歪められた社 弐

2-Ⅱ


 綾子に引っ張られながら、みどりは眩しそうに綾子を見つめる。

 翠にとって、綾子は初めての友人だった。




 翡翠ひすい本家の中だけで生きてきた翠には、修練の際に同年代の生徒もいたが、大人たちから期待外れと言われているくせに自分たちより強い翠には皆、冷たかった。

 聖血族は、勉学よりも魔族と戦うことを優先させられているため、15歳で独り立ちするまでは学校には通えない。その間、勉学は修練の合間に家庭教師が教えることになっている。

 それ故、翠には友人と呼べる相手がいなかった。


 15歳になり、独立し福岡へ赴任が決まり、高校に入学して、同年代の女の子が同じ教室の中ではしゃいでいるのがとても新鮮だった。

 共学も選択肢にあったのだが、一般の人に混ざって初めての独り暮らしなので、高校は少しでも自分に近い存在である女の子が集う女子高を選んだ。

 それでもやっぱり不安があったため、体験入学があることを知って参加してみた。


 こんな世界があるのかと、集合場所の体育館の壁に背を預けて女の子たちを眺めていると、一人だけ奇妙な子がいた。

 最初は目の錯覚かと思った。

 大勢いる女の子の中を一瞬チラッと横切った影。

 大勢、人が居れば、それぞれの発する気が重なり合ってそこに人がいるような錯覚を起こすこともある。最初はそれだと思って気にしなかったが、それがその日に限って頻発していた。

 体調が悪いのかと思い始めた頃、その子は突然目の前に現れた。

 目頭を抑えていた翠に、気配のない場所から声が掛かったのだ。


 「大丈夫?」


 驚いて目を開けると、下から女の子が覗き込んでいた。

 さっきから視界を横切っては消える錯覚が、しっかりした質量を持ってそこに存在していた。


 「あ、あなた…。」


 思わず後ずさろうとするが、後ろは壁。翠は後頭部をしたたかに打ち付けた。


 「いったぁぁ~~。」


 頭を抱えてうずくまる翠に、女の子が慌てて手を出してきた。


 「だ、大丈夫? 驚かせて、ごめんなさい。」


 翠は差し出された手を取って立ち上がる。

 手を取っても、女の子からは何の力も感じなかった。生きている以上、有り得ないことに翠は首を捻る。

 しかし、その疑問も、女の子の自己紹介ですぐに解決した。


 「私、冴種さえぐさ 綾子。宜しくね。」


 その苗字を聞いて、翠は以前、教えられたことを思い出す。

 冴種一族。それは聖血族の一つ。自分たちとは違う白の系統に連なる者。

 魔族との無用の衝突を避けるため、気配を消す紋章を体に刻み、隠里で暮らす一族。

 女の子が同姓の可能性もあるが、気配をまったく感じない以上、まず間違いないだろう。


 「私は、翡翠 翠よ。こちらこそ宜しく。」


 綾子は瞳をキラキラさせて翠を見詰めてきた。


 「な、何…?」


 翠は少し気圧されてしまう。


 「あ、ごめんなさい。ついっ!」


 顔を赤らめて視線を逸らす綾子には、やはり気配というものがなかった。


 「見事なものね。でも…。」


 気配がない人間というのは不自然極まりない。


 「あなた、ここの近くに住んでいるの?」

 「うん、そうだよ。学校から大体1キロくらいかな。」


 この学校の1キロ四方は完全に住宅街だ。隠里が存在している様子もない。

 街に暮らす隠里の一族。何か訳有りなのだろう、とにかくこのままで良い筈がない。


 「これあげる。」


 翠が綾子の前に左手を差し出した。

 綾子は不思議な顔をしながらも、翠から手のひら大の何かを受け取った。

 見ると、それは猫のぬいぐるみのストラップだった。


 「かわいい~~。」


 綾子は猫のぬいぐるみを握り締める。


 「ありがとう!」


 綾子の満面の笑顔に、翠は少しばつが悪そうに微笑み返した。

 この子は何も知らないのかもしれない。

 もし術者なのなら、渡したぬいぐるみが何か解るはずだから。だが彼女は何の疑いもなくぬいぐるみを受け取った。


 「あ~、あのね…。」


 翠が話しかけようとしたとき、集合の合図が掛かった。


 「じゃあまたね。」


 綾子は軽く手を振ると、女の子の集団の中に戻っていった。




 後日、入試のとき、翠は仕事が入り当日に受験することは出来なかった。

 だが、一族の力か、翠は別日に内容を変えて受験することが決まり、見事合格した。そして、入学式で綾子と再開した。


 まさか同じクラスになるとは思っていなかったが、翠は綾子が近付いてこないので、取り敢えず距離を置くことにした。

 相変わらず気配がないことから、ぬいぐるみを持っていないことは明らかである。

 せっかく持ち歩きやすいようにストラップにしたというのに…ちょっと翠はへそを曲げていた。


 夏休みに入るまで、お互い気にはしていたものの、二人はこの距離を保ち続けた。

 体験入学のときの積極的な態度とは裏腹に、綾子は大人しく、どっちかというと人見知りしているように見えた。

 仕事の関係上、よく欠席している自分と違い、綾子には友人自体は直ぐにできたようだが、何処となく余所よそしく見受けられた。

 たまにぬいぐるみの気配を、綾子のスカートのポケットあたりから感じることもあったが、綾子は翠を敬遠しているようだし、翠からは決して近付いていくことはなかった。


 妙子以外に、これ程気になる存在は、今までいなかった。


 気配がない事以外に何処が気になるのか解らないが、気が付けば彼女のことを考える時間が増えていた。

 それでも距離を取り続けたのは、自分が近付けば彼女を魔族との戦いに巻き込むかもしれないと、恐れていたから。

 それがまさか、依頼という形で向こうから近付いてきた挙句、同居することになろうとは、思ってもいなかった。

 今や二人は友人という関係になり、綾子からは、愛称まで付けられていた。

 今まで親しい友人を持ったことのない翠にとって、綾子は拒み難い存在になっていた。




 繋がれた綾子の温かい手を、翠はギュッと握り返した。


 「ふぇ…?」


 握り返された手を綾子が振り返った。


 「み~ちゃん?」

 「行こ。」


 翠がにっこりと微笑んで、足を止めた綾子を促した。


 「うん。」


 二人は並んで歩き出した。






2-Ⅲ


 「藍子あいこ――。」


 神殿に続く渡り廊下で、藍子は呼び止められた。

 振り返ると水色の髪と髭を長く伸ばした老人が、障子を開けて手招きしていた。


 「…おじい様。」


 その老人は "翡翠 青城せいき" 。

 先の事件で藍子により解任された元族長であり、藍子達4人の祖父である。


 「どうなさいました?」


 藍子は祖父の前まで後戻る。


 「まあ、入りなさい。」


 祖父の誘いのままに部屋に入る。

 部屋の中は、中心に大きなテーブルがあるのみで、掛け軸などの飾り気が全くなかった。


 「おじい様、少しは趣味をお持ちなったらいかがです?」


 無趣味というのは、ボケに良くないという。


 「そうじゃなぁ、盆栽でも始めるかのう?」


 青城は立派に蓄えた髭を揉みしだきながら、明るく言った。


 「じゃが、盆栽とて、時間潰しには物足りなかろう?」


 青城は少し上目遣いで藍子を見る。


 「…何がおっしゃりたいのですか?」


 まるで母親に甘える子供のように、体をくねくねさせている祖父に藍子は怖気を感じて後ずさってしまう。


 「わしも、そうと一緒に旅に出ても良いかのう?」


 今、蒼は報告のために戻ってきていた。最初の目的地では何も収穫がなかったようだ。


 「駄目です。まだ次の族長や評議員も決まっていません。引継ぎなどしないうちに出て行かれては困ります。」


 藍子はピシッと言い切った。


 「ぬ、やはり駄目か…。」


 結果は解っていたようで別段、落ち込むことなく、直ぐに諦めていた。


 「何なのですか? わたし、これから仕事があるのですが。」


 簡単に諦めた以上、これが藍子を呼び止めた理由ではないのだろう。


 「…翠が目を覚ましたと聞いての…。」


 青城は小さな声で呟く。

 元族長とは思えないくらい、体を小さくしている。


 「――。」


 評議会と一緒になって、翠の力を解放するために妙子を犠牲にしたことを気にしているのだろう。

 意外に繊細なのかもしれない。


 「おじい様、これを。」


 藍子は一つ溜息を吐いて、持っていた書類を青城に見せる。


 「何じゃ?」


 受け取った青城は、それを覗き込んで目を丸くした。


 「これは…。」


 それは翡翠一族の名前が幾つも連なった署名用紙だった。


 「おじい様、しっかりして下さい。その署名は一族の意思を示したものです。皆、あなたに族長再任を望んでいます。」


 人の生命を弄んだとして解任されたものの、魔族討伐が絶対の使命である聖血族にとって、必ずしも間違った選択ではなかった。

 一族の者は皆、それが解っていた。

 ただ時期ではなかった。

 強大な力を有する魔族が出始めたばかりで、そんなに被害が大きくなっている訳ではない。もう少し様子を見るべきだったのだ。

 用紙を捲っていくと、下の方には評議会再任を望む署名用紙もあった。

 だが…。


 「まさか翠の近くに、相殺者そうさいしゃがいたとはなぁ…。」


 相殺の力は、周囲の全ての力を無効にする。翠と妙子に掛けられた封人もまず解除できただろうと予測できる。


 「妙子を犠牲にすることは無かったのだ。」


 署名を見ても落ち込む青城に、藍子は青城が妙子を本当の孫のように、自分たちと一緒に可愛がっていたことを思い出した。


 「おじい様、わたしは妙ちゃんとお話をしました。妙ちゃんは自分の死を悔やんではいませんでしたよ。」


 藍子の言葉に青城は俯けていた顔を上げる。


 「妙ちゃんは、翠ちゃんに自分の死を乗り越えて欲しいと言っていました。そして、わたし達には翠ちゃんの支えになってとも言っていました。」


 妙子の遺言。


 それを聞いた青城は、膝の上で両手を強く握り締めた。


 「おじい様、正式発表はもう少し後になりますが、あなたには再び族長に就いて頂きます。落ち込んでいる暇はありませんよ。妙ちゃんの犠牲を無駄にしない為にも、しっかり翠ちゃんを導いて上げて下さい。」


 藍子はそれだけ言うと、署名用紙を持って部屋を出て行った。

 残された青城は、握り締めた手を見詰めて強く唇を噛んだ。




 「藍子姉―。」


 神殿の入り口に差し掛かった所で今度は外から声が掛かった。

 振り向くと、庭でゆかりが手を振っていた。


 「こんなところでどうしましたの?」


 近付いてきた紫に藍子は声を掛ける。


 「引継ぎから逃げてきちゃった。」


 この神殿入り口の近くには、修練場がある。

 師長になるには、各修道法術の奥義を習得しなければならない。

 既に紫も幾つか習得しているが、師長ともなると、魔修道法術に組み入れられている禁術以外は、一通り使えるようになっていなければならなかった。

 この近くで引継ぎと言えば、奥義の修練に間違いないだろう。


 「退魔師長になるのだから、サボりは許されませんよ。」


 藍子は笑顔で手を振って、追い払う素振りを見せる。


 「藍子姉は、相変わらず翠以外には冷たいなぁ。」

 「あら、私の愛は平等ですよ。」


 拗ねた顔を見せる妹に、藍子は満面の笑顔で返す。


 「あ~、はいはい。」


 紫は聞こえませ~んと言うように、耳を両手で塞いで背中を向けた。


 「あら、もう行きますの?」


 立ち去ろうとする紫を慌てて引き止める。

 ただ、サボっているだけじゃ、仕事に向かう藍子を引き止めはしないだろう。


 「何か用事があったんじゃないんですか?」

 「と、そうだった。」


 渡り廊下の下まで戻って紫は藍子に黒い物を投げた。


 「これ、返しておくわ。」


 見るとそれは黒銀に輝く、殆ど装飾の施されていない腕輪。


 「これをどちらで?」

 「この前の事件のときに蒼兄に預けられた。翠にはまだ早いと思うから、渡さなかったわ。」


 それだけ言うと、紫は藍子の返事を聞かずに立ち去って行った。


 「蒼兄さんも、紫ちゃんもまだ早いと言うのなら、もう少し様子を見ましょう。」


 藍子は腕輪に話しかけるように呟いて、そっと握り締めた。


 「藍子様、お客様がお待ちです。」


 神殿の入り口で控えていた巫女が藍子を促す。


 「直ぐ行きます。」


 藍子に握り締められた黒銀の腕輪は、細かな光の粒となって消えた。






2-Ⅳ


 夏の暑い陽射しの中、翠と綾子は電車を乗り継ぎ、ショッピングモールに辿り着いた。

 自動ドアを潜り抜けると、中は良く冷えていて気持ちよかった。


 「ん~、涼しいっ!」


 綾子は冷たい空気を吸い込んで伸びをした。


 「ね、何処から行こうか?」


 綾子は入って直ぐの所にある案内板を見ながら聞いてきた。


 「そうね、海に行くならまずは水着売り場かな?」

 「えぇ~。」


 翠の言葉に綾子は嫌な顔をする。


 「…その顔は何よ?」


 綾子の反応が解らず翠は聞き返す。


 「最初に買いに行ったら荷物になるよ。いろんな所回って、最後に買いに行こうよ。」


 翠は用事は最初に済ませてしまいたいタイプだった。だが、綾子はその逆らしい。


 「ほらほら、この『世界の奇跡展』とかさ、面白そうじゃない?」


 綾子が何気に指差したポスターは、8月1日から開催されているようである。

 そのポスターを見た翠は、見本として掲載されている写真に目が釘付けになった。


 「これ…。」


 綾子が翠の視線を辿ってみると、そこには上空高くに巨大な龍が漂っている写真が載っていた。


 「あの時のだ。」


 煽り文句には、『7月の真夜中の奇跡も緊急大公開!』とあった。


 「あの事件さ、結構騒がれたんだよ。真夜中にもかかわらず、目撃者がいっぱい居たみたい。」


 綾子が少し声を潜めて教える。

 真夜中にもかかわらず、昼間のように明るくなったり、地響きがしたり、龍が上空に立ち上ったかと思えば、それ以上に大きな光の龍が空を割って出現したりと、周囲への影響があまりにも大きかった。


 「それでも、私達がみ~ちゃんの家に引っ越す頃には話題に上る事もなくなってたんだけどな。」

 「それは処理班が動いたからよ。」


 聖血族には、事後処理を行う組織が存在している。それが "処理班" と呼ばれる組織。

 術者が気兼ねなく依頼を遂行出来るように、世界中の聖血族が手を組んで創り上げた組織だ。

 処理班は事態が大きくなるようなら周囲に結界を張り、依頼遂行後は事件関係者のアフターケアや世間がパニックにならないように情報を操作する。


 「あの依頼は、何もかもが予想外だったから、処理班も手が回りきらなかったのね。」


 翠はお腹に手を当てて小さく呟いた。

 翠の悲しそうな顔に綾子は焦った。どうしようか考えて周りを見回すと、今は珍しい屋上遊技場があるのに気が付いた。


 「ね、ねぇ、屋上行こっ!遊園地があるって。」


 綾子は翠の手を取って引っ張っていく。

 手を引いてずんずん歩いていく綾子に、翠は少し罪悪感を感じていた。


 「ごめんね。」


 周囲の喧騒に消え入りそうな程の小さな声で綾子に謝った。




 屋上に向かう途中、翠はエスカレーターの向こうに小さな社を見つけた。


 「ねぇ、綾ちゃん、あの社は?」


 エスカレーターから身を乗り出して覗き込む。

 直ぐ見えなくなったが、柵に囲まれた緑地の奥に、赤い社が確かにあった。


 「面白いよね。モールの中に社があるなんてさ。でも、柵で囲んでしまっているから誰も直接はお祈り出来ないのよね。」

 「何か見えた気がするけど…。」


 チラッと見えた社の前で、黄色い何かが動いた気がしたが、遠目だし、一瞬だったので見間違いかもしれない。


 「お金とかじゃない?柵で囲まれていても投げ込んでいる人が居るみたいだから。」


 ぬいぐるみかもと、綾子は気楽に返事をする。

 こんな時、いつもなら気配を探って何か確かめるのだが、今の翠には気配が感じ取れない。

 だが、何処かに付いて来ているはずの黎が、何も言って来ないことを考えると、大したモノじゃないのかも知れない。


 「後でいっか…。」


 何かあれば黎が呼ぶだろう。

 綾子に習って取り敢えず気楽に考えることにした。

 綾子は右に左に落ち着きなく顔を動かしては、目ぼしいものがあれば後で行こうと翠を誘う。

 エスカレーターを2階、3階と乗り継ぎながら、翠は浮かれている綾子に問い掛ける。


 「あのさ、エレベーターの方が良くない?」

 「エレベーターは周りが見えないから楽しくないし、何より人が多いから乗りたくない。」


 翠は、小さな子供と一緒に歩いているような気がしてきたが、別に急ぐ理由もないので、大人しく綾子に従うことにした。




 5階に差し掛かったとき、前方に女の子が3人、こちらを指差しながら何か話しているのが見えた。


 「あれは…。」


 翠と腕を組んでいた綾子は、3人を見て急いで離れた。


 「ちぇっ、邪魔が入るかなぁ…。」


 綾子が残念そうに呟いた。

 3人の女の子はクラスメイトで、はしゃぎながら、こちらに近付いて来ている。


 「冴種さんっ! 翡翠さんっ!」


 エスカレーターから降りるタイミングに併せて、1人の子が手を振りながら2人の名を呼んだ。


 「気付かない振りして無視する?」


 綾子が小声で聞いてきた。


 「もろ目が合ってるのに無理でしょう。」


 翠が苦笑しながら、3人に近付いていく。

 綾子も不満そうな顔をしながらも、仕方なく翠の後に続く。


 「ひっさしぶりぃ~。2人が一緒にいるなんて珍しいね。」


 学校ではあまり話をしない2人が、並んでエスカレーターに乗っている。3人の目は好奇心剥き出しで輝いていた。

 学校には、手続きの都合上、翠の家に引っ越したことは届け出ているが、クラスメイトにはまだ話していない。


 「翡翠さん、7月の登校日、また休んでたよね。体は大丈夫なの?」


 仕事の都合で良く休む翠は、いつの間にか病弱で通っていた。

 頭が良く、運動神経も良い翠の唯一の弱点として、皆に定着してしまっている。


 「心配してくれて有難う。見ての通り元気いっぱいだから。」


 翠はおどけた様子で胸を張る。


 「ねぇ、私たち6階にある喫茶店に行こうって言ってたんだけど、一緒に行かない?」


 どうせ屋上に行く途中だし、断る明確な理由もないため、2人は同席することにした。

 翠は3人に囲まれてしまい、綾子は弾き出されてしまう。

 4人の後ろに1人でエスカレーターに乗った綾子は、恨めしそうに翠の背中を睨みつける。


 「…エレベーターにすれば良かった。」


 綾子の呟きが聞こえたのか、翠が振り返って手を差し出した。


 「綾ちゃん。」

 「!?」


 綾子を含め、4人は翠の態度に目を丸くして驚いた。

 良く学校を休むため、どこか一匹狼的な雰囲気を醸し出して、黎以外の人を寄せ付けなかった翠が、優しく微笑んで、手を差し出していた。

 その上、『綾ちゃん。』である。


 「うっそぉ~!2人ともいつの間にそんなに仲良くなったの?」


 翠の差し出された手を取る綾子は、真っ赤になりながらも、顔がにやけるのを止められなかった。


 「いいなぁ、いいなぁ。あたしも名前で呼んで!?」


 エスカレーターの上で3人の女の子が同時に騒ぎ始める。

 周囲の人たちが何事かと、振り返るが、大騒ぎしている3人は全く気が付かない。

 翠は失敗したと思いながらも、握った綾子の手を決して離そうとはしなかった。




 翠達は収集が着かないまま喫茶店に入ったが、中は落ち着いた雰囲気で、大騒ぎしていた3人は花が萎れる様に静かになった。


 「ふふ。」


 翠と綾子は3人に見つからないように、こっそり微笑みあった。

 5人は外に面したボックス席に腰を落ち着けた。

 4人がチョコレートパフェなど甘い物を頼む中で、翠だけモカブレンド、しかもホットを頼んで、4人を感心させていた。


 「甘いの駄目なの?」


 セミロングの髪をポニーテールにしている女の子、浅野 陽子。


 「おいしいよ。食べてみる?」


 この暑い中、長い髪を結びもせずに流している女の子、黒木 美佐。


 「駄目。翡翠さんは私のを食べるの。」


 肩口まで伸ばした髪をみつ編みにしている女の子、平井 祐子。


 「誰のを食べるかはみ、翡翠さんが決めればいいんじゃない?」


 綾子は『み~ちゃん』と呼びそうになって、慌てて言い換えた。

 綾子の提案に、4人は翠を見詰める。


 「あ~、悪いけど、気持ちを落ち着けたいから、私はコーヒーだけでいいわ。」


 翠は未だに気配を感じられないことに動揺していた。

 社の前に何か居た。でも気配を探れない。

 未だかつて経験したことの無い状況に、翠の心は落ち着きを取り戻せずに居た。

 温かいコーヒーの匂いを嗅ぎ、一口飲めば落ち着けるのではないかと、考えていた。


 「ごめんね。」


 翠に一言謝られて、4人は残念そうに一斉に溜息を付いた。

 その後、4人は、夏休み中の近況報告などを行って、何気ない会話に花を咲かせた。

 殆ど寝ていただけの翠は、聞き役に徹して普通の女の子の会話を楽しんだ。

 テレビなどで良く見る光景。

 ずっと憧れていた状況に、翠の心は別の意味で落ち着きを無くしていた。


 「み~ちゃん、楽しそう。」


 綾子が3人に聞こえないようにそっと囁いて来た。


 「邪魔入ったけど、み~ちゃんが楽しそうだから良いや。」


 3人が合流したことで、ちょっと不機嫌になっていた綾子だったが、翠が楽しそうに会話に耳を傾けているのを見て、嬉しくなっていた。


 「私ね、ずっと本家で一人きりだった。友達なんて一人も居なかったわ。」


 翠はポツリと話し始めた。

 会話に夢中になっていた3人も、翠が口を開いたことで、ぴたりと会話を止めた。


 「親しい人は居たけれど、皆、身内だし、同い年の人達からは疎まれていたの。」


 綾子は少しは翠の事情を知っている。藍子が綾子に話していた。


 「家庭の事情で、15歳にならないと学校に通うことは許されていないから、こんな風に喫茶店でお茶なんてこともしたことがなかったわ。」

 「翡翠さん、体弱いもんねぇ。」


 3人はどうやら家庭の事情を翠の体の弱さに結び付けて考えているようだった。


 「綾ちゃんや明羽さんと、海に行けるのも今から凄く楽しみ!」


 翠は学校では見せた事のない満面の笑顔を振り撒いた。

 4人は見惚れてしまったが、美佐が引っ掛かる言葉に気が付いた。


 「綾ちゃんと明羽さんと海?」


 美佐の言葉で陽子と祐子も気が付く。


 「綾ちゃんって冴種さんだよね。明羽さんって誰?」

 「海ってどういう事? 何時行くの?」

 「一緒に行っていい?」


 3人は立て続けに質問をする。


 「明羽さんは、綾ちゃんのお姉さんで、海へは明日行く約束してるわ。でも一緒に行けるかは二人に聞いてみないと…。」


 翠は慌てることなく淡々と質問に答えていく。

 翠に見詰められて綾子が顔を赤くして小さな声で答えた。


 「み、翡翠さんが良いなら、私たちは良いけど…。」


 翠を気晴らしに連れて行くのが目的である為、その翠が良いのなら、綾子たちは嫌がるわけにはいかない。


 「あ、でも明日かぁ…。私、明日から熊本のお祖母ちゃん家に行くから駄目だわ。」


 陽子が残念そうに呟いた。


 「あたしも明日は無理。昼から塾があるの。」


 美佐も溜息をつきながら手を振った。


 「私は行けるよ。でも、二人が行かないのなら…。」


 遠慮する祐子を陽子がストップといった感じで、陽子の前に手を翳して言葉を遮る。


 「こんなときに遠慮してどうするのよ?」

 「でも、私だけなんて…。」


 それでも遠慮しようとする祐子に、翠が声を掛ける。


 「一緒に行きましょ、平井さん。」

 「行きなさいよ。」


 美佐も促す。


 「じゃあ、行こうかな。」


 祐子は3人の勧めでやっと同意した。

 翠がふと綾子を振り返ると、綾子は少し拗ねたような顔をしていた。


 「ごめんね、綾ちゃん。私、皆でお出掛けってしたこと無かったから、楽しそうでつい。」


 綾子にそっと耳打ちした。


 「良いよ、み~ちゃんが楽しいのが一番だか…。」

 「いっけな~いっ!?」


 美佐が腕にはめた時計を見ながら大きな声を上げた。


 「どうしたの?」


 祐子がびっくりした顔で聞く。


 「さっき言った塾ね。今日も1時からあるの。急いで帰って準備しないと間に合わないわ。」


 そう言うが早いか、美佐は自分の分のお金を卓上に置きながら立ち上がった。


 「じゃあそう言う事だから、またね。今度一緒に遊びに行こう。」


 美佐は急いで出て行った。


 「あっ美佐っ!忘れ物っ!!」


 陽子は美佐が壁際に置いていった買い物袋を見て慌てる。

 だが、美佐は既に外に出ていた。


 「あ~もうっ、仕方ないなぁっ!!」


 陽子も代金を置いて立ち上がった。


 「待って、私も一緒に帰るっ!」


 祐子が陽子に続いて立ち上がった。


 「じゃあ、荷物をお願い。お金は出しておくから。」


 陽子が財布からもう一人分のお金を出し、祐子が美佐と陽子の荷物を持つ。


 「翡翠さん、冴種さん、またね。あした、祐子のこと宜しくね。」


 陽子が自分の荷物を祐子から受け取りながら、手を振って出て行く。

 祐子も手を振りながら、小さな声で挨拶をして陽子の後を追った。


 「何か、最後は慌しかったね。」


 綾子が苦笑いしながら言った。


 「もう11時半か。私たちもそろそろ行こうか?」


 翠が壁に掛かった時計を見ながら言った。


 「お姉ちゃんが帰ってくるのは2時前って言ってたから、私たちもあまり時間無いね。残念。」


 翠が席を立つのにあわせて、綾子も立ち上がった。


 「屋上の遊技場はまた今度ね。」


 翠がお金をまとめてレシートを持ってレジに向かう。


 「あ、待ってみ~ちゃん。私も払うから。」


 綾子が財布を出す前に、翠は支払いを済ませていた。


 「は、早い…。」


 綾子が追いつくのを待って、翠は手を差し出した。


 「み~ちゃん。」


 綾子は顔を赤くしながら、翠の手をとった。

 翠たちが喫茶店から外に出ると、廊下を挟んだ反対側のフロアに特設会場が設置されているのに気が付いた。


 「あれは…。」

 (全然気が付かなかったわ。まさかこんな目と鼻の先に…。)


 フロアの入り口には『世界の奇跡展』と書かれていた。


 「あっちゃぁ~~。」


 綾子はそっと翠の表情を窺った。


 《黎、聞こえる?》


 翠の表情は硬く固まっているようだった。


 《何だ?》


 黎の返事は即座に返ってきた。


 《どうして教えてくれなかったの?》

 《あん? 何の話だ?》


 黎は話が見えずに聞き返してきた。


 《私たちの入った喫茶店の近くで、世界の奇跡展をやってるってこと。気付いてたんでしょ?》

 《悪ぃ、気付いちゃぁいたが、今はそれ所じゃねぇんだ。》


 黎から発せられる思念に、翠は緊張を感じ取った。


 《どうしたの?》


 綾子と繋いだ手が少し汗ばむ。


 「み~ちゃん?」

 「あ、ごめんね。行こ。」


 翠は綾子の手を引いて歩き出す。


 「大丈夫?」


 綾子の心配そうな目に、翠は微笑んで軽く頷いた。


 《やっぱこの気配を感じ取れていねぇんだな。》

 《だから、何が起きてるのよ!?》


 翠は綾子に気取られないように冷静を装うが、気配を感じ取れないもどかしさで、せっかくコーヒーで沈めた心を再び動揺させていた。


 《良く解らんが、冥い気配が漂ってんだよ。どうも社の下から感じるんだが、変な古狐がこっちを睨んで入らせてくれねぇんだ。》

 《解ったわ。そっちへ行くからちょっと待ってて。》


 翠は立ち止まって綾子を振り返った。


 「綾ちゃん、先に帰ってくれる?」

 「え、何で? 買い物は?」


 突然のことで綾子は訳が解らず、首を傾げる。


 「冥い気配が漂っているらしいの。買い物はまたにしましょう。」


 翠の雰囲気はガラッと変わっていた。

 穏やかでも、悲しげでも無く、以前の事件の際に見せた、あの退魔師としての顔をしていた。

 今まで黒かった瞳の色が、少し緑掛かっているように見えた。

 その表情は1ミリも笑ってはいない。


 「…一緒に行く。」


 翠の雰囲気に呑まれておずおずと抵抗してみるが、翠は完全に翠色と水色に変わった双眸で綾子を見詰め返すだけだった。


 「…解った。帰るわ。」


 綾子は視線を外して小さく呟いた。


 「ごめんね。もう、危険な目に会わせたくないの。」


 翠は綾子の額に軽く口付けをし、小さく何かを呟きながら背を向けて歩き出す。


 「み~ちゃん…。」


 綾子が見詰める中で、不意に翠の後ろ姿が消えた。

 翠の目晦めくらましの術が発動したのだ。


 「み~ちゃんっ!? み~ちゃんっ!!」


 術の発動にに気付かない綾子は翠の姿を求めて、姿が消えた辺りまで走り寄った。


 「安心して綾ちゃん。ただの目晦ましよ。」


 誰もいない綾子の隣から、翠の声が聞こえた。


 「み~ちゃん、気をつけてね。」


 綾子の声に翠は答えなかった。

 ただ、綾子の頭を何かが優しくさすった感触だけがした。





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