歪められた社 漆

2-ⅩⅢ


 【妙子たえこ】は、水色の光の中を漂っていた。


 『気持ちいい…。』


 ここは翠の中。

 漂うは妙子の力と意思。

 彼女は主である妙子に命じられていた。




 翠ちゃんの力になって――。




 【妙子】はその為に、翠の中に宿る妙子の力から産まれた。

 その【妙子】は今、翠の聖龍牙力の力で包まれ、一つになろうとしていた。

 まどろむ【妙子】の前に、一人の女性が姿を現す。


 『…みどりちゃん…?』


 翠にそっくりなその女性は、頭に水色の鋭い2本の角を持っていた。


 『いらっしゃい、【妙子】さん。』


 発せられたその声も翠そのもの。

 だが、その声は柔らかく優しく【妙子】の心を包み込む。

 まるで母親のような優しさを感じさせる。


 『私はあなたと同じ存在。』


 力の象徴。力とは記憶があって初めてまともに使えるもの。

 いわば記憶は説明書のようなもの。

 それ故、記憶を伴わない力は暴走する。


 『あなたは妙子さんの力、そして記憶を託されし者。私は翠の力であり、眠りし記憶そのもの。』


 眠りし記憶。

 翠の中に宿る強大な力を、自由自在に操るために必要な記憶。


 『そう、あなたが眠っていたから、翠ちゃんの力が暴走していたのね。』


 【翠】は少し申し訳ないような顔で頷いた。


 『私の持つ記憶は膨大で、幼い翠では処理しきれず発狂してしまいます。』


 だから、絶えられる精神力を持つまでは眠っている必要があった。

 だが、力は感情の浮き沈みで簡単に枷が外れ、表面化してしまう。

 操る方法を知らないが故に、暴走が始まる。

 その結果、翠には妙子を核とした封印が施された。


 『あれは妙子が翠を守るため、自ら進んで立候補したもの。気にしないで。』


 やはり【翠】は翠なのだろう。

 妙子に対して罪悪感を抱えているようで、周囲に漂う優しい気配が、悲しく歪む。

 【妙子】は【翠】をそっと抱き寄せた。


 『私はあなた達の力になる為に産まれました。あなたと一つになることが私の使命。』


 【妙子】の言葉に、【翠】はそっと体を離した。


 『そんなことをしては、翠が悲しみます。翠の望みは妙子さんの復活です。一つにはなれません。』


 一つになってしまえば、二度と【妙子】が "外" に出ることは出来なくなってしまう。


 『妙子はもう死んだのよ。あなたたちが自然の摂理を捻じ曲げるようなことを、望んではいけないわ。』


 気持ちは嬉しいが、妙子は既にこの世界にはいない。

 例え肉体だけが復活しても、そこに妙子の魂は戻らない。


 『あなたなら、解るでしょう?』


 膨大な記憶を持つという【翠】。

 ならば、そのことも知っているだろう。


 『その通りですね。でも……あなたは龍牙刀りゅうがとう ガルシオンの力を知っていて?』

 『龍牙刀…?』


 龍牙刀はあらゆる世界を巡る、龍牙の精霊が宿る刀。

 言い伝えでは全部で五振り存在しているという。


 『翡翠の始祖が使って、魔界に繋がる歪みを封印したということくらいしか…。』


 【妙子】は妙子の記憶を探ってみたが、あまり詳しいことは解らなかった。


 『ガルシオンに宿る精霊は"レイア"。彼女の力の象徴は、誕生・再生・破壊そして死。』


 龍牙刀に精霊が宿っているのは知っていたが、その精霊の名前までは伝えられていない。

 当然、その精霊が持つ象徴の力も伝わってはいない。

 それを知っているこの少女はいったい何者なのか…。


 『…あなたは一体何者なの…?』


 【翠】は少し微笑んだものの、それに答える気は無いらしい。

 話を元に戻した。


 『ガルシオンの誕生と再生。その力を使えば、妙子さんは生き返らせられなくても、あなた達は生まれ変わることができます。』

 『…わたし、たちが…?』


 達とは当然、【妙子】と風鬼童子の二人。


 『あなたと風鬼童子は既に、一個の人格を持っています。言わば、妙子さんより産み出されし、別々の魂です。』


 翠に龍牙力となって溶け込んだ妙子の体を媒介にして、二人に新たな生命を与えることができると言う。


 『恐らくは、それが翠が望む復活に一番近い方法でしょう。』


 【妙子】は妙子の力・容姿そして記憶を持つが、妙子ではない。

 風鬼童子も妙子の血ではあっても、やはり妙子ではない。


 『翠はあまり納得しないかもしれませんが、さすがに死者を復活させることはできませんから。』


 【翠】の悲しそうな顔に、【妙子】は抱き締めたい衝動に駆られる。

 【妙子】の中には確かに妙子の想いが生きている。

 妙子ではないものの、妙子の想いは伝えられる。

 それは、同じ妙子の血から産まれた風鬼童子も同じだろう。


 『…本当に、そんなことが…。』


 もしできるのなら、妙子に代わり、翠を守ることができる。

 妙子が成し遂げられなかった想いを果たすことができる。



 ただ、翠をあらゆる危険から守りたい――。



 それが妙子の至上の願いだった。


 その為に産み出された風鬼童子なのだから、その為に形作られた【妙子】なのだから。


 『だから、今は眠りに就いてください。あなた方の力をこれ以上、消費させられません。』


 妙子の力は使えば使うほど、少なくなっていく。

 それは翠の力ではない為、回復能力がないのである。

 翠は気付いていないが、力そのものである【翠】にはそれが解っていた。


 『もしかして、翠ちゃんの力を使えなくしていたのは、あなた?』


 【妙子】の質問に【翠】は静かに頷いた。


 『でも結局、何者かの力によって、枷としていた周囲の気配が断ち切られてしまいました。誤算ですね。本当なら時期を見て、夢を通じて回復できないことを知らせるつもりでした。』


 お陰で、風鬼童子は翠を守る為に、風神剣として具現化した。

 それでも、翠に合わせて自らの身を変化させている最中だった為、結局、翠を助けられなかった。

 そして翠の力を受けて、風鬼童子も【妙子】も聖龍牙力を与えられた。

 それは翠の力と一体化していっている証拠。

 これ以上、力を使えば完全に二人は翠の力の一部になってしまう。


 『だから、私があなた達を封印します。良いですか?』


 【翠】の説明を受けて、【妙子】は頷いた。


 『妙子の命は守れませんが、至上の願いが叶えられるのなら。』


 【妙子】の隣りに、風鬼童子が姿を現した。

 その姿は以前の穏鬼ではなく、どことなく妙子に似た雰囲気を湛えた女性になっていた。


 『私はもう少し、翠と一緒に闘いたかったな。』


 風鬼童子も今までの二人の話を聞いていた。


 『取り敢えず、今は待って欲しい。でないと、翠がまた下着一枚になってしまうから。』


 風鬼童子の言葉に、【翠】も【妙子】も苦笑した。




2-ⅩⅣ


 「ただいまー。」


 モールから家まで帰ってくる間、ずっと翠にピッタリくっ付いていた綾子は、玄関の前に来てやっと翠から離れ、元気に玄関を開けて中に入っていく。実際には玄関風のドアなのだが、見た目はどう見ても玄関だから、面倒臭いので玄関で統一していた。


 翠と黎も後から続いて入る。


 そこに藍子はいない。


 「お帰りなさい。」


 奥の居間から、綾子の姉の明羽あかはが顔を出す。


 明羽は翠がセーラー服を着ているのを見て、首を傾げた。見た目、翠たちの通っている高校の制服に見えるが、大きく優しい力を感じる。


 「翠さん、この制服は…?」

 「あ~いや、ちょっと待ってて。」


 翠はそう言うと急いで自分の部屋に入って行った。


 「何か、あったの?」


 明羽は綾子と黎を見る。


 「ちょっと、襲われちゃって、み~ちゃんが助けてくれたの。」

 「 "み~ちゃん" って…、あぁ、翠さんね。また変なあだ名つけて、翠さん、迷惑なんじゃ…って、襲われたっ!?」


 さらっと言った綾子の言葉を、危うく聞き逃しそうになった。


 「大丈夫? 何処も怪我ない?」


 明羽は綾子の体を見回すが、傷一つ見当たらない。


 「大丈夫だよ。冴種さえぐさの人たちとも和解したし、平気だよ。」


 綾子は明るく報告する。


 「…正確には、 "今日襲ってきた奴らとは和解した" 、だ。」


 黎がすかさず訂正を入れた。


 「取り敢えず一安心って所かな?」


 (綾子の言う台詞じゃないっ!)

 (おめぇが言うなっ!)


 と、明羽と黎は同時に心の中で突っ込みを入れた。




 自分の部屋に入った翠は、風鬼童子の変化したセーラー服を脱ぐため、箪笥から服を選ぶ。


 「これでいいか。」


 選んだ服は淡いピンクのワンピース。


 昔から可愛いものが大好きな翠の持ち物には、ピンクを基調にしたものが多かった。部屋の壁紙もピンクだし、スマホもピンクだった。


 「あんまり似合わないのは、解ってるんだけどね…。」


 自分が可愛い部類に入らないことは良く解っている。

 幼い頃から、武術や修道法術を習ってきた翠は、結構がっしりした体格をしている。身長は低いものの、引き締まったその体は翠から強さを感じさせる。

 それでも、可愛いものに目がない翠は、可愛いものばかりを集めている。

 翠が目を瞑ると、制服が眩く光りだした。その光は、翠の体から離れると、人の形を取りだす。

 やがて光の中から、柔らかい雰囲気を纏った女性が現れた。


 「…やっぱり妙子さんに似ているね。」


 女性の姿をとった風鬼童子を見て、翠は素直な感想を述べた。


 「妙子が私の元だから、どうしても似てしまうの…。」


 風鬼童子は申し訳なさそうに謝る。


 「良いよ。あなたは妙子さんだもの。」


 翠はワンピースを着ながら、答えた。その声には戸惑いも悲しみも感じられない。


 「それより、みんなに紹介するから来て。」


 翠が嬉しそうに、風鬼童子の手を取って引っ張る。


 「良く考えたら、綾ちゃんにも明羽さんにもまだ会った事ないのよね?」


 翠に引っ張られながら、風鬼童子は迷っていた。

 【翠】に従い、眠りに就くことを決意したものの、やはり翠の傍で彼女を守りたい。だが、このままでは力尽きるしかない。

 それを防ぐには、翠の力と一つになるしかない。自分自身はそれでも構わなかった。翠の力の一部になったとしても、風鬼童子はちゃんと存在できる。


 だが、【妙子】は違う。


 力であり、記憶である【妙子】は融合した時点で、その意思を失う。

 【妙子】を構成していた力と記憶は、すべて翠自身となるのだ。


 それで妙子の命は果たせる。

 だが、【妙子】は命よりも願いを選んだ。


 実際、【翠】に会ってみて翠の力の大きさを肌身に感じることができた。その力は、風鬼童子には計り切れるものではなかった。強大なその力を【妙子】も当然、感じている。

 はっきり言って、自分達は必要ないとさえ思えた。


 だからこそ【妙子】は、願いを取ったのだ。

 妙子の意思がそれを選ぶのなら、風鬼童子にはそれを拒むことはできない。別の意思とはいえ、妙子の力に違いはないのだから。


 「ごめん、翠。」


 扉を開けようとしていた翠に、風鬼童子は小さな声で誤った。


 「何、突然?」


 翠は訳がわからず、首を傾げる。


 「私はこれ以上、一緒には行けない。眠りに就かなければ…。」


 風鬼童子は、少し寂しげな顔で翠を見詰める。


 「私も【妙子】も、あなたの傍にいたいの。だから、今は眠って再生の時を待とうと思うの。」



 翠を守る。



 そのことは決して言わない。

 言う必要もない。



 「もう、会えないの?」


 翠は途端に寂しそうな顔をする。


 「いつかは会えるわ。私も【妙子】もその為に眠るのだから。」


 翠は顔を俯けて動かなくなった。


 「翠……?」


 背の低い翠が顔を俯けてしまうと、風鬼童子からは頭しか見えなくなる。

 翠の可愛いつむじが見えるのは嬉しいが、翠が悲しんでいるのだとしたら、何とかしなくては…。だが、今だかつて人を慰めるということをしたことがない。どうすればいいのか解らず、おろおろして、取り敢えず顔を覗き込もうと顔を近づける。


 すると、突然、翠が首に抱きついてきた。

 翠の腕に抱き付かれ、顔の横に翠の体温と息遣いを感じる。


 「み、翠?」


 風鬼童子は不覚にも動揺してしまう。

 妙子が生きていた間は、ただ、妙子を守ることを考えていた。

 妙子が翠を愛している以上、自分も翠を愛している。


 だが、風鬼童子にとっては、妙子こそが至高の存在だった。


 翠への想いがこんなに大きかったなんて、自分でも知らなかった。抱き付く翠の背中に腕を回し、そっと抱き締め返す。


 「風鬼童子。私、頑張るから。絶対、妙子さんを生き返らせるわ。」


 翠は囁くように言った。


 「翠。」


 妙子を生き返らせることはできない。


 言おうかどうか迷ったが、これ以上、翠を悲しませたくなくて黙っていることにした。その代わりに、翠を抱き締める腕に、持てる限りの愛情を込めて、優しく力を込めた。


 そしてそのまま、風鬼童子の姿が、ぼやけ始める。


 「もう戻っちゃうの?」


 翠が気配を察して、体を離す。


 「ええ。私たちは眠りに就くけど、いつでもあなたの傍にいるから。何かあったときには喚んで。私があなたを癒しに来るし、【妙子】があなたに技を与えるわ。」



 優しく微笑む風鬼童子に、翠はそっと口付けをした。

 翠の柔らかな唇の感触に、風鬼童子は耳まで顔を赤くした。


 「妙子さんとはキスをしたけど、あなたとはしてないでしょ?」


 翠にとって、風鬼童子も妙子に他ならない。

 それは先程の翠の言葉からも理解できる。



 『あなたは妙子さんだもの。』



 風鬼童子は少し複雑な感じがしたが、翠に口付けされて嬉しくない訳がない。


 「こんなことされると、次に出て来たときに、襲ってしまうかもしれないよ。」


 体がどんどん透けていく風鬼童子は、真っ赤に照れた顔で、おどけてみせる。


 「うん。妙子さんと二人で襲って。」


 翠も耳まで真っ赤になりながら、答えた。

 風鬼童子は、翠の言葉に苦笑しながら、その姿を消した。




 居間に戻ると、綾子と明羽が睨み合っていた。


 「どうしたの?」


 翠は睨み合っている二人を無視して、窓から外を眺める黎に近付いた。


 「あ~、危険だから明日の海水浴は中止だとさ。」


 黎は簡潔に言う。


 「え~~っ!?やだっ!!」


 翠は、つい、明羽に食いついていた。


 「み、翠ちゃん…?」


 翠の態度に、明羽は面喰ってしまう。

 翠にとって、友達との海水浴も初めての経験。態度に出すよりも、内心ウキウキと楽しみにしていた。


 「ね、ね、絶対行くべきだよねっ?」


 綾子もここぞと明羽に詰め寄る。


 「でも、冴種に狙われたのよ。海なんて危険だわ。」


 それでも明羽は譲らない。


 「友達も誘ったの。絶対行きたいっ!」

 「友達? 誰?」


 明羽は仁王立ちをして聞く。


 「クラスメイトの平井さん!」


 綾子ではなく、翠がすごく嬉しそうな声で答えた。


 「…う。」


 翠のあまりに嬉しそうな声に、明羽は心が動きそうになる。


 (あ、綾より強敵かも…。)


 心底嬉しそうな翠の笑顔から、明羽はそっと顔を逸らした。だが、綾子は、それを見逃さなかった。


 「ね、ね、だから行こうよ。」


 綾子は明羽の腕に抱き付いて、上目使いをした。明羽は昔から、綾子のこの攻撃に弱かった。綾子が成長して、腕に伝わる感触や体温が変わってきても、これで何度も綾子のわがままを許してしまっていた。


 「~~~。」


 綾子は小さく溜息をついて、諦め顔で首を振った。


 「仕方ないわね。」


 翠と綾子は許しが下りて、嬉しさのあまり、飛び上がった。




 それから数分後、翠は地下の修練場で一人で瞑想をしていた。


 隣りには、妙子の胸に抱かれて眠った瞑想室がある。


 瞑想をするなら、普段はそちらを使うが、今の翠にはまだ、少し気が重い場所だった。

 目が覚めてからこっち、綾子たちのお陰で、随分、気は晴れてきていたが、やはり妙子の死はまだ翠の中で、大きく影を投げ掛けていた。

 先程、風鬼童子とも、お別れをしている。

 これで妙子を直接感じられるものは、何もなくなってしまった。


 だからといって、いつまでもくよくよしてはいられない。


 妙子を生き返らせるためにも、もっと強くなって、自分の中に眠る記憶と力を手に入れなければならない。

 瞑想する翠の体から、水色の龍牙力が靄のように立ち上りはじめる。その靄は、小さな龍になり、翠の体を中心に回りだした。


 香織との決戦の後、翠の力は戻っていた。


 冴種の結界から出ると、周囲から一気に沢山の気配を感じ取り眩暈がした。それは自分の今までの感覚とは全然、違っていた。

 まるで黎の感覚を借りていた時のように、小さな虫の気配まで感じ取っていた。

 それでも、その前に黎の感覚を借りていたこともあって、順応力が高い翠は、数分後にはその感覚に慣れていた。


 封印が解け、新たに得た力を使いこなさないといけない。そうしないと、暴走した力がまた、混沌となって周辺を全て飲み込んでしまうかもしれない。それこそ今度は、大事な人まで巻き込んで…。


 当面の翠の問題はそれだった。

 取り敢えず、精神面を鍛える為に、今は直ぐにできる瞑想を試していた。




 その翠の後ろに、黎が気配を消して現れた。


 「……。」


 黎はそっと手を組んで頭上に掲げる。そのまま、翠の脳天を目指して振り下ろす。黎の手が脳天を叩き割る直前、翠の体が消えた。


 「!」


 黎は空振った手を直ぐに解き、床に手をついて、腕の力だけでその場から飛び退いた。その直後、黎のいた場所に翠の踵落しが振り下ろされていた。


 「いくぞっ!」


 黎は着地すると、すぐさま床を蹴り、翠との間合いを詰めて拳を繰り出した。紫色に光るその拳には、龍牙力の一つ、影響力が宿っている。まともに喰らえば、一溜まりもないだろう。

 だが翠は避けることなく、その拳を、聖龍牙力を溜めた両手で受け止めた。二つの力がぶつかり、その中心から爆風が巻き起こる。


 その風は、修練場を蹂躙し、建物全体に大きな振動を伝えた。




 修練場の控え室から、窓越しに翠を見学していた綾子と明羽は、突然の戦闘開始と、振動にただただ、驚くばかりだった。


 「何、これ。凄い…。」


 明羽は幼い頃、隠里である程度の修練を積んでいた。そのため、それなりに格闘に自信を持っていた。


 だが今、目の前で繰り広げられている闘いは、明羽の想像を遥かに超えていた。

 一撃一撃が重く、仕切られた控え室にまで、その振動が伝わってきていた。


 隣に立つ綾子を見ると、そのむき出しの腕に鳥肌が立っているのが確認できた。伝わってくる振動は、そのまま二人の体にも僅かながら衝撃を与えていた。仕切りがなければ、気を失っていたかもしれない。


 明羽は、改めて、自分達のいる世界が普通でないことを再確認させられていた。




 約一時間ほど、翠と黎の勝負は続いた。

 結局、勝負は血を飲んでいない黎が全力を出し切れずに、翠が勝利した。


 「黎、汗を流した後で、血を上げるから、もう少し我慢してて。」

 「ああ、後でな。」


 短く言葉を残して黎は、また姿を消した。

 その顔は、負けたにしては爽やかな笑顔だった。




2-ⅩⅤ


 翠達は、モールの入り口の前で、藍子の到着を待っていた。

 メンバーは、翠・綾子・黎、そして明羽の4人。

 つまり総出でやって来ていた。


 「藍子は何をやってんだ?」


 なかなかやって来ない藍子に、黎は少し苛立っていた。

 当りはもう真っ暗で、駐車場にも、入り口から覗いて見える店内にも、人の気配はない。


 「待ち合わせの時間は、10時だったんでしょ?」


 明羽は月の薄明かりの下で、腕時計を確かめる。時刻は、10時20分を少し回ったところ。


 「それにしても、ドキドキするね。誰もいないお店に潜入するなんて。」


 綾子と明羽は楽しそうだ。


 「遊びじゃないのよ…。」


 浮かれている二人を見て、翠は釘を刺す。


 翠はもともと、黎と二人で来るつもりでいたのだが、綾子がしがみ付いて離れなかった為、しぶしぶ了解すると、明羽が、また襲われるかもしれないから一緒に行くと言いだして、ここまで付いて来てしまっていた。


 実際には、二人とも、好奇心丸出しだったため、ただの建前だと言うことははっきりしていたが、さっき香織に言ったように、翠は、今一つ綾子に逆らえなかった。


 「みなさん、おそろいですね。」


 翠達が声のした方を振り返ると、藍子が男を二人連れて店から出てきていた。


 「お前は相変わらずやな奴だな。」


 店の中にいたのなら、近くに気配を感じられたはず。だが、黎には、藍子の気配を感じられない。つまり藍子は気配を絶っているのだ。


 「ふふ、ちょっとした実験。」


 藍子は翠を盗み見た。

 翠は綾子にしがみ付かれて、懸命に引き剥がそうとしていた。


 香織達と別れた後、翠が気配を感じられるようになったか、試していた。

 聖穏鬼であり、元魔王の黎ですら、あの時間の止まった空間の中では気配を感じられなくなっていた。

 藍子は、力を触手の代わりにして、周囲の気配を探ることで翠の居場所を見つけることが出来たが、それをしなければ、黎同様、何も解らなかった。その中で、翠は自分たちの居場所だけでなく、藍子ですら察知しにくい冴種の気配までも感じ取っていた。その感知能力の高さは、驚異的と言っていいだろう。

 あの空間の中を経験した今なら、もしかして力が戻っているかも知れない。

 そう考えた藍子は、気配を極限まで消して、翠の様子を見ようとしていたのである。


 「はーなーれーなーさーいーっ!」


 その翠は、綾子とじゃれ合っていて、最初に少し振り向いただけで、あまり気にしている様子はなかった。


 「ほら二人とも、遊んでないで行きますよ。」


 藍子が話しかけると、綾子はやっと翠から離れて、笑って誤魔化した。


 「私は別に遊んでたわけじゃ…。」


 翠は少しすねた顔で、言い訳をした。その顔に、綾子はまた目を輝かせて抱き付こうとする。


 「み~…ぐぇっ!」

 「あ~やっ!」


 その綾子の襟首を掴んで、明羽が引き戻す。


 「あ、ごめん。力入れすぎた。」


 勢い良く自分の胸に飛び込んできた綾子の体を支えながら、明羽は謝った。


 「お姉ちゃんのばか…。」


 綾子は喉をさすりながら、呟いた。


 「その二人は誰だ?」


 黎はそんなやり取りは無視して、藍子の後ろで神妙な顔をしている中年男性二人を睨んだ。二人の男性は黎の視線に後ずさる。


 「このお二人は、ここのオーナーの前田さんと、社の地主の斎木さんです。」


 オーナーと言われて頭を下げた男性は、ピシッとスーツを着込んで、いかにもやり手と言った感じだった。

 一方、地主の方は、カジュアルな服装で、その表情は冥く曇っていた。


 「あとで訴えられたくはありませんもの。しっかり同意は得ていませんと。」


 藍子は、翠達と別れた後、翡翠一族の威光を借りて、二人をここへ呼び出していたのだ。


 「訴えるなんて、とんでもありません。翡翠さんに逆らうことなど、とてもとても。」


 オーナーの前田は、翡翠一族のことを知っているのか、随分と低姿勢である。


 「……。」


 地主の斎木の方は、一言も喋ろうとしない。

 店内が気になっているようで、しきりに後ろを振り返っていた。


 「さ、行きましょう。」


 藍子の一言で、翠達はモールの中に入って行った。




 一歩足を踏み入れると、そこには異様な雰囲気が漂っていた。


 「何これ、気持ち悪い…。」


 普段は限りなく一般人に近い綾子ですら、この気配に気が付いた。

 藍子がそっと翠を窺い見ると、その目は気配の出所を探って彷徨っていた。


 「翠ちゃん、力は戻ったのですか?」


 藍子は聞いてみた。


 「うん。もう大丈夫。」


 そう言う翠の笑顔は、何処となく淋しそうだった。


 「外からは何も感じなかったぞ。」


 黎は翠の表情に気が付いたものの、本人が何も言わないので触れないことにした。


 「彼女はこの土地に囚われています。その想いが内側へ向かい、結界の様相を呈しているのです。」


 力が内側に向かうから、店舗の外へ気配が漏れることがないのだと言う。


 「お昼は冬花さまが、押さえておられるからあの程度で済んでいたのです。」


 夜になれば、人もいなくなる為、必要以上に力を使って押さえ込む必要はない。


 「でも、これは余りに異常よ。このままじゃ、誰もここに出入り出来なくなるんじゃ…。」

 「そうですね。この空間はもう少しで、彼女の感情で閉ざされてしまうでしょう。」


 藍子は、翠の言葉を肯定し、澱みを払うかのように手を振る。


 「だから、その前に彼女を癒して上げなければいけません。」


 依頼者である冬花からの依頼は、母子を癒し、救うこと。憎悪の感情で怨霊の一歩手前まできている母親を癒すのは大変そうだ。


 藍子を先頭に、一行は社の元へ向かう。

 社に近付くにつれて、渦巻く怨念はねっとりと肌に絡み付き、心が引き摺られそうになる。


 「頭が、くらくらする。」


 自由に力を使えない綾子と明羽が、真っ先に根を上げる。前田と斎木は、何の力も持たない分、何の影響も受けていない。

 一度、家に帰る前に藍子に話を聞いていた翠は、平気な顔をしている二人に、少し苛立ちを覚えた。


 「大丈夫? しっかりして。二人が付いて来るって言いだしたんだからね。」


 翠は綾子と明羽を、近くのベンチに座らせた。


 「…俺が見ててやる。お前は行け。」


 黎が二人の回りに障壁を作る。


 「ここで大人しくしてて。」


 翠はピシリと言った。綾子と明羽は素直に頷いて、大人しく待っていることにした。


 《黎、綾ちゃんが、相殺を使わないように気を付けていて。》


 綾子が何らかの刺激で相殺の力を使ったら、霊魂でしかない母子や、場合によっては、冬花まで消滅してしまう可能性がある。それだけは絶対に避けなければならない。


 《解ってる。血を飲んだばかりだからな。下手は打たん!》


 自信満々、尊大な態度の黎に、翠は小さく笑う。


 「行きますよ。」


 藍子が翠を促す。


 「行って来るね。」


 翠は二人に手を振って、藍子達の元へ駆け寄って行った。

 翠を見送った綾子がポツリと呟く。


 「…悔しい。」


 黎が振り向くと、綾子は今にも泣きそうな顔をしていた。その言葉が示しているように、気分が悪いだけではなさそうだ。


 「綾、どうしたの?」


 明羽が顔を覗き込んで問い掛ける。


 「……何でもない。」


 綾子は黎をチラッと見たあと、下を向いて口をつぐんだ。


 「綾…。」


 黙り込んだ妹を、明羽はそっと胸に抱き締めた。

 黎は黙って綾子を見下ろしていたが、社のある方向に向き直って言った。


 「今は弱くていい。だが、翠の傍にいたいなら…役に立ちたいなら、強くなれ。」


 明羽の胸に顔を埋めていた綾子は、驚いて黎を見上げた。


 「何を言っているの? 綾子を戦いに巻き込む気?」


 明羽は綾子を抱く腕に力を込めて、黎に噛み付く。


 「巻き込まれたのは、俺たちだ。」

 「そ、れは…。」


 明羽は言葉を詰まらせる。明羽に言い返せるわけもなかった。




 翠達が社の前に辿り着くと、冬花が淡い光に包まれて待っていた。


 「来ました。」


 藍子が冬花に深く一礼した。


 「待っておったぞ。」


 冬花は、驚愕の顔を見せるオーナーと地主を睨みつける。


 「余計なのがおるようじゃが、何故、連れて来られた?」


 昼間は好意的だった冬花の態度が、硬化していた。その鋭い目は、地主の斎木を射殺そうとしているかのように、憎悪に満ちていた。


 「…藍子姉、何かおかしい。」


 翠がそっと藍子に耳打ちした。


 藍子から聞いていた話では、頑固だが、母子の癒しを求める優しいお狐様の使いと言うことだった。だが今、目の前で光に包まれて目の高さに浮かんでいる冬花に、優しさは欠片も感じられない。


 「冬花さま、憑かれましたか?」


 藍子は、冬花の視線を遮るように、前田と斎木の前に出る。


 「…龍牙の御使いよ。質問に答えよ。」


 冬花は冥く澱んだ目で、藍子を見詰める。


 「解りました。」


 藍子は、溜息を吐いて、体をずらす。


 「答えは簡単です。元凶にはきちんと償っていただくのが、道理でしょう?」


 藍子の言葉に、斎木が息を呑んで後ずさる。前田は少し斎木から離れて、自分は関係ないと、そっと安堵した。


 「そうか、償いに来たか。では…。」


 次の瞬間、冬花から放たれた光の玉が、斎木に襲い掛かる。その光に包まれた斎木は、絶叫しながら、光の中に溶けていった。

 前田は腰を抜かして、その場に尻餅をつく。


 「人とは呆気ないのぅ。この程度で溶けてしまうとは。」


 冬花が愉快そうに目を細めた。


 「あ、あ…。」


 前田が蒼白な顔で翠に助けを求める。


 「冬花さま、残念ですが、今のは幻影です。」


 藍子が右手をさっと上から下に振り下ろすと、恐怖に震える前田の姿が桃色の光となってスゥッと消えた。


 「……騙したのか?」


 冬花は鋭い視線を藍子に向ける。


 「騙してはいません。ただ、あなたの気配がおかしかったもので、試させていただきました。」


 藍子が左手をパチンと鳴らすと、翠の後ろに前田と斎木の二人の姿が現れた。二人の顔は恐怖におののき、蒼白になっていた。


 「な、何なんだよ…。何でこんなことに…。」


 斎木はガタガタ震える体を抑えながら、一歩また一歩と後退する。


 「下手に動かないで。」


 翠が斎木に忠告するが、斎木の耳には届いていなかった。


 「こ…こんなのに、付き合ってられるかっ!!」


 斎木は踵を返すと、走り出した。だが、斎木は床から突き出した黒い塊にぶつかり、鼻を打って、尻餅をついた。


 「な…?」


 鼻を押さえながら顔を上げると、そこには正体の掴めない靄のようなものが立っていた。見た感じ、鼻を打ってこけるような硬さではなさそうだ。


 「下がってっ!」


 翠が駆け寄るが、間に合わず、靄のようなものが斎木の体を包み込み、大きく膨張を始めた。


 「! 返しなさいっ!!」


 左手に集めた龍牙力を放つが、ダメージを与えるどころか、靄を素通りしてしまった。


 「!」


 翠は、急いで突き出した左手を翻して、握り締める。靄の体を素通りした龍牙力は、弾けて消えた。


 「素通りするのならっ!」


 今度は靄に手を突っ込む。

 斎木が激突したことから、硬いと思っていたが、靄はやはり靄。何の抵抗もなく、翠の手を受け入れた。


 「捕まえたっ!」


 翠は、掴んだ斎木の手を思いっきり引っ張った。靄の中で苦しんでいた斎木は、外の空気を吸って、激しく咳き込む。


 「二人とも、下がってください。」


 藍子が翠たちに声を掛けてから、詠唱を始めた。


  ―聖なる龍牙よ

   我が導きにより

   よこしまなるモノに

   常しえの眠りを与えよ―


 藍子の詠唱に合わせて、翠は斎木を引き摺って下がる。

 靄の出ている地面から、水色の光が泉のように染み出してきた。


  ―聖修道法術 千泉(ちせん)―


 光の泉は、そのまま靄に沿って上に伸びていく。


 靄は体をうねらせて、光の泉を振り払おうとするが、抵抗虚しく、光に飲み込まれてしまう。その光の中で、靄は次第にその色をなくし、光の中に解けていった。


 「な、何だったんだ、今のは!?」


 前田が翠から斎木を受け取りながら、呟いた。


 「あれは邪念です。」


 邪な心から産まれる力、それが邪念。

 この怨念に包まれた空間の中で、邪念が実体化したものがあの黒い靄。


 「母親の斎木さんへの憎悪が産み出したものです。」

 「…あいつが創り出したというのか…。」


 斎木は、信じられないというような顔で、消え行く光を見て気を失う。


 「その通りよ。」


 いつの間にか冬花が、斎木の傍まで来ていた。


 「冬花さま!」


 藍子には冬花が移動する気配を感じられなかった。


 「…いつのまに。」


 それは翠も同様のようで、目をまん丸にしていた。

 咳き込んだ後、そのまま気を失った斎木を冬花は覗き込んだ。


 「情けないのぅ。これでも神主かぇ…。」


 冬花が斎木の顔に手を翳すと、途端に斎木が苦しみだした。


 「おやめ下さいっ!冬花さまっ!!」


 藍子が駆け寄り、冬花の手を取る。冬花の手は暖かく、本物の肉体を持っているように感じられた。


 「邪魔をするのかい?」


 途端に剣呑な雰囲気を漂わせ始めた冬花に、翠がそっと前田を引き寄せて遠ざける。


 「冬花さま、あなたも神の眷属なら、正気にお戻り下さい。」


 藍子の言葉に、冬花は手を下ろし、目を閉じる。


 「冬花さま…。」


 藍子は心配そうに覗き込む。


 「お主が悪いのだよ…。龍牙の御使いよ…。」


 少しの沈黙の後、冬花の力が爆発した。

 その力に、直ぐ傍に居た藍子と斎木が吹き飛ばされる。


 「藍子姉っ!!」


 翠は藍子の後ろに回り、龍牙力をクッション代わりにして、二人の体を受け止める。


 「大丈夫っ!?」


 藍子を助け起こしながら、冬花を見ると、その姿は大きく様変わりしていた。


 「冬花さま…っ!」


 何事にも動揺せず超然としている藍子しか知らない翠は、冬花の豹変に取り乱す藍子を見て、少し驚いていた。ちょっと得したなと思いながらも、事態の深刻さに気を引き締めなおす。


 「お主がそやつを連れてこなければ、母親の霊の感情が爆発することはなかったのじゃ。」


 小さかった冬花は今や、翠ですら見上げるほどの大きさになっていた。

 雅やかだった十二単は破れ去り、抱き締めたくなるような金色の毛は、鋭い針となってその身を覆っていた。


 「わらわにはもう、母親の力に抗うだけの力が残ってはおらなんだ。」


 爆発した母親の想いは、そのまま冬花の体と心を侵食していった。


 長年、母親を鎮め、子供をあやしていた冬花にはもう力が殆ど残っていなかった。

 それ故、純粋な力と意思である冬花は、侵食する憎悪に抗うことができず、憑かれてしまったのだ。


 「藍子姉、私がやろうか?」


 翠が冬花の姿に愕然とする姉に問い掛ける。

 その声に、藍子は我を取り戻し小さく首を振る。


 「ありがとう。でも、冬花さまが憑かれたのは私の責任です。」


 藍子の言葉に、翠はチラッと斎木を見る。斎木は相変らず気を失ったままで、翠の心に幾ばくかの嫌悪感を産み出す。


 「駄目ですよ、翠ちゃん。」


 翠の心の変化に敏感に気が付いた藍子は、翠の手を取って優しく微笑む。


 「周囲を渦巻く憎悪に、囚われてはいけません。」


 翠は、ここに来るまでに何度か斎木に対して嫌悪感や苛立ちを抱いていた。普段なら、こんなに心がざわつくことはないのに何故と思いながらも、その感情が湧いてくるのを止められなかった。


 「私もまだまだ修練が必要だね。」


 翠は藍子に微笑み返す。


 「あなたは前田さんと斎木さんを守ってください。」


 藍子は冬花と対峙する。

 翠は隅で震える前田の許に、気を失った斎木を引き摺って行き、障壁を張った。


 「何故、そやつを守る?すべての元凶であろう。」


 冬花は、斎木をかばう翠に、鋭い視線を移した。





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