第3話 理想と現実の先
遠くで「パァパー!」と泣き叫ぶ声にハッとして声の方を振り向く。
少女が滑り台から若い男性の方へ駆け寄っていくのが見えて、自分が呼ばれたわけではないと思わず胸を撫で下ろした。
いや、呼ばれるわけもないのだけど。
周囲を見まわしブランコの近くに見慣れた姿を見つける。
「ゆいちゃん! あんまりブランコに近づいたら危ないよ!」
子供達が椅子がわりにまたがってはしゃぐブランコは、揺れてはいないものの見ていて危なっかしい。
ゆいはこちらを一度振り返ると、わかっているのかいないのか、ふいと顔を背けてその場にしゃがみこむ。
はーっと息を吐いてその小さな後ろ姿を見つめた。
子供が欲しかった。
昔から、欲しいかと聞かれれば即答するほどに。無条件に愛することができると信じて疑わなかった。特に最近は叶わないと思っていたから、余計に憧れが強くなっていたのかもしれない。
知らなかったのだ。親になることの難しさも、責任も、覚悟も。考えたことすらなかった。
ポケットのスマホが震える。画面を一瞥して通話ボタンを押す。
『あーくん、ありがとうね! ゆい見てもらって。どう?』
「今、公園で遊んでるよ。楽しいかはわからないけど……」
こちらに背を向けたまま、まだしゃがみ込んでいるゆいの後ろ姿を見ながら答えると、「泣いてなきゃ大丈夫よ」と彼女は笑った。
『あと三十分くらいで帰れるから』
「もう? 久しぶりなんだし、ゆっくりすればいいのに」
内心ありがたいが、今日は大学時代の友人と久しぶりにランチで、夕方まで帰らない予定だと言っていたはずだ。すると彼女は「うん。でも、ゆいも気になるし」と言った。
自分はそんなに頼りないだろうか。きっとそうなのだろう。
期待されることへの重荷。されないことへの失望。
突然、足に何かが触れて見下ろす。いつのまにかゆいがこちらを見上げていた。母親との電話に気づいて寄ってきたのだろう。
『じゃ、あとで』
しかし、ゆいに代わる間もなく電話口の彼女は通話を終わらせてしまった。
「あ……」
気まずく見下ろしていると、ゆいは特に気にした様子もなくこちらの手を握る。
「帰っておやつ食べようか」
ぎこちなく握り返して歩き出すと、ゆいは黙ってこちらに続いた。
この小さな手をどの程度の力で握り返せばいいのか、わかってきたのはここ最近。
一月前から正式に娘になったゆいとの距離感はいまだに上手く掴めない。
お互いバツイチなのは最初から知っていた。
でも実は子供がいる、と告げられたのは交際を始めてから数ヶ月後。彼女は目尻に涙を溜めて不安そうな顔をしていたが、むしろ自分はほっとした。
再婚同士だし、と籍だけ入れて暮らし始めて、憧れた子供の存在に浮かれたのは最初のうち。
愛さえあれば血の繋がりなんて、と思っていた。しかし共に暮らすと親になることの難しさを知る。
見よう見まねで父親らしく振る舞ってきた。それなりに懐いてくれているとは思うが、ゆいからはまだ一度も「パパ」と呼ばれたことはない。
こんなの自分勝手だとわかっている。でももう自信がない。
『子供ができないなんて、そんな欠陥がわかってたら結婚しなかった』
前妻と別れる前に泣きながら言われた言葉。
互いに子供が好きで、子供を持つために周りより早く身を固めた。それなのにどんなに努力しても前妻とはその望みは叶わなかった。
しかし結局は同じだ。子供ができてもできなくても、自分は所詮、欠陥品。
目の前の小さな子供に、どうやったら親と認めてもらうことができるのかわからない。
「のどかわいた」
ゆいが小さく言ったので、慌ててカバンの中の水筒を取り出す。
しゃがみ込んでゆいに飲ませていると曲がり角から急に自転車が現れこちらに向かってきた。
「ゆい!」
咄嗟に目の前の娘を抱きかかえる。と、自転車はすんでのところで急ブレーキ。こちらは娘を抱えたまま尻餅をつく。
「わりいわりい! ちょっとよそ見してたわ!」
自転車の主はそれだけ言うとそそくさとその場から離れていく。
「ちょっと、あんた……!」
去っていく自転車に向かって叫ぶが相手は止まらない。幸いぶつかりはしなかったものの、ゆいだけだったら大怪我だった可能性もある。
と、腕の中のゆいがぎゅっとこちらのシャツを掴んだのを感じた。
「ゆいちゃん大丈夫?」
慌ててゆいの顔を覗き込む。すると少女は泣きそうな顔でこちらの首に抱きついた。
「パパ、いたい?」
耳元で、そっと囁かれるように聞こえた声に、ヒュッと息を呑む。
「パパ、……たいの、いたいの、とんでけー」
震える声で、ぽん、ぽん、と小さな手が優しく首元を撫でる。いつも彼女が母親からしてもらうのを真似るように。
「だいじょうぶ……。パパは、大丈夫だよ。痛くない……」
首を抱くゆいの力がきゅっと強くなったのに、目頭が熱くなる。
「ゆいが無事で良かった……」
子供が欲しかった。
昔から、欲しいかと聞かれれば即答するほどに。無条件に愛することができると信じて疑わなかった。
それでも知らなかった。親になることの難しさも、責任も、覚悟も、そして尊さも。
腕の中のこの小さな存在が、こんなに大きな愛を与えてくれるということも。
「だいじょうぶ……」
道端でべしょべしょに泣きながら、娘を力いっぱい抱きしめる。
この子を守るためなら、自分はきっと何でもする。
ありきたりなそんな覚悟を、それでも人生で一番大きな覚悟を、本当の意味で背負いながら。
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