事務手続きのできない王子

 離宮に送られたのは父であるアルフレド王配殿下が事故でこの世を去った年だった。


 十四年もの間、母と兄から引き離された第二王子は教師がつけられるわけでもなく放置され、また離宮の人間は彼に絵本の読み聞かせすらしてやらなかった。


 周りみんなに冷たくされた具体的な理由を彼は知らない。ただ少なくとも母は自分の話題を過剰に拒絶するから、王宮でも禁句になっていると聞いた。


 その拒絶になぜと思うこと自体、次第に減っていった。なぜと思っても思わなくても現実は変わらないので、いつものことと黙殺するのがいいと思われた。慣れと適応は表裏一体である。


 長じてもまともに読み書きができないのは当然の帰結だった。それでも、下手に権限がないうちは不便はなかったのだ。誰も自分に書類を作れとは求めないし、手紙なんか出す相手もいない。読書にも興味は無い。


 ところが今度はいきなり行政監督官をおおせつかり、先日浮気した兄を半殺しにしたという魔女ヘンリエッタを預かって南部に赴任しなくてはいけなくなった。とてつもなく面倒だが流されるほかにやることもない。


 赴任と言われたって、もろもろの手配をする術がなかった。書類の書き方なんか知らないし、公文書に使われるような難しい言葉はそもそも読めない。


 それを隠して、口頭や自分の足で調達できるものはかろうじて調達したが、それも最低限の物資と馬車くらいのもの。役人のほうから準備は順調ですか? などと助け船を出してくれるわけもない。何も言ってこないんだから大丈夫なんだろうと顔に書いてあった。ふだんは人のことをあれこれ悪し様に噂しているくせに、言ってみれば皆、こちらの本体には無関心だった。


 あとは何時にここへ行ってこうしてくださいと役人に言われた通り、拘禁されていたヘンリエッタを迎えに行ってひとりの見送りもなく王都を出てきただけだ。


 赴任先の庁舎が荒れ果てているというのは役人に聞いていたが、雨風を防げれば寝て起きることはできる。人生の潤いに当たるものはもとから興味の外だ。


 食い扶持はこれから働きで得られるらしいのだから、懐事情はむしろ改善する予定なわけだし、最悪、環境はその魔女ヘンリエッタ様に魔術でぱぱっと整えてもらえばいいだろう。別に取り入らなくたって、本人も住環境の不満くらい自分から解消すべく動き出すだろうし。


 まさかその魔女が自由意志で魔術を使えないとは知らなかったから、そんな感じの考えでいた。




 以上がアイオンが語ったいきさつだ。


「うーんえらい! そんな中でよく馬車とごはんを調達してくれました!」


 聞き終わったヘンリエッタは明るく言って拍手を送った。一周回って一番言及すべきポイントはそこだと思ったのだが、あははははと上げた笑い声は為す術もなく乾いていた。何がどーして国の王子が識字率を下げることになるんだ。危うく絶句しそうになったわ。そんな反応したらアイオンが傷つくかもしれないから声を発したが。


 話してしまえば気楽になったのか、アイオンは一転して対応に苦慮するヘンリエッタを面白げに眺めている。


「ジャムまでは気が回らなかったけどな。役人に訊けば自分の買い置きを分けてくれたかもしれないが」


 なんて混ぜっ返す余裕もあって何よりだ。了解、もし強がりだろうとそういう根性なら、こっちも切り替えていこう。


 安心させてもらったので、ヘンリエッタは改めて秘蔵のジャムの在処を教えるようにささやく。


「お役人を上手に転がす方法は、また今度教えてあげるよ」


「……あん?」


 童話の世界の王子様がどんな風に喋るのかも知らずに育った王子の、本音の「あん?」である。それにしたって柄が悪いが、あいにく彼にとって面倒な話はまだ続くのだ。ヘンリエッタが続行するつもりなので。


「あのね、私は書類の代筆しないからね」


「は? なんで?」


 やっぱりそのつもりだったか。


 辛い身の上話をしてみせたのも肉を切らせて骨を断つ精神というか。動揺させておいてこの要望を通すのが本命だったわけだ。


 アイオンが心底驚いたように目を丸くする。内面がうかがえない瞬間もあるほどに常時気だるげな彼の初めて見せた大きな感情の揺らぎだった。ヘンリエッタは間髪容れず問いかけを先回りする。こっちだっていつまでも面食らって腫れ物に触るような対応をする性格はしてないし、思いついたこともある。


「私がこれだけハイラント殿下の妻になる気満々なんだから、当然相応にばりばり修行してると踏んで、必要な書類も私なら書けると思ったんでしょ。もちろん書けるけど、やりません。それじゃ根本的な解決にはなんないし、アイちゃんには書いてもらいたいものもあるし?」


「……書いてもらいたいもの?」


 低い声で訊きながら身構えるあたり、アイオンは本当に察しが良い。持って生まれた人付き合いの才能自体は問題ないのに、発揮したり磨く機会を奪われてきたタイプだ。


 その耐ショック姿勢のご期待に応えるべくにっこりと微笑みかけ、


「アイちゃんから殿下にとりなしの手紙を書いてもらいたいの! 半殺しにしちゃって以降完全に取り付く島もないから! ってことで書類は正直おまけ、アイちゃん専用読み書き教室始めまーす!」


 えいえいおーっと拳を振り上げると、虚を衝かれて硬直しているアイオンがお尻の半分をカウチからずり落ちさせるのが見えた。うむ、この私を上回るにはまだまだ若いね。







 アイオンが赴任の挨拶を南部の諸侯に送る術がなかったことが今ばかりは幸いだった。おかげで訪問者の気配は全くない。


 ヘンリエッタのスパルタ読み書き教室一日目は夜を徹して行われ、途中アイオンが「やっぱこんな付け焼き刃で上手くいくわけねえだろ」とぐちぐち言い出したり逃走を図ったりといったハプニングはあったものの、ヘンリエッタはきちんと厳しい態度を貫くことができた。アイオンの学習速度も、初日にしては破格の成果があったと言っていい。




 はっと気がついたときには朝だった。


 周囲にちらばる紙を片付けないまま、バカでかいカウチで寝落ちていたらしい。庁舎に残されていた備品の紙束には、虫食いと黄ばみと厳しい指導で磨かれた美しい筆跡がある。あとはみみずがのたくったような無意味な線や俗っぽい罵り言葉――悪ノリで教えたのは失敗だったな――もあちこちにあるが、ご愛敬だろう。


 隣で唸っていたはずのアイオンの姿はすでになく、代わりに外からなんだか破壊音が一定間隔で聞こえてくる。何の音だろう? 聞き覚えはあるけれど寝ぼけていてすぐに思い出せない。ヘンリエッタにとっては驚いたことに、昨夜はとても深い眠りに落ちていたようだ。


 寝ぼけ眼をこすりながら外に出ると、音の発生源が昨日草刈りをした前庭にいた。


 アイオンが斧でめちゃくちゃ薪を割っていた。


「………………んん、なんで?」


「風呂わかすのにいるからだろ」


 ヘンリエッタの寝ぼけた呟きを拾い上げたアイオンが平然と言う。


 いや、うん、お風呂は昨日の朝に王都で入ってきたきりだし、私は魔術を好きには使えないし、ここにはふたりきりだから消去法でアイオンが薪を割るしかないわけか。理屈だね。昨日の草刈りのときもだけど膂力すごいね。でも目の前ですっごい軽々と薪を割られ続けると、人間なんか面食らっちゃうみたいなんだよね。


 そこまで思考したけれど一から口にするのは面倒だから言わずにおく。


「そっか、そーね……ありがとね。ちなみに火をつけるのは……」


「ああ、ほんのオモチャにもならないくらいの魔術なら俺にも使える」


 朝の澄んだ空気に染みを落とすようにアイオンは言い、薪を割る手を止めて差し出した人差し指と親指の間でろうそくサイズの火を灯してみせた。小規模でもまぎれもない魔術だ。


「俺がこのざまなのに、陛下と亡き王配殿下が遺伝って言葉を国の辞書から消そうとしなかったのは奇跡だな」


 自嘲のセリフを取り澄ました顔で言うのも、たぶんあの哀しい慣れからくるものなんだろう。昨日一日で学んだ彼の特性だ。こっちはそんなものに永劫慣れる気はないので、取り合わないように軽く笑う。


 昨夜、眠気に煩わされ出したアイオンはヘンリエッタの教育を振り払うために手段を選ばなくなった。あからさまにこういう物言いを増やし始めたのだ。


 けれど、それはヘンリエッタを変に思い切りよく決意させただけだった。――残念でした。私を困らせて黙らせいがために本音をチラ見せして、しかも哀れっぽく自虐してみせるなら、私は絶対それに脳天気な言葉で返すわよ。ちゃんと、本心からの言葉で軽口叩くから。


「君と王配殿下はよく似てるよ。顔立ちもだし、赤い髪に紫色の眼でさ」


「見た目はな。ふ……あんたに俺のこういうとこをいなし損なわせるのは気分がいい」


「なーに、アイちゃんってば王配殿下のコピーになりたいの? いくら優秀な方だったからって、君を都合の良い別人に造り替えるなんてそんなくだんないことに私は協力する気ないんだけど。ていうかそもそもひとつやふたつやみっつやよっつの才能の有無で人間の価値なんか決まりませーん。もし決まるって言う人がいるなら確実に無神経な性格してるので早めに縁を切りましょーう」


「……一言ったら百返してくんじゃねえよ。ったく」


 何事もなかったかのように薪割りに戻るアイオンの動作が、かえって負け惜しみだと物語っていて少しは溜飲が下がる。節々で手の掛かる弟(予定)くんだが、色々と頑張り通しだった昨日の今日で朝から薪割りにいそしむなんて根っこはちっとも腐っていない。


 皮肉屋なだけで頑張り屋のいい子なんだろうから、あんまり不自由させたくはないよなあ。


 庁舎を守るように並ぶ木々の上へ、ゆっくりゆっくり高度を上げていく晩夏の太陽を見ながら、ヘンリエッタは肩の力を抜いて微笑んだ。


「うーん……こう王子様がせっせと薪割りしなきゃいけないレベルで不便だと、やっぱり早く買い出しに行かないとだねえ。レース編みの道具も没収されちゃったから買い直したいし。読み書きの勉強は引き続きやっていくとして」


「そんなこと言ったって先立つものがないだろうが、俺たちは」


 ばこん、と不満をかち割るように、また次の薪が割れる音。


「ま、この大魔女に任せてよ」

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