第38話



 一定間隔で流れる子気味いい虫の鳴き声。


 清涼感溢れる風で木々が揺れる音。

 その二つが断続的に耳に届いた。


 意識が段々とはっきりしていく。


 同時に喉が焼けるような飢餓感を蘇ってきて、アシルは僅かに目を開ける。


(……意識飛んでいたのか? いや、というか……)


 何度か瞬きをしてすぐに気付いた。


 ぼやけた視界に映る桜色の髪の美少女の姿を。


「あ、気付いた」


 眉根を八の字にしながら心配したよとでも言うように唇を尖らせ、覗き込んでくる。


 頭の上にあるあたたかな感触。

 髪を梳かれながら、優しく頭を撫でられている。


 それから後頭部を包むしなやかさを残しつつ絶妙に柔らかなこの感触。

 間違いない。


(……膝枕されて、る⁉)


 地べたにサフィア姫は躊躇なく座っている。

 その膝に自分の頭が乗っているというとんでもなく不敬な状況だ。


 慌ててアシルは起き上がる。


「ひ、姫様……」


「アシル……」


 二人は向かい合った。


 サフィア姫は王都が陥落したあの時の姿のままだ。

 瞳に涙が溜まり、目元を赤く腫らしている。


「久しぶり……だね」


「……はい」


「ここまであたしを運んで、急に倒れちゃったから……心配したんだよ?」


 言われて、辺りに視線を配る。


 ざわざわと風に吹かれて木が揺れていた。

 側には透き通っている泉がある。


 水中には魚がふよふよと泳いでおり、水上には仄かに光る虫達の群れが浮いていた。


 記憶の端にその風景が引っかかる。


 恐らくここは王都近くにある森の中だ。


「随分……顔変わったね?」


「……あ」


 アシルは自分の頬に触れる。

 吸血鬼になった影響だろうか。生前の面影はあるが、ぱっと見では知り合いでも分からない可能性はある。


「肌の色も変わっちゃった」


「……っ」


 サフィア姫の視線から恥じるように俯く。


「牙も生えてる」


 無言で唇を引き結ぶ。


「でもこの鮮やかな髪色は変わってない。真っ赤な髪。だからアシルだってすぐに分かったよ」


 そうサフィア姫は続けた。


「……隠さなくて良いの」

 

 サフィア姫の手が俯き続けていたアシルの頬に置かれる。

 目を見張る。

 

 目の前の少女は小首を傾げ、笑みを浮かべていた。


「どんな姿になっても、アシルはアシルだった。それが全てだよ。この姿はアシルがいっぱい頑張った証拠だもんね。あたしが捕まってから、いっぱい戦ってきたんだろうね。苦労……いっぱいしたんだろうね」


 まるで全部見てきたように瞳を細め、サフィア姫は慈しむようにアシルの真紅の髪を撫でた。


「いや……頑張ってなんか……当然のことをしたまでで……俺はあの日何もできなかったからっ」


「……ずっとずっと、辛かったんだね?」


「姫様のほうがずっと……とにかく俺はこんな姿になってでも貴方を救いたかったっ」


 同時に、


「謝りたかった。約束したのに何もできなかった自分が許せなかった。だから……貴方に責め立てて欲しかったっ」


 そう顔を背けて呟くと、サフィア姫はきょとんとした表情になってくすっと小さく口元を覆って笑った。


「なんで責めなきゃならないの。こうして助けてくれたじゃん」


「……それは結果論です。もし俺がアンデッドとして蘇っていなかったら……生前の精神を継いでなかったら」


「それこそたらればだよ。あたしは思うんだ。やっぱり……運命ってあったんだって。あたしが決めた勇者様は……貴方だった」


「……姫様」


「アシル、英雄譚好きだったよね?」


 突然の話題の変移にアシルは眼を丸くする。


「……ま、まあまあですかね」


「嘘。大好きだったでしょ。英雄は姫君を救った後、国から報酬をいっぱい貰うんだよ」


 アシルは意図が読めず、首を捻る。


「でも国は……今は何もあげられない。だから報酬は……」


 サフィア姫が自らの桜色の髪を耳にかけ、真っ白な首筋を晒す。


 その瞬間、抗えない衝動が身体を突き動かす。


「吸血鬼にとってのご褒美。あたしを抱えて走っていた時から、ずっと辛そうだったよ」


「……や、やめて、ください、俺は――」


「大丈夫」


 サフィア姫がおずおずとアシルの身体に寄りかかる。

 背中を優しく労うように撫でる。


「そのままじゃあ、アシル。お腹が減って死んじゃうよ?」


「……ぐッ」


「さ、早く」


 故意なのかどうかは分からないが、サフィア姫の息が耳に吹きかかってアシルは思わず彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。


 もう抑えがきかない。


 彼女の首筋に己の犬歯を近づけ、ゆっくりと噛んだ。


「――んぅ……」


 鼻にかかった声が耳に届く。


「……こ、こんな感じ、なんだ……もっと痛いと……はぁ、んぅ……」

 

 その甘い嬌声も相まって、アシルの理性はどこかへ消えた。


 月の光が、二人の再会を祝福するように照らしている。

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