綺麗な花には棘がある 3
「……ビア……――オリビア!」
「うぅん……兄様うるさい……」
耳元で大きな声が響いている。オリビアは眉を顰めて苦情を口にした。
「オリビア!なんで俺の部屋で寝ているんだ!?いや、それよりも俺の猫がここに居たはずなんだが、見ていないか!?」
(兄様のではないわ……)
肩を揺さぶられながらオリビアは心の中で否定した。瞼を開いた先には、いつもと変わらない風景が広がっている。持ち上げた手も、動く足も、頬を擽る髪の毛も、いつの間にか元に戻っていた。
「おーい、どこに行ったんだ?ご飯だぞ〜?」
レナートが部屋を見渡しながら、もう居ない猫に向かって呼びかける。テーブルやベッドの下まで隅々と探している様子を見ていると、オリビアはなんだが罪悪感を感じてしまった。
(あの猫は私だって兄様に言うべき?でも猫になっていただなんて、いくら単純な兄様でも信じてくれるかしら……)
もしかしたら「オリビアの頭がおかしくなった!」と言って、医者を呼ばれてしまうかもしれない。未だに猫を探しているレナートを気の毒に思いつつも、オリビアは一旦は胸の内に留めておくことにした。
「オリビア様!ここにいらっしゃったのですか!?」
ソファから起き上がったと同時に、アンナが飛び込んできて「何故レナート様のお部屋に!?ずっと探していたのですよ!」と詰め寄られた。急に消えたのだから驚くのも無理はない。オリビアは素直に謝罪を口にした。
「ごめんなさい、どうやら寝ていたみたい」
「カシアン様がずっとお待ちでいらっしゃいますよ……!もうっ、髪もぐちゃぐちゃじゃないですか!すぐにお直しいたしますので、一度お部屋にお戻りください」
「……分かったわ」
カシアンに会うのは気が進まなかったけれど、約束を放り出すわけにもいかずオリビアは渋々と頷いた。部屋を出る直前にもレナートは猫を探していたが、オリビアはカシアンのことで頭の中がいっぱいで、兄を気にしている余裕はなかった。
(やっぱりあれは夢じゃなかったのね)
猫になったことは勿論、初めて目にするカシアンの姿にオリビアはかなりの衝撃を受けていた。アンナに髪を梳かしてもらいながら、オリビアは婚約者の冷たい瞳を思い出す。
(あの時……カシアンは本気で私を殺そうとしていたわ)
レナートが来なければ確実に命はなかっただろう。オリビアが身震いをすると、アンナが心配そうな表情をした。
「オリビア様、もしかして寒いですか?風邪でも引かれたのでは……」
「違うわ、大丈夫よ。髪もありがとう」
「このくらいお安い御用です。さぁでは、今度こそ行きましょう!」
アンナに促されオリビアは苦笑いしつつも足を運ぶ。気が晴れないまま向かった先の温室で、カシアンは薔薇を静かに眺めながら待っていた。
なんと声を掛けようか悩んでいるオリビアよりも先に、カシアンがパッと顔をあげてオリビアを見つけた。
「オリビア!」
カシアンが嬉しそうに破顔させ、オリビアのもとに駆け寄ってくる。先程見た姿とは違う、オリビアの知っているカシアンだった。
「中々来ないので何かあったのではと心配していました」
「大袈裟よ。待たせてしまってごめんなさい。どうやら自分でも知らないうちに寝てしまっていたようなの」
「そうだったのですね。謝る必要はありません。僕はオリビアのことを待つ時間も好きですから」
カシアンはオリビアよりも爵位が高い。本来ならば次期公爵を待たせるだなんて有り得ない事なのに、カシアンは怒るどころか「急いで来てくれてありがとうございます」と感謝してくるから、オリビアの心の中は余計に曇っていく。
初めて目にしたカシアンの姿に衝撃を受け、最初は悲しかった。しかし時間が経ったせいか、次第に怒りが湧いてくる。
(よくよく考えれば、カシアンはずっと私を騙していたって事よね)
もし最初からカシアンの性格が先程のように冷たいものだったとしても、オリビアは気にしなかっただろう。生き物を殺すのは頂けないけど、それでも嫌いになったりはしなかった。だけど今は――正直、カシアンのことが分からない。
一体何故、本性を隠していたのか。政略的な婚姻だから簡単に破棄はできないけど、このまま結婚すると思うと不安だった。
「オリビア、どうかされたのですか……?」
「何でもないわ」
素っ気なく否定したオリビアに、カシアンがシュンっと落ち込む。すぐにでも泣き出してしまいそうなくらい眉を下げて、オリビアを見つめてくる。
オリビアはこの表情に弱く、いつも絆されてしまうのだ。
(今日は絶対、簡単に絆されたりしないんだから)
気を紛らわすように、オリビアは別の話題を持ち出した。
「それで、今日は何か用かしら」
「あっ、はい。来月は祝福祭があるのでそのお誘いに来ました」
毎年行われている祝福祭。神殿に所属する神官たちが、国民の祝福を祈る祭典だ。配られるブレスレットが一年間切れなかったらどんな願いでも叶うとか、祭典の最後に打ち上がる花火を一緒に見た人とはずっと一緒にいられるとか、色々言い伝えがある。
オリビアも毎年カシアンに誘われて行っていた。
(もうそんな時期なのね。行きたくないわけではないけれど……)
オリビアは祭典ごとは好きな方だ。でも今回は、カシアンと二人で行く気分ではなかった。期待するような瞳で見つめてくる視線を避け、オリビアは躊躇いがちに答えた。
「その……今回は他の人と行こうと思うの」
「他の人、ですか……?」
カシアンが衝撃を受けたように固まり、あからさまに落ち込む。その姿からオリビアは必死に目を逸らし、見て見ぬふりする。
(揺れちゃダメよ、オリビア。気をしっかり持つのよ!)
「ええ。だから貴方も他の人と行ってきたらどうかしら」
「ですが僕にはオリビア以外に親しい人はいません……」
「エアハルト公爵家の令息や皇子殿下たちがいるでしょ。いつも貴方に話しかけてくれるじゃない」
「礼儀として話したりはしますが、それ以上でもそれ以下でもありません」
「なら今回から親しくなればいいのよ」
「……」
ついにカシアンが黙り込む。オリビアは自分の勝利を確信した。
(いつも簡単に絆されると思ったら大間違いなんだから)
内心すっきりしながらカシアンの表情を確認して――ぎょっと目を瞠った。カシアンの紫水晶の瞳から、ぽたぽたと涙が零れていたからだ。
「えっ、なにも泣く程じゃないでしょう……!?」
「ぐすっ、ごめんなさい……毎年楽しみにしていた約束が無くなってしまったのが悲しくて。ですがオリビアが僕と行きたくないのでしたら、無理強いするわけにはいきません……」
(ちょっと、断りにくいわね!)
普段ならもうとっくに白旗を上げていたオリビアだが、今日はひと味違う。痛む良心を押さえつけて、心を鬼にした。
「僕は一人でも平気なので、オリビアは楽しんできてくださいね」
「ええ、ありがとう。カシアンもね」
(ふんっ、猫を被っているのはお見通しなのよ。絶対に意見は変えないわ。だから早くその涙は仕舞いなさい)
普段ならば「もうっ、カシアンは泣き虫なんだから」と呆れながらオリビアが涙を拭いてあげる場面だけど、今日はしなかった。代わりにハンカチだけを手渡すと、カシアンの顔が傷ついたようにくしゃりと歪む。
しかしそれも一瞬で、すぐに泣き笑いの表情に戻った。
「……ありがとうございます。僕はオリビアのこういう優しさが大好きなんです」
「ただハンカチを渡しただけだから、気にしなくていいわよ」
(私は、絶対に絆されないわ)
「そんなことありません。一緒に祭典に行けないってだけでみっともなく泣いてしまったのに、呆れずに居てくれて……嬉しいんです。そんな人、オリビア以外いないから」
(絆され……………………)
「オリビア、もし何かあればいつでも呼んでくださいね。僕はずっと家にいるので、すぐに駆けつけます」
「はぁ…………」
オリビアは肩をガックリと落とし、ついに白旗を上げる。もう降参だった。
皆が祝福祭を楽しむ中、一人で家に残るカシアンを想像してしまえば、素直に楽しむことはできそうにない。他の人とは行くつもりがないカシアンが祝福祭を楽しむ方法は一つだけだった。オリビアはヤケクソになりながら叫んだ。
「もうっ、分かったわ!行くわ、行けばいいんでしょ!」
「それって……」
「だからカシアン、祝福祭には貴方と行くってことよ!」
カシアンはぱちくり瞳を瞬かせて、オリビアの手を取る。それから嬉しそうに目元を緩めて、微笑んだ。
「本当ですか?嬉しいです、オリビア。約束ですよ」
何だか罠に嵌められたかのような複雑な気分でオリビアは承諾した。カシアンがあまりにも幸せそうに笑うから、疑心が少しずつ消えていく。
(さっきの姿は、もしかしたらカシアンにも何か事情があったのかもしれないわね。そうよ、理由も分からないのに一方的に突き放したらカシアンが傷付くのも当然だわ)
すっかり絆されているのも気付かないまま、オリビアは心の中で反省する。
お茶を飲み終わりカシアンが帰る頃には、もう危機感は消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます