まっしろ


 私、さかき千尋ちひろは一言で例えると真っ白だ。

 人格も、人生も、記憶も真っ白で――だけどそれは記憶喪失というわけではなく、ただ連綿と続く私の人生史が、病室の色で塗り潰されていただけだった。


 いつだって死と隣り合わせのワンルームは、清潔で清廉でどこまでも白い。

 長生きできますように、沢山の人に囲まれますように――産まれた時点で祈りを伴い付けられた名前が、皮肉に見えたのは百回じゃ済まない。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない。


 私にとって「」という行為は、例えば誰かにとって夢を追いかけることだったり、自分らしくすることだったり、異性と恋をしたりだとか、そういうもんじゃなく――ただ明日も私の命がありますようにと、ベッドの中で包まって震え、朝日を待つだけの行為だった。


 次の日も、次の日も、次の日も。

 明後日という言葉を思い描いたことは一度もない。

 そんな毎日であり、懸命な毎日だった。


 ――でもある日、奇跡が起きる。

 長年の祈りが通じたのか、私の体が突然、回復に向かいだしたのだ。

 生きられる、生きられる、生きられる。

 私は祈りを捨て、望みを持つようになった。


 あんなことがしたい、こんなことがしたい、学校に行ってみたい。

 私はまず勉強を始めた。受験に備えて。私のスタートに至る第一歩を、ようやく歩き始めた。


 真っ白な頭に教科書の内容が驚くほど、すんなり入っていく。

 するすると、確実に。

 私は、まもなくして島根来学園の入試に合格した。

 試験会場は、病室だった。


 そして――世間でいう春休み、私でいう入学という未知への待機時間。

 とうとう退院を言い渡され、真っ白な世界からようやく外へと抜けだした。

 病院という生死の境界を越えて。


 人々が当然のように生きる世界へと。

 見たことのないくらい晴れた春の日差し、舞い散る桜吹雪。

 そのどれもこれもが、私への祝福だった。


 生きられる、生きられる、生きられる――。


「えっ」


 声が出た、目の前の光景に。

 私がいるというのに、もう然と迫るトラック。

 そんなわけがないのに、大きな鋼鉄の塊はコマ送りのようにゆっくりだった。


 スローモーション――運転手はスマホを見ていて、近くには青い光が散っていて、その光源が、舞い上がる蝶だと気付けるくらいには、ゆっくりだった。


 死にたくない、生きられる――死ぬ?


 死ぬのか。

 走馬灯が流れた。

 真っ白な記憶が――病室、検査室、手術室。

 私のすべては――染みひとつ付けずまっしろで、平坦で、傷一つなく、そして滑稽だった。


 まっしろ、暗転、おしまい。

 私はもう間もなくぺしゃんこに、それこそ私の人生が白紙のように。そうであるように、この身も――。


「――大丈夫?」

「えっ?」


 もう形も留めていないと思っていた私の体は、誰かに抱きかかえられていた。

 生きてる? 生きてる。生きてる!


「――あっ、あっ……」


 お礼を――声が出ない。

 ありがとうございます、お名前を、あなたは命の恩人です。

 出ない。

 ありがとうございます、死ぬかと思いました。

 出ない。

 ありがとうございます、生きたかったんです。

 出ない。


 事故のショックがなければ話せただろうか――そうでもないかもしれない。同年代の男の子とは関りが一切なかったから、結局、私は緊張して一言も話せなかったと思う。


「気を付けてね。生きてれば、いいことあるからさ」


 そう言って彼は、何事もなかったかのように去っていった。

 榊千尋のまっしろな人生の終わり際に、白馬の王子様が訪れていた。

 ――後に私は、彼が島根来学園の先輩、葦名頼道さんだということを知る。


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