バトル・ディナー

 公的な式典くらいしかまともに参加した経験のないアイオンはハウスパーティーの規模なんか知るよしもなかったが、おおむね、カジュアルで密な付き合いの一環だというヘンリエッタの言通りのようだった。招待されていたのは若い男女それぞれ数名ずつで、女性陣には保護者としてお目付役――大半は母親か叔母か姉妹らしい――が随伴している。


 夕方に着くはずが、すっかり陽が沈んでから到着したアイオンたちは、広大な屋敷の門前で待ちかねていた使用人に正餐室に通された。




 何だ。フツーに丁重だな。




 アイオンは拍子抜けした気分で案内されるまま廊下をついていく。


 まずもって社交界の心証が悪く、なのに一日だけディナーをいただきに来て、極めつけに不遜にも遅刻した招待客を門の前でずっと待っているなど純粋に驚きだ。ヘンリエッタが無粋な宮廷魔術師の制服姿でやってきたのを見ても眉ひとつ動かさなかった。


 とはいえそれで楽観的になるほどアイオンはお気楽ではない。隣を歩くヘンリエッタがまだ「ほぉら見てごらん」と嬉しげに見上げてこないのが、自分の予感が間違っていない証明でもあった。




 そして正餐室に通された瞬間、予感は的中した。


 揺れる灯りのもと飴色に輝くディナーテーブルに着席している男女の視線が、入室したアイオンたちを冷たく貫いた。泊まりで数日がかりの半婚活ハウスパーティーのさなか、もうあらかた人間関係もできあがっているのか、ものの見事に男、女、男、女と交互に座っている。入り口から最も遠い奥の席――上座にいるのがホストのクレア・ザクスビーだろう。


 たっぷりしたブロンドの派手な美人といったところか。いわゆるイイ女、で、支配欲が強そう。となるとそれ以上洞察するところは特にないように思えたので、アイオンはすぐに見返す眼の温度をゼロにした。


「……えー本日はお招きいただきありがとうございますレディ到着が予定より遅れてしまい申し訳……」


「ご機嫌うるわしゅうアイオン殿下、こんばんはブラウトさん。私がクレア・ザクスビーにございます。通り一遍の謝罪は結構です、当家のシェフが腕によりを掛けた食事が冷めてしまいますわ。立ち尽くしていないで早くお掛けになって」


 低い声で早口にお決まりの挨拶を告げ終わる前に、クレアが険のある口調でそれを遮った。


 初対面だが、ものすごく下に見られていることだけはよくよく伝わってくる。クレアのみならずこの場にいる誰も立ち上がりもしなければ挨拶もしない。だがまぁ、ふつう関われば女王の不興を買いかねない相手に愛想良くなんてしたくないだろう。




 隣のヘンリエッタが「どうしたい?」と目で訊いてきたが、別にどうもしない。


 仮にも王族に対して不敬だとかこいつが言い出したら事態はますますこじれ、拘束時間も長引くだろう。「別に俺は構わねぇから聞き流しとけ」とこちらも目で返事する。




 アイオンはテーブルを見渡した。ディナーの席で最上位のゲストはホストの右隣に座るものだとヘンリエッタに教わったが、そこにはすでにどっかの男が着席している。王子の同伴者であるヘンリエッタが座るはずの左隣もだ。


 空席は入り口近くの下座しか残っておらず、アイオンはヘンリエッタと並んでそこに腰を下ろした。


「ああ、いえ。もうだいぶ冷めてしまっていますわね。伺っていた到着時刻に合うように作らせていましたので」


 当たり前だが、そんな追撃を寄越してくるクレアは怒っている。


 使用人がやってきてブロッコリーのスープ、魚のソテー、何か酸っぱいソースを添えたマトン、切り分けられたローストチキン、狩りで獲れたキジ肉などなどが食べ終わる端から次々と運ばれてくる。クレアが嫌味を言うほどには料理は冷めておらず、料理人が温め直していたことが分かった。離宮で出されていた食事の万倍豪華でうまかったのでアイオンに文句はない。


 気がかりはむしろこっちだ。ちらりと隣のヘンリエッタを見る。


 彼女は穏やかに品良く食べ進めていた。「とっても美味しいです」とか「ザクスビー家は腕の良い料理人をお持ちなんですねえ」とか時折にこにこ顔で言いながら。


 クレアに「当家の料理人の腕は信頼していますが平民の方の口にも合うとは私としても意外です」だの「魔女っておしゃべりなのね。我が家の食事に集中するほどの価値はないとでもおっしゃりたいのかと思ってしまいそう」だのとげとげしく返されても構いやしない。


 これはこれでなんだこいつ調子の良い。


 と思っていたが、ヘンリエッタがクレアの怒りように対してあんまりどこ吹く風なので、他の客たちも次第に気になる相手との会話をちらほら再開し出した。いつまでも自分の恋愛よりホストの不機嫌を優先してはおけないらしい。


 周りに雑音が増えると、体感、いくらか場の空気が緩んだ。


 それでもクレアは適宜、アイオンに「いかがです? お食事はお口に合いましたか殿下? ディナーは会話も楽しむ場ですのに、うちの犬よりも食べるのが静かなんですもの。離宮の静謐さが身に染みついていらっしゃるのね」などの挑発をくれた。


 取り巻きらしい女たちも、「きっと殿下は気を遣っていらっしゃるのね」「滅多に聞けない殿下のお声を誰が最も多く聞けるのか、希少な話し相手の座を私たちが争っていないとも限りませんものね」「ああ、本当に美味しそうにお食べになるわ、がつがつ、がつがつと」とくすくす笑い合っている。


 彼女たちといい感じの仲らしい男連中もにやけヅラだ。




 おーおー見知った展開になってきた。


 やっぱ好待遇か否か以前に慣れない状況ってのは考えることが増えてよくねぇな。何も考えず従っていればいいのが何よりだ。




 アイオンは全てを黙殺して料理を食べていた。とにかく全員になんだかんだと言われるが、本当に何も感じないのだ。もとより気持ちがあまり揺れないたちだし食事がうまい時点で充分満足もしていた。




 もちろんヘンリエッタも連中の矢面に立たされた。


「ブラウトさんとはお久しぶり、になるのかしら。首と胴体が離れてもいなければ、磔にされて燃やされてもいないあなたとまたお会いできるなんて奇跡ね。嬉しいわ。私ったら一時は処刑場の貴賓席を予約していたの」


「あれからハイラント王太子殿下とは面会が叶いましたの? 首がくっついているうちに早くなさったほうが宜しいわ」


「というか、ねえ、まだ宮廷魔術師の制服を着ていらっしゃるのね! 信じられない! あんなことをしでかして、もうその身分にないのでしょうに?」


「そうね身分にふさわしい服を着るべきですよ。灰色っぽい薄汚れた平民のワンピースか、罪人の白いワンピースか?」


「ブラウトさんはそんなものをお金を出して買い求めなくちゃいけないなんて、他にそんな窮状にある方がこの世のどこにいるかしら? その苦しみ、私には想像もつきませんけれど、元気をお出しになってね」


 ……とかなんとか、言う方もよく思いつく。案の定、宮廷魔術師の制服のままでいることをつつかれているし。


 アイオンは面倒くささとかったるさに任せて黙っているけれど、ヘンリエッタはにこにこと几帳面に「ええ」「まぁそのうち」「そーですね」と返事をするので連中も明らかに気分がノッてきている。だがヘンリエッタに魔力暴走の気配はない。


 なんでだよ。アイオンの口の中がじわじわ苦くなり、頭の中にはまたぞろ無意味な「なぜ」が浮かんでしまう。




 俺は予想通りの展開で、腹もいっぱいだし不満はないが。


 お前、いつも俺にするみたいに言い返さないのか?


 俺と違ってあれだけ喜怒哀楽がはっきりしてんだ、しっかりムカついてるだろうにいつものよく回る口はどうした。普段通りに相手取れば、こんな奴らに絶対言い負けたりしねえだろう。




 別にどうでもいいけど。




 そう思ったときだ。


 視界の端にいつの間にか口数の減っていた男性陣の顔が映った。


 揃いも揃って、さっきまで魅力的に感じていた女たちにドン引きしているのがありありと分かる。一緒になって口撃するつもりでいたものの、目の前で繰り広げられるやりとりに思わず口をつぐんでしまっている風だ。


 あー。よく思いつくなと自分が感心するくらいの悪口雑言が好みの女の口からめちゃくちゃすらすら出て来るのを見たら、そりゃそうなるか。


 同時に、隣でヘンリエッタがんふ、と笑い声を漏らしかけてエフンエフンと咳払いで誤魔化したのに気づく。


 ……そういうことかよ。







 ディナーが終わると全員、示し合わせたように客間に移動することになった。これもハウスパーティーにおける不文律なんだろう。腹もくちたことだし早いとこ解放されたかったが、辞するタイミングが掴めずに誘導されるがままになってしまった。


「……ホラ見ろ言わんこっちゃねえ。もう相手がどういうつもりで俺を呼びつけたのか嫌ってほど分かっただろ。早く帰ろうぜ」


 移動のどさくさに紛れて小声でヘンリエッタに言うと、彼女は作り笑顔を引っ込めて毛虫でも見たようにむすっとして頷いた。


「ごめんって。……でもほーんと見る目ないレディたちだよ。こんな素敵な王子様に見初められる機会をみすみす逃すなんてね?」


「女王陛下の目の上のたんこぶに道連れにされたい女がいるかよ」


「いるいる出来る出来る。ただ、いても気づこうとしなきゃいないのと一緒ってだけよ、アイちゃん」


「……こんな場ですら『殿下』と呼べねーのかお前は」


 行きの馬車で「君の態度の端々が『僕を舐め腐ってくれていいですよ~』って言っちゃってるの」などとのたまったのはヘンリエッタだが、実際のところ、アイオンのことを一番舐め腐っておもちゃにしているのはこの魔女じゃないのか。


 ヘンリエッタはアイオンの文句を受け流すようにふふ、と笑って肩をすくめ、短い密談を終わらせた。




 客間は正餐室よりくつろげる作りになっていて内装や家具の色合いも明るい印象に揃えられている。詰め物がたっぷりのソファ、カードゲーム用のテーブル、ピアノ。煙草と酒の匂い。アイオンはどれにも興味がない。


 薄ピンクのドレスをひらひらさせてクレアが笑いかけてくる。


「さ、お二方、おくつろぎになって。お酒とお菓子を用意させますわ」


 それから男性陣を振り返り、声を張った。


「そうそう、みなさん! いつも上流階級の友人にするように狩猟や乗馬の話題など殿下に振ってはいけません! ご存じでしょうが、ハウスパーティーさえ今回が初めての殿下は、そのような遊びをしたことがないんですから!」


 クレアの言葉に令嬢たちがくすくすとさんざめき、男連中はこちらをちらちら見ながら引きつった笑いをもらす。ヘンリエッタの目論見通り、彼らの仲には水面下で順調に亀裂が入り続けているようだ。


 なるほど、いかにも婚約者に浮気された矢先の女が思いつきそうなストレス解消法だな。




 使用人が続々と酒類や果物、ジャムの添えられたビスケットなどを持ってきては去って行き、ひとりだけ残ったと思ったらピアノを弾き始めた。お前が弾くのかよとアイオンは素直な感想を抱いたが、客たちはぱっと華やいで音楽に合わせて身体を動かし出した。


 楽しくカジュアルな曲調のピアノの音をバックに、男連中は高そうなブランデーを、女たちはワインを惜しげもなく口にし、あっという間に頬を紅潮させていく。


 テーブルでカードゲームに興じる男たちもいれば、窓辺に気になる男を連れて行って熱心に話しかけている女もいた。彼らに酔いが回ってくるにつれ、今なら何をやっても許されると思わせるような無秩序が客間を支配していく。女の本気の悪口にドン引きしていた男たちも、享楽的な空気にすっかりさっきまでのことを忘れている。




 すると面白半分の悪意をむき出しに、クレアと取り巻きがこちらに歩み寄ってきた。音楽を楽しむこともしなければ用意された飲食物にも手を付けず、ぼーっと入り口近くの壁際に突っ立っていたアイオンは、彼女たちをただ見下ろす。


「改めて今夜は当家にお越し頂き恐悦至極に存じますわ、アイオン第二王子殿下」


「……」


 また嫌がらせが始まるらしいが、今夜はもう充分とやかく言われただろう。追い出されることになってもいいから早く帰りたいしわずらわしいので、アイオンは眠たそうに瞬きをひとつし、黙ったままそっぽを向いた。今までの式典のときなどは、こうすれば大体は白けたように人の波が引いていき、遠巻きに陰口をたたくモードに移行するものだったから。


 空気が変わったのを肌で感じる。


 虚を衝かれたような一瞬の間があって、クレアがあからさまに気を立てたのが分かった。


「………………殿下? なぜ何もおっしゃらないの?」


 クレアは取り巻き共々引いていくことはせず、声に険を混じらせた。それでもアイオンがいらえを返さずにいると、わざとらしく憐れむ視線と甘ったるい声音を用意してくる。今しがた遅れて気づいたとでも言うように、


「……ええ、そう。私も殿下がこういったパーティーでの礼儀をご存じないのは承知してますわ。でも挨拶を返さないというのはちょっと……感性、品性、しつけの問題、だと私は思いますの。ねえ?」


 と取り巻きに話を振り、彼女たちも控えめを装った笑顔で頷いている。


「そうですわね、ちょっと……ねえ」


「今後の殿下はこのような場に出る機会も多いでしょう? 最初にきちんと作法をお教えしておくのは、王家の方に奉仕する貴族として果たすべき務めでもありますわ」


「離宮ではどのように教わりました? 王宮で宮廷伯にマナーを教わった私たちには離宮内のローカルルールは残念ながら分かりませんが、離宮で得た知識は殿下の重荷になるだけかもしれませんわね」


「ええ。たとえば……」


 クレアがヘンリエッタの服を指さす。いつの間にかアイオンの隣から少し離れてうろちょろしていた彼女は、唐突に注目を浴びてぱちりと長いまつげに囲まれた大きな眼を瞬いた。


「あのような恥を知らない粗末な格好で従者をハウスパーティーへ出席させてもよいと、離宮では教えていますのかしら?」


「……」




 うんざりだ、本当に。




 アイオンは視線だけで天を仰いだ。男連中がふかした煙草の煙が漂っているのが見える。


 適当に何か口を開こうとした矢先、


「あっみなさん、新しいワインが来たみたいですよー」


 とヘンリエッタがのんきに言った。


「また美味しそうなワインですね! ザクスビー伯爵家でもなければ手が届かないような高級品なんでしょうねえ。あれをありがたがらずにいられる人なんかこの場にいるのかなあ?」


 にっこりと笑顔で隅のテーブルを示す。座に水を差さないよう、各自が好きにほしいものを取る立食形式になっているから、飲食物を客人に手渡す役目を帯びた使用人がひとりそばに立っていて、ちょうど新しく持参したワインボトルをひとりの紳士のグラスに注いでいるところだった。


 数秒、クレアと笑顔のヘンリエッタがにらみ合うかたちになる。


 ヘンリエッタがわざととぼけた態度でとんちんかんなことを言い、アイオンから矛先を逸らそうとしたことなどお見通しなんだろう。




「……ふ、ふん!」


 けれどしばらくすると、相手にするだけ無駄とばかりに忌々しげにクレアのほうから視線を外した。


 新しいワインというヘンリエッタの方便に乗ってやるのは業腹だからなのか、猫足のサイドテーブルに置いていた自分のワイングラスを取り上げて、取り巻きを連れて壁際へ歩いて行く。


 そこでまだ飲み残していたワインを楽しみながら、気の合う仲間たちとアイオンたちへの愚痴を酒の肴にすることにしたようだ。ひそひそ声の悪口が漏れ聞こえてきている。




 アイオンはやる気なさげに脱力して、ゆっくりとヘンリエッタに向き直った。


「……あいつら意外とあっさり引き下がったな」


「今は、ね。言い負かしたも同然だけど見た目より根性あるんだよねー彼女たち。多分こんなんじゃ終わらせてくれないな。いい加減うんざりするよ」


 そう言う割にちっともこたえていない様子で白い手をひらりと揺らし、ヘンリエッタが「それよりさ、見てて」と青みがかった灰色の眼をきらめかせる。


 今度は何だよ。促されるままにクレアたちの様子を見ると、なにやら急に動きが慌ただしくなっている。


 ひとり、またひとりと顔色を変えた令嬢たちが品を後回しにした急ぎ足で客間を出て行くのを眺めながら、アイオンは怪訝そうに眉をひそめた。


「……? まさか、ご自慢のディナーで食中毒でも出たか。俺たちは手つけなくて正解だったな」


「いやいや違うから!」


 慌てて突っ込むヘンリエッタに、別の「まさか」が脳裏をよぎった。じとっと彼女の顔をねめつけ、


「てことは魔力暴そ……、……。お前な、いくらムカついたからって全員同時に腹下させるなんてしょうもない超現象起こすんじゃねえよ」


「そんっな安売りするわけないでしょ!? 暴走の予兆だってなかったんだし!」


 拳を振り上げてぷんぷんしたあと、ヘンリエッタは気を取り直して「これだよこれ」と拳をほどいた。見せられた手の中に小さな紙包みがあって目を剥く。


 薬包じゃねえか。


 思わず横目で見たりすることもなく真っ向から彼女の顔を見ると、にま~っと素の笑みを浮かべている。


「買い出しに行ったとき真っ先に救急セットそろえたからね、少々お通じ良くする薬なんかも弱めのものなら手元にあるんだよね~」


「要は一服盛ったんじゃねえか!?」


 しかも用意が良すぎるところを見ると絶対これが初犯じゃねえ。


 あんまりさらっと言ってのけるので呆れた。


 古ぼけた庁舎の備品はとても使えたものではなかったからと買い込んでいたものを、万一の怪我や病気じゃなくこんなことに使うとは。さっきアイオンのそばを離れてこそこそしていたのは、サイドテーブルに置かれていた無防備なクレアたちのワイングラスに粉薬を混入させていたようだ。油断も隙も無い。


「まー大丈夫、もともと弱めの薬を苦味に気づかない程度のほんの少量しか入れてないから、みんな早々と復帰してくるし後を引いたりもしないよ。でもそうとは知らない本人たちは自分のお腹の調子が心配で、私たちのお見送りもそこそこに部屋に引き上げたくなるだろうね? 魔力暴走の被害を受けた可能性も考えるかもしれない」


「あいつらのしつこさを振り切ろうと思ったら、手段は選んでいられねえってことか……」


 まったく助かる。こちらが何も指示しなくても勝手に手を下してくれるのは楽でいい。こんな屋敷に針のむしろ状態で一泊なんてまっぴらだし、もしかしたら君の味方ができるかも、とか言ってクレアからの招待を受けさせた責任をヘンリエッタに取らせたと思えば、上々だ。




 こんなくだらない、慣れ親しんだ不愉快なんかでまんまと立ち止まり、見かねたこいつに手出しをさせたのは俺じゃないのかという考えは遮断する。


 知るか。この件だって、きっと後でまた見返りにこいつが兄貴へのとりなしを頼んできてそれで仕舞いになるだろう。


 考えるのをやめればいつものように、もろもろ全部がどうでもよくなった。


「んじゃクレア・ザクスビーが戻ってくる前にさっさと帰るぞ。また『離宮ではホストに挨拶もせずに帰るのが礼儀だと教えてるんですかぁ?』とか言われるかもしれねえが、薬盛って腹下させといて今さら礼儀もへったくれもねえだろ? 実行犯のお前は特にな」


「うえ~言いそう~。でもその通りだね、下手人は一刻も早く現場から逃げなきゃまずい」


 凝った首筋に手を当ててだるそうにアイオンが言うと、ヘンリエッタもこれには素直に頷いた。







「まっ、待ちなさい!!」




 くそ、捕まった。




 こっそり客間を出て廊下の窓から庭に下り、こちらに気づいてあっと声を上げた使用人たちを無視して門の方へと駆け出そうとしたときだった。


 もうあと少しだったのに、まさにド根性で腹痛から復帰してきたクレアご本人がアイオンたちを背後から呼び止めたのだ。


「う……、動くんじゃ、ないわよ! 一歩たりともッ……!」


 ぐるぐる言っている腹に手を当て、慎重に呼吸を整えて、クレアも窓を越えて庭に出る。間近で怒りをぶつけるためだけによくもまあ無理をするものだ。アイオンはついヘンリエッタと顔を見合わせ、ふうと息をつく。


 いっとき腹痛の波が引いたのか、クレアは表情を強気なものにしてアイオンたちの前に堂々と立ち塞がった。


「わ、私が席を外している間に帰るだなんてふざけた真似を……! これが仮にも国の王子のすること!? 恥を知りなさいよ!」


 と叫んだ直後、「あっちょっと、あぐううう……」と腹を押さえて悶絶する。しかしそれも数秒のことで、根性で抑え込んだクレアは再び顔を上げてぎりぎりと射抜かんばかりに睨み付けてくる。


「……っこんな無礼は許されないわよ! 遅れてやってきて、食べるだけ食べてろくに会話にも応じずこそ泥みたいに無断で逃げだそうとして、私の顔に泥を塗った以上絶対に逃がさないから! 屋敷に戻りなさい、早く!」


「戻ったほうがいいのはクレア様では? なんかお腹痛そうだし」


 相手をしてやる必要などないのにヘンリエッタはいつもの調子でそう混ぜっ返す。このままきびすを返して庭を突っ切ろうと考えていたアイオンは彼女に白い目を向けた。何を言おうがあっちは腹が痛くて本気で走れやしないんだから、余計なこと言うんじゃねえよ。


 当然、クレアは顔を怒りに歪ませ、弾けたように自分のショールをこっちに向かって投げ捨てた。薄ピンクのショールがヘンリエッタの顔に当たって芝生に落ちる。


「うるさい!! 口答えをするな、この魔女が!! 私は戻れって言ってるの!!」


「お怒りは分かりましたから落ち着いて。ていうか魔女の私に対しても第二王子様に対してもかなり危険ですよ、その言動?」


 この期に及んで愛想良く宥めにかかろうとするヘンリエッタを遮り、クレアがヒステリックにかぶりを振って「うるさいうるさいうるさい!!」と繰り返す。


「何が魔女よ、どうして薄汚い平民ひとりの首すら落とせないのよこの国は!? 言っておくけど王子様にくっついてのさばろうったってそうはさせないから!! この国の誰もが知ってるわよ、離宮の第二王子様は無駄に箱入りのいらない子!! 魔女なんかにはハイラント殿下の婚約者は務まらないって!! 分かる!? 殿下にふさわしいのは私だったの、あんたなんかじゃないッ!!」


 怒鳴り散らすクレアの背後に、騒ぎを聞きつけた使用人たちが血相を変えて駆けつけてくるのが見える。勘弁してくれ。逃げ切ろうにも万が一全員に飛びかかられたらひとりくらいには脚を掴まれそうだ。


 潮時だ。ヘンリエッタを引きずってでも走り出そうと、アイオンは隣を振り返った。




 ――――瞬間、異質な空気が場を支配した。




「……!」


 身体が本能的に凍り付く。


 一拍おいて総毛立つ自分をどこか他人事のように感じた。


 耳元でバチッと火花が弾けるような音。


 足元から膨れ上がる途方もない魔力の帯。


 アイオンもクレアも、一様に魔力暴走の四文字を頭に思い浮かべていたことだろう。


 魔力のうねり、異音や閃光、ひとりでに物が壊れるといった異常な現象はこの大魔女の魔力暴走で起こりうる予兆として広く知られている。


 これはまさしくそれだった。


 クレアがひっ、と恐怖に喉を詰まらせて後ずさる。




「…………ああ。今までの全部、そういう理由でやってたってこと?」




 うつむくヘンリエッタが表情を隠したまま呟いた。


 長い金茶の髪が揺れる。




「殿下の浮気相手って、君だった?」




 近づこうとしていた使用人たちも顔面蒼白で足を止めていた。


 とうとうクレアがその場に崩れ落ちた。全身はがくがくと震え、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら必死で頭を庇おうと縮こまっている。


「――あ――ち、ちがっ……、ちが、違いますうそです、わたしじゃない、私じゃない……」


 ヘンリエッタは黙っている。


 魔力の帯はもはや耳鳴りを起こすほどに莫大だった。


 硬直していた使用人たちが次々と呑まれて腰を抜かす。


 クレアは勝手に最悪の未来を想像して頭を掻きむしり、「あーっ! あーーーー!!」と出し抜けに無意味な絶叫をほとばしらせた。見たこともない恐ろしい化け物に身を裂かれるさなかのように錯乱して。


「待って待ってやめて!! おねが、違うんです、でんかとはかんけいなくてほんとにっ、ほんとになにもしてないですうううああああああ……」


「……」




 バカが。


 勢い任せにこいつの泣き所をさんざん刺しといて、今さら。どっちが化け物だって?




「おいバカ、帰るぞ」「泣いちゃった。もういいや」


 決定的な大破壊が起こる前にアイオンがヘンリエッタの手首を強く掴んだのと、ヘンリエッタが急に興味をなくしたように肩の力を抜いたのとは同時だった。


 はっと視線がかち合う。


 今度見たヘンリエッタの表情は見慣れたものだった。いきなりアイオンに手首を引かれて、きょとんと目を丸くしている。よし戻った、と頭の隅で安心した。さっきまでも恐怖はなかったが、彼女がまだ実際の被害を出していないのに勝手にビビっている連中が少し不快ではあったのだ。


 晩夏の星空に向かう柱のように立ち上っていた魔力の奔流も、途端に霧散した。


 変わり映えしない夜が屋敷の庭に戻ってくる。ただのそよ風。虫の鳴き声。雲が通り過ぎたあとの月の光。


「……一回冷静に考えてみろ、こんなのが兄貴の女なわけあるか? これはナイだろ。何なら俺が保証してやってもいいぜ」


「……」


 アイオンが淡々と事実を述べると、ヘンリエッタは少しの間をあけて小さく溜め息をつく。その次には困ったような笑みを浮かべ、


「やだなぁ。ムカついたのはそこだけじゃないんだけど」


 と言った。

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