第61話
思わずアシルはソファから勢いよく立ち上がった。
慌てる彼とは対照的に、アリーチェは泰然としている。
アシルは彼女の覚悟が決まったその瞳を見て思わず奥歯を噛み締めた。
アリーチェなら一切の躊躇もしないと分かる。
父親がそうだったように、生粋の愛国者なのだ。
「……早まった真似はしないでください」
そんなありふれた言葉しかかけられない自分に嫌気がさす。
「ふっ、それはお前が話す内容次第だ。何が起こっているのか、包み隠さず全てを話せ」
「……分かりました」
再びソファに座ったアシルは屍霊四将ヴラドがまだ生存している事を明かした。
あの吸血鬼の
「……なるほど。血が本体、か」
グラスに入ったワインを揺らしながら、アリーチェが僅かに憂いを帯びた表情でため息を吐いた。
「では、恐らくヴラドが取り憑いているのは私だ」
「……!」
「あの化け物は私を踏み付けながら血を流した。その血は恐らく私の背中にあった傷から体内に入っただろう。なるほど、万が一を想定してこの私というスペアを用意したわけか」
用意周到な奴だ。
そう呟き、自嘲するように笑みを浮かべ、ワインを一口飲むアリーチェ。
「いよいよ星宝剣の出番か」
立ち上がろうとしたアリーチェの腕をアシルは力強く握り、静止させる。
「団長、待ってくださいッ。その話が本当だとして、まだ貴方はヴラドに乗っ取られている気配がありません。恐らくは時間がかかるんです。完全に身体の支配権を得るためには」
「……馬鹿か、だからこそ猶更今始末すべきだろう。グランツとお前は特に顔見知りでもなんでもなかった。だからお前は殺せた。言ってしまえば、情がないから始末できた」
「……」
「勇者は……フレンはヴラドに乗っ取られたグランツを殺せなかった。恐らくは私の事も殺せないだろう。お前は私を殺せるか?」
「……俺は……ロイを殺しました。可能かどうかで言えば、俺は……」
「声が震えているぞ。できたとしても、お前は傷つくだろう。だから言っているんだ、この手を離せ」
「団長……俺は諦めたくない。ロイはアンデッドになった時点で人の心を失いました。でも、団長はまだ団長のままだ」
「……しかしどんな案があるというんだ。今、手を下さなかったら折角救ったこの城塞都市で多くの血が流れる事になるんだぞ」
「分かっていますよ。それでも諦められないから言っているんです。だって……だってやっと会えたんですよ……そう簡単に諦められると思いますか?」
「……アシル……」
アリーチェが僅かに目を丸くし、くすりと笑った。
それから表情を隠すように目頭を揉みこみながら、
「お前が私の事をそれほど強く想っていたとはな。姫様が聞いたら嫉妬するのではないか?」
「……茶化さないでください。こっちは気が気じゃないんですよ、今この瞬間さえも」
「……」
アシルが握っていたアリーチェの腕をゆっくりと離した。
「……もう少しだけ時間を下さい。限界まで足掻きたい。ここで手を尽くさないと絶対後悔する羽目になると思うんです。だから――」
「……分かった。良いだろう」
「……早まった真似はしないと、信じますよ?」
「ああ、その代わり乗っ取られたらお前が私をすぐに殺すんだ。良いな?」
「……」
「返事は?」
「……はい」
「よし」
鷹揚に頷き、長い足を組み替えて微笑むアリーチェにアシルは僅かに逡巡しながら拳を握った。
「……では」
「ああ、時間は有限なんだ。早く行け」
眉根を八の字にしてこちらを見つめる彼の眼差しにアリーチェは胸が締め付けられる思いだった。
だが、それを表情には出さず、あくまで平静を装って発破をかける。
吸血鬼になっても変わらない優しさを見せる彼にアリーチェも嬉しさを覚えてならない。
彼が部屋を出ていき、完全に足音が遠ざかった事を確認して。
アリーチェは立ち上がって早々、ベッドに立てかけてある愛剣――星宝剣アルテナを抜き放った。
「……済まんな」
アリーチェは嘘をついた事を素直に詫びた。
「お前と話していると覚悟が鈍るんだ。だからこれ以上、言葉を交わす前に潔く死ぬ。それが最善だと……お前だって分かっているはずだ」
後悔したくない。彼はそう口にしてアリーチェが自害する事を阻んだ。まだ手があるはずだとそう言って。
だがアリーチェだって同じ事だ。
肉体や精神を乗っ取られたら最後、彼が自分を殺して傷つく羽目になるのは分かりきっている。
(私も後悔したくないんだ)
目を閉じたアリーチェが手に持った愛剣を自らの首に添える。
そして父と同様に一切の躊躇も見せずに剣を突き立てようとして、
「……⁉」
急に言うことをきかなくなった身体に思わず冷や汗が背に滲む。
『待つのだ、アリーチェ』
脳内に直接響くその声の持ち主をアリーチェは知っている。
「……お、お前は……ヴラドなのか……」
『そうだ。今まで黙っていたのはお前を通してあの吸血鬼が何者なのかを探っていたのだ』
「何……?」
『幸いお前はアレとは知り合いだった。元々は王国の副兵士長か。魔物になって随分と強くなったものだ』
「貴様……どうするつもりだ」
『……このまま挑んでも勝ち目はない。不意をつけば勝てるかもしれんが、我は慎重なのだ。万全を期すために、アレの種族を都市中に広めてやる』
アリーチェは戦慄した。
そんな事をしたらどうなるか。
己のうちに宿る吸血鬼を今すぐ滅ぼさなければ。
だが、意思に反して身体がぴくりとも動かない。
「真正面から戦え……卑怯だぞッ!」
『ふん、戦争に卑怯もクソもない。勝てば良いのだ。勇者フレンは間違いなくアレを始末しようとするはずだ。殺し合いを始めたところで、隙をついて二人を殺す。お前の身体を使わせて貰うぞ!』
その瞬間、意識が徐々に薄くなり始めた。何かに自分という存在を塗り潰される、度し難い感覚。
折角英雄になったのに! アイツを苦しめないでくれ!
嫌悪と恐怖に支配されながら、彼女は一人の青年の行く末に声を上げた。
だが、それは誰にも届かない。
アリーチェは最後に、完全なる闇の中に沈む夢を見た。
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