晴れ間

 アイオンが意識を手放しかけたとき、その異変は起きた。




「――え!?」


 一発強烈な風が谷底から噴き上げてきたのをどうにかしのいだ直後のことで、子どもたちも身構えていなかった。


 布を編むように無数の魔力の帯が地の底からぶわっと立ち上り、谷のあちら側とこちら側を瞬く間に行き来しながららせんを描いてアイオンたちの引っかかっている木を突き上げる。為す術もなく身体が宙に浮いた。


「で、殿下ぁ……!」


「っ隣のヤツと手繋げ!!」


 泣き出しそうな眼が三対こちらを向くのでアイオンはとっさに指示を出した。崩壊する緑の網を蹴って子どもたちが胴をくくりつけている木の幹に飛びつく。子どもたちは苦しい思いをすることになるが縄をきつく締める。そこから先に出来ることが思いつかなくてもやるしかなかった。


 ぐちゃぐちゃになった枝葉が視界を覆い尽くし、子どもたちが絶望の悲鳴を上げる。立て続けにバキバキバキという轟音。命綱の幹が下の方で折れたらしい。アイオンは焦燥に歯噛みしながら、頭の冷静な部分があれっと思う。




 ……嵐でこんな風になるか?




 疑念が頭をかすめたのを待っていたように異変は決定的になった。


 らせん状の途方もない魔力の帯は、ぎゃああああ!! と死に際の絶叫を上げる子どもたちとアイオンを狙い澄ましたように上へ押し上げた。


 身をかがめ、押し上げられるままに枝葉の層を突き破ると久しぶりに完全な外に放り出される。なにものにも遮られず勢いを削がれていない豪雨が容赦なく負傷した身体にぶつかってくるのを想定していたが、数秒ぐっと眼を瞑って備えていてもちっともそれがやってこない。


 と、それどころか、瞼の裏が血色を透かした暖色に染まる。


 光が差している?




「……!?」




 そっと瞼を持ち上げると、果たしてそこには晴天が広がっていた。


 雨も雷鳴も嘘のようにやんでいる。柔らかなそよ風が頬を撫でる。


 この地を闇で覆っていた強大な雨雲はナイフでさっと切られたように真っ二つに分かたれ、一秒ごとにぼろぼろと崩れていく最中だった。


 アイオンたちはそんな空に折れた木ごと浮かんでいた。ふわふわと。


「……え!? えぇっ何!?」


 おそるおそる眼を開けた子どもたちもこの状況を見てぎょっとしたりすくみ上がったりと忙しい。


 動くな、と宥めようとして気づいた。いつの間にか潰れた腕がすっかり元通りに治っている。


 呆然と手のひらを見つめている間にも異変は続く。


 ふわふわ浮いているアイオンたちの下で魔力の帯が急速に編まれ、谷を縫い合わせるように足場を作っていく。


 異常な密度で凝縮された魔力は物質化し、魔石となる。ただでさえめったにない現象がこんな規模で起こるなんて。


 あっという間に魔力で出来た橋ができあがった。内側からぼうっと赤い光を放つ、真っ黒な魔力の塊。アイオンたちの高度はふわふわと少しずつ下がっていき、前に架かっていた吊り橋の何千倍もしっかりした新しい橋の上にぽすんと着地した。


「……わ、わぁ……??」


 完全にキャパを越えてしまったのか、子どもたちは歓声とも呻きともつかない声をもらして座り込んでいる。


「た、助かった……の? なんで……?」


「…………」


 何でも何もないだろう。こんなぶっ飛んだ真似ができるのはたったひとりしかいない。




 魔力暴走って、ここまでの規模もありなのかよ……。







 視線を走らせて姿を捜せば、件の魔女はずぶ濡れの状態で司教邸の前にいた。隣にはイースレイもいる。


 アイオンは子どもたちを縛っていた縄をほどき、彼らと一緒に魔石製の橋を渡っていくと、固唾を呑んで見守っていたウーレンベックが「あなたたち!」と両手を広げて子どもたちを抱きしめた。


「無事で良かったっ……! 谷に落ちるなんてもうダメかと……!」


「ご、ごめん……」


 命の危機から生還したとき案外引きずらないのはいつだって子どものほうだ。さっきまでの絶望は勘違いだったのかというくらいあっさりと、そして想像もしなかった離れ業で救出された彼らは涙するウーレンベックをよそに不思議そうに顔を見合わせている。なんで助かったんだろうね俺ら、みたいな顔で。


「……どうなってんだよコレ?」


 アイオンは周囲を見回しながらそう訊ねる以外にない。


 司教邸から飛び出してきたらしい大勢の修道女が軒並み放心状態で祈りの姿勢を取っている。その祈りを捧げられている張本人はそっぽを向いて肩をすくめ、


「どうもこうもなくない? 私がやったの。アイちゃんが死んじゃったと思って魔力暴走起こしたんだよ」


「それで橋の工事まで請け負ったのか?」


「暴走した魔力で何を起こすかは私の意識の支配下にないの! おおまかに無意識に望んだことが現実化しやすいけど、今回はサイコロ振って出た目がコレだった。それより反省してよ……! みんな無事だったのは良かったけど!」


 きっと睨み付けられなじられて、アイオンはちょっと気まずくなって鼻を鳴らした。


 死んじゃったと思った、ねぇ。


 愛しの兄貴関連が主かと思ったらそんな理由でもキレるのかこいつは。感情は定量化できないとはいえ上振れと下振れの差が開きすぎだろ。


 アイオンのひねくれた性格を知っているヘンリエッタは本気で反省の態度を見せるとは思っていなかったようで、なにも返事をせずにいると大きく溜め息をついた。


「怪我は治ってるみたいだけどあちこち血まみれだし……谷に落ちかけたあの子たちのことを思わず助けたんでしょ? 無茶するよホント。落ちる途中でどっかの木に引っかかったの? 私が暴走するまでよくみんなのこと守り切ったね」


「好きでやってねぇよ。あーしろこーしろ、いちいち口うるさく指図するヤツがいるもんでね」


「? なに言ってるの」


 適当に叩いた減らず口にきょとんと灰色の眼が丸くなる。




「君のそばにはあのとき誰もいなかった。私や他の誰かに言われなくても、あの子たちを助けることを自分ひとりで選んだんでしょ、アイちゃんは。みんなが生きて帰ってこられたのは君がひとりでがんばったからで、私は関係ないよ?」


「……」




 つくづく生半可なことじゃ言い負かされない女だ。ああ言えばこう言ってくる。


 またにこにこと面白くない話題を続けられるのかと思うと疲れた身体がより一層重く感じられたが、ヘンリエッタは意外にも言葉を切った。


「……、ごめんちょっと、ひと仕事終えたから落ちるね」


「は?」


「あんまり大規模で複雑な魔術使うとねー身体のほうがどっと疲れちゃうの、てことで後はよろしくイースレイくん。流血したばっかの人には負担掛けらんないから、ね……」


 早口で言いながらだんだんヘンリエッタの声音から力が抜けていき、最後にはふらりと細い身体が大きく傾ぐ。後を任されたイースレイがぎょっとしてそれを受け止め、優れた反射神経でつい差し出したアイオンの手は空を切った。イースレイの視線が自然とこちらを向くまでに何事もなかったかのようにその手を引っ込められれば良かったのだが。……何やってんだ俺は。


「……ここまでのことをしでかせばいくら大魔女でも疲れはするのか。理屈ではあるな」


 なんかすみませんでしたね……みたいな色を滲ませてイースレイがお茶を濁すようなことを言う。いや何も悪くねぇけど? 意味分かんねぇからやめろやその態度。


 お前のせいだぞとじとっと横目で見たヘンリエッタは潔く意識を飛ばしきっている。イースレイとはバチバチやりあっていた仲だと思っていたが、もう意識が保たないと判断するや割り切って後を任せるのは肝が据わっているのか投げやりなのか。




 しかし、本当にただ寝てるだけ……か? いや気絶したのか。万が一を考えれば医師の診察が必要だろうか? 初めは顔色も悪くないように思えたが、観察しているうちにどことなく青白く見えてきて自分の色覚が信じられなくなった。そう思い込むと呼吸も浅いような気がしてくる。そうだ脈。脈は正常か?


 もう何をどう気に掛けるべきか見当も付かない。




 司教邸なら医者がいるだろうからと彼女を抱えたまま一歩踏み出したイースレイを、しかしアイオンはぱっと制止する。イースレイは視線でなぜと問うてきたが、何となく気にくわない。全員仲良くぬかるんだ土にひざまずいて祈りを捧げてる連中に、こいつを預けんのは。


「立派な橋も出来たんだ、もうここに行政監督庁の仕事なんか残ってねぇよ。こいつ連れてさっさと帰るぞ」


「ま、待って!」


 自分たちのミスが思ったよりおおごとになってウーレンベックにも大泣きされて、きっとこれから村でも大いに叱られる運命を悟り呆然と抱きしめられるがままになっていた子どもたちが、アイオンたちの動きに気づいて慌てて呼び止めてきた。


 生意気なベックがこちらへ身をよじり、


「ヘンリエッタは寝てんのそれ? 大丈夫なのか?」


「多分な」


「これ全部ヘンリエッタがやったの?」


「そうらしいぜ」


「あ、ていうか殿下の腕治ってる! 良かったぁ……」


 ケラーが目を潤ませてほっと胸をなで下ろす。アイオンはげっと頬を引きつらせる。そうだよ治ったんだからそれ以上うじうじ泣いてくれるなよ、面倒だから。


 するとマヤが心から嬉しそうにこちらを見上げ、


「あの、殿下! 助けてくれてありがとう!」


「…………」


 だから。


 お前らを助けたのは俺じゃなくこいつだ、このぶっ飛んだ魔女。結局はこいつに全員助けられたんだよ。魔力暴走で何をするかは自分の意志で決められないとか言ってたが、つまり無意識下でこれだけド級のお節介焼いてきたってことだ、筋金入りだろ。ものぐさの俺には理解できねぇよ。


 だが今はそう言って聞かせる時間も惜しい。撤退だ、撤退。


 アイオンは何も言わずにすいと視線を外す。ヘンリエッタを抱えたイースレイを促して、猫の瞳孔のように裂けた晴れ間の下、巨大な橋を渡り始める。背を向けてもなお、子どもたちのまっすぐな視線はしばらく背中に突き刺さっていた。

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