに覆われていたからだ。そのペストマスクの上には青髪が生えていて、首元で切り揃えられていた。
それに白衣、丈はずいぶん長く、黒いタイトスカートを過ぎ去り、およそ百五十センチほどの背丈しかない彼女のくるぶし近くまで伸びている。
医者? そんなわけがない、このご時世に日本でペストなど流行るものか。
総合して、彼女は人ではあるが、その姿はあまりに異様で、僕は人ではないかのように感じていた。
「……何者?」
人気のない山中で、こんな姿の人物に声をかけられ、逃げ出したくなる気持ちは多分にあったが、太ももが訴える痛みに諦め、僕は問う。
「まずは笑いなさい、葦名頼道。このご時世にペストマスクなんて要るわけないだろ、と」
「申しわけない……いつもなら笑っているところなんだけど、生憎、今は余裕がなくて」
平静を装い言い返す、相手の表情が見えず、僕の言葉にどのような感情を示しているのかは全くわからなかった。
「そうですか、渾身のジョークだったのですが。魔女のジョーク、魔ジョーク、なんて」
「いや、それはいくらなんでも寒すぎ――えっ……いま、なんて」
「――あぁ、良い反応です。笑えないのであれば、せめて驚いてもらえないと――こうして人前に出てきた甲斐がないと言うものです」
彼女はご満悦そうな言葉を並べながら、この場に似つかわしくない真っ黒なペストマスクを外した――そして。
「私は、島根来島に蔓延る伝説、まことしやかに囁かれる絶対者。そして――この島根来島の管理人。ですが、そう。こう言った方があなたにも馴染みがあるでしょう?」
まったく抑揚のない声で、無表情な素顔を見せた少女は、自身を指して確かにそう口にした。
「――魔女、と」
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