歪められた社 捌
2-ⅩⅦ
藍子は
「何て数なの…。」
藍子の張った障壁が目の前でビリビリ震えている。
冬花との距離が近すぎて、障壁を張るのが精一杯だった。
後ろをチラッと見ると、翠が斎木達を庇いながら怨霊と戦っていた。龍牙力の宿った聖剣・正宗を縦に横に振るい、怨霊を切り裂いていく。
斎木は相変わらず気を失ったままだが、前田はしっかり意識を保ち、周囲を見回していた。
「藍子姉!」
翠が藍子に呼び掛ける。
絶えることなく溢れてくる怨霊に、さすがの藍子も少し押されていた。
「黎と合流して2人を預けてくるわ! んで、上にあるやつを処分してくる!!」
翠は目の前に迫ってきた怨霊を切り伏せ、続け様に冬花に向けて龍牙力の塊を放つ。龍牙力の塊は冬花をふらつかせ、怨霊の動きが鈍くなる。
その隙に藍子は冬花と距離を置き、体勢を立て直した。
「ありがと、翠ちゃん。」
翠は前田を立たせると、その背中に斎木を背負わせた。
「気をつけてね、藍子姉。」
翠は藍子に軽く手を振って、来た道を戻っていく。
「確かに、上にあるパネルを何とかすれば、怨霊達の勢いを止められるかもしれませんね。」
吹き抜けの天井を見上げる藍子の前で、冬花がゆっくりと浮かび上がった。
「冬花さま…。」
藍子は右手を持ち上げ、冬花に手のひらを向ける。
「まだ邪魔をする気かの?」
冬花は鋭い目で藍子を射竦めようとするが、藍子に怯む様子はない。
普段、温和に見える藍子だが、退魔師長に就任する妹の紫よりもはるかに場数を踏んでいる。冬花の威嚇程度では、怖気づくはずもなかった。
「落ち着いて下さい、冬花さま。わたしがすぐに癒してさし上げます。」
前に突き出した右手のひらの前に、水色の光が集まりだす。
「我ら神の眷属に逆らう気か?」
「あなたが、怨念に取り込まれていなければ逆らったりはしません。」
手のひらに集まった聖龍牙力は、その光を強めだす。
「元の優しい冬花さまに戻ってください。」
―聖なる龍牙よ
優しき心を 癒し給へ―
水色の光が宙に浮いている冬花に伸びていく。
冬花に避ける気配は見えない。
「…冬花さま?」
藍子は少し動揺し、詠唱が遅れる。
「!」
冬花はその隙を見逃さず、突如、藍子に向けて突進してきた。
―神修道法術
慌てて詠唱を完成させるが、冬花は素早い動きで体を捻り、清光龍を軽く避ける。
「くっ!?」
藍子は右手を振り払って、清光龍を霧散させ、眼前に迫ってきた冬花を寸でのところでかわした。しかし、完全にはかわしきれず、その白い右頬に紅い線が一筋、刻まれる。
「まだまだ甘いの。」
冬花は間髪入れず、右前足で藍子に襲い掛かる。藍子も、振り向きざまに障壁を張り、冬花の一撃を受け止める。
「ちぃっ!?」
冬花は障壁との接触で、足の毛が焦げるのを見て後ろに飛び退く。
今度は藍子が攻勢に出る。
右の人差し指に聖龍牙力を集中させて、冬花に向けて突き出す。
すると聖龍牙力が眩く輝き、冬花の視界を塞ぐ。
その隙に藍子は、冬花の懐に飛び込んで、右手のひらを冬花の腹部に当てる。
―神修道法術 清光龍―
先ほど失敗した術をゼロ距離で発動させる。
冬花と藍子の手のひらの間に、聖龍牙力が溢れ出し、その光はそのまま冬花を包み込み始めた。
「っく……っ!?」
冬花は清光龍を振り払おうと、体をくねらせながら後ずさる。
「逃しませんっ!」
藍子は手のひらから伸びる聖龍牙力の光を掴んで、引き寄せる。
「邪魔をするでないっ!!」
冬花が大声で吼えると、冬花の体を包んでいた清光龍が弾け飛んでしまった。
「そんなっ!?」
藍子は反動で後ろによろけ、たたらを踏む。体勢を立て直して冬花を見ると、その体から、再び無数の怨霊が飛び出してきていた。
「冬花さま! あなたはいったいどれだけの怨霊を、その内に溜め込んでいるのですか!?」
藍子は冬花との距離をとりながら、声を荒げる。襲い掛かってくる怨霊を、障壁で弾き飛ばしながら、冬花の動向を見守る。
「浄化し続けるのも、限界があるのじゃよ。浄化できなければ喰らうしかなかろう?」
冬花はそうやって、神社に巣食う怨霊を封じてきていた。暴走した母親の霊の怨念に引きずり込まれてもおかしくはない状態だった。
「随分、無茶をしたのですね。でも、もう終わりです。」
藍子は全てを包み込むような優しい笑顔を、冬花に向けた。
藍子の周りには、いつの間にか清浄な光が溢れていた。その光に触れた怨霊は、為す術もなく浄化されていく。
それは藍子の内から溢れだす神力だった。
「…お主、何故、その身に神力を宿せる。」
神でも、ましてや神の眷属でもないただの人に、神力が使えるわけがなかった。
「わたしは巫女です。神をこの身に降ろすこともあります。」
神降ろしにより、その体内には、僅かだがその神の力が体内に残る。藍子はその力を、溜め込んできたのである。
浄化の力は、聖邪ともに使える龍牙力よりも、神聖な力に充ちている神力の方が大きい。
龍牙力は術者が力のベクトルを変更して初めて浄化の力となるが、神力はただそこにあるだけで浄化の力を発揮する。
「わたし自身の力ではないので、留めて置くのは大変ですけど、このように役に立つこともあります。」
右手のひらに金色の光を集めながら、藍子は冬花を見据えた。
「冬花さまに、浄化の力が無くなってしまったのなら、わたしがこの力であなたに巣食う怨霊を浄化して差し上げます!」
龍牙力では見ることの出来ない、金色の光は正しく神力。
今までにどれだけの神をその身に降ろしてきたのか、その力はどんどん藍子の体から溢れ出てくる。
周囲が金色の光で照らしだされる。
冥く澱んでいた空気が清められ、溢れていた怨霊も苦悶に満ちた顔を安らかな表情に変えて、次々に浄化されていく。
「この力で、母親を癒すつもりでしたが、まさかあなたに使う事になるなんて!?」
藍子は驚愕の表情を浮かべて立ち竦む冬花に向けて、神力を解き放った。
使い慣れない力の制御に、藍子は脂汗が浮かんでくるのを感じた。下手をすれば、神力に自分の命が引きずられそうになる感覚に焦りを覚えるが、負けるわけには行かない。
気を引き締め、足を肩幅に開いて腰を据えて、力の制御に集中する。
冬花がどうなっているかなど、今の藍子には気にする余裕がなくなっていた。
2-ⅩⅧ
翠達が怨霊を掻い潜って綾子達と合流した時、周囲が金色の光で照らし出された。
「何だこれは?」
光に触れた怨霊が次々と浄化されていく。
「これって、龍牙力じゃないよね?」
翠が初めて感じるこの力は、極めて清浄な気配を漂わせていた。
「気持ちいい。」
綾子が光を浴びて、清々しい笑顔になる。
「これは神力だな。」
この中で、唯一、神に関わった経験を持つ黎が呟いた。
前田は、背負っていた斎木を、綾子達が座っていたベンチに寝かせる。
「冬花さまが正気に戻ったとか?」
翠が明るく言った。
「違うことぐれぇ、解ってんだろ?」
黎が妙に冷めた風に言う。
「ま、怨霊が消えていいんじゃねぇか?」
周囲を見回す黎に釣られて、綾子たちも顔を上げると、怨霊が浄化されていっていた。
「本当、消えていってる。」
綾子と明羽は、恐ろしい顔をした怨霊の表情が、安らかになって消えていく様に、感心しているようだった。
「これで終わるの?」
その綾子の問いに、翠は首を横に振って答える。
「まだよ。肝心の親子の霊が残っているわ。」
冬花がこれで元に戻るかも解らない。まだまだ油断のできる状況ではない。
「それより、早く行け!上にあるパネルの力が利用される前に、消滅させて来い!!」
今ならまだ、影響を与えているぐらいで、それほど問題はない。だが、力を失えば、新たな力を求めるのは、世の常である。
「あの古狐が正気に戻らねぇのなら、当然、狙ってくるだろうよ。」
力の戻った今の翠なら、写真展の会場のある6階にはすぐに辿り着けるだろう。
翠は手にした正宗を軽くさすっている。
「…どうした?」
正宗を見る翠の顔が曇って見えた。
「…何でもない。行くわ。」
正宗を横に一閃して、翠は目的地を見定めて、エスカレータに向かって走りだした。
「み~ちゃんっ!?」
綾子が心配そうな声で呼び掛けた。
その声に、翠は大きく手を振って答えた。
エスカレータから、2階に駆け上がった翠は、不思議な感覚を感じた。
周囲を見渡すと、辺りは薄暗く静まり返っている。それまで溢れていた神力が突如、途切れていた。
吹き抜けから下を見下ろすと、藍子の体が金色に輝いているのが見えた。
手前には、固まっているかのような冬花も見て取れる。
吹き抜けである以上、2階にも神力が届くはずなのに、何かに仕切られているかのように、まったく届いていなかった。
「何?」
あまりに不自然なこの状況に、翠は警戒を強め、周囲の気配を探る。
「何も感じない。」
また力が使えなくなったのかと不安になりかけるが、階下からはみんなの気配が、階上からもパネルに宿る自分の力が感じられる。となると、考えられることは、翠に感じられないほど、気配を絶つことが出来るモノが、存在しているということ。
藍子や黎も気が付いている様子は見受けられなかった。百戦錬磨の2人すらも欺ける存在。
翠は正宗を持つ手に力を込める。
階下で繰り広げられている戦いの音は、どんなに耳を澄ましても、何も聞こえて来ない。
この階にあるのは、静寂だけ―。
明らかに、ここは誰かの結界の中である。
取り敢えず、翠は上に向かうことにした。このままここに留まって居たのでは、藍子に迷惑をかけるかもしれない。階下の音や力は通らないが、階下から逃れてきた怨霊が辺りを彷徨っている。
つまり、動けるようになった冬花が、上にある翠の力の残滓を奪いに上がってきても可笑しくはない。
正体が解らないのなら、今は突き進むのみ。翠は、躊躇なく階上に続くエスカレータを駆け上がり始めた。
下から逃れてきた怨霊が、翠を見つけて襲い掛かってくるが、束になってかかって来なければ、大した事はない。
翠は正宗で怨霊を切り裂いて先に進んでいく。
3階を越え、4階に差し掛かったとき、翠は危険を感じて大きく飛び上がった。そのまま、4階の踊り場に着地する。
振り向くと、エスカレータの前に、人影を見つけることが出来た。
「…誰?」
その手には、刀が握られているようである。敵意は感じるものの、それが誰のものかは解らない。巧妙に隠されているようである。
「やるわね。さすが、龍牙の申し子。」
翠はその声に聞き覚えがあった。
「その声、もしかして香織さん?」
「どういうこと? 手を退くんじゃなかったの?」
香織からは強烈な敵意を感じる。
昼間、闘ったときよりもその意志は強く、翠の全身に鳥肌が立っていた。
「…
香織の傍には、雷應の姿は見当たらない。
ただでさえ、冴種は、気配を絶つ紋章の効果で感じ取り難い。その上、自ら気配を絶ってしまえば、先程までの香織のように、完全に気配を消してしまえる。物理攻撃に個人結界は効かない。
もし、香織が敵意を剥き出しにして襲って来なければ、翠はエスカレータの前で切り殺されていただろう。
「雷鷹は、居ないわ。あの子の中途半端な結界じゃ、あなた達は誤魔化せないでしょうから、隠れ家に置いて来たわ。」
香織の敵意は、今や完全に翠の心を支配していた。
「何故、こんなことするの?」
翠は体が震えそうになるのを、必死で堪えた。
「あなたの力を試してみたくなったの。」
「…試す…?」
さっきの攻撃は本気だった。本気で翠を殺そうとしているようだった。とても試しているようには思えない。
「悪いけど、あなたにかまっている場合じゃないの。」
ここから、下の様子は解らない。
だが、下から逃れてくる怨霊が後を絶たないところを見ると、まだ戦いが続いているのは確実だろう。
「あの狐は、どれだけ怨霊を呑み込んでいたのかしらね?」
香織は、うざったそうに怨霊を斬り捨てながら呟いた。
「全部、承知の上ってわけね…。」
翠は正宗を体の前に構え直して、戦闘体勢を整える。
「本気でやらないと、今度は死ぬよ。」
次の瞬間、香織は一気に間合いを詰めて、刃を振り下ろした。
翠は正宗で受け止めるが、勢いを殺しきれずに、片膝を突きそうになる。
更に、翠の耳に嫌な音が届く。
「~っ!?」
音の出所は正宗の刃。見ると、結び合ったところに小さなヒビが見て取れた。
「あなたに、その刀は役不足のようね。」
香織は、刀に力を込めて押し出す。正宗のヒビが大きくなっていく。
「くっ!? そ、そんなこと…ないっ!!」
翠は正宗に力を注ぎ込んで、香織の刀を弾き返した。
翠の力を注がれた正宗は、その刃を水色に輝かせて、ひび割れていた箇所も修復されているようだった。
「この子は、私の相棒よ。ずっと一緒に戦ってきたんだから!」
翠の言葉に答えるように、正宗が一際強く輝きだした。
「なんと言おうと、どんなに誤魔化そうと、その刀ではあなたの力を支えきれないのよっ!!」
再び踏み込んできた香織の刃を、翠は後ろに飛び退いて交わす。そのまま足を折りたたんで、その反動を利用して、正宗を香織に向かって突き出したが、横にヒラリと交わされた。
翠は空いている右手で床を叩き、天井近くまで大きく飛び上がった。
正宗を両手で持ち直し、香織の頭めがけて振り下ろす。
だが、そんな大きな動きでは当然、香織に動きを読まれ、この一撃も避けられてしまう。
更に香織は、即座に刀を横に薙いで、翠の首を狙う。翠は正宗でその刃を受け止める。
水色に輝く刃はその攻撃を弾き返し、香織はよろけて手摺りまで後退した。
「ふぅん…。」
香織は、刃の露を払うように一振りした。
2-ⅩⅨ
「み~ちゃん?」
金色の光が徐々に薄らぎはじめた頃、綾子は階上を見上げて小さく呟いた。
「どうした?」
その呟きを大きな耳で聞き取った黎は、綾子と明羽が心配そうに上を見上げているのに気が付いた。
「黎さん、上から冴種の気配がします。」
力が封じられているとはいえ、冴種から逃げ回るのに、気配は重要な指標である。明羽はここにきてから、僅かな気配も逃すまいと感覚を広げていた。
先ほどまでは、怨霊の気配に圧倒されていたが、今は神力のおかげで余裕を取り戻していた。
「…上にいるのか?」
黎も二人に習って階上を見上げるが、黎の感覚では気配を察知できなかった。
だが、翠が何者かと闘っていることだけは解った。
「俺としたことが…。」
周囲に気をとられて、主のことに気が付かなかった黎は、拳を握り締めた。
「行って来る。結界から出るんじゃねぇぞ。」
黎は振り返って短く言うと、翠の気配のする方向に向けてジャンプをした。
だが、黎の体は天井近くで弾き返され、床に叩き付けられてしまった。
「な、何?」
驚愕する黎の目の前に、ぼんやりと人影が現れた。
綾子達は目を眇めてみるが、はっきりしない。
「行かせない。」
人影が一言、言葉を発した。その声は、高く澄んでいたが、棘を感じさせる。
「ま、また何か出てきたのか?」
前田がベンチの後ろに身を隠すように屈む。
「貴様、何者だ?」
一切気配を感じさせずに、黎の動きを阻止できる存在。
「……。」
人影は何も答えない。
「テメェの差し金かっ!?」
不穏な気配を揺らめかせて静かに佇む影に、黎は声を荒げる。
「哀しいねぇ。私の声と気配を忘れてしまったのかい?」
ぼんやりとした人影が、霧が晴れるように次第に陰影がはっきりしてきた。
黎は、何の事かと目を細めて、相手の出方に備えた。
現れたのは、黒い艶のある衣服に身を包んだ女性。その髪と瞳は、燃え盛る炎のように、真っ赤に煌いている。
「貴様、紅蓮か…?」
黎は、低い声で呟いた。
「知り合いなの?」
明羽は、綾子を後ろに押しやりながら、黎に聞いた。
「ああ、遥か昔のな…。」
「昔だなんて、私は今も、あなたをお慕い申し上げているのに…。」
紅蓮と呼ばれた女性は、厳かに膝を折って頭を垂れる。
「よく言う。魔界を抜けた俺を真っ先に攻撃してきたのは、テメェだろうが。」
黎は、右手に影響力を集中させ始めた。
「――数百年経っても、お戻りになる気はないと…。」
不穏だけれど、静かだった紅蓮の気配に変化が生じた。
「神に焚き付けといて悪ぃが、ここが今の俺の居場所なんでな。」
先に仕掛けたのは黎だった。
影響力で紫色に光る拳を突き出すと、光は大きく広がり、紅蓮を包み込んでしまう。だが、紅蓮は全く動じる様子も無く、右手を前に翳した。
すると、黎の発した紫の光は紅蓮の右手のひらの前に凝縮し始めた。そのまま、手のひら大の小さな光の玉となってしまった。
「龍鬼様、このような術では、物足りませぬ。力は魂、魂は力。私の許容量を越えなければ、どのような力も、私には通じぬこと、お忘れかい?」
紅蓮は魔族である。にもかかわらず、藍子の放つ神力が溢れているこの場に平気で立っている。
「物理的な力なら、問題ねぇっ!!」
黎はそう言うが早いか、一気に紅蓮との間合いを詰めて、下から抉るように紅蓮の腹部めがけて拳を繰り出した。しかしその拳は、紅蓮にあたる寸前でピタリと止まった。
「な…に…?」
黎は即座に後ろに飛んで、紅蓮との距離を開ける。
「龍鬼様、私も以前のままではないのだよ。」
紅蓮は紫の光の玉を、黎に向けて投げた。玉は、再び大きく広がり、今度は黎がその光に包まれてしまった。黎は体を大きく捻り、光を霧散させる。
「龍鬼様、これをごらんなさい。」
紅蓮が頭上で右手を握り締めて、顔の位置でパッと開くと、弱々しく光る白い玉が現れた。
「何、なんか悲しそう…。」
綾子には、白い光が泣いているように見えた。
「そいつは誰の魂だ?」
「魂!?」
黎の言葉に、綾子達は驚きの目を向ける。
「ふふ、私は
驚愕の表情を浮かべる綾子達に説明するように、紅蓮は誇らしげに胸をはる。
「筋肉しか能の無い魂は、正直、腹の足しにもならないけれど、人間を脅すには丁度良い道具になる。」
紅蓮は、妖しい笑みを浮かべて白い光の玉を撫でる。
「筋肉? ……まさか、雷應か!?」
少し考えて思い当たるのは、昼間、綾子を襲ってきた冴種姉弟。
直接ぶつかってはいないが、翠を通して見ていたとき、確かに弟の方は、力技ばかりだったように思える。
「光が、消える…。」
明羽が、金色の光が急速に薄まってきたことに気が付いた。周囲はどんどん暗くなっていく。
「そいつを返せっ!」
黎は少し焦った。
光が消えれば、冬花が動き出すだろう。
元に戻っていればいいが、そうでなければ、力を求めて階上に向かう可能性がある。
もし、冴種 香織が翠を襲っているというのなら、紅蓮に時間を掛けている暇は無かった。
瞬時に間合いを詰めた黎は、紅蓮の前で浮かんでいる白い光に手を掛けた。そのまま自分の方へ引き寄せ、体を捻った。
その勢いに任せて、一回転し紅蓮に回し蹴りを喰らわせる。紅蓮の体は吹き飛び、店舗に突っ込んで盛大な音を立てて止まった。
黎の手の中には、小さな光の玉が残っている。
明羽の横まで戻った黎は、光の玉を渡す。
「紅蓮! 雷應の体は何処だっ!?」
紅蓮の突っ込んだ店舗に振り向いた黎の大きな声が、暗くなったフロア中に響き渡った。だが、紅蓮の返事は帰って来ない。
「紅蓮っ!」
ぽっかり口を開けた店舗の奥からは、既に紅蓮の気配は感じられない。
先ほどまで一片の気配も感じさせなかった紅蓮。その能力は恐らく、冴種の紋章以上。
黎は、綾子達の結界を、自らの血を一適垂らすことで強化した。
「良いか、ぜってぇこの結界の中から出んじゃねぇぞ!」
そう言い置いて、紅蓮の突っ込んだ店舗に向かった。
「一体、何が起きてるの?」
明羽は、突然の展開に戸惑っていた。
後ろには、小さくなって、ベンチの陰に隠れている前田と、一向に目を覚まそうとしない斎木。
綾子は、よほど翠のことが心配なのか、ずっと階上を見上げている。
手の中に残された小さな光は、弱々しく輝いている。
辺りはすっかり暗くなったが、あれほど溢れかえっていた怨霊は、見当たらなくなっていた。
2-ⅩⅩ
藍子はガクッとくず折れて、膝を突いた。
神の力で宙に縛り付けられていた冬花も、糸が切れた操り人形のように、床の上に落下した。冬花は、昼に会ったときと同じ、小さな狐の姿に戻っていた。
「――冬花さま……。」
藍子は肩で息をしながら、何とか立ち上がった。
信じられないと言うように、自分の手を見詰めていた冬花が、藍子の呼び掛けに顔を上げた。
「お主…。」
冬花は、体中に満ちる清らかな力を、久方ぶりに感じて、その大きな目から涙を流していた。
「戻られたのですね。良かったです。」
ふらつきながら近寄る藍子を、背の低い冬花は藍子のすねに手を添えて、何とか支えようとする。
「迷惑を掛けてしもうたな。わらわが持ち掛けた話じゃと言うのに…。」
藍子は、冬花の前に屈み込み、そっと微笑んだ。
「状況が状況です。今はそのことは気にせずに行きましょう。」
怨霊がいなくなったのはいいものの、それ以外の気配が感じられる。
「とりあえず、黎さんたちと合流しましょう。」
ふらふらな藍子は、冬花に支えられながら歩き出した。
「いろいろと、面倒臭い事になっておるようじゃの…。」
冬花は、気配を探り呟いた。
「じゃが、遥か上空に靄のようなものがかかっておるからか、母親の霊の気配が感じられん。」
「靄の先には、翠ちゃんの残滓が宿る写真があります。昼間にちゃんと始末しておくべきでした。」
もし母親の霊が靄の先いるのなら、当然、狙いは翠の力の残滓を手に入れることだろう。自分の読みの甘さに藍子は唇を噛んだ。
「もう一つの不穏な気配は何じゃ?」
「もう一つ?」
「解らぬのか? 今は身を潜めておるようじゃが、わらわには、はっきり解るぞ。」
社自体は小さくなってしまっているが、ここは冬花が守護する地。その感覚は全体に及んでいる。当然、その中に “余所者” が入ってくれば、簡単に察知できる。
藍子には、その存在を察知できないが、進む先から大きな物音と黎の叫び声が聞こえてきた。
「あの鬼が闘っておるようじゃの。」
冬花にとって、黎はあくまで鬼に変わりないようで、すこし表情を歪めた。
前方には、綾子たちが結界に包まれているのが見える。
明羽の手元には、白い光の玉が浮かんでいた。
「…あれは?」
「魂じゃの。」
藍子の問いに、冬花が簡潔に答えた。
「あ、藍子さん。」
藍子が近付いてくるのに気付いた明羽が、呼びかけた。迎えに来ようとする明羽を、藍子は手を前に出して制した。
冬花に支えられて結界の中に入った藍子は、改めて周囲を見回し、通りの向こう側の壊れた店舗を覗き込む黎を発見した。
「その魂、気配からして雷應さんですね?」
結界の中に入って弱々しい気配を感じ取った藍子は、その正体を当てた。
「紅蓮とかいう赤い髪の魔物が、肉体から抜き取ったそうです。」
「…魂は力、力は魂、じゃったかの?」
紅蓮の名を聞いて、冬花が小さく呟いた。
「おい、鬼よっ!後ろにおるぞっ!!」
冬花の声に、黎の後ろから紅蓮が姿を現して、黎の後頭部に刃と化した右腕を振り下ろした。その攻撃よりも早く黎は前転し、体を捻って紅蓮を正面に捕らえる。
だが、紅蓮は再び姿を消し、次の瞬間には結界に包まれた藍子たちの前に現れた。
「貴様っ!?」
黎が慌てて戻ってこようとするが、その間に紅蓮は冬花を睨みつけて結界ごと押し潰そうとするかのように、右腕を振り下ろした。
紅蓮の刃が結界に触れて、火花を散らす。
だが、黎の血で強化された結界は堅く、まったく揺らぎもしなかった。
「紅蓮っ!!」
黎は両手を頭の上で組み、紅蓮の頭に振り下ろした。黎の攻撃が紅蓮に当たる前に、再びその姿が消え、黎の両手は空を切った。
「後ろじゃっ!」
冬花の声に黎は即座に反応し、右手に瞬時に影響力を集めて、背中越しに撃ち放った。その攻撃は見事に直撃し、紅蓮が少しよろめきながら現れた。
「邪魔な古狐め!」
紅蓮は、冬花を睨みつけた。
「神族の中でも、お主の評判は最悪じゃぞ。せっかく見守り育った魂たちを横取りされるでな。」
冬花も負けじと睨み返す。
「紅蓮、雷應の体は何処だ?」
黎が2人の睨み合いを遮って、同じ問いを繰り返した。
冬花が元に戻ったことを知った黎は、少し落ち着きを取り戻していた。
「そんなに知りたければ教えて差し上げましょう。」
そう言うが早いか、紅蓮は床に邪気の塊を投げつけた。邪気は瞬く間に拡がり、床を浸蝕してしまう。
ボロボロになり重さに耐え切れなくなった床は、その大部分が崩れ落ち、結界に包まれた藍子たちも一緒に下の階に落ちてしまった。
あらゆる衝撃を結界が吸収し和らげてくれたおかげで、怪我する者はいなかったが、着地した黎が上を見上げると、そこには既に紅蓮の姿は見えなくなっていた。
「今回は、ここで手を退くことにしましょう。しかし龍鬼様、いつかまたお迎えに上がりますゆえ、それまでにはお心変わりをお願いしますね。」
そう言葉を残して、紅蓮の気配は冬花にも感じられなくなってしまった。
「あったっ!」
綾子の声に、皆が一斉に指差す方を振り向くと、立派な体格をした男が、瓦礫にまみれて横たわっていた。
黎が瓦礫を退かし、明羽が雷應の魂をその顔の近くに持って行くと、肉体に反応した魂が額から、吸い込まれていった。青白い顔は、次第に赤味をさして、やがてその両目が少しずつ開きはじめた。それと同調するかのように、ずっと気絶していた斎木がようやく目を覚ました。
「やっとお目覚めか…。」
冬花が冷たい視線を向けて呟いた。
「冬花さま。」
冬花の態度に、藍子が苦笑いを浮かべた。
前田は、頭を振りながら立ち上がり、惨憺たる状況を目にし、顔を蒼白にしていた。
まだ頭がボーっとしている雷應の周りに、一同が集まっていた。
「紅蓮の弱点は、魂の主の肉体から遠ざかると、その魂を維持出来ねぇことだ。だから、弱っているとはいえ、魂がその形を維持している以上は、近くに雷應の肉体が存在していることになる。」
黎が紅蓮にしつこく質問を繰り返した理由を話していた。
冬花が元に戻り、紅蓮がいなくなったことで黎は、完全に余裕を取り戻していた。翠のことは気になるが、感じられる気配からそれほど切羽詰ったようすは感じられない為、急ぐこともないと落ち着いていた。
黎の落ち着きように、藍子たちも体制を立て直すことを優先することにした。
使い慣れない神力を一気に放出して、激しい眩暈に襲われている藍子。
神力を取り戻したとはいえ、闇から光への急激な力の変化に付いて行けていない冬花。
魂を奪われ未だに意識がはっきりしない雷應。
ここには、力を持つ者で自由に動けるのは、黎のみだった。
綾子と明羽は、前田と斎木と一緒に、藍子が張り直した結界の中で静かにしている。
「母親の霊は、ほぼ確実に翠ちゃんの力の残滓を狙っています。」
クリアになった周囲にまったく気配を感じないことから、やはり靄の向こうと判断できた。
「あの靄は一体何だ?」
黎が上空を見上げながら聞いた。
二重三重に張り巡らされた結界。
不思議なことに、この中では時空の歪みが全く発生していなかった。
ただ力を遮る盾のような個人結界なら問題はないが、空間を歪めて力の方向性を曲げてしまう隠里の結界などは、複数の術者が重複して張ると力が反発し合い、穴となって周囲のモノを吸い込むいわゆるブラックホールのようなものになってしまうのが通常である。
「私が建物全体を覆う結界を張っています。そして、1階と2階の間に、隠里の結界が張られていますね。その上にあの靄のような結界。」
藍子の結界は、外部へ力が漏れないように、また外部から人が入って来ないように力の方向性を修正している結界。
隠里の結界は、内なる空間を取り込んで別空間とし、同じ場所に架空の空間を創り出す結界。
更にその上の階から力を感じるという事は、隠里の結界はその階より下、つまり2階から5階までの間に張られている事になる。
靄のようなものが結界だとしたら、三重にはなっていないものの、それぞれが二重結界となっているはずなのである。
「あれは結界じゃない。」
首を捻る2人に、雷應がポツリと呟いた。
「隠里の結界は、力を大量に使うから、姉が他に結界を張ることはない。」
雷應が言うには、その場に存在している
「何でこんなことになっている?」
状況を掴めない雷應が、立ち上がりながら聞いてきた。
「テメェらが不甲斐無ぇから、こんな事になってんだょ…。」
黎には教える気がないようで、ぶっきら棒に答えた。
藍子が、手短に今までの経緯を説明すると、雷應は居心地が悪いのか、肩をすぼめて小さくなっていくのが解った。
「俺達は、あの後、あんたらが居なくなったのを見届けてから、隠里に帰ろうとしていた。」
雷應が沈んだ声で説明を始めた。
「人目のない場所から、隠里に移動しようと路地に入ったところまでは覚えているんだが…。」
どうやら雷應は、そこで紅蓮に魂を抜かれたらしい。そこから先は、何も覚えていないようだ。
「二重結界になってねぇのは何故だ?」
1階と2階の間に張られた隠里の結界。
その境目は、二重結界の影響であらゆるものを吸い込む穴となっていても可笑しくはない。
「隠里の結界は、どのような状況でも成立するように、細かい印形が組み込まれた札で発動する特殊な結界だ。」
印形が状況に合わせて、力の方向性を調整するから、大概の結界と共存できるという。
「成程です。周囲に札を貼るのは、印形だからなのですね。」
前回、
それを使えば、複雑な呪文も精神統一も必要なく、ただ、発動を念じて封印を解くだけ。込められた力の分だけ、いくらでも使える代物。
だが、威力の調整などはできない上、込められる力にも限界があるため、あまり強力な術を封じることは出来ない。
「あの結界の印形は、白の一族を守る為に、特殊な作られ方をしているからな。」
印形により力を調整する以上、普通の作り方ではありえない。ただ、企業秘密ということで、雷應はそのことについて話そうとはしなかった。
「さて、これからどうするよ?」
黎が藍子に向き直って聞いてきた。
「そうですねぇ…。」
今の藍子には、移空転時を行うだけの余裕はまだない。ここにいる者で隠里の結界を突破できるのは、黎と雷應のみ。
明羽や綾子も行けないことはないのだろうが、何分、戦闘力に欠けている。
「先ほどの紅蓮とかいう魔族が、本当に居なくなったとも限りませんし…。」
紅い妖艶な魔族は、黎ですらその気配を感じられなくなる程の実力者。
冬花にはもろバレだったとはいえ、油断できないのは確かである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます