三番シアターの亡霊はエンドロールの夢を見る

月見 夕

第1章

Scene.1 三番シアターの引きこもり

 視界が暗転して下から白い文字たちが立ち上るのを、僕はぼんやりと眺めていた。

 最後の真っ赤な夕陽に照らされた少女の泣き顔が情緒的で、しかしそれまでの冗長なストーリーや単調な台詞回しのおかげでどうにも安っぽさが否めない出来だった。薄い座席に背を沈め、一つ息を吐く。

 どうだった? と言いかけて右手を振り向くと、隣の席の少女は声も掛けられないほど小さな顔をクシャクシャにして、滂沱の如く涙を流していた。

「う……うぐっ……ううう……」

「どこにそんなに感動したの……」

 ほとんど言葉にならない嗚咽にちょっと笑ってしまう。長い黒髪をふるふると揺らし、制服の両袖で涙と鼻水を拭う少女――くじらちゃんは、洟を啜って僕を睨んだ。

圭一けいいち……人の心持ってないの?」

「あるある、あるよ。最後の夕陽のシーン良かったよね」

「あれは! これまでヒロインが伝えられなかった言葉が全部詰まってて! これまでの苦難とか主人公との出会いと別れまでの二人の歴史が涙に全部こもってたんじゃん!」

「いやー、主人公の大根役者っぷりが凄くて内容入ってこなかったわ。さすがB級映画って感じで」

 僕の冷めたレビューで、くじらちゃんの顔がみるみるむくれるのが分かる。すっかり青春時代を終えて二十代半ばにもなると、どうも十代のキラキラした愛だの恋だののすったもんだは眼球から入っても脳を素通りしてしまう。

 彼女は頬を膨らまして拳を振り上げ――その手は僕の肩を

「あーもう余計に腹立つー!! なんで透けてんのよバカ!」

「透けてるのはくじらちゃんの方でしょ。やめて蹴らないで、痛くないけどほら、パンツ見えるから」

 ミニスカートから伸びた生足が僕の頭を通り抜けたところで攻撃が止んだ。恥じらってペラペラの座席に座り直し、裾を抑える様はどこにでもいる女子高生だった。


 そう、彼女は女子高生だ。

 くじらちゃんは大の映画好きで、地元で唯一のこの映画館・モナリ座に入り浸っている女の子で、ちょっと涙腺が弱くて、同じく映画好きの僕にとってこれ以上ない話し相手で――

 僕にだけ見える、三番シアターに棲う地縛霊なのだった。



 エンドクレジットを最後まで見守ると、絞られた照明が控えめにシアター内を照らした。僕らしかいない劇場が、再び古ぼけた景色を取り戻す。

 伸びをひとつして、僕は席を立った。

「はー、さすがに恋愛映画で二時間は疲れるな」

「その前はB級サメ映画だっけ。豪華二本立てだったね」

「僕はサメのが好きだったな。なんか清々しくて」

「何が? 低予算を役者の若さで乗り切ってたところ?」

「そう。予算がなくても映画として成立するんだっていう安心感」

 何それー、と口の端で笑い、ふわりと浮くくじらちゃん。十列十行ほどのこじんまりとした劇場内の、座席の頭をひとつ飛ばしで踏んで空中散歩を楽しんでいる。

 その現実味のなさはもう、僕にとっては見慣れた光景だった。ここにはもう、毎日のように訪れているから。

 ひとしきりふわふわと浮いていたくじらちゃんは、気が済んだのか隣の席の背に腰掛けた。

「ところで、くじらちゃん」

「んー?」

「今日のはどうだった?」

「うーん、鯨じゃなくて鮫だったからなあ。特に何も」

「そっか」

 まあ大きな期待を寄せていたわけでもないが、やはり今日の映画でも駄目だったらしい。彼女が指先でつやつやの黒髪を弄ぶのを眺め、小さく溜息を吐いた。

「そういえば、圭一監督の新作はどんな感じ?」

「あー、うん。まあ……ぼちぼち」

「絶対進んでないやつー」

 図星だった。うんそう、映画作りは全然進んでない。

 映画というほど大それてもいない。昔は映画監督を志望したこともあった、くらい。

 が、今では脚本を書き、演出を考え、役者志望の学生バイトを雇って動画を撮影し、編集して動画配信サイトに上げることをライフワークにしているただの動画配信者だ。

 が、くじらちゃんは僕のことを「監督」と呼ぶ。からかい九割、興味一割なのかもしれないけれど。

 バツの悪そうに答える僕を覗き込み、くじらちゃんはケラケラと笑う。

「やっぱりさ、作らなきゃって思うと作れないんだよ。こういうクリエイティブな仕事はさ、自然と胸の内から湧き起こる「作りたい」って気持ちがないと良いものはできないっていうか」

「どんな出来でも良いじゃん。三番シアターから出られない私は外の世界が恋しいの」

 実際、零細動画配信者の僕の動画を一番楽しみにしてくれるのは他でもないくじらちゃんだ。地縛霊だから、どんな景色も目新しく映るのだろう。死後の世界の未来がどんな景色かを見ている気分なのかもしれない。

 指先で遊んでいた髪束が一筋の三つ編みになったところで、僕は席を立った。腕時計の針はもうすぐ日付変更を告げようとしている。

「もう帰んの?」

「生きてる人はそろそろ寝る時間なんだよ。明日は朝からバイトだし」

「あっそ」

 剥がれかけたベルベットの扉を押し開け、いつもの暇を告げる。

「また明日」

「おやすみー」

 場内にひとり残ったくじらちゃんも、いつものようにひらひらと手を振った。



 出口へ向かうと、シアター入場口では幼馴染の琳太郎りんたろうが表看板を「営業中」から「準備中」に変更しているところだった。

「お前、相変わらず独り言デカいんだよ」

 気味が悪そうにする彼に、僕は笑って誤魔化した。どうも琳太郎にはくじらちゃんの存在は見えないし聞こえないらしい。

「良いだろ、どうせ他に客なんていないんだから」

「うるせえよ」

 この街にひとつしかない古びた映画館の跡取り息子は小うるさそうに鼻を鳴らした。

 琳太郎の祖父・森岡正一もりおかしょういちはたった一代で巨万の富を築いたやり手の実業家で、この映画館は彼の数多ある道楽のひとつとして建てられたものだった。

 おかげでこの街には人口に対し、商店街やキャンプ場、ゴルフ場に至るまで不必要なほどに娯楽施設が存在する。そのどれもが老朽化し、人口減に伴い寂れてはいるが。功績を讃える記念館だってある。だからこの近辺で森岡家を知らぬ者はいない。

 さてその遺産は莫大なもので、琳太郎のみならず一族郎党はその物件や施設の管理をしているだけで食っていけるという大変羨ましい身の上なのだった。

「はいこれ、来月の上映スケジュール」

 琳太郎は受付からコピー紙を一枚引き抜いて寄越した。

 モナリ座は再演リバイバル専門の映画館だ。都会で持て囃されるような新作映画は一切扱わず、少なくとも十年以上は経過した古い映画だけが上映されるという強気なシアターである。新作映画の放映権料が高いからということもあるが、高い故に一日に何度も、それも数週間にわたって同じ映画を上映し続けるのを初代館長である森岡正一その人が嫌ったのだそうだ。

 だからここでは毎日異なる映画が観られるし、同じ映画の再演はほとんどない。どの作品も一期一会だから、僕みたいな無類の映画好きは足しげく通ってしまうのだ。

 僕は表の上からまじまじと見て、最終行に辿り着いて唸った。

「うーん……今回もないな、鯨が出てきそうな映画」

「演目は配給会社任せなんだから知らねえよ」

「希望くらいは出せるだろ、毎晩レイトショーに訪れるたったひとりの貴重なお客様の声だぞ」

「そもそもそんなに無えよ、鯨が出てくるパニック映画なんて。家帰ってピノキオでも見てろ」

「あれ鯨出てきたっけ?」

「……ほんと、お前のその情熱何なの?」

 琳太郎は呆れたようにそう言った。

 しかしこれ以上琳太郎にクレームを言っても仕方がない。貰ったスケジュールは明日にでもくじらちゃんに見せてやろうと思いながら、畳んでポケットに仕舞った。

「また来るわ」

「おう」

 正面玄関のガラス戸に手をかけると、疲れた顔の茶髪頭の男が映った。まだ二十三なんだ、童顔とはいえもう少し溌剌としていたって良いだろうに。バイト終わりの二本立ての映画鑑賞が地味に効いている。

 やれやれと後ろ手で片開きの戸を閉めると、真夏の夜のどろんとした湿気が静かに街を包んでいた。



 果たして鯨映画とは何なのか。それは僕が聞きたい。

 鯨が出てくる映画には違いないのだろうけど、ジャンルとして確立しているものでも何でもないし、探しようもない。琳太郎がボヤくのもごもっともだ。

 だがまあ、やはり気になるじゃないか。

 

 自分の名前も帰る家も、素性は何ひとつ思い出せない彼女が憶えている、最後のワンシーン。どんな映画だったのかも気になるし、できるならもう一度観せてあげたい。


 大作だったらお互いに語り尽くそう。くだらないB級映画だったら一緒に笑えばいい。人間と幽霊――生死は違えど、僕らは作品への真摯な思いを持ち寄れる唯一の映画友達なのだから。

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