歪められた社 伍
2-Ⅹ
「何だ、この力は…。」
冴種 香織と
このままここで綾子が出てくるのを待って、不意打ちで仕留めるつもりで居たが、それどころではなくなっていた。
「…時間が止まっているの?」
こんな途方もないことが出来る者を二人は知らない。
さっきまではっきり感じていた翠たちの気配も消えてしまった。二人はどうすれば良いのか解らず、もう一度、周囲を見回してみた。
香織は右手に力を込めて見る。
自分の内側から力は湧いてくる。だが、周囲から守護力を集めることが出来ない。
「あまりに異常な事態ね。どうしよう?」
香織が後ろに突っ立って黙っている雷應を振り仰いだ。
「取り敢えず、元凶を探した方が良くはないか?」
最もな意見に香織は少しウンザリした顔をする。
「そうなんだけどね、そうじゃなくて、この状態なら、禁忌の娘も固まってんじゃないかと…。」
自分たちが動ける以上、綾子やその周辺に居た翡翠の人間も動いている可能性はある。だが、止まっている可能性もある。
「少々、分の悪い賭けだな…。」
それでもやる気はあるようで、刀を引き抜く。
「まるで時間そのものが止まってしまっているみたい。」
香織は風に煽られて中空で動きを止めている袋を見ながら呟いた。その袋目掛けて飛び降りる。袋は香織の足で難なく地面に押し潰された。足に絡みついた袋は、触れている間は普通の袋だが、足から離れた途端、不自然な格好のまま動きを止めてしまう。
「何か、面白いな。」
雷應を見ると、まるで子供のように目を輝かせていた。
「こんなことで喜ぶな。私達は誰かの術中に嵌ってんのよ。」
香織が雷應の脛を蹴る。二人の足は防具に守られているため、軽く蹴ったぐらいでは痛くも痒くもない。
「でっかい図体して、いつまでも子供なんだから…。」
雷應に袋を渡すと、雷應は無邪気に遊び始めた。目の前で手を離すと、その場所から1ミリと動かずに止まってしまう。その端を掴むと、途端に重力が戻ってその形を変える。
香織は溜息を吐いて、雷應の遊びを見守る。
「…何がそんなに面白いんだか…。」
幼い頃から、人よりも強靭な肉体を持っていた雷應は、だがそれに反比例するかのように、いつまで経っても精神が成熟することがなかった。
戦闘においては、その強靭な肉体と、俊敏な動きで他者を圧倒するが、頭が動きについていかないため、その攻撃は直線的で動きを読まれやすい。
だが、その破壊力は聖血族随一と噂される程で、渾身の一撃を放てば、山肌を大きく抉り取ることも出来た。
そのあまりに大きな威力を押さえるために、普段は全身に纏った防具で力を封印している。それでも拳の一突きで直径10メートルある巨岩を粉々に砕くだけの威力を持っている。
その雷應の剣を、あの娘は正面から受け止め、流し、互角以上に戦っていた。あのまま二人の戦いが長引けば、頭が追いつかない分、雷應が不利になっていただろう。
そこで、香織は禁忌の娘を不意打ちすることにした。
だが、その動きは読まれ、難なく弾き返されてしまった。
刃を合わせた際に覗き込んで来た瞳は、紫色に輝き、一瞬吸い込まれそうな感覚に襲われたのを覚えている。
(上手く力を使えないようだったが、禁忌の娘を親友と呼ぶあいつが、一番の厄介者かもしれないな。)
香織は両手を見た。たった一回しか刃を合わせていないと言うのに、手の痺れが未だに取れていない。
翡翠 藍子が『翠ちゃん』と呼んでいたことを思い出す。
「…そうか、あいつが翡翠 翠――。龍牙の申し子か…。」
15年前、世界中の花が咲き乱れ、その誕生を祝ったといわれている娘。
「もしそうなら、やっかいなんじゃ…。」
袋で遊んでいた雷應が、香織の独り言に反応した。
「そうでもないわ。龍牙の申し子は期待外れっていう噂もあるからね。」
香織が袋を取り上げ、くしゃくしゃにして力を込めて頭上に放り投げた。雷應が手にした刀でそれを微塵切りにした。香織の力が込められた袋は、止まることなく、ひらひらと舞い落ちていく。
そこへ―…。
「見つけたっ!!」
振り返ると、当の本人が二人を睨みつけて立っていた。
「やっぱ動いてた。」
雷應がボソッと呟いた。
「これはお前の仕業か?」
香織が翠を睨み返して聞く。
「…あなた達じゃないの?」
逆に翠が聞き返してくる。
翠も香織も社の狐が時間を止めたことを知らない。
「綾ちゃんを殺そうと、あなた達がやったんじゃないの?」
翠は勘違いしてここへやって来ていた。
「確かに殺すつもりでいたが、残念ながら、私たちにこんな力は無い。」
香織はコートの下から、刀を引き抜いた。
「丁度いい、ここでけりを着けようじゃないか?」
香織は、龍牙の申し子と呼ばれる翠の力を見てみたかった。
綾子を発見するきっかけとなった三週間前の事件。
あの時感じた龍牙力は、半端無く大きかった。
蒼の一族が情報規制をかけるのに時間が掛かる程、周囲に大きな影響を与えていた。ニュースに流れる映像からでさえ、その残り香が溢れてきていた。
立ち上る力、それに呼応する巨大な光の龍。闇夜を明るく照らす優しい光。
悔しいが、ぎすぎすした心が癒されるのを感じた。
ここの特別展示であのときの写真を見つけたとき、足が竦み動けなくなった。
「お前が私を倒せれば、今後、私たち二人はあの娘に手を出すのをやめてやる。」
「白の一族全員じゃないんだ。」
日本刀を体の正面に構える香織に、翠は身構える。
「私たちはただの巡回者だ。一族の決定権は無い。」
香織は取り敢えず力試しとばかりに、刀を一閃した。すると刃の軌跡に沿って裂けた空気が、そのまま翠に向かって奔った。
(正宗はさっきの戦いで無理した所為で使えない。)
力が使えるかどうか、試してみる。
両手をクロスさせて、体の前に大きな龍牙力の壁を作ってみた。
「出来たっ!」
翠が喜ぶ間もなく、空気の刃が障壁にぶつかり、爆発を起こした。
「どう、私の裂空斬の威力はっ?」
まともに力を受けた翠を見て、香織は少し訝しく思った。軽く避けられる位には力を抜いている。それを正面から受けるのは馬鹿げている。
「……。」
香織は一歩足を踏み出して、翠との距離を詰めていく。翠は自分の両手を見ていた。
「何をしている?」
香織が刀を振り降ろし、更に裂空斬を放つ。手を見ていた翠は、不敵な笑みを見せて、裂空斬をまた正面から受けた。
「馬鹿にしているのか?」
香織がギュッと唇を噛んで唸った。
―時の彼方に眠りし龍牙よ
その鋭き牙を持ちて
全てを貫く刃となれ―
裂空斬を受けた直後、翠は呪文を唱え始めた。
翠の両手の間に水色の龍牙力が溢れだす。先程までの緩やかなスピードではなく、その光は瞬く間に大きくなっていく。
(こんなに簡単に力が出せるなんて…。)
気配は感じるし、力も自在に操れる。これなら…。
翠は顔がにやけそうになるのを何とか堪えて術を完成させる。
―牙神龍将 槍牙―
両手の間に産まれた光の珠が、上下に長く伸びて水色の光を放つ槍になる。
「光の槍?」
香織はさっき使っていた刀を出すのかと思っていたが、現れたのは光の槍だった。
翠は槍を構えると、一直線に香織に向かって突進してきた。
そのスピードは香織の予想を遥かに超えていた。一瞬で香織との間合いを詰め、槍を突いてきた。
香織は間一髪で槍を受け流し、更に突っ込んで間合いを詰め、刀を振り降ろした。
翠は動じることもなく、光の槍で激しい一撃を受ける。
「っく~!?」
香織はまたもや手に痺れが奔った。
(ただ受けられただけなのに…。)
香織はジャンプして一気に翠との間合いを空けて降り立つ。
「逃がさないっ!!」
翠は光の槍を香織に向けて放った。光の槍はぐんぐん勢いを増していく。
香織は即座に障壁を作り応戦する。
光の槍は障壁に達しても、その勢いを落とすことなく、香織を障壁ごと押しやる。
雷應が飛び出し、香織を支え、光の槍に自分の刀を撃ち降ろした。雷應の強靭な筋力は、光の槍の勢いを殺したが、光の槍は香織と雷應を巻き込んで爆発した。
その爆風は二人の体を軽々と吹き飛ばした。
「よしっ!!」
翠は思わずガッツポーズをした。
力が使える。
この空間の中だと、周囲から力を集めることは出来ないみたいだが、自分の中の力は使える。
吹き飛ばされた二人は、よろめきながらも何とか立ち上がる。
「雷應、結界を張りなさい。このままでは周囲に被害が出る。」
二人が吹き飛んだ先は幸い通路上で、車も人も居なかった。
隠里の結界は周囲の景色を真似て、異空間に新たなフィールドを創る術。そのフィールド内がいかに破壊されようとも、基になった場所には何も影響はない。
「その意見、同感。私も被害は出したくないもの。」
翠は、香織に自分の後ろが見えるように横に動いた。そこには柱に繋がれた犬が、入り口付近の飼い主らしき人物に向かって鳴いている姿のまま固まっていた。
「それで避けなかったのね。」
香織は少し感心した。
「お互い、守るものが多いと大変ね。」
香織は雷應に指示を出しながら、結界を張っていく。大きさは一辺が50メートルの正方形。
「ちょっと狭いかもしれんが、我慢してくれ。」
雷應はそう言うと、中心となる場所で銀の玉を上空に投げた。すると、四方に貼ったお札と反応して、空間が切り取られる。
「これで完成だ。」
周辺が少し光っただけで後は先程までと何も変わりない。
「結構、簡単にできるんだ。さっきもこうやってたの?」
翠は中空に浮かぶ銀の玉を見ながら、香織に聞いてみた。
「そうよ。あの時はあなた達が喫茶店でお喋りしている間に、下準備しておいたの。」
翠の存在をどうしようか考えていると、上手い具合に翠がターゲットから離れてくれたため、直ぐに結界を発動させたらしい。
返事は期待していなかったものの、意外に素直に答えてくれた。
「あなたはどうやってあの場所へ来れたの?」
結界が破られた形跡はなかった。少し離れた場所から、雷應と禁忌の娘の攻防を眺めていた香織の目には、突然、現れたように見えた。
「私の従鬼は結構優秀なの。私に感覚を貸してくれる時に、綾ちゃんの元へ道筋を示してくれていたのよ。」
穏鬼の空間移動は、短距離だが、界を越えることが出来る。目的地さえ解っていれば、何処へでも行ける。
もともと、隠里の結界自体、穏鬼が人々から隠れて暮らすために開発した術である。それが白の一族に何らかの方法で流出したもの。
隠里の結界に阻まれても、穏鬼にはその場所を隠せるものではなかった。
「成程、そういことね。元は穏鬼の術。覚えておくわ。」
香織は再び刀を構えて翠と向き合う。
翠も香織に応えて身構えた。
「あれ?じゃあ、社はあなた達に関係ないの?」
身構えたは良いものの、今の遣り取りで翠が偶然、綾子の傍を離れたと言われたことに気が付いて聞いてみる。
「あの社の気配は私たちには一切関係ない。ここを建てるときに地主が何かしたんじゃないの?」
話はここまでと言わんばかりに、香織は刀を横に一閃した。
「勝っても負けても文句なし。一対一の真剣勝負よっ!」
そう言って香織が地面を蹴り一気に翠との間合いを詰める。上段から振り下ろされた刃はしかし、翠の顔の直前で止まっていた。
刃を止めたのは桃色の光。
「な、に…?」
「…風神剣。」
二人の見つめる中で、桃色の光は質量を持ち始める。
「…血も出てないのに、どうして?」
香織以上に翠が驚いていた。
今まで、妙子が風神剣を使うのを何度か見てきている。その全てで自分の血を使っていた。血が出ていなくても、指先を噛み切って無理やり血を出して召喚していた。
それが、勝手に翠の手を動かして、目の前に
刃先から柄まで血の色で真っ赤に輝く風神剣は、だが、翠に何も話しかけてこない。
「風鬼童子?」
風神剣からはやはり何も返事が無い。だが、お腹の辺りが仄かに温かくなり、その存在を主張していた。
「…妙子さん。」
翠は一度目を閉じ、妙子を想う。
香織は、刃を結んだまま、目を閉じ笑みを浮かべる翠に、底知れぬ力を感じた。
(この子、一体どれだけ力を秘めているんだか…。)
何とか押し切って翠の体勢を崩そうとするが、翠はビクともしない。
目を開いた翠は、香織に水色に輝く瞳を向けた。
香織はその瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われ、思わず後ろへ飛びのいて間合いを空けた。
「風神剣、行くよ。」
翠は風神剣を下段に構えて、身を低くした。香織も刀を正面に構え直し、対峙する。
次の瞬間、二人は再び刃を交えていた。
二人の力がぶつかり合って周囲に波動を発生させ、近くにあった自動車を吹き飛ばした。
2-ⅩⅠ
その日、女性は子供を連れて家を出る準備をしていた。夫が返ってくる前に、早くここから出なくてはならない。これ以上ここに居ては、自分だけでなく大事な子供まで酷い目に会ってしまう。
昔は、優しい夫だった。
参拝客の殆どない街中の神社。
神主である夫は、路上で傷付いて倒れている犬猫にさえ、救助の手を差し伸べるような人物だった。
しかし、参拝客のない神社の経営は火の車で、夫は一攫千金を狙ってギャンブルに手を出すようになっていった。
夫婦は事ある毎に喧嘩をするようになり、家庭内は荒れていった。やがて夫は酒に溺れ、妻に暴力を振るうようになる。
それでも女性は、子供には両親が必要と思い、暴力に必死に耐えていた。
収入はないのに、ギャンブルと酒で借金は嵩むばかり。金融機関だけでなく、妻の実家や親友にまで借金する始末。
当然、子供を保育園へ通わせる余裕もなくなった。
この場所が神社であるにも関わらず、神には妻子を救う気がないようである。
夫は、いつも家に居る子供が
それを見た女性はついに子供を連れて家を出る決意をした。
ただ、家を出るにしても、元手はない。
夫がギャンブルに行っている間に、こっそり自分の服や貴金属類を質屋に出した。集めに集めた金額は、僅か5万円程度。
生活費などを考えると、大変心苦しいものの、両親に頼るしかなかった。
両親と連絡を取り、家を出る計画を練る。
決行は夫がいつも夜中まで入り浸る居酒屋に顔を出す木曜日。何故か木曜日の居酒屋には、借金まみれの夫を哀れんで酒を好きなだけ奢る金持ちが現れるらしい。
そのお金を持って帰ってくれれば少しは夫も昔のように優しくなったかもしれない。
何度もそんな考えが頭をよぎるが、それは叶わぬ願い。それに、結局はそれも人の金であることに違いはない。
とにかく、決行は木曜日。
木曜日の朝、夫はいつも通り前日の酒を引き摺ったまま家を出て行った。
女性は夫が神社の敷地から出てしまうのを待って、僅かばかり残った自分達の身の回りの物を鞄に詰め始めた。夫に見つからないように大事に冷蔵庫の裏に、封筒に入れて貼り付けていたお金を取り出し、その金額を確認する。
「大丈夫、見つかってない…。」
女性は安堵の溜息を吐いた。
お金の入った封筒を大事に鞄にしまい、未だに眠り続けている子供を起こさないように抱きかかえる。忘れ物はないか家の中をチェックし時計を見ると、時刻は既に11時を回っていた。
夜中まで帰って来ない筈。
その油断が、二人に最大の悲劇をもたらした。
急いで家を出ようと玄関に向かうと、そこには酔い潰れた夫が寝そべっていた。
「な、何で…。」
妻の小さな悲嘆の声が聞こえたのか、酔い潰れていた夫が目を覚まして顔を上げた。
「……何をしている? 何処へ行く気だ?」
呂律の回らない口調で、子供をおぶって大きな鞄を提げている妻に詰め寄る。
「あ…あの、これは…。」
押し寄せてくる冥い感情に、女性は後ずさって言葉を詰まらせる。
「俺を捨てて、何処へ行く気だ?」
女性は夫が手を挙げるのを見た。
振り上げられた手は、酔っているとは思えなくらい正確に妻の頬を張り飛ばした。
女性は強烈な一撃と、子供と鞄の重さでバランスを崩し、その場に倒れてしまう。
突然の衝撃に、ぐっすり眠っていた子供が目を覚まし、大きな声で泣き出す。その声に夫は苛立ち、廊下に座り込んで泣いている子供に、激しい蹴りを加える。その蹴りは一撃では終わらず、2度3度と続けられ、子供の泣き声はより大きなものになっていった。
軽い脳震盪を起こしていた女性は、子供の泣き声に我に返り、子供の上に覆い被さった。
その行動がまた気に入らなかったのか、夫は靴箱の上にあった花瓶を妻の背中に振り降ろした。背中に当たった花瓶は盛大な音を立てて粉々に砕け散った。
血は出なかったものの、女性は背中に走った激痛で気を失いかけるが、腕の中で未だに泣き止まない子供を守るため、歯を食いしばって何とか耐えた。
声も出さずに細かく震えながらも子供を庇う妻に、夫は更なる暴力を振るった。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがってっ!!」
夫の手には傘が握られていた。
何度も何度も子供を庇う妻の背中に打ちつける。何度も打ちつけるうちに、背中を覆う衣服は破れ、傘も折れ骨組みが飛び出す。
破れた衣服の下からは、赤黒く鬱血した肌が覗いている。
夫はそれでも容赦なく傘を打ちつけ、飛び出した骨組みが妻の肌を傷付け、血が赤い飛沫となって飛び散っていった。
目の前に映し出された凄惨な映像に、藍子は少し眩暈を覚えていた。
「…この地で起きた出来事じゃ。二人はこの後、地下室に閉じ込められ、母親は意識が戻らず子供の前で衰弱死したのじゃ。子供も、動かなくなった母親に泣きつき、そのうち眠るように死んでいった。」
この地に残された凄惨な記憶の残滓は、藍子だけでなく、狐も見るに耐えないのか、映像から目を逸らしていた。
「この男はこの後、ここに社を建てた。その下に二人の遺体を隠す為にの。」
「あなたはなぜこんな場所に降りてきたのですか? この残滓だけでも、この時の神社には邪悪な意思が感じられます。」
狐は驚いた。
先程まで、この領域の中で一切の気配を感じられなくなっていた藍子が、記憶の残滓から邪悪な気配を感じると言う。
「…解るのか?」
「こう見えても龍牙の巫女ですから。龍牙鬼神王の巫女として、いつまでも神力に負けてはいられません。」
大したものだと狐は頷き、藍子の質問に答える。
「我が主の命でな、哀れな魂をあやしてこいとな。あの男が呼び込んだ邪霊どもを払い、親子の魂を眠らせておったのじゃが、最近、上に運び込まれた物に触発されて、母親の魂が起こされてしもうた。」
この地に今、蔓延している冥い気配は目覚めた母親の夫に対する憎悪だと言う。
「あの男が子供を見捨てず助けておれば、母親は憎悪にとり憑かれることはなかったのじゃ。」
映像が、地下室の様子に変わっていた。
その中で、母親の霊が、自分の死体にすがって泣き続ける子供をあやそうとしているのが見えた。幾度となく声を掛けるが、子供にその声が届くことはない。
こんな状況の中でも、母親は助けを待ち続けていた。
夫が立ち直って子供を助けに来てくれる。そうでなくても、帰って来ない娘を心配して実家の両親が探しに来てくれる。この母親には未だ、憎悪の欠片も感じられなかった。
「何て人なのでしょう。私ですら、憎しみに染まってしまったことがあるのに…。」
藍子は呑気な人々に向けた幼い頃の憎悪を恥ずかしく思った。
「ただ、子供を助けたい一心だったのじゃろう。」
泣き疲れた子供は、心配する母親の声を聞くこともなく、母親の死体に寄り添って眠りに就いてしまった。
母親の霊は子供を守りたくて、透ける体で子供を抱き締める。
いつまで経っても誰も助けに来てくれない。
腕の中でどんどん弱っていく愛しい我が子。
母親は自分の不甲斐無さに涙を流す。それでも僅かな希望を持って、助けを待ち続けた。
子供が静かに息を引き取るその時まで…。
子供が息をしていないことに気が付いた母親は、狂乱した。それまで清らかな気配すら感じさせていた母親から、一気に憎悪の念が溢れ出す。
「どうして? 子供の霊はどうして出て来ないの?」
子供が息を引き取って直ぐに母親の前に出てきていれば、母親はまだ憎悪に憑かれることはなかったかもしれない。母親は子供の姿を探して、地下室中を彷徨い出す。だが、何処にもいない。
「あれじゃ…。」
狐は子供の首元を指し示した。その首には何か印が掘り込まれていた。
「邪霊に憑かれた男は、母親が気を失っている間に、子供の体に封印を施したのじゃ。」
邪霊が仲間を欲していたのだろう。死ぬ間際の母親の霊を仲間に引き入れんとして男を操っていたのだ。体に封印を施された子供の霊は、死した後もその体に囚われ、解放されることはなかった。
その後、社の下で母子の肉体は朽ち行き、封印の印が消えたことで子供の霊は解放されるも、母親の霊は既に邪霊に捕り込まれ、子供に手を差し伸べることはなかった。
「わらわがここに来て最初にしたことは、邪霊どもをこの地より祓う事。独りぼっちになって泣き続ける子供に母親を還してやりたかったのじゃ。」
憎しみに囚われた母親の霊は、狐の声に耳を傾けることはなかった。仕方なく狐は母親の霊を鎮めて眠らせることにした。いつか憎しみの念が消えて母子が再会できるようにと願いながら。
そのうち、神社は取り潰しに遭い、ショッピングモールの建設が進められた。
それでも男は社だけは残すように頼み込み、モールの中に社があることに話題性を感じたモール側の賛同で、社は残される事になった。
狐のおかげで邪霊から解放された男は、足繁くこの社に通い、母子に謝り続けていると言う。
「それでも罪を償うべく、警察に出頭はしないのですね。」
「人間は弱い。自分の犯した罪に向き合う勇気が出んのじゃろう。」
狐は少し苦い顔をして答えた。
「わらわが手を出すわけにもいかん。」
神に仕える者は、直接、人に手を出すことは出来ないらしい。悔しい思いをしながらも狐は、母子を見守ることしか出来なかった。
「まぁ、今更あの男のことはどうでも良いんじゃ。」
救って欲しいのは泣き続ける子供に、憎悪に狂う母親。
「龍牙の御使いよ、この通りじゃ、二人を救っておくれ。」
狐が頭を下げる。
「このままではあまりにも哀れ。あの二人にこそ、救いはもたらされるべきなんじゃ。」
藍子は屈んで狐を覗き込む。
「お狐様、差し障り無ければあなたのお名前をお教え下さい。」
狐は藍子を見上げる。
「わらわは…。」
「無理にとは言いません。ただ、そこまであの二人のことを想ってくださるあなたのことを、知りたくなっただけですので。」
藍子は優しく微笑む。
遥かに年上であろう狐だが、藍子には何だか親近感のようなものを感じて仕方なかった。
「わらわは
真名まで告げようとする狐を、藍子は人差し指で狐の鼻先を押さえて止める。
「真名は結構です。それを教えてしまったら、あなたはご主人様の許へ帰れなくなってしまいますよ。」
「う、む、そうじゃったな。やはり年かのぅ。少々呆けておるようじゃ。」
冬花は口を左右に開いて苦笑いをする。
「冬花さま、この領域の中であの二人を助けるのは至難の業。今の私では気配を感じるので精一杯ですもの。」
藍子はそう言って、綾子や黎、更にその向こうにある筈の翠や冴種姉弟の気配を探る。
近場にいる綾子の猫のぬいぐるみと黎の気配ははっきり感じることができる。
だが、翠と冴種姉弟の気配は殆ど感じられない。
この状態は、ここに来る前に翠の気配を探ったときと似ている。
「隠里の結界ね…。」
冬花を振り返った藍子は、一つ提案をする。
「冬花さま、取り敢えずこの領域を解除してください。母子を救うのは夜になってからにしましょう。」
昼間では客が多すぎて、時間が進む中では仕事をし難い。
「夜になったらもう一度ここに来ます。」
不安な顔をする冬花を安心させる為に、藍子は冬花と指切りをした。冬花は小さな手を包む藍子の小指を見詰める。
「…これは指切りと言えるのか?」
冬花は少し困ったような顔で藍子を見た。
「ふふ。形はどうでも良いのです。大事なのはあなたと私が約束をしたことですから。」
藍子の柔らかな笑顔に、冬花も吊られるようにニカッと微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます