ダウン・アップ
「それでは皆さん、お気をつけて。大したもてなしもできなかったけれど、次に来るときはちゃんと用意しておくね」
「あはっ、ありがとね白華ちゃん、また遊びに来るね」
蜜実に見送られながら僕らは別荘を後にする。
幸いにも昨日が金曜日だったため、全員でズルズルになった山道を登校するという憂き目は見ずに済んだ。
蜜実に変わった様子はない。といっても、その顔を直視することはできないが、少なからず声や調子はいつもの優等生で優雅なお嬢様だ。
昨夜のことを思い出す――天井いっぱいにぶら下がった縄。あれは本当に蜜実が仕掛けたものだったのだろうか?
考えてもわからないことだが、それがもし事実なら蜜実はその内、自分の命をあの輪っかでくくるかもしれない。
その結末は、蜜実への殺意を抑えている僕にとって耐え難いことだった。
あまり考えすぎるのは毒だった。あんなくだらない縄に奪われるくらいなら、僕の手で絞めてやりたい。
そんな感情がふつふつと、胸の中で煮えていく。
「じゃあ、また」
後ろ向きに手を挙げ、足早に立ち去る。
一夜の恩はあれど、向き合って頭を下げるほどの余裕は残されていなかった。
後から朱彩と巻谷が追い付いてくる。
「芦名くんさぁ、なんで部屋に来てくれなかったわけ? 私、ずっと待ってたんだけど」
「呼ばれてないのに非難されてもなぁ」
「あんなロマンティックな夜なんだから、お気にの女の子の部屋に行くのは当然でしょ?」
「いつ僕が巻谷にブックマークしたって言うんだい?」
「いっぱいしたじゃん、この間のデートの時に。あの時みたいにがっついてよ」
「慎みたまえよ、幼馴染の前でその話はきまずい」
「私は別に気にしないけどなぁ」
「あはっ、ほんとかなぁ朱彩ちゃん、もしかしてヤキモチ妬いてたり?」
朱彩が妬くわけないだろ。
私と頼道はそういうのじゃないし――これが朱彩の定型文だ。おもに交友範囲が広めの朱彩が、コミュニティ内で色恋沙汰の話になった時に用いられている。
「私と頼道はそういうのじゃないし」
それ見たことか。我々の絆は永遠である。
いつもの調子で返す朱彩に僕は心の中で拍手する。
「ほほーん、じゃあ私と葦名くんがなにしても朱彩ちゃんはなんとも思わないってこと?」
「たぶん思わないけど、例えば?」
「例えば――キスしよっか? 葦名くん」
「うおおおっ!?」
正面に現れる巻谷、迫る小鳥のような唇――僕は全力で仰け反った。
「もう、避けちゃヤダ」
無理のある回避で背骨が痛い。無茶苦茶だこいつ。
「頭沸いてるんじゃないの? おい、僕のファーストキスへの想いをノリで粉々にしようとするんじゃない。初めての味はストロベリーだと決めてるんだ」
「あの日はあわよくばを狙ってたくせに」
「あの日はキス以外を経験しようと思ってたんだ」
「あはっ、めっちゃカスじゃーん!」
巻谷は面白おかしそうにケラケラと笑う。とにかく刺激が欲しい彼女は、僕とその他周囲をからかうことによって、暇つぶしを試みているようだった。
まるで足が生えた爆弾だ。
僕の糾弾をよそに巻谷は棒キャンディーを取り出して封を切っていた。ストロベリー味と印字されている。
「次弾を装填するんじゃないよ!」
「せっかくお好みの味にしてあげたのに、葦名くんってばツれないなぁ」
「はいはい、二人が仲良いのはわかったから。足元悪いんだからこんなとこで暴れるなって」
「はーい!」
朱彩の呆れた声でようやく終戦する。巻谷は機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら僕の前を歩き始めた。朱彩をそっち方面で煽っても無意味だと悟ったのだろう。
僕を救った幼馴染はふう、と一息吐いて首元を触っていた。
彼女の一連の動作を見て、小声で話しかける。
「ごめん、もしかして痛む?」
「――えっ?」
僕の声を聴いて、なぜか驚くような、呆気にとられたような反応を見せた後に自分の手の位置を確認し、慌てて腕を下した。
「いや、全然」
まるで僕に言われて初めて気付いたような様子だったのは気になるが、前に巻谷がいるので話題は最小限に留めることにした。
「あれっ、人が倒れてなぁい?」
「えっ」
巻谷の唐突な言葉に、正面へと視線を向ける。彼女の言う通り、立ち並ぶ木々の中に人影が見えた。
大木の根元に背中を預けるようにして誰かがいる。
「大変だ……!」
朱彩が走り寄っていった。彼女は親切な部類の人間であり、その行動は僕らよりワンテンポ早い。
そして先に到着し、声を上げた。
「おい! これ、うちの制服だ!」
「えぇ!?」
報告に驚きながら僕と巻谷も駆け寄る。やがて辿り着くと、その光景は心臓が掴まれる思いだった。
「めっちゃ綺麗な女の子だね、リボンが青色だから一年生かな?」
「お、おい! 呑気に言ってる場合か! 遭難したのか? だとしてもどうしてこんなところで……」
女の子を抱えながら慌てる朱彩とマイペースに感想を言う巻谷は対照的だった。
一方、僕はというと二人が抱く感情のどちら寄りでもなく、ただ見覚えのあるその姿に驚くことしかできなかった――榊千尋が、倒れていた。
「あはっ、そんなに慌てなくても大丈夫だよ朱彩ちゃん――ほら、この子、死んでないしケガもしてない。寝てるだけだよ、そこで」
「えっ」
巻谷が遠慮なく榊の体を数か所触り、見聞を述べた。
耳を澄ませば確かにうっすらと寝息のような音が聞こえてくる。
僕は安心し、胸を撫でおろした。見送った直後に足を滑らせて――なんてのは流石に後味が悪すぎる。
「良かった、でもどうしてこんなところで……」
朱彩の疑問に答えることはできない。「僕を追いかけて館に侵入し、帰りに力尽きたんだと思う」なんて、とてもじゃないけど説明できなかった。
「ん……」
僕らが様子を伺う中、榊の口から声が漏れる。
周りで騒がれてうるさかったのだろうか、薄く目を開いてこちらを見つめた。
「おはようございます。あぁ、私、寝てしまっていたのですね」
「寝てって……大丈夫なのか?」
「ご心配には及びません。制服は汚れてしまいましたが、この通り、生命活動には問題ありませんので」
「そっか、良かった。うちの一年だよな、どうしてこんなところに?」
「あぁ、それは――」
朱彩の問いかけを受けて、榊はちらっと、こちらを一瞥する。何を考えているのか読み取れない瞳に、下手なことは言わないでくれとドギマギさせられる。
「山菜を取りに、でも見つからなくて。ふて寝をしていたのです」
「さ、山菜ぃ……?」
嘘が、雑すぎる!
だがその不思議な雰囲気が妙に説得力を持たせているのか、朱彩はなぜか「そっか」と納得していた。見た目で得をするタイプだ。
「迷子って言ったよな、私たち、今から降りるんだけど一緒に来るか? えっと、名前は――」
「榊と申します。榊千尋」
「そっか、榊ね。私は――」
「存じ上げております、樋水先輩、巻谷先輩、それに、葦名先輩」
「えっ?」
「あはっ、私ってば有名人?」
榊の一言に朱彩は驚き、巻谷は僕と同じ反応を見せていた。僕の思考レベルは巻谷と変わらないということか――なぜか心が切なくなる。
「どうして私たちの名前を……?」
「それは、私が葦名先輩と面識があるからです」
「えっ、マジ―? 葦名くん、知り合い?」
「そうなのか? 頼道」
ここでそれを言うのか。榊の告白に僕の方へと振り向く二人。
なるべく不自然にならないよう、話を合わせることにする。
「いや、まぁ、うん。一応、ぎりぎり。知り合いと言えば知り合い」
「あはっ、歯切れわるーい。こんな綺麗な子ともよろしくやってただなんて、葦名くんも隅に置けないなぁ。また朱彩ちゃんが妬いちゃうよ?」
「はぁ、私が妬くわけないだろ。ところで榊は頼道とどういう関係なんだ? 少なくとも私は見たことないんだけど」
「あぁ……はい――あれはある晴れた春の日のこと。葦名先輩はトラックに轢かれそうになっていた私の命を、その身を挺して救ってくださったのです。ですから、葦名先輩は私にとって命の恩人ということです」
「は?」
ピキッ――いや、なんの音?
榊の説明を聞いた巻谷の雰囲気が唐突に変わる。さっきまで朱彩を煽っていた余裕な態度は消え去り、刺し殺さんとするような鋭い目つきで僕を睨みつけていた。あたかも、こめかみの血管が切れたような、凄みのある表情だ――ゆらり、僕の目前に接近する。
「なんで他の女の命救ってるの? どれだけ価値がある命なの? そんなに大事だった?」
「怖い怖い怖い、人の命を救うのは当たり前だと思うんだけどなぁ!」
はたして蜜実を殺そうとしているこんな僕が言えたセリフなのかは置いといて。
「はぁ、なんかテンション下がっちゃった。とりあえず無事みたいだし、あとはよろしくー」
「お、おい、巻谷! あぁ、いっちまった……どうしたんだよあいつ」
明らかに不機嫌になった巻谷は、朱彩の呼びかけもスルーして一人で山を下りていく。めんどくさすぎるだろ。困惑する朱彩が僕のほうを向く。
「頼道、どうする?」
「ううん、榊は歩けそう?」
「えぇ、もう少し休めば」
「そっか。僕が見とくよ朱彩。一人いれば道もわかるし、一応知り合いでもあるからさ」
「うん……わかった。じゃあ私は先に降りるぞ」
そう言いながらも、チラチラとこちらの様子を伺う朱彩。根が善人だから心配なのだろう。しばらく僕と視線を通わせたあと、巻谷に続いて山を下りて行った。
朱彩の後ろ姿が見えなくなったのを確認して、僕は口を開く。
「ヘタなこと言わないでくれて助かったよ」
「ふふ、私、空気の読める女でございますから」
榊は自信満々に答えた――嘘は絶望的に下手だったけど、そのことについて自覚はないらしい。
「まぁ、ちょうど良かった。実は聞きたいことがあったんだ。昨日は聞きそびれちゃったけど」
「聞きたいことですか? はい、なんなりと――葦名先輩の言うことならば、なんでもお答えしましょう」
「昨日の部屋さ、榊が逃げ込んだ。あれをどう思う?」
僕が問いかけると、榊は「あぁ」と相槌を打った。
あの部屋に関して、とにかく意見が欲しかった。
共有者と言えば、ギルフォードさんと榊だけだ。昨日の問答から、前者が僕と仲良く考察してくれるわけもなく、となれば意見を求められるのは目前の榊だけだった。
榊は少し思案した後、話し始める。
「とても恐ろしい部屋でしたね――私を追いかけてくる先輩も、あの部屋も、死の気配に満ち溢れていて、私、震えが止まりませんでした」
「それに関しては悪いことをしたと思ってる」
蜜実と勘違いして追いかけていたからか、彼女も殺気を感じていたのだろう。
どうやら彼女は、死という感覚のみに敏感なようだった。堂々としていたわりに、あの時だけ怯えていた理由はそこにあるのだろう。
「いえ――それにしても蜜実先輩は、あのような恐ろしい部屋を作って、一体どうするつもりなのでしょうね」
「えっ――」
いま、なんて言った?
気付けば彼女の華奢な肩に手をかけていた。榊の言葉の中には、予想、想像などというヤワなものじゃなく、確信があったからだ。
力が入り、彼女の体に指が食い込む。肉は薄く、硬い骨の感触に気付いて慌てて手を離した。
「ご、ごめん」
「いえ、お気になさらないでください。このような痛み、所詮、命に関りはしないのですから」
無我夢中になって強く掴んでしまったお詫びをいれながら、答えを知りたくて質問を再開する。
「どうして、あの部屋を蜜実が作ったものだと?」
「それは、見ていたからです――蜜実先輩があの部屋の出入りをしていたのを」
「……そうか」
答えは、意外なほどにシンプルで、だからこそ僕を落胆させた。
榊は話を続ける。
「はい――私は隠れる場所を探していたのです。あの館には恐ろしい番犬がいましたから。ですが、館内の部屋にはほとんど鍵がかかっていました。そんな折、蜜実先輩があの部屋から出ていくのを見かけたのです。彼女が鍵を閉め忘れていたのに気づき――その後はこちらに向かって歩いてきたので、部屋の中身まで確認する余裕はありませんでしたが」
「……だから、僕から逃げた時、あの部屋に飛び込んだってわけか。鍵がかかっていないと知っていたから」
「ご明察の通りでございます。まぁ、あのような部屋であると事前に知っていたなら、踏み入れようとは思いませんでしたが。以後も立ち入ろうとは思いません」
「そうだね……説明ありがとう」
「いえ、お役に立てたのならなによりです。お話は以上ですか?」
「うん」
話を終え、榊がよれよれと立ち上がる。
風に揺れる柳のような立ち姿を見ると、本当に体力が回復しているのかもわからない。
「一人で大丈夫?」
「えぇ、そこまでお手を煩わせるわけにはいきませんから。それと先輩――」
最後にこちらを振り向いた彼女の顔は妖しく微笑んでいた。化生、あやかし――彼女の美しさも相まってか、人外じみたその表情は、まるで僕の心を見透かしているかのようにも見えた。
「貴方が何をしようと、私は一向に気にしませんので。生きていれば、良いことはあるのですから――それでは」
ふらふらと覚束ない足取りで、彼女もまた、山道を下りていく。
僕は深呼吸をした。森林の空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出す。
視界が明瞭になった気がした。
山中に一人取り残された僕は、ゆっくりと、足を踏み出す。
疲労の残った足に負担を感じながら、山を登り始めた。
「蜜実、勝手に死ぬくらいなら――」
胸の中に、どす黒い熱を抱えて。
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