白に黒

「榊、榊さん、榊ちゃん?」

「あっ、えっと、榊ちゃんで」

「榊ちゃん、あの」

「ごめんなさい、榊も試してみていいですか?」

「榊、あのさ」

「千尋もお願いします」

「千尋、あの」

「枕詞に俺様の、と付けてください」

「俺様の千尋」

「きゃあ……」

「きゃあ、じゃないんだよね」


 僕はいま、あの修羅場を抜けて、ひとまず借り与えられていた部屋に戻ってきていた――いつか出会った後輩を連れて。

 朱彩は自室に戻ったようで、彼女には「大きめの猫だったみたいだ」とメッセージを入れた。

 間もなくして短く「なら良かった」とだけ返信が届いたので、彼女も安心して眠れることだろう。


 一方で僕と一緒にとんでもない光景を目の当たりにした後輩は、どこか緊張感がなく、それがまた奇妙な印象を抱かせた。


 榊、榊ちゃん、あるいは千尋――榊千尋。

 銀に近い白髪は一つに束ねられて腰ほどの丈まで長く伸びている。

 ベッドの上に横たわり続けた体は巻谷よりもさらに細く、伏し目がちな蒼い瞳は、この世界を捉えられているのかもわからないくらい澄んでいた。

加えて日差しを知らない人形のように白い肌――あるいは彼女の姿形を総合すると、人形そのものと言っても差し支えはない。

 その繊細でどこか消えてしまいそうな出で立ちは、悲観主義の芸術家による作品なんじゃないかと錯覚する。


 浮世離れした姿形から感じられる儚さ――これはもし、僕が彼女のルーツを知らなかったとしても、彼女は今にも消えてしまいそうな名残雪を連想させる、そんな女の子だ。

 なのに――だというのに、あんな出来事があって怯えていた彼女の影はなく、いま初めて会話する僕に対して想像以上に堂々としている様子だった。


 彼女の人生からして、人と接すること自体、そう多くなかっただろう。

 少なくとも、その人生の九割九分を病院で過ごしてきた人間のようには思えなかった。

 こうして、洋館内の僕の部屋で、二人きりで話している姿を見ると――冗談交じりに話しているのを見ると(もし本人が大真面目の場合、その名誉を傷つけることになるかもしれないが)むしろ不自然なくらいに――落ち着きすぎている。

 朝日を浴びるだけで溶けてしまいそうな雰囲気を持つ彼女は、泰然自若としていた。


「そういえば自己紹介がまだだったね。僕は葦名頼道。島根来学園の二年」

「知っています、A組ですよね」

「驚いたな、僕も有名になったもんだ」


 だが、申し訳ないことに僕は彼女のクラスを知らない。そもそも彼女が後輩であること自体、彼女が着ている島根来学園の制服を見て知ったくらいだ。


「有名というか、命の恩人、ですので」


 伏し目がちなその目がさらに細くなる。

まぁ、あんな出来事、そうそう忘れられないだろうな。

 僕だって忘れないだろう。

 幼い日の記憶、あるいは夢の中か、もはや、その存在がさだかではないぼやけた光景が――青い蝶が現実として目の前に現れたのはあの日が初めてだった。

 大量に集まった島根来蝶が彼女を取り囲みながら発光していて――もしかしたら、かつて見た青い蝶が現実にいたんじゃないか、と思わせるくらいには暴力的な光景だった。

 気付いたら彼女を助けていて、足の筋肉はズタボロになっていた。


「まぁ、元気そうでよかったよ。ところで、どうしてこんなところに?」


 この時、この場所で、彼女は一体、何をしていたのか。そしてそれは何故?

 たとえ、彼女がどんな過去を背負っていようと、僕とどんな関係であろうとも、今この状況では怪しい不法侵入者に他ならない。

 朱彩との一件を見られた可能性も高く、言及せざるを得なかった。


「それはその、私、先輩にお礼を言いたくて。タイミングをうかがっていたんです。ずっと」

「お礼? ずっと……?」

「はい、例えば、先輩が教室で樋水先輩の上に覆いかぶさっている時も、廃ビルの屋上で巻谷先輩に膝枕されている時も、密実先輩にこちらへ招待されている時も――ずっと。なかなかお礼を言う機会がなくて」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って」


 眩暈がした。

 理解ができない。

彼女の言葉の意味が、ではなく、目的と行動の天秤があまりにもアンバランスだったからだ。


「すいません、語弊がありました。ずっと、と言いましても、話しかけられるタイミング――先輩が制服を着ている間とでもいいましょうか……プライベートな時間はお邪魔できないと思っていたので」

「補足が入ったのに全く納得できないなぁ……」

「あぁ、でも今まさにここがそのタイミングだと思います。葦名先輩、命を助けていだだきありがとうございました。この御恩は、私、一生忘れません」

「いや、うん。気にしないでいいよ」


 その心がこもった感謝に嘘はなかった。

 頭を綺麗に下げる榊は、純粋に、ただ僕にお礼を伝えたかっただけなのだと理解し――それがまたより一層、強烈な違和感を覚えさせた。


「……本当に僕のことを見ていたなら、僕には近づこうなんて思わないはずだけど」


 常識、リスク、その他さまざまな要因を無視して彼女の行動は実行されている。

 その風が吹けば折れるどころか、消えてしまいそうな体で、僕を追いかけまわすこと自体、辛いことなのではないだろうか。

 感謝をするという一点を果たすためだけに、彼女は、か細い体で僕を追い、僕の危険性を認知してなお、近づいた。


「それは、もちろん女性とあのような関りを持つというのは、世間的に見れば褒められた行為ではないかもしれません。でもそれはなことではありませんか?」

「些末……?」


 彼女は幼馴染の首を絞めることも、今にも飛び降りそうな転校生と廃ビルの屋上で無茶苦茶なやり取りをしていたことも、現実的に考えれば歪すぎる事象の数々を、些末だと言い切ってみせた。


 本当に、なんでもないかのように。

 榊は、薄い唇を開き、続ける


「些末なことでしょう? だって――生きていれば、良いことはある。それでいいんです。先輩も、そう仰ってたじゃないですか」

「えっ」


 彼女の言葉を聞いた瞬間から、ゆっくりと、確実に、おぞましい事実がじんわりと広がっていった。

 強烈な違和感が水泡となって消えていくのと並行して、自身の過ちが暗闇の中から芽を出した。

 やがて花が開くように、全身に鳥肌が咲く。

空調が効いていてもなお、蒸し暑い梅雨の夜に――強い寒気を感じていた。

 僕はひょっとして、を彼女にしてしまったんじゃないか?


「死ななければ、なにがあっても問題ない。そうでしょう先輩?」

「……っ」


 それは、二度と取れないシミのようなものだった。

 新品のワイシャツに赤ワインを零してしまったような、白紙に墨汁を一滴、垂らしたような、取り返しのつかないシミ。

 シミは、純白において、その存在を証明する唯一の原理として確立した。


 僕の何気ない一言が、彼女にとっての全てになってしまっていた。

 絶対であるかのように語る彼女の瞳は、果たして澄んでいるのか、ぼやけているのか、もはや判断がつかなかった。


「感謝もできたことですので、私はそろそろお暇しようかと思います。葦名先輩、お付き合いいただき、ありがとうございました」

「……一応、出口まで見送るよ」


 僕に何ができただろうか。謝罪なんて、話にならなかった。

 僕にできることと言えば、体力があまりない彼女を気遣って、出口まで付き添うことくらいのものだ。

 突然、僕を覆った責任を、今すぐに解決する手段は持ち合わせていなかった。


「ここまで送っていただきありがとうございます、先輩」


 ゆっくりとエントランスの扉を開く。僕がそうしている間も彼女はのんびりと、丁寧に頭を下げていた。


「気をつけて」

「はい。足を滑らせて、死んでしまったりしては大変ですものね。あぁ、次は何をしましょうか。生きていると、したいことが溢れて仕方がないですね先輩。生きているって、素晴らしい。あれだけあった恨みや辛み、沢山流した涙も、全て消えてしまったんですから」

「……そうだね。生きてるのは、いいことだよ」


 僕の一言に共感を示した彼女は、微笑んだ。白百合の花のように、清楚に、清潔に。


「では、失礼いたします。また会いましょう、先輩」

「あっ、ちょっと待って……」


 彼女を呼び止める。責任転嫁をするともりはないが、どうしても聞きたいことが一つだけあったからだ。


「榊……きみは、あの時、青い蝶を見た?」


 少しだけ目が開かれる。ビー玉よりも透き通った瞳は瞬く間に月明りを吸い込んだ。そしてまた、細まって、薄く呼吸をした口がすーっと開く。


「えぇ――視界が埋まるほど、たくさん」


 月光をとり逃さなかった彼女の双眸は――青白く輝いていた。


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