イヤな部屋・絶望的観測
「はっ! はっ……!」
洋館の中を駆け巡る。
僕らが泊まっていた客間は二階だ。
エントランスの方に向かって追いかけていく。
暗闇の中でシャンデリアの荘厳な輪郭がちらついていた。左右に伸びるカーブ、どうやら階段を下りた気配はない。
窓から差し込む月光に照らされて、階段を通り過ぎた角に人影が見えた。
「あっちか……!」
息を整える間もなく追跡を再開する。大した身体能力のない僕だったが、それでも影の人物は僕より遅いらしい――少なくとも巻谷かギルフォードさんではない。
だとしたら、蜜実なのか?
想像した瞬間、足に力が入るのを感じた。いつもより少し足の回転が良くなった。
頭が沸騰したように熱くなり、瞳の中がドクドクと揺れる。
ダン、と――もう一つの曲がり角を最短でクリアする。
人影も僕がすぐ近くに迫っているのを感じたのか、廊下での逃走を諦め、一室の扉を力任せにこじ開け飛び込んだ。
「待て」
体が芯から凍るくらいに冷たい声だった――それが自分の声だと気付いたころには扉を開け放っていた。
そしてもう片方の手にはいつ取ったのだろうか。花瓶が握りこまれていた。
頭にぶつければ、タダでは済まないだろう。蜜実もそう思わないか?
「あっ……あ……」
人影は、尻もちをついている、如実に震え、声を失い、彼女は殺人鬼から逃げおおせることはできなかったのだ。
ただ一つ、気になることがある――その視線の先に僕はいなかった。
僕に背を向け、部屋の宙を見上げて恐怖していた。
視線がつられてそちらを見る――そして驚愕した。戦慄を含んだものだった。
「なん、だ、これ……!」
輪っか、輪っか輪っか輪っか輪っか――部屋の天井からはおびただしい量の縄がぶら下がっていた。人が首をかけるのに丁度よい輪っかが。
幸いにして、誰も吊られてはいないようだった。だとしても、我を失っていた僕が現実に引き戻されるくらいには狂気的な光景だった。
誰が、何のために?
部屋の四隅にはテーブルが置かれていて、どれもが白いクロスを纏い、そして黄色い花が活けられていた。
菊の花が咲いている。異様だ、ゲストルームに飾られていた、ただ美しいだけの花ではない。間違いなく意味が込められていそうだった――清く、不気味で、不吉な意味が。
「えっ?」
時が止まる。僕より速く体の自由を得た目前の人物が、振り返り――彼女は。
「君は――っ隠れて!」
情報が乱雑に叩き込まれ、脳が機能していない状況で体が勝手に動いていた。
扉の向こうから迫る殺気。危険だと判断し、その人物の顔をもう一度確認してテーブルのクロスの下に押し込み、僕は扉の方へと向き直る。
優秀なお付きが姿を現した。
「貴様、こそこそと何をしている」
「トイレを探していてね、広いから迷ってしまったんだ」
「嘘を吐くな……これは、どういうつもりだ。どう説明する」
ふらふらと揺れる大量の輪っかを怪訝な目で眺めながら問いかけた。
「僕が聞きたいくらいだ、これは一体なに?」
「貴様がやったんじゃないのか。この異常者め」
つまり彼は、この部屋の様子を知らなかったらしい。
だが僕ではない。彼の手のナイフが突き刺さらないように潔白を証明する。
「残念だけど僕にはアリバイがある。ついさっきまで朱彩と一緒にいた。短時間で足場もなしにこんな大仕掛け、できるわけがない。それに、ただでさえ君に警戒されているのに、リスクを冒してまでこんな愉快犯めいたこと、する理由もない」
「なんだと……では、これは……」
なにかを考え込んでいる様子だった。僕ではないと判断し、それじゃあ誰がやったのかと思索している。理由も、意図も、この歪な空間に対して全ての説明がつき、納得いくように。
「お嬢様、まさかそこまで……」
眼鏡の横を、うっすらと汗が滑り落ちていった。
彼の思考はわからない――だが、一般的に見て、これは準備だろうということは察しがついた。過剰なまでに、入念に、丁寧に、絶対に失敗しないぞという意志のもとで行われた準備に他ならない。
ドクリと心臓が揺れる。
それが事実なら、密実は死ぬつもりなのか?
バカを言え。僕が殺す前に、勝手に死ぬ……?
これだけ我慢しているというのに、笑えない冗談だった。
「できれば否定して欲しいんだけど、密実がこれに首をかける理由はある?」
「……部外者である貴様に教えることなどない」
その声は震えていた。まったく番犬として責務が果たせないくらいに動揺していた。
それじゃあ、ありますと言っているようなもんじゃないか。
島根来に来る者は――死に引き寄せられている。
こんな辺境の地に良いところのお嬢様が、親も連れずに引っ越してきて、なにを?
この答えなら説明がつく――死に場所を求めてきた
できれば否定したいし、飛躍した推理かもしれない、だが――少なくとも僕も彼もそれを信じかけていた。
「念のため……お嬢様の身を確認する。貴様は今すぐに部屋へ戻れ」
嫌疑は晴れる。いや、僕への疑いよりも蜜実がそうする可能性の方が、彼の中で信頼できる解答だったのかもしれない。
ふらふらと、離れていく。
僕は、ほっと息を吐いた――自分の身の危険よりも気になることがあった。
「行ったみたいだ、出てきていいよ、
知ってはいたが、一度も呼んだことのない名前だった。
「は、はい……先輩」
テーブルクロスの下から姿を現したのは
バカ晴れた春の日に、青い蝶とともに現れた、かよわい命。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます