第4話 コーヒー悔顧

 カフェに通うようになったのは、いつからだったか。

 一昔前にノマド族なんて言葉も聞いたが、自分は別にカフェで仕事をしてるわけではない。休日に新聞片手に日がな一日ダラダラ過ごす。

 コーヒーが趣味で行きつけの喫茶店がある、なんて同僚もいたが別に自分はこだわりのコーヒーを追い求めているわけではない。普段はチェーン店の無難なコーヒーを飲み、たまに通りがかりの店で何だか酸っぱいコーヒーを飲む。

 アイスコーヒー一杯でできるだけ粘る老ぼれを店員がどう思ってるか。そんなことを心の隅で考えながら店の様子を眺める。

 ふと店内に現れた女性が目に留まる。ジーンズにティーシャツ姿のその女性が持っている、薄ピンクの合皮のカバン。それを見て知らず胸元のポケットに手がいく。

 女性はぞんざいにカバンを二人掛けのテーブル席に置くと、椅子に座ってスマホをいじり出した。

 

『あなたは全然わかってない。それぐらいの贅沢の何が悪いの』


 懐かしい君の声が耳の中に響く。

 

『趣味ってほど好きでもないんだろ? 時間も金も無駄じゃないか』


 直後に耳慣れた不快な声も。

 後悔してもしきれない痛みと共に胸の奥に広がる記憶。

 

 若くして景気の良さに気が大きくなり買った自慢の一軒家。これこそ本当の世帯主だ、と君と息子に胸を張り、日本はこれからどんどん成長し豊かになると疑わなかったあの頃。

 その後、日本を訪れたまさかの事態に例外なく煽られ一家みんなで路頭に迷う寸前まで追い詰められた。それでも家だけは手放すものかと四苦八苦。

 近くのスーパーの二階の婦人服コーナーで、「ロングセラー品」として売られている薄ピンクの合皮のカバン。たった三千円ぽっちのそのカバンを何年も大切に、ここぞという場で使っていた君。

 なんで週一回の二百円程度の贅沢を許してあげられなかったのか。

 ローンを返すのに必死で、パートをして一緒に頑張ってくれていた君のことが見えなくなっていた。


 胸ポケットから取り出した君の笑顔。指でそっと撫でて、氷で薄くなったコーヒーを一口。


 やっとこさローン返済の目処が立ち始めた頃、君は病院に運ばれた。

 思い知った。自分がいかに愚かだったか。なぜあそこまで家に固執したか。

 あそこは君のために買った城。あそこから君を追い出すなんてできないと、そう思ったからだったのに。

 口の中に広がる苦味。これはコーヒーのせいじゃない。

 カフェに通うようになったのは、君の笑顔を写真の中でしか見られなくなってから。

 もっと早くに来れば良かった。君の本当の笑顔を隣で見られる間に。


「この椅子、いいですか?」

 隣の席に来た三人組の女の子が目の前の空いている椅子に手を置いて控えめな笑顔で尋ねてくる。

「もう行くからここもどうぞ」

 君の写真を胸元にしまって、空のプラスチックカップを手に立ち上がった。

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