幕間5-2 波の音の誘い

 次の日、早速名刺にあった番号に電話し、さらに三日後私とおじさんは改めて会うことになった。

 高そうな喫茶店の奥の個室に通されて、高いパンケーキを奢ってもらいながら話を聞く。着いて行こうか、と葵は提案してくれたけれど、これは私の過去を知るための場だから、「困ったら連絡する」とだけ伝えてひとりでここへ来た。

 ふかふかのパンケーキにフォークを沈ませていると、おじさんはゆっくりと切り出した。

「映画は好きかい」

「……金曜ロードショーとかでたまに観るくらい、ですかね。ジブリは好きです」

 静かにカップを傾けるおじさんはいかにもナイスミドルって感じで様になっている。

「君の母も好きだったよ」

 伏し目がちに呟く横顔に何も言えなくて自分のコーヒーに角砂糖を放り込む。

 おじさんは何目線で私のお母さんを語っているのだろう。もしかして私のお爺ちゃんだったりするのだろうか。

 角まで整った砂糖が黒い海に沈んでいくのを見守ると、ようやくおじさんは鞄から何かを取り出した。

「興信所に依頼して君のことを調べさせてもらった。密かに遺伝子鑑定も……結果がこれだ」

 それはなんか難しい単語がいっぱい並んだ紙だった。

 文字の羅列が右目から左目へ通り抜けてったけど、何かを理解するより前におじさんが一言でまとめてくれた。

「君は僕の娘だ」

「えぇぇぇぇ!?」

 例えとかじゃなく私はひっくり返った。おじさんが机に広げ指差した「鑑定結果」の紙には確かに「生物学的に父と子だと認められる」と書いてあった。

 心底驚いた。目の前のほぼ知らない白髭が似合うミドルはパパだった。思わず脳内で逆算してしまう。いくつの時の子?

「え、じゃあお母さんは」

 当然そっちも調べてるだろうと見上げる。けどおじさんはなんだか申し訳なさそうな顔をして俯いた。

「すまない……母親は――亡くなってるんだ」

「あー……そうなんですね」

 寂しいとかより多分そうだろうな、が勝っていたから、やけにあっさりした感想しか出て来なかった。むしろ聞いてしまって申し訳ない気持ち。

 思ってたより私が悲しまないからか、おじさんは拍子抜けしたみたいに目を丸くする。

「会いたいとか、そういう気持ちは無いかい」

「うーん、物心ついた時からいないから、何とも。どんな人だったかは、ちょっと気になりますけど」

 手元の甘いコーヒーを一口飲んだ。砂糖を入れすぎたみたいだ。カフェオレ頼めば良かったな。

 おじさんもカップを傾け、ふっと息を吐いた。思わず顔を上げる。初めて真っ直ぐ目が合った。

「君の母、夕日遥は僕の家の使用人で……とても澄んだ瞳をした女性だったよ」

 そう語り出したおじさんの両目の奥には、何か青黒い光が渦巻いていた。



 長い、校長先生の全校朝礼とかよりもっと長いおじさんとお母さんとの昔話を聞き終えて解散したのは夜十時を回った頃だった。冬の夜空に昇ったオリオンが綺麗に映えている。

 聞いた話を極限まで端折ると、おじさんの家で働いていたお母さんとなんやかんやあって私が生まれたらしい。物凄い年の差愛だった。そして私を生んですぐ死んで、お母さんの親戚に預けられた以降の行方が分からなくなっていたという。

 さらにどうやら一個上にお兄ちゃんもいるらしい。なんか変な感じがする。どんな人だろう。

 そっちは生きてるみたいだけど、おじさんはあんまり多くは語らなかった。仲悪いのかもしれない。

「お兄ちゃんには……ちょっと会ってみたいかも」

 繁華街を抜け、近道の路地裏を曲がる。街明かりの届かない暗がりに目を凝らすと、帰り道に青黒い薄闇がどろりと渦巻いている気がした。

 会って……一緒に映画観に行きたい。場末の映画館に連れて行って、チケット代はおじさん持ちで。

 気分良く足元の小石を蹴った所で、はたと気付く。

「……今なんで映画観に行く感じになった?」

 すんごい自然な流れでそう思った。けど何故かは分からない。え、何これ。

 耳奥でとぷりとぷりと波の音が聞こえる。

 一瞬だけ視界に青黒い煙がかかり、瞬きしたらそれはふっと消えた。今何考えてたんだっけ。立ち止まることなく足は進む。

 そういえばこの道ってどこに繋がってるんだろう。私の家か。ん? でも今日電車乗って来なかったっけ。……まあいいか。

 頭の中に幾度も靄がかかる。疑念を抱く前に、知らない何かが感情を覆い尽くして消してしまう。耳元ではまだ、波音がとぷりとぷりと小さく響いている。

 何だろう。不安とかおかしいとか、そういう気持ちが

 ふわふわとした足取りで歩き続け、いつの間にか靄を抜けた先に見慣れない古い建物が一棟建っていた。

「モナリ座だ」

 記憶のどこにもないはずの映画館の名前が口から出てきて一瞬焦った。けど瞬きしたらどうでも良くなった。うん知ってる知ってる。場末の映画館でしょ。いやいやいやちょっと待ってなんで知ってる? そもそも何しに来たの私――

 ああそうか、レイトショーを見に来たんだっけ。今日のラインナップなんだろ。恋愛映画とかやってるかな。テンション上がるからアクション映画とかでも可。

 錆びた取っ手を開き、暗い館に足を踏み入れる。薄靄みたいな空気がひやりと身体を包み、背中でガラス戸は固く閉まった。

 あれ? なんでだろ。私、今すぐここで映画を観なくちゃいけない気がしてる。

 頭の隅で何か違うと思ってるのに、やっぱり瞬きひとつでどうでも良くなった。脚は勝手に順路を進んで受付をすり抜ける。ボロボロになったベルベットの絨毯を踏むたびに誘導灯に照らされた埃が足元で舞ってる。

 この奥には何があるんだろう。いや、私は知っている。暗闇に慣れた視界に青黒い煙がぐるりと渦を巻いた。深い波の音は、もうすぐそこに近付いている。

 この先は行き止まりにたったひとつの扉が待つ、三番シアターだ。



 重たい劇場扉を開くと、スクリーンいっぱいに映る夜の海が私を迎えた。

 シアター内には誰もいなかった。大音量の波音が身体を包む。

 劇場の真ん中まで歩くと、白い光を抜き取ったような小さな魚が私のそばを泳いで銀幕へと吸い込まれていった。

 揺蕩う夜の波に消えたそれをただ見つめていると、星明かりの波間から黒い影がぬるりと現れた。

 それは同い年くらいの女の子だった。劇場に立つたったひとりの観客を真っ直ぐに見つめる。

 長い黒髪を垂らしたその子は迷わずスクリーンを飛び出して、私の眼前に迫った。

 痩せこけて窪んだ眼いっぱいに私が映る。

 彼女は私とよく似た顔をしていた。

「おかあ、さん?」

 呼び掛けに、影は蕩けるように笑った。脳に直接声が響く。

 ――やっと、一緒に映画を観られるね。

「か……は……」

 息ができない。

 視界が白くチラチラして、深い海色のスクリーンが足元で揺れてる。もがけばもがくほど、たくさんの黒い手は私の首を締め付けた。

 ざぱり、と波を掻き分けて海面から飛び出したそれは……何だろ。月光を受けて銀色に光る、すごく大きいな。きれいな、何か……

 ああ……多分あれは……鯨……かなあ……


 目の前は完全に真っ暗になった。

 けど耳元では繰り返し、とぷりとぷりと沖の波音だけが静かにしていた。

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