歪められた社 肆
2-Ⅶ
冥い場所でその子は泣き続けている。
何故こんな場所で泣いているのかすら忘れてしまった。幼いその身に纏う衣服はボロボロで、足には靴も靴下も履いていない。体中、傷だらけで、どの傷からも血が溢れている。
どうしてこんな事になってしまったのか、その子は何も覚えていない。
その子の後ろにポッと灯りが灯ったと思うと、その中から小さな狐が現れた。その身には、屏風から飛び出してきたかのように、艶やかな十二単を纏っている。
「おお、よしよし。そんなに泣くでない。」
その狐は子供の側まで行くと、その小さな手でそっと頭を撫でて、あやし始める。体は小さいが、その声はしわがれて、その狐の年がいっていることを示している。
「大丈夫じゃ。もうすぐ、もうすぐお主を救ってくれる者がここへ来るからの。」
狐はそれでも泣き止まない子供を、その腕で優しく抱き締めた。
「済まぬのぅ。わらわにお主を癒してやれるだけの力が、残っておれば良かったのじゃが…。」
狐は自分の不甲斐無さに泣きそうになるのを堪えて、抱き締めた腕から温もりを分け与えた。
「早よぅ…早よぅ来ておくれ。龍牙の御使いよ。」
冥い空間に、子供の泣き声と、狐の願いだけが吸い込まれていく。
2-Ⅷ
三人が出てきた廊下は薄暗く、客の賑わいは遥か遠方から響いてきているようだった。
「うわ、派手な人。」
「これ自毛だから。」
「あなたの髪も?」
今は黒いが、ついさっきまでは確かに水色だった。いつの間にか、左手に持っていた日本刀も消えている。
「
翠の返事を待たずに藍子に詰め寄る。
答えようとしていた翠は少し拗ねて、それに気付いた綾子が『いい子いい子』と翠の頭を撫でる。
「はい。」
藍子は悪びれる風もなく、汀に無邪気な笑顔を見せる。
「あなた自身が聖血族だったんじゃないっ! 空間を捻じ曲げるなんて、普通じゃ絶対ありえないでしょっ! あなたもっ!」
汀は藍子に詰め寄った後に翠を指差した。
「私たちの存在は一応、極秘だから…。」
翠が苦笑しながら答える。
「極秘ねぇ…。」
汀が翠の顔を覗き込む。
「瞳の色は変わらないのね。紫のままだわ。」
「あ、これは…。」
翠が慌てて左手で目を隠す。
「翠ちゃん、早く黎さんに感覚を還してあげなさい。このままではいつまでも動けませんよ。」
長椅子に横たわる黎は、眠っている訳ではない。視覚・聴覚・味覚といった全ての感覚を翠に渡してしまっているため、動けないでいるだけ。
「あなたがどうして黎さんの感覚を借りているのか解らないけれど、あまり長いこと借りていると、それが定着してしまって還せなくなりますよ。」
藍子が黎の固そうな紫の髪をツンツン引っ張りながら言った。
「言っていることと、やっていることにギャップが…。」
黎をおもちゃにしている藍子を見て、綾子が苦笑する。
「こんな時でもないと、遊べませんもの。」
藍子は、黎の頬を軽く引っ張りながら答える。
「藍子姉、その感覚、今私のほっぺにあるから。」
「あら、そうなの?」
藍子の意外そうな顔に、翠は頬をさすりながら頷く。
「藍子さんでも知らないことがあるんですね。」
藍子は何でも知っていると思い込んでいたが、それが違うと解り、綾子はちょっと嬉しくなった。
「この子は知らないことだらけよ。大学でどれだけこの子に振り回されたか…。」
手を額に当てて『世間知らずもいいとこよ』と、大袈裟に首を振る汀。
「それより、翠ちゃん、早く。」
藍子は汀の言葉を無視して、翠に返還を促す。翠は黎の額に手を翳す。
―永き時を駆けて
築かれし思いよ
その力、その願いを
今、還さん―
翠の手のひらから、黎の額に向けて淡い紫色の光が流れ込む。紫色をしていた翠の瞳が、水色に変わっていく。
閉じられていた黎の目がゆっくり開いた。
「お前ら、遊んでんじゃねぇぞ…。」
起き上がった黎は不機嫌そのものだった。
「感覚を貸している間はそいつが見聞きしたり、感じていること全てが、俺にも伝わって来くんだからな。」
「はっきり言って、気持ち悪かった。どこまでも感覚が広がって、世界の隅々まで感じ取れてしまうようなそんな感じ。小さな虫の気配まではっきり感じ取れたわ。」
その感覚のおかげで翠は、綾子の居場所を見つけることが出来た。
「それに、さっきの人たちの気配も感じ取れた。まぁ、闘争心剥きだしだった所為かも知れないけどね。」
「気配を消す紋章も万能じゃあねぇってことだ。普段なら、俺の感覚を持ってしても
黎は綾子を見ながら言った。今の綾子からは翠から与えられた気配がある。だが、綾子自身の気配は一切感じられない。
「私には良く解らないんだけど、気配ってそんなに大事なの?」
綾子が首を傾げる。
「気配が無きゃあ、翠はお前を助けられなった。」
黎の簡潔な答えに、綾子はちょっと怖くなった。
翠が居なくても自分の力で何とかしようとしたが、全く手も足も出なかった。翠が来なければ今頃は…。
「あまり怖がらせないの。」
藍子が綾子をそっと抱き寄せる。
「藍子姉の方が、ある意味怖いと思う。」
綾子を抱き締める手つきに翠が警戒を促す。
「う…ご、ごめんなさい。」
綾子が藍子から離れる。
「あん、残念。柔らかくて気持ち良かったのに…。」
「…相変わらず変態なのね…。」
藍子の行動に汀は溜息をつく。
「相変らずって、藍子姉、外でもやってたの?」
「そうよ。可愛い女の子を見つけては片っ端から声を掛けて、盛大に振られていたわ。」
翠が藍子をじろっと睨み付けても、藍子は素知らぬ顔で動じもしない。
「私のことより、翠ちゃん、今はあなたのことを話しましょう?」
藍子が翠を見る。
「あなたはどうして、黎さんの感覚を借りたの?」
藍子の言葉に綾子と汀も振り返る。
「……。」
「いつもの翠ちゃんなら、安易に人の感覚を借りようとはしなかった筈です。」
黙りこんでしまった翠に、藍子は微笑みかける。
「何も責めている訳じゃありません。ただ、さっきも言ったように還せなくなる可能性があります。そうなれば相手は一生動けなくなってしまいます。」
戦いが長引いていれば黎は、立ち上がることが出来なくなっていたかもしれない。
翠は白状することにした。
「…実は目が覚めてからこっち、気配を全く感じられなくなってしまって、力も上手く使えないの。」
そう言って翠は左手を前に出して、龍牙力を集めてみせる。しかし、左手には少しずつしか集まらない。
「…もどかしくて、その上、失敗ばかり。焦りだけが先走って、綾ちゃんを助けるにはこれが一番いい方法に思えたの。」
左手に集まった力を散らして握り締める。
「じゃあ、この気配も感じられないの?」
綾子はポケットからスマホを取り出して、猫のぬいぐるみを見せる。
「…残念なながら…。」
翠は困ったような顔をして、頷いて藍子を見た。
「これは重症ね。自分の力の気配も感じられないなんて。」
藍子は翠の額に手を翳してみる。
「力自体は失ってはいないようですが、その加減が出来ない。」
藍子は顎に手を当てて考え込む。
「私にしても、初めての症例ではっきりとは言えませんが、考えられることは、封印が解けたことによって、心身ともに力に順応しきれていないために、支障をきたしているんじゃないかしら。」
「わ、私の
綾子は翠の懸念を口にした。
「相殺の力を浴びた直後には普通に使えていたようですから、それはあまり関係ないと思いますよ。」
翠は相殺の力で龍牙力を失った後、周囲から力を集めて"魔性転生"を行っている。相殺の力が関係しているのであれば、翠はそれすら出来なかった筈。
「ねぇ、藍子姉、一つ聞いていい?」
翠が小さく手を上げて口を挟む。
「何ですか?」
翠には藍子の言葉に引っ掛かる場所があった。
「封印って何? 私、封印されていたの?」
そういえば、夢の中で会った【翠】も『封印が解けた』と言っていた。
今の今まですっかり忘れていたが、これらは自分には何らかの封印が施されていたことを示している。
「……。」
封印について話すつもりのなかった藍子は、何と答えて良いのか解らず、言葉に詰まってしまった。
「何か知っているのなら教えて。」
翠は今、自分自身が解らなくなっていた。一体何がいけないのか、どうして力が使えないのか。
先程の冴種との戦いでも、結局、ブースト系以外は使っていない。と言うより、上手く力を集められずに使えなかった。そのブースト系すら、吹き抜けを飛び越えた後の着地で盛大な音を立てた事を考えると、やはり失敗していると言っていい。
『封印が解けた』。それが原因なのなら、いつどうやって誰に封印されたのか、知りたかった。
「…黎、あなたは知っているの?」
珍しく黙り込んだ藍子から、自分の従鬼に視線を移す。
「お前の力が封印されているのは知っていた。恐らく、俺を従鬼にした直後からだと思うが…。」
黎も詳しくは知らないらしい。
「あの頃は、目が覚めたばかりで、様変わりした世界を見て回るので忙しかったからな。気が付いたときには封印されていやがった。」
主従関係を結んだばかりの従鬼はまだ他人そのもの。離れていればお互いの身に起きた事など、知りよう筈もない。
「…それって、従鬼失格なんじゃありません?」
黎の言葉に、藍子が珍しく感情を露わにし、激しく睨みつけた。その声には少し怒りのようなものも窺える。
「藍子姉?」
いつにない藍子の態度に、翠は戸惑っていた。
「誰が失格だと…?」
黎が低い声で応じる。
「主の危機に、呑気に社会見学だなんて、あなたは何のためにいるんですかっ!?」
藍子が激昂して、黎に向けて龍牙力の塊を放った。至近距離で放たれた力は防ぎようがなく、黎はそのまま壁に叩き付けられて磔にされる。
綾子と汀は何が起こったのか解らず、うろたえるばかりである。
「藍子姉、何するの?」
翠が藍子の腕を押さえるが、黎に向けて突き出された腕はびくともしない。
壁に叩き付けられた黎は、龍牙力で押さえつけられ、声も出せずにいる。
普段おっとりしている藍子だが、その力は聖血族随一。
世界中に存在している聖血族の中で、数少ない聖龍牙力使役者。
治癒師であるため、攻撃系の術は苦手だが、それでも基礎的な術は問題なく使えるし、その威力は他の術者のそれを遥かに越えている。
それに比べ、黎は元魔王とはいえ、今は翠の従鬼となり、その力は普段、血の契約により抑えられている。その上、翠がずっと眠っていたため、黎は未だに翠から血を与えられていない。使える力は大きく限られていた。それでも黎は、歯を食いしばり抵抗しようとする。
「あなたが翠ちゃんの側を離れなければっ!」
藍子が目を見開き更に力を込める。壁が耐え切れずにひび割れ始めた。
「藍子姉っ!!」
このままでは黎の骨が粉々に砕けてしまう。
翠は意を決して、藍子の脇腹に掌底を打ち込むが、藍子の力で楽に弾き返され、逆に翠が薄暗い廊下を吹き飛んでしまった。
「み~ちゃんっ!?」
綾子と汀が翠の許に駆け寄って抱き起こす。藍子は綾子の叫び声で正気を取り戻し、吹き飛んだ翠を振り返る。
それにより黎の束縛は解け、床に落ちた。
「~やってくれる…。」
黎は、ふらつきながら立ち上がる。
「藍子姉、一体どうしたの?」
翠は綾子の支えを断って、藍子に近付く。
「確かにあの時、翠の側を離れていた俺が悪りぃ。だが、それだけで今の行動は解せねぇ。説明しろ。」
黎は藍子を警戒して、翠とは反対の方向に位置を取る。
「ごめんなさい。取り乱してしまいました。」
藍子は黎に頭を下げる。
「けれど、あなたが翠ちゃんの側を離れなければ、妙ちゃんが
「え、何…?ほうと…?」
神修道法術 封人――。
翠は封人を知らない。それがどういった術なのか想像もつかない。藍子の向こうにいる黎を見ると、驚いたような顔をしている。
「知っているの、黎?」
翠の問い掛けに黎は小さく頷いた。
「封人は人を核とする封印だ。核が死ななきゃ封印は解けねぇ…。」
黎が低く抑えた声で簡潔に説明した。
「…死ぬ…。」
翠はそっとお腹を押さえる。
「本当なのか、藍子。封人なんて、そんな簡単に使っていいもんじゃねぇだろ!」
黎が声を荒げる。
「…人の中にある混沌の暴走を防ぐには、有効な手段の一つです。これまでにも何度か実際に使われています。」
藍子は抑えた声で、淡々と説明する。
翠は眩暈がして少しふらつく。綾子が慌てて翠の肩を支え、先程まで黎が横になっていた長椅子に座らせた。
「大丈夫、み~ちゃん?」
「…うん。」
覗き込む綾子からは、翠の表情は長い黒髪で隠れて良く見えない。
「…み~ちゃん…。」
支える肩が少し震えているようだった。
「私が…。」
「え?」
顔を伏せた翠から、聞き逃してしまいそうな程小さな声が漏れた。
「私がいけないんだ。あの時、混沌を押さえられず、大きな被害を出してしまったから…。」
封印から目醒めたばかりの龍鬼童子を従鬼にしたあの日―。
翠が目醒めさせた龍鬼童子は、正気を失い暴走した。その暴走に綾子が巻き込まれそうになり、翠は無我夢中で力を使った。
力の使い方をまだ良く知らなかった翠は、聖龍牙力を暴走させ、それが混沌となって周囲の物を異空間へと吸い込んでしまった。吸い込まれた物が何処に行ったかは解らない。確かめようも無い。
だが、人的な被害は無かったものの、小さな子供が惹き起こすには余りに大きな惨事だった。
「私の所為で、妙子さんが封印の核に…。」
頭を抱え込む翠に、藍子はそっと囁いた。
「あなたの所為ではありません。封人は核となる本人の同意が必要です。妙ちゃんは望んであなたの混沌を封じる役目を受けたのです。」
藍子の説明に翠は顔を上げた。その瞳には悲しみが見て取れた。
「妙子さんが…自分から……。」
翠の様子に、藍子は綾子と汀を連れてその場を離れることにした。
「翠ちゃん、私たちは先に行っています。少しここで心を落ち着けなさい。」
綾子を促そうとすると、翠が綾子の服を掴んできた。
「み~ちゃん。」
それを見た藍子は、少し悲しげな顔をした後、汀だけを連れて歩き出した。
「俺も行く。何かあったら呼べ…。」
そう言葉を残して黎も姿を消した。
「人避けの結界を張って行きます。」
黎が消えたのを確認してから藍子は結界を張って、人通りの多いメイン通りへと出て行った。
翠の隣に再び腰を下ろした綾子は、そっと翠をその胸に抱き締める。
翠は声を押し殺して泣いていた。
2-Ⅸ
メイン通りに出た藍子は、多くの人が行き交う平和そのものの景色に、少し目を細めた。
今、目の前を歩く人達の中に、魔族と聖血族の戦いを知っている人は一体どれだけいるのだろうか?翠も言っていたが、聖血族の事は世界規模で極秘扱いされている。
事件に関わった者の中にすら、記憶を操作され、事件自体がなかったものにされていることもある。
昔は何も知らずに平和を謳歌する人々に、憎悪したこともあった。
ただ、目の前で失われる命の儚さに気付いてからは、そんな憎悪が顔を出すこともなくなり、救いたいという願いだけが残った。
だが、願いだけで人を救えるわけではない。その願いに叶うだけの力と地位が必要だと解り、攻撃系の術が苦手な彼女は、幼い頃から目の前にあった"龍牙の巫女"に飛び付いた。
龍牙の巫女になれば、直接は救えないが、その力を持った人たちを守り導くことができる。
そう思っていた―。
だが、藍子は妙子を守れなかった。
妙子と翠なら大丈夫。実際、二人を組ませれば、これまで確実に依頼をこなしてきていた。
その思い込みが藍子の判断を鈍らせていた。占いにより出た結果よりも、二人の功績を優先させた結果、妙子を死に至らしめ、翠を傷付ける羽目になった。
あの夜、妙子は達観したように笑っていた。
『自分の死は一つのステップでしかない。』
妙子のその言葉は、翠の今後に大きな苦難が待ち受けていると予言しているようで、藍子は気が気じゃなかった。
だが、救いがないわけではないように思えた。
冴種 綾子―。
まるで、妙子の代わりになるかのように現れた彼女に、翠は心を開き始めている。
今まで、妙子と黎の前でしか泣かなかった翠が、綾子を引き止めた。本人が意識しているかどうかは解らないが、確実に翠は綾子に惹かれていた。
だが、彼女が翠の傍に居るには、あまりに弱過ぎる。
相殺の力は切り札にはなるが、自由に使えるわけではない。力を使えない以上、綾子はこのままでは翠の "お荷物" でしかない。
「…どうすれば…。」
藍子は小さく呟いた。
「考え込んでいるとこ悪ぃが、お前には見てもらいてぇもんがある。」
黎が藍子の横に姿を現す。
「…この冥い気配のことですか?」
「気配?」
汀は周囲を見回すが、当然、変わったものが見えるわけもなく、首を捻る。
「古狐が俺を入れてくんねぇからな、調べようがねぇんだ。」
情けない顔を見せる黎を見て、藍子はくすくす笑った。
「な、何だよ…?」
「元魔王とは思えない発言だと思って。」
元とはいえ、魔王が狐に遠慮して手も足も出せないなんて、翠が心を許す訳が少し解った気がした。
「先程は本当にごめんなさい。あなたへ八つ当たりをしてしまいました。」
藍子は素直に黎に頭を下げて誤った。
「べ、別に良いさ。俺が悪かったのも本当だからな。」
黎はやけに素直に詫びる藍子が気持ち悪く、目を逸らしてしまう。
顔を上げた藍子は、汀に視線を移した。
「先輩はここで待っていてください。というか、帰ってください。」
黎への素直な態度とは逆に、『あなたには関係ない』と言わんばかりの冷たい態度に、汀は少しむっとした。
「嫌よ。ここまで巻き込んでおきながら、今更、部外者扱いはないんじゃない?」
汀の態度に藍子は少し困った顔をしたが、何も言い返さずに歩き出した。
「無視するなら、付いて行くわよ。」
「…ごめんなさい。」
不用意に近付いてきた汀の額を人差し指でトンとつついた。
「な…に、を…。」
汀は突然気を失ってその場に崩れ落ちる。
「黎さん、お願いします。」
黎は気を失ってぐったりしている汀を軽々と抱え上げ、近くのベンチに横たえた。
「お前、結構手荒なんだな。」
「これ以上、危険な目に遭わせたくないだけです。彼女からは、私たちの記憶も消した方が良いかもしれませんね。」
世界中の奇跡を追い駆け、多くの写真を撮り続けている汀。
その目標の一つに聖血族がある。
自分達が聖血族とばれた以上、彼女は危険を顧みず、追ってくるかもしれない。
「あまりしたくはないのですけど…。」
「良いんじゃねぇのか?こいつも今回のことで危険なこたぁ解っただろ。後はこいつの問題だ。」
危険を冒してまで追ってくるかどうかは汀の問題。藍子は気にする必要は無い。
「こいつも大人なんだ。責任はテメェで取るさ。」
黎はそれだけ言うと、社の方に向かって歩き出した。
「…問題はそれだけじゃないのだけれど…。」
藍子は少し困った顔をして汀を見たが、何もせずに黎の後を追い駆けた。
社に着くまでに二人は注目の的になっていた。
水色の巫女服と、紫の髪をした男女が、一緒に歩いていれば目立ってしょうがない。
「お互い目立ちすぎだな…。」
黎がボソッと呟いた。
「そうですねぇ…どうしましょうか?」
「いや、俺に聞かれても…。」
これだけ注目されると、
「迂闊でしたね。取り敢えずはこのままやり過ごして、人目につかない所まで行きましょう。」
「さっきもそれやって、さっきの通路に辿り着いたんだぞ。」
黎は少しウンザリした様子で言った。
「あら、そうでしたの。」
社を横目で確認すると、確かに柵の内側に立派な十二単を着た狐がいた。狐は藍子と目が会うと、嬉しそうに手招きした。
「黎さん、あの狐、私を待っているようですわ。」
藍子が社の前で立ち止まってしまい、黎も仕方なく振り返る。
「目障りな狐だろぅ?」
黎を通せんぼにした狐は、やはり只者ではないようであり、藍子はその身から神力を感じ取っていた。
一歩近付いてみる。藍子の動きを見た狐が、口を横に開いて目を細めた。
「もしかして笑っているの?」
何気に気持ち悪い顔に、藍子は少し苦笑した。
「待ち侘びたぞ、龍牙の御使いよ。」
十二単を纏った小さな狐の口から、しわがれた声が発せられた。
「藍子、良いのか?目立ってんぞ。」
「鬼に用は無い、早々に立ち去れい。」
藍子に近付く黎を、狐が激しく睨みつける。
「何だ貴様、俺の何が不服だ?」
あからさまに嫌な顔を見せる狐を、黎は睨み返す。
「鬼は邪魔じゃ。魔界へ帰るのじゃっ!」
狐が牙を剥いて食って掛かる。
「…ほぅ…。」
黎が剣呑な表情を浮かべる。
「黎さん、挑発に乗らないで下さい。あなたは鬼ではないでしょう。」
藍子が二人の間に割って入って、軽率な黎を
「あなたも、良く見れば解るはずでしょう?彼は穏鬼です。」
相変らず牙を剥いている狐に、藍子は困り顔で話し掛けた。
「穏鬼じゃと? 馬鹿な、滅んだのではないのか?」
狐は十二単の袖をぶんぶん振りながら声を荒げた。
「誰が滅びるかっ!数は減ったが、現存してらぁっ!!」
「何じゃ、絶滅危惧種か…。」
勝手に滅ぼされて憤る黎とは逆に、狐は冷たい視線を投げる。
「鬼じゃろうが、穏鬼じゃろうが、神に属さぬモノは嫌いじゃ。」
「ふざけんな…。先に手を出したなぁ、貴様等だろうがっ!? 鬼神龍女を騙してっ俺達から奪い取ったくせにっ!!」
段々、激昂していく黎の声は、恐ろしく低く、だが、周囲に響き渡って行った。
派手な二人を遠巻きに見ていた周辺の人だけでなく、多くの人々が首を竦め、足を止めて振り返る。周囲がざわめき、更に多くの野次馬が増えていく。
「黎さん、落ち着いて。これ以上目立っては…。」
焦る藍子を見て、狐が一声甲高い声で鳴いた。すると、野次馬の動きが止まった。
「…これは…。」
藍子と黎は周囲を見回した。
「時間を止めたのか?」
黎が信じられないと言った様子で狐を見る。
「龍牙の御使いが、目立つと困っておったからの…。力のない者はこの中では動けんよ。」
狐は『お主には出来まい』と勝ち誇ったかのような顔で、黎を見返す。
「…何も感じない…。」
藍子も黎も、気配を感じ取れなくなっていた。
「何故だ?」
動揺する二人に狐は、にっと牙を見せて笑った。
「面白かろ? ここは神の領域じゃからの。神力を持たぬ者は、その力に制限が掛かるのじゃよ。まぁ、個人差によるがのぉ。」
《黎、聞こえる?》
勝ち誇った笑みを浮かべる狐にむかつくも、頭の中に響いた翠の声に黎は振り返った。
《どうした?》
声の感じから、切羽詰っているわけではなさそうだ。
《綾ちゃん、そっちに向かわせたから、保護してくれる?》
《どういことだ?何があった?》
綾子の姿を探して、周囲を見回して見る。
「黎さん?」
藍子が黎の動きに振り返る。
《まだ奴らがいるの。だから、綾ちゃんを守って。》
《気配を感じられるのか?》
時間が止まる前、冴種の術者二人の気配は、完全に消えていた。力を使わなければ黎でさえ感知できない気配を、この異常な空間の中で、翠には感知できると言う。
《大丈夫か? そっちへ行こうか?》
さっき別れるときの翠の打ちひしがれようを思い出し、助力を申し出る。
《ありがと。でも大丈夫だから。私より綾ちゃんをお願い。黎と一緒だと安心だから。》
翠の言葉に、黎は少し顔を赤くした。
《わぁった。綾子は俺が預かる。だが、無理すんな。危ない時は喚べ。》
《うん。》
通信が終わった時、ちょうど綾子が動かなくなった人垣を擦り抜けて現れるのが見えた。
「綾子ちゃん!」
綾子を見つけた藍子が綾子に駆け寄る。
「藍子さん、み~ちゃんが一人でさっきの人たちの所に…。」
綾子はすがるような顔で藍子を見る。
「黎さん、本当ですか?」
藍子が問い掛けると、黎は首を縦に振った。
「あんな状態の翠ちゃんを一人で行かせる気ですか?」
藍子が黎を睨む。
「翠は今、あの二人の気配を辿っている。俺らですら、気配を感じられないこの状況でだ。」
「それって、力が回復したということですか?」
この異常な状態が、翠を回復させたのか、藍子は少し首を捻る。
「違うな。時間が止まったから、正常に使えるようになっただけじゃ。」
十二単の袖を振りながら狐が口を挟んだ。
「あの娘、最近大きな力を手に入れたのではないか?」
狐が言うには、大きな力を手に入れたは良いが、その力を持て余し、周囲の力の影響を受けてまともに操れなくなっていると言うことらしい。
「つまり、この止まった時間の中では、影響を与える周囲の力も止まっておる。それ故、あの娘は力を操れるようになったのじゃ。じゃが、持て余していることに違いはない。下手すれば暴走するじゃろう。」
危険な状態であることに変わりはないようだ。
「あ、あの、早くみ~ちゃんの所に…!」
綾子が藍子の手を牽いて連れて行こうとする。だが、藍子は動かなかった。
「藍子さん…?」
藍子は真剣な顔を和らげて微笑んだ。
力のない者は動けない。狐は確かにそう言った。だが、綾子は動いている。相殺の力の所為かどうかは解らない。藍子は綾子を鍛えようと決意した。
その為には綾子も強くなってもらなわなくてはいけない。
「綾子ちゃん、これはチャンスだと思うの。翠ちゃんが手にした力を自在に操れるようになるには、厳しい訓練が必要です。でも、翠ちゃんは基礎はしっかり出来ています。」
「基礎がしっかり出来てりゃぁ、実戦に勝る訓練はねぇ。相手が聖血族なら、殺されることはねぇだろうしな。」
藍子と黎には翠を助けに行くつもりが全くないようである。
「でも、暴走するって…っ!?」
穏やかでない言葉を耳にした綾子は、落ち着かなくなっていた。
「その時は俺が駆け付ける。気配は感じられなくとも、翠の思考は追い駆けられる。」
翠と黎は従鬼の契約を結んでいる。二人は翠の血で繋がっている。翠が死なない限りは何処にいても必ず見つけられる。
「のぅ、そろそろ、わらわの願いを聞いてもらえまいか?」
狐が柵の内側から藍子の顔を覗き込んで来る。
「解りました。黎さん、あなたは綾子ちゃんとここで待機していてください。綾子ちゃんの力はいざと言うときに翠ちゃんの役に立つでしょう。」
相殺は全ての力を無効にする。暴走に手が付けられなくなったときの保険となる。
「綾子ちゃん、あなたは翠ちゃんの力になりたい?」
藍子の問い掛けに綾子は迷うことなく首を縦に振る。
「なら、ただ心配するだけではなく、時には見守ることも必要となります。翠ちゃんがこの戦いで力の使い方をしっかり学んでくれれば、翠ちゃんは今まで以上に強くなれます。」
綾子をそっと抱き締める藍子。
「翠ちゃんを信じて。それがあの子の力になるから。」
綾子に心を開き始めている翠。綾子を傍に残したがったのが何よりの証拠。綾子なら、翠を支えられる。
「翠ちゃんの力になりたいのなら、あなたも強くならなくてはね。」
翠を信じる強さ。待つ強さ。強さにもいろいろある。
綾子が翠の側に居たいのなら、戦う強さの他にも身に付けなければいけないもの。
「良いですね?」
まっすぐ見詰めてくる藍子を、綾子は少し眩しそうに見て小さく頷いた。
「良い子ね。」
藍子は綾子の頭を軽くさすると、狐に向き直った。
「お話、お聞かせ下さい。」
藍子の真剣な眼差しを見て、狐は何も言わず頭を下げた。
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