綺麗な花には棘がある 2




 カシアン・ランティアス――公爵家嫡男で、幼い頃に家同士で決められたオリビアの婚約者だ。所謂、政略的な関係だけれど、それなりにいい関係を築けていたと思う。

 オリビアにとって彼は弟のような、守るべき存在だった。


「オリビア……上手く結べません……」


 カシアンはクラヴァットも自分で結べないくらい不器用で、ネクタイよりリボンの方が似合う男だった。

 瞳を潤ませながら頼まれる度に、オリビアは「仕方ないわね」と言いながらも、よれよれになったタイを直した。


「オリビア、パーティーには必ず行かないといけませんか?」


 カシアンは気弱で引っ込み思案な男だった。人付き合いが苦手で、そんな彼の手をオリビアは「大丈夫よ」と言いながら、いつも引っ張っていた。


「オリビア好きです、大好きです。ずっと僕の側にいてください」


 まるで祈るかのように、カシアンが口にしていた言葉だ。

 オリビアの手を自らの頬へすりっと寄せる姿は小さな子犬のようで。その度に柔らかな金の髪を何度も撫でた。


(はずなんだけれど……悪い夢でも見ているのかしら)


 身体をぶらんっと宙に浮かせたまま、目の前に居るカシアンに視線を向ける。彼は未だに顔を歪めたまま部屋を見渡していた。


「オリビアは一体どこに行ったんだ?」


(ここに居るわ……)


 普段と違う口調に再びショックを受けながら、オリビアは心の中で返事した。先程まで早く人間に戻りたくて仕方なかったのに、今は戻るのが怖い。一先ずはこのままやり過ごそうと決めた。


「早くオリビアを探しに行きたいところだが、その前にコレを始末しておかないと」


(へ?)


 直後、物騒な発言が耳に届いてオリビアは下げていた顔を上げる。カシアンは懐を漁り、短剣を取り出した。


(ちょっ、ちょっと待って!まさかそれで殺すつもりじゃないでしょうね!?)


 オリビアばぎょっと目を剥き、されるがままにぶら下がっていた身体を必死に動かした。


「にゃあああー!」

(嫌あああ!誰か助けて!)


「チッ、騒ぐな。人が来るだろう」


(来てほしいから騒いでるのよ!どこの世界に部屋へ入っただけで、こんな可愛らしい猫を殺す奴が居るわけ!?ああ、居たわね、ここに!)


「……なるほど、剣だと血で汚れるから別の方法がいいってことか?確かに彼女の部屋を汚す訳にはいかない。それなりに気は利くようだな」


「みゃう」

(そんなこと一言も言ってませんけど?)


 オリビアは心の中でカシアンを睨みつつも、反抗せずに頷いた。彼が短剣を懐に戻してくれたからだ。


(良かったわ、これでもう大丈夫……)


「お前のその気配りに免じて、苦しまないよう逝かせてやる」


「にゃああん!!」

(嫌ああああ!!)


 オリビアは力の限り暴れるけれど、腕も足も短すぎて、全くカシアンに届かない。

 自分の婚約者の手にかけられて死ぬだなんて誰が想像できようか。


「おい静かに――」

「ランティアス小公爵様?」


 カシアンの手が顔を覆う。声が出せなくなったオリビアの前に、救世主は現れた。


「みゃあ!」

(兄様……!)


 レナート・ヴェセリー、オリビアの二つ上の兄だった。学園を卒業し、領地に戻っていたはずなのにと疑問が過たけれど、今は気にしている時ではない。

 オリビアは必死でレナートへ助けを求めた。


「にゃにゃっ、にゃあ……!」

(兄様助けて!)


「猫?」

「はい。どうやら迷い込んでしまったようなので、逃がしてあげようと思っていたところでした」


 先程の姿が嘘みたいに、カシアンは天使のような眼差しで慈悲深く微笑んだ。


(な、なんて白々しい嘘を……!兄様騙されないで!)


「そうだな。もしかしたらどこかに親猫も居るかもしれないし、それがいいだろう」

「にゃ!?」


 レナートは同意するように頷く。オリビアは「兄様の馬鹿!」と悪態を付きながら、カシアンの手へ思いっきり噛み付いた。


「……っ」


 カシアンが顔を歪め、力を緩める。オリビアはその隙を逃さずに彼の手からトンッっと軽い足取りで降り立った。


(兄様に媚びを売るのは気が引けるけど、一先ず今はカシアンから離れるのが先よ。このまま殺されるなんて絶対に嫌!)


「にゃあん」


 オリビアはレナートの足元に擦り寄る。潤んだ瞳で、消え入りそうな声の一鳴き。渾身の表情で兄を見上げた。


「クッ……可愛い……っ」


 レナートは胸を掴み蹲る。「兄様が単純な性格で良かった」とオリビアは思った。


「……ははっ、どうやらヴェセリー卿のことがお好きなようですね」

「そう、なのかな?」

「そうですよ。噛まれた僕とは違い、こんなに懐かれているじゃないですか」


(目が笑ってないわよ!)


 嬉しそうなレナートへ、カシアンは微笑ましいといった様子で呟く。

 口角も声色も上がっているはずなのに、目の奥は一切笑っていない。オリビアは恐怖を感じてレナートの足にへばりついた。


「みゃうみゃ、みゃにゃにゃ」

(兄様、私も連れて行って!)


「おお、急にどうしたんだ?腹でも空いたのか?」


「にゃにゃっ、にゃあにゃう、にゃっ」

(全然違うけど、もうそれでいいから早くカシアンから私を引き離して!)


「そうかそうか。すぐに用意してやるからな。ランティアス小公爵様、この子猫は私が引き取ってもいいだろうか?親猫もこちらで探してみよう」

「分かりました、ではお願いします。……でも少し残念ですね」


(まさかとは思うけど、私を殺せなくて残念だって意味じゃないわよね!?)


「ははは、こんなに愛らしい子だ。そう思うのも無理はない。そういえば、オリビアは今どこに?」

「あ……それが、迎えに来たところ、今は不在なようでした。すれ違いになったかもしれないので、一度戻ってみようと思います」


 カシアンは頭を下げてから、来た道を引き返した。離れていく背中に私は一気に力が抜けていく。


「さあ、俺たちも行こう」


 レナートが足に張り付いたオリビアを優しく持ちあげる。


(安心したからかしら。急に眠気が……)


 ゆりかごのような懐に抱かれながら、オリビアは静かに目を閉じた。




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