天使と悪魔 4



『オリビアは僕と一緒にいて、つまらなくはないのですか?』


 それはオリビアとカシアンが知り合って一年目のある夏の日のことだった。突然投げかけられたカシアンの質問に、オリビアは意図が分からず首を傾げた。


『?つまらないと思ったことは一度もないわ。どうしてそんなことを言うの?』

『僕と一緒にいるのはつまらないと、他の人たちが陰で話しているを聞いたことがあります』

『えぇっ!?誰がそんなこと言ったのよ!私が懲らしめてきてあげる!』


 自分の婚約者への失礼な物言いに、オリビアは怒った。しかし当の本人であるカシアンは当然だと言いたげに首を振る。寧ろ、そんな反応をするオリビアの方がカシアンにとっては〝異質〟だった。


『いいんです、だって事実ですから。……僕はすぐに泣いてしまうし、誰かと話す時に面白いことも言えないので』

『まぁ、そんなことが重要なの?カシアンが泣いてしまうのは、それだけ自分の感情に素直になれるってことでしょう。面白い話は出来なくても、カシアンは外国語を何カ国も話せたり、他の人にはない武器を持っているじゃない!』


 カシアンは驚いた。今まで自分の短所でしかないと思っていた部分が、オリビアのたった言葉一つで長所のように変えられたのだから。


『でも、このくらい誰でも……』

『そんなわけないわ!私なんて一カ国話すのがやっとだもの』

『それは初耳ね。まさかオリビアにそんな教養があっただなんて』


 自信満々に胸を張っていたオリビアの上に影がかかる。カトリーナの登場に、オリビアは肩を跳ねさせ勢いよく振り向いた。


『お、お母様……!いつからいたの!?』

『今さっきよ。ところで、貴女が外国語を話せるだなんて初耳だけれど……カシアン様の前で見栄を張ってるんじゃないでしょうね』


 全く信用されていない物言いにオリビアは不満を隠せず、唇を尖らせながら言い返した。


『失礼しちゃうわ!ちゃんと話せるわよ。“初めまして”“こんにちは”ほらね』

『あら、ほんとね。凄いじゃない。それで、他には何て言えるのかしら』

『うふふ』

『……まさかその二言だけじゃないでしょうね?っあ、待ちなさい、オリビア!』


 オリビアはカシアンの手を引っ張り、カトリーナから逃げ出した。後ろから引き留める声が聞こえたけれど、気にせず走る。

 この時カシアンまで逃げる必要はなかったけれど、繋がれた手をカシアンは離したくなかった。


『はぁ、戻るのが怖いわ』


 逃げて笑って、オリビアは冷静になる。後からまた小言を聞くであろう未来を思えば、戻りたくなかった。カシアンは走り慣れていないのか、息を整えるのに忙しそうだ。


『ねぇカシアン、無理に変わろうとしなくてもいいの。私は今の貴方が好きよ』


 眩しく光る太陽の下で、オリビアは笑った。




 ***




(――あの日から、俺は)


 何も欲しいと思ったことがないカシアンが、自ら求めた唯一。カシアンにとって、オリビアが世界の全てだった。


 彼女の為なら猫をいくらでも被れたし、自分を偽れた。それで彼女の傍に居れることができるのならば安いものだった。

 それなのに、最近になってオリビアの様子が急におかしくなった。カシアンを突き放そうとしたり、今まで興味も示さなかった聖下が見たいと言ったり。


「……オリビア」


 もう辺りは暗い。そろそろ祝福祭最後の花火が打ち上がるところだった。時計台で待ち続けてもうどれくらいの時間が経っただろうか。左手首にはオリビアの瞳と同じ色のブレスレットが、神殿から配られたもうひとつの装飾に重り、輝いていた。


(オリビアが俺を好きになってくれますように。そう毎年願っていたと言えば笑われるだろうか)


 こんなのに縋ってしまうくらい必死な自分がみっともなくて、金色の装飾を見下ろしながら嘲笑する。

 ふと、ブレスレットの横に残っている小さな引っかき跡が目に入った。あの時、無理にでもブレスレットを奪うべきだったのに。一瞬だけ、あの猫の目が彼女の瞳と重なり、ためらって逃がしてしまった。


 時計台で一人立ち尽くすカシアンの前を、恋人たちが手を繋ぎ、通り過ぎていく。結局いくら走り回っても、オリビアを見つけることはできなかった。今彼女はどこにいて、無事なのかと考えるだけで不安に押し潰されそうだった。


(やはり公爵家に戻り、騎士たちに捜索してもらおうか)


 これまで何度も考えたことだ。本当ならばすぐにでもそうするのが正しいと頭では理解しているのに。

 それができずにいるのは、すれ違いで彼女がこの場所に来るかもしれないという希望を捨てきれないからだ。


「見て、ママ!」

「綺麗ね〜」


 花火が上がり、顔が照らされる。近くにいた子供が空を指差しながら笑う。

 カシアンはぼんやりした思考の中、一人空を見上げた。



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