第5話 少女期録
すれ違いざまに「あっ」という声が聞こえて振り返ると、同じように私を振り返っていたその顔に既視感。
私より幾分か若くて綺麗な女性。美しいセミロングが風にたなびいて、ドラマのワンシーンのようだ。
でもどこの誰だったかしら。さっぱり思い出せない。困って愛想笑いを浮かべると、相手も困ったように笑いながら「冴島さん?」と私の名前を呼んだ。
そのハスキーボイスにピンと来て、思わず口元に手がいく。
「やだ! 安藤さん? うそ! わかんなかった」
幾分か若いと思った相手は、もう二十五年ぶりにもなる中学の同級生。
「良かった。間違いだったらどうしようって思っちゃった」
上品にそう言った安藤さんの声は記憶の中よりも少し低くなっている。
「あっはっは。出産したら太っちゃったし、だめね」
快活に笑いながらも彼女と自分の落差に落ち込みそうになる。
「冴島さん、高校からずっと寮暮らしでそのまま向こうで就職したよね? 同窓会にも来たことなかったし、びっくり。今は里帰り?」
「んー。まあ? 実はこの前離婚したのよ。娘が成人したのを期にね。で、実家に報告のために帰省」
べらべらと喋りながら「失敗したな」と内心焦る。こんなの二十五年ぶりにする会話ではない。でも安藤さんは「大変だったね」とただ穏やかに笑った。
その彼女の目尻に浮かんだ笑い皺。
ああ、あの皺。年齢を重ねて深くなったけど、笑うとできるあの優しげな皺が私は好きだったんだ。
一瞬にしてあの一番輝いていた青春時代へと引き戻される。
「冴島さん、もし時間あったら、ここにいるうちにお茶でもどう?」
少しためらいながらそう言った安藤さん。
社交辞令かしら? そう思いながらもあの頃から、彼女がどんな道を辿ってきたのか気になるのも確か。
「そうね。ちょっと予定調べるわ。連絡先交換していい?」
私がカバンからスマホを取り出すと、彼女も同じような動作をする。
「じゃ、連絡待ってる」
そう言ってあっさり私に背を向ける、そういうとこは全然変わってない。
眩しく見送ってから、見慣れたようで変わってしまった懐かしい道を帰路へ着く。
「今日ね、中学の同級生に会ったわ。道端で、偶然」
台所で夕飯の支度をする母にそう声をかけると、昔よりだいぶ縮んだ背中が私を振り返る。
「あら、あんたのこと覚えてる子なんているの? 成人式も帰ってこなかったし、もうここら辺の子たちと交流ないでしょ」
成人式のことはもう二十年経っているのに母はいまだに根に持っているのだ。ことあるごとに私が帰ってこなかったことを口にする。
「ん、まあね。ほら、覚えてない? 一度だけうちに連れてきたでしょ。安藤さん」
「ああ、あの子……。なんか美少年みたいなすっごい美少女ね」
少しの間、天井を睨んだ母が思い出せてすっきりした顔で笑う。
そう。美少年みたいな美少女。
当時は珍しい女の子のベリーショートで、それが妙に似合って目立っていた彼女は学校で男女問わず人気者。
そんな安藤さんが私みたいな教室の隅でこそこそしてるオタクと仲良くしてくれていたのは、今となっては夢だったんじゃないかと思うくらいキラキラした思い出だ。
「あたしもその漫画好き」
誰もいなくなった放課後の教室でこっそり持ち込んだ漫画を読んでいたら急にハスキーボイスに話しかけられて、まるで少女漫画の主人公になったみたいにドキドキしたのを今でも覚えている。
それからたまに、別に約束したわけでもないのに放課後に残って好きな漫画について語り合った。
当時から女の子にしては背が高かった安藤さん。頭も運動神経も良くて所作もなんだか男の子っぽくて。淡い憧れを抱きながら、ダメ元でうちに誘ってみると一も二もなく「行く」の返事。
そのまま連れ帰って私の自慢の漫画コレクションを見せたのだ。
「これがオススメなの。安藤さんも気にいると思うんだ」
部屋の本棚の一点を指さして振り向くと、思ったより近くにある彼女の綺麗な顔。動揺して息を呑む。しかし彼女は本棚を見たまま「ふーん」と静かに呟いた。
妙に胸が高揚して、でもその場から動くことも安藤さんから目を逸らすこともできず、軽く下唇をかむ。
私の視線に気づいた安藤さんの形の良い唇が笑みを作る。
次の瞬間、私の唇に柔らかいものが触れた。
視界を遮ったまばらな影が安藤さんの長いまつげだったと気づいたのは、彼女の顔が離れてから。
鍋の縁にカンっと菜箸を打ちつけた母が不満げに声を荒げる。
「あんた、今度はみっちゃんも連れてきなさいよ。あんただけ帰ってきても仕方ないわ」
「はいはい、次はうちのプリンセスを連れてきますわよ」
ペロリと舌を出して冷蔵庫から缶ビールを二本取り出しプルタブを引いて片方を母に手渡す。
今年から大学に入った娘は友人関係に忙しいらしい。最近は一緒に過ごす時間がぐっと減った。
テーブルに置いたスマホに通知が届く。噂の娘かなとメッセージアプリを開くと、そこには先ほど連絡先を交換した彼女の名前。
『もし良ければ明日とかどうかな?』
ああ、本気だったんだ。社交辞令じゃなかったのね。
こんなにすぐにメッセージをくれた彼女の気持ちに嬉しくなり、思わず口角が上がる。
「なにニヤニヤしてんのよ。あんた、戻るの明後日だっけ?」
母が唸るように話しかけてきたのに、「んー」と同じように唸って首を振る。
「そう思ってたけど、やっぱり明日帰るわ」
そうしてメッセージアプリにトトトッと打ち込みながら「光希が寂しがるしね」なんて、最近は構ってくれない娘の名前を出す。
『ごめん、急に明日の朝帰ることになったの。また次の機会に連絡するね』
あの日、私の部屋で一緒に漫画を読んだ後、彼女がどんな人生を辿ってきたのか。それが気になるのも本当。
『残念。じゃあまた』
あっさりした彼女の返事に、私の心に広がる少しの後悔。
でも、それでもそれ以上に、私は私の思い出が色褪せるのが怖いんだ。
メッセージアプリを閉じてふっと息を吐き、顔を上げると正面に置かれた食器棚のガラス戸に映るのは知らないようでよく知ってるおばさん。
その顔に微笑みかけて私は飲みかけの缶ビールに口をつけた。
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