Ep02. 歪められた社

歪められた社 壱

2-Ⅰ


 時は夏休み。

 7月も終わり、残り1ヶ月の休みをみどりは満喫しようとしていた。

 翠が目を覚ましたのは僅か三日前。


 「何で起こしてくれなかったの?」


 翠は7月が終わった事を知って、頬を膨らませていた。


 「み~ちゃん、可愛い~~。」


 学校では、しっかり者で通っている翠の拗ねている様が可愛くて、綾子はつい抱き締めていた。


 「み、み~ちゃん…?」


 猫のような呼び方に翠は力が抜けてしまう。


 「翠ちゃんでもいいんだけど、たまに "みろりちゃん" になるし、み~ちゃんの方がギャップがあって可愛いなぁって思って。駄目?」


 綾子は悪意のない満面の笑顔で答えた。


 「…駄目じゃないけど、恥ずかしい…。」


 翠は慣れない "愛称" というものにこそばゆい思いだった。


 「ねぇ、早く行こ?」


 脱力して足が止まっていた翠に、綾子が少し先から声を掛けた。

 二人は今、ショッピングに来ていた。

 目が覚めて休みを無駄にしたと悔しがる翠を、気晴らしに綾子が誘ったのだ。


 「そんなにはしゃいで、暑くないの?」


 翠は抱き付いてきたり、スキップしたりとハイテンションな友人を落ち着かせたくて訊いてみた。


 「暑いよ。でも、み~ちゃんと初めてのお出掛けだから、嬉しくて。」


 そう言うと、翠の手を取って引っ張っていく。

 翠は諦めて、綾子の為すがままに歩き出した。



 翠大好きな綾子は、この三週間、ずっと翠が目覚めるのを待ち続けていた。

 姉が退院するまでは、しょっちゅう電話を掛けてはれいに「まだ起きてねぇ。」と冷たくあしらわれていた。

 姉が退院すると、綾子達の身辺警護の目的で藍子から、結界の張られている翠の家で暮らすことを勧められた。

 冴種さえぐさと綾子の事情を知っていた姉は、綾子の返事を待たずにこの申し出を受けていたが、翠と一緒に居たい綾子にとっては、願ってもない出来事だった。

 善は急げと、申し出を受けた翌日には翠の家に引っ越していた。


 黎はとっても迷惑そうな顔をしていたが、翠の世話をどうやれば良いのか解らなかった黎は、翠の世話とついでに家事全般を受け持つことを条件に同居を許可していた。

 翠の血さえあれば食事の必要がない黎にとって、家事とは至って面倒臭いだけの仕事あり、今までは、翠と分担してやってきたが、これ幸いと綾子達二人に押し付けていた。

 綾子達は嫌な顔一つせず、翠が目覚めるまでの約一週間、しっかり家事をこなし、綾子に至っては、献身的に翠の世話をしていた。


 事件から10日間、翠が全く飲み食いしていないことを知った綾子は、藍子あいこに相談してみた。

 藍子が言うには、力の使い過ぎで気を失った術者は、自己治癒能力が龍牙力を使って回復に専念している為、食事や排泄といった行為は行われなくなるという。仮死に近い状態だという。

 この状態だと、藍子のような治癒師でも回復させることが出来ず、自然に回復するのを待つしかなかった。

 取り敢えず、食事と排泄は必要ないと知り、綾子はちょっと安心した。

 ただ、暑ければ発汗するし、寒ければ凍えてしまうが、どういうわけか、冷暖房を使うと回復が遅くなるという統計も出ているらしく、出来るだけ自然に近い状態で、汗を掻けば拭いてやり、寒くなれば服を重ね着させ布団を掛けてやって欲しいと頼まれた。

 汗を掻いた分の水分は、龍牙力が補給するから脱水症状にはならないという。

 普通に生きてきた綾子にとっては、何とも不思議な状態だった。

 結局、翠の世話は体の清拭と着替えのみで、ちょっと拍子抜けだった。



 翠が目を覚ましたとき、綾子はベッドに寄り掛かって眠っていた。

 約一ヶ月ぶりに目を覚ました翠は、少しぼやけた頭で、どうしてここに綾子がいるのか考えた。


 「あれから、何時間経ったの?」


 ずっと眠っていた翠にとって、あの時の事件は僅か数時間前の出来事だった。

 壁に掛かった時計を見ると、今は2時37分を指していた。明るさからいって午後2時に間違いないだろう。


 「…寝すぎた…。」


 次第にはっきりしてくる頭の中で、自分が意識を失ったことを思い出す。


 「力を使い過ぎたのね。でも、だとしたら…。」


 これまでにも何度か力を使い過ぎて意識を失ったことがある。経験上、そういう場合は数日眠り続けていた。

 冷静に状況を分析して行く翠は、スマホで日付を確認することにした。

 スマホはベッドの直ぐ上にある机の充電器に置かれていた。

 綾子を起こさないように、ベッドの上から手を伸ばしてスマホを取る。

 スマホの画面をタップして、画面の右上を見た。


 「……。」


 事件があった日は夏休みに入ったばかりの7月20日だったはず。

 だが、画面に表示されている日付は、8月9日。


 「うっそぉ~~っ!!」


 翠は思わず大声を出していた。

 その大声に、うたた寝していた綾子が飛び起きる。


 「な、何…っ!?」


 真夏にも拘らず、春の午後のような暖かさでまどろんでいた綾子は、焦って周囲を見渡し、翠が間の抜けた顔で綾子を見返しているのに気が付いた。

 綾子が飛び起きるのとほぼ同時に、居間から黎と綾子の姉が飛び込んできた。


 「…ぁ、あ、翠ちゃんっ!!」


 綾子はあまりの嬉しさに、自分を抑えられず翠の首に抱き付いた。

 その勢いを翠は殺し切れず、二人してベッドに倒れ込む。


 「やっと起きたか、寝ぼすけめ。」


 翠は抱き付いて離れない綾子を抱えたままベッドの上に座り直す。


 「あ、の、黎? 状況がいまいち飲み込めないんだけど…。」


 耳元で翠の声が聞こえ、綾子は我に返って急いで翠から離れる。


 「あ、ごめんなさいっ!」


 綾子は耳まで真っ赤にしていた。

 照れる綾子を余所に、黎はこれまでの経緯を簡潔に話した。

 そうの任務変更、ゆかりの退魔師長継承に、藍子の一族への対処。

 そして、藍子の提案で綾子達がこの家に来たこと。


 「私は、綾子の姉の明羽あかはと言います。よろしくね。」


 初対面の明羽は丁寧にお辞儀をしながら挨拶をする。


 「私は翠です。綾子さんのクラスメイトです。」


 翠は慌てて居住まいを正して、ベッドの上で挨拶を返した。


 「二人は今、翡翠の養子にするかどうか検討中だそうだ。養子にすれば、冴種も簡単に手は出せんだろうからな。」


 青の一族以外の者を養子にできるのかは疑問だが、悪い考えではなさそうだった。


 「じゃあ私たち姉妹になるの?」


 黎の言葉に綾子が反応する。


 「そうなると、12月産まれの翠は一番年下になんじゃねぇのか?」


 黎が意地悪そうに言った。


 「そんなことないでしょ。綾ちゃん、誕生日はいつ?」

 「9月25日だよ。」


 綾子は妹になった翠を妄想しながら、満面の笑顔で言った。


 「むぅ~~。」


 今までも一番年下だった翠は、妹や弟が欲しかった。


 「それより今日! 8月9日って、どうして誰も起こしてくれなかったの?」


 翠は話を変えた。


 「オメェの回復が遅かっただけだろうが。」


 回復しきれていない者を無理矢理起こせば、記憶障害などの後遺症が残る可能性がある。

 翠もそのことを知らないわけではないが、折角の夏休みを半分近くも無駄にした事が悔しかった。


 「力を使う上でちゃんと制限すればこんなことにはならねぇんだよっ!」


 黎はそう言って、翠の頭を小突く。


 「ほら、二人とも、翠さんは目を覚ましたばかりなんだから、ゆっくりさせてあげないと。」


 明羽は綾子と黎を居間へ追い立てる。


 「あとで、お粥でも持ってくるから、ゆっくり休んでて。」


 明羽は部屋を出る前に、翠を振り返って優しい笑顔を向けた。

 その笑顔に翠は、小さく頷くことしか出来なかった。

 どうも、明羽の雰囲気が妙子たえこを思い出せていた。


 「有難うございます。もう少し休んでます。」


 それだけ言うと、翠は再びベッドの上に横になった。

 明羽はそっとドアを閉めて台所に向かった。

 ベッドにもぐった翠は、妙子の死を思い出し、妙子の力が宿っている証である桃色のお腹の中心に手を添えて、声を出さずに泣いていた。

 外見は全然似ていなかった。お淑やかな印象を受ける妙子に対し、明羽は活発な感じだ。

 似ている所があるとすれば、年齢や背格好ぐらいか。

 妙子はすねまである長いスカートを好んで履いていた。今日の明羽も同じく長いスカートを履いている。

 だが、それ以上に、包み込んでくれるような温かい雰囲気が、妙子そっくりだった。

 お腹の辺りが、ほのかに温かくなる。まるで翠に「悲しまないで、大丈夫だよ。」と言わんばかりに優しく温もりを伝えてくる。

 その温もりに包まれて、翠は再び眠りに就いた。



 「あ、お姉ちゃん。早かったね、翠ちゃんは?」

 

 お粥を持って行った明羽が、直ぐに部屋を出てきたのを見て綾子が近寄って来た。


 「良く寝てるわ。ただ…。」


 言い澱んだ明羽に綾子が首を傾げる。


 「どうしたの?」

 「うん、ちょっとね…。」


 翠の顔には明らかに泣いた跡が残っていた。

 翠と面と向かって会ったのは今日が始めてである。だが、綾子からは何度も彼女のことを聞いている。

 明るくて、格好良くて、可愛い女の子。綾子の憧れ。

 泣きながら眠るなんて余程のことがあったのだろう。取り敢えず、綾子には黙っておくことにした。


 「何でもない。良く寝てるから、入っちゃ駄目よ。」

 「えぇ~~、何なのよう、もう。」


 中身の減っていないお粥を持って、明羽は台所へ消えて行った。

 残った綾子は首を捻りながら、翠の部屋を見るが、ゆっくり休ませたいのは自分も同じ意見だから、中に入っていくのはやめて居間のソファに腰を下ろした。

 台所に戻った明羽は、お粥をシンクの上に置いた。


 「翠さん、大丈夫かしら。」


 明羽の小さな呟きに思わぬ返事が返ってきた。


 「あんたは似てんだよ。」


 驚いて振り向くと、入り口に黎が立っていた。


 「似てる?」


 明羽は黎に向き直った。


 「翡翠ひすい妙子。翠が幼い頃から好きだった相手だ。この間の戦いで居なくなっちまった。」


 黎は、死という言葉を避けた。


 「もう、会えないの?」

 「…さぁな。」


 翠と融合して、力を全て翠に渡してしまった妙子。その肉体を構成する龍牙力すら渡してしまった。

 二度と会えるはずもないのだが、翠はまだ救えると信じている。主人が信じている以上、黎もそれに従う。だから、死という言葉は避けた。


 「あんたも、妙子も、包み込んで守るものがある。恐らくその境遇が、同じ雰囲気を醸し出してんじゃないか?」


 "守るもの"―。

 明羽にとってそれは妹の綾子。妙子にとっては翠。


 「あいつは結構、感情に流されやすいから、あんたと会うと妙子を想い出して塞ぎ込むこともあるだろうが、気にしないでやってくれ。」


 普段の態度や口調から粗野に思える黎の口から、滲み出る想い。


 「あなたも、翠さんが大事なのね。」

 「! や、やかましい…っ!」


 明羽の言葉に黎は顔を赤くして出ていった。

 明羽は "妙子さん" がどういう人なのかは知らない。でも、もし自分の存在が居なくなった妙子を想い出させるのなら、今はあまり近付かないほうがいいのかもしれない。

 明羽は、妹が二人になると、内心浮かれていただけに、少し淋しいものを感じていた。



 翠が再び目を覚ましたのは、その日の夜。

 時計を見ると、19時20分を少し回ったところだった。


 「…また、泣いて寝ちゃったんだ。」


 泣き過ぎと寝過ぎのダブルパンチで開かない目を、こしこし擦りながら、ベッドの縁に座る。

 窓からは涼しい風が吹き込んでいる。

 壁を挟んだ向こう、居間からはテレビの音や綾子達の談笑が聞こえている。


 「…平和だなぁ…。」


 翠にとっては一晩程度の事でも、実際には三週間、経っている。

 窓辺に寄り、カーテンを引き開ける。

 8月の空はまだ薄明るく、遠くまで見渡せるが、空には大きな月も見て取れた。

 階下には車が行き交っている。何事も無かったかのように、いつもの景色が広がっていた。


 「……そこにいるの風神坊だよね。」


 翠は窓の外に手を伸ばした。

 すると、手の少し先に薄く光るものが現れた。


 「気付いていたのか。」

 「真夏に、ここまで涼しい風が吹き込んでくることなんて、普通無いでしょ?」


 手を下ろした翠の目の前に、小さな風の精霊が飛んでくる。


 「もうその名前は止めてくれ。そいつは四神鬼の名前だ。」


 風の精霊は、この世界に来る前に他の精霊に継承してきている。翠たちと戦った時点で、既に風神坊ではなかったのだ。


 「じゃあ、何て呼べばいいの?」

 「 "真名" を教える気は無いが、取り敢えず、今は "シルフ" と名乗っている。」


 風の精霊の言葉に翠は力が抜けそうになる。


 「シルフって風の妖精じゃないの。人の名前使ってどうするの?」

 「良いだろ、気に入ってんだから。」


 "真名" はその存在を縛る。

 精霊や魔族にとって、真名を知られることは致命傷にもなりえる。だから、彼らは滅多な事では真名を教えない。

 この真名に良く似た効力を持つのが "名付け" である。

 主となる者に "名付け" られることで、その存在を縛られる。

 龍鬼童子の "黎" が正しくそれである。

 龍鬼童子が風神坊との戦いの中で邪穏鬼に戻りかけたとき、名付けの効力を利用することで、龍鬼童子の自我を呼び戻し、邪穏鬼への変貌を止めた。

 続いて真名である "聖穏鬼 龍鬼童子" と呼ぶことで、龍鬼童子を聖穏鬼へ立ち直らせたのである。


 「まぁ良いけどね。じゃあ、シルフ。有難う。」


 翠はシルフに礼を言った。


 「こんなに早く助けられるとは思って無かったわ。」

 「助けた覚えは無いが、礼は受け取っておこう。」


 翠の前でくるっと一回りしたシルフは、格好つけて一礼する。


 「真夏にこんな過し易い環境を作ってくれただけで、十分助けられているから。」


 翠はシルフに笑顔を投げ掛けた。


 「…不思議なもんだな。魔族であったときは、誰かの役に立とうなどと、片時も思うことは無かったが…。」


 シルフが言うには、立ち去った後、どうやったのか藍子に呼び戻されたのだそうだ。そして、翠が回復するまで、涼しい風を送って欲しいと頼まれたらしい。


 「そんなことがあったの。藍子姉にも色々迷惑かけるなぁ。」


 翠は藍子の顔を思い出しながら頭を掻いた。


 「もう大丈夫そうだな?俺は行くぞ。」


 そう言うとシルフは翠の前から少し遠ざかった。


 「この世界を楽しんでね。」


 翠はシルフに手を振った。

 それを見たシルフは、はにかんだ様な表情をして、ふっと姿を消した。


 「なんか、随分若返ったみたい。」


 消えたシルフが随分若々しく見えて、翠は呟いた。


 「もう大丈夫なのか?」


 後ろから声がして振り向くと黎が立っていた。


 「…女の子の部屋に入るときはノックしなさいって、言ってるでしょ。」


 翠は黎の気配を感じられなかった。


 「まだ本調子じゃねぇみてぇだな…。」

 「みたいね。気配が全く感じ取れない。」


 シルフにしても、風が吹き込んでいなければ気付きもしなかっただろう。


 「退魔師としちゃぁ、致命傷だな。」


 魔族の気配を感じ取れない。それは死に直結している。

 いくら力を持っていても、気配を感じ取れないのでは、後ろから一突きでお仕舞いである。

 個人結界も気配が感じ取れなければ意味がない。

 個人結界は、本人が意識していない気配を感じ取って即座に反応する結界である。つまり意識していないだけで、気配自体は感じているのでそれがきっかけとなって発動する。

 だが、気配を感じられないということは、個人結界が発動するきっかけも掴めないということ。


 「暫くは大人しくしてろってことだろう。綾子達と夏休みでも楽しんだらどうだ?」

 「余計なお世話よ。」


 これから強くならなければいけないときに、足踏みすることになって翠は唇を噛んだ。


 「まぁいいさ。お前が無茶をするなら、俺はそれを守るだけだ。」


 黎は軽く言うと、背中を向けた。


 「二人ともお前を心配してんだ。顔ぐらい見せてやれ。」


 そう言って黎も姿を消した。


 「…気配感じ取れないんだから、ドアから出て行ってよね。」


 翠は小さく呟くと、居間に続くドアに手を伸ばした。


 ドアの向こうには温かな空気が流れていた。

 翠は眩しくて思わず目を細めてしまう。

 ドアが開いたことで、綾子と明羽が振り向いた。

 綾子の顔が見る間に崩れて、満面の笑みで翠に駆け寄ってくる。明羽も安堵した感じで優しい笑顔を投げ掛けてきた。


 「翠ちゃん、おっはよ~~っ!」


 飛びついてきた綾子を今度はしっかり受け止める。


 「綾ちゃんって、絶対キャラ変わってるよね。」


 学校で会うときは、どちらかと言えば大人しめな印象を与える彼女が、まさか、ここまで明るく軽い感じだったとは、夢にも思っていなかった。


 「家ではいつもこんな調子なの。まったく甘えん坊で手を焼くわ。でも、ちょっと浮かれすぎかな?」


 明羽の言葉に綾子が頬を膨らませる。


 「そんなことないもん。」


 綾子は翠の首に回した腕に力を込める。


 「ちょっ…綾ちゃん、苦しい…。」


 翠は首と胸を締め付けられて、綾子の腕を引き剥がしに掛かる。


 「翠ちゃん、きもちい~~っ!」


 翠は、綾子のノリに藍子を思い浮かべていた。


 「あ…綾ちゃん、藍子姉に何か吹き込まれた…?」


 べりっと音がしそうなくらいの勢いで引き剥がされた綾子は拗ねた顔で答える。


 「過剰なぐらいスキンシップした方が喜ぶって言われたよ。」

 「……適度でいいから。」


 翠は頭を抱えた。

 藍子がもう一人増えるのだけは、何としてでも阻止しなければいけなかった。


 「過剰なスキンシップ禁止っ!もし、したら、1メートル以内の接近禁止っ!!」


 翠は綾子を指差しながら宣言した。


 「そ、そんなぁ~。藍子さんだけなの?」


 綾子は翠にすがる。


 「藍子姉も迷惑だから。」


 肩をすくめて首を左右に振る翠と、すがり付く綾子を見ながら、明羽は小さく笑った。


 「綾、諦めなさい。」


 明羽が綾子の襟首を掴んで引き離す。


 「そ、そうだ綾ちゃん。体験入学の時にやったやつ持ってる?」


 翠は綾子の気を逸らすために、話題を変えた。


 「へ? あ、うん、部屋にあるよ。持ってくる?」

 「あの猫のぬいぐるみ?」


 明羽は綾子が大事に机の上に飾ってある手のひらに収まる小さなぬいぐるみを思い出しながら聞いた。


 「確か、体験入学の日に貰ったって言って帰ってきてたわよね。」

 「うん、それ。取ってくるね。」


 綾子は急ぎ足で居間を出て行った。


 「あれ、翠さんから貰ったのね。」


 明羽は翠に微笑みかける。

 その笑顔を見た翠は、つい顔を背けてしまい、しまったと思うがもう遅かった。

 急いで振り返ると、明羽は少し淋しげな表情をしていた。


 「ごめんね。黎さんから聞いたわ。何だか私の雰囲気があなたを悲しませるみたいだから、少し距離を置いたほうが良いよね。」


 明羽はそう言いながら、テーブルの上にあるグラスをお盆に乗せ始める。


 「あ、あのっ! ごめんなさい。距離なんて置かないくて良いです。」


 翠は慌てて明羽に駆け寄って、言い募る。


 「そ、そりゃ、始めのうちは辛くなるかもしれませんが、明羽さんは明羽さんだからっ!」


 翠の慌てぶりに明羽は目を丸くして驚いていた。


 「翠ちゃん…。」

 「私、妙子さんと明羽さんはそりゃ、雰囲気似てるけど、やっぱり同じじゃないから。」


 翠は真っ赤になりながら、明羽に頭を下げる。


 「解ったわ。翠ちゃんがそこまで言うのなら。」


 明羽は翠の肩を持って、そっと顔を上げさせて、にっこりと微笑む。


 「改めて、宜しくね翠ちゃん。」


 差し出された明羽の右手を翠は握り返した。

 そこへ綾子が足音を立てながら、居間に飛び込んできた。


 「持ってきたよ、翠ちゃん。」


 右手には小さな猫のぬいぐるみを持っていた。

 茶トラのそのぬいぐるみはストラップになっているようで、頭に、輪になった紐が付いていた。


 「スマホに着けるにはちょっと大きいのよね。鞄だといつの間にか無くなっちゃいそうだから、結局机の上に飾ってたの。」


 翠が差し出した左手に乗せながら、持ち歩いていなかった言い訳をする。


 「確かに、ちょっと大きかったね。」


 翠が左手を握って開くと、手のひら大のぬいぐるみが一瞬の間に小指の爪ほどの大きさになっていた。


 「えっ?嘘っ!?」


 冴種姉妹は一緒に驚きの声を上げた。


 「これね、私の力で出来てるの。」


 翠の手のひらの上で、猫のぬいぐるみがふわふわと浮かぶ。


 「ふわぁあ~。」


 綾子の口から、驚嘆の声が漏れる。


 「モノを創るのは沌生力とんせいりょく十八番おはこだけど、それ以外の力でも、簡単な物なら創れるのよ。」


 沌生力はモノを産み出す力。その力は、生命すら産み出せる。

 だが、ぬいぐるみや武器といった生命を持たない簡単な構造物なら、沌生力以外の力でも創り出す事が出来る。


 「これはね、綾ちゃんの気配なの。」


 翠の簡単すぎる説明に、綾子と明羽は首を捻る。


 「あなた達、冴種一族は、隠里に暮らす一族。だから、体に気配を消す紋章を描いて人からも魔族からも見つからないようにしている。」


 だが、綾子と明羽は街で暮らしている。例えどんな小さな物にも、人が触れれば僅かながらその人の気配が残り香のように残ってしまう。

 そんな中で、気配を持たない人間というのは、翠達のような特殊な人間にとって、怪しさ爆発の存在となる。

 見つからなければそれで良いのだが、もし視界にでも入って見つかってしまえば、場合によっては魔族と勘違いされても可笑しくはない。

 今まで綾子が何事もなく生きてこられたのは、事情を知っている明羽が常に周囲に気を配り、少しでも危険を察知すれば直ぐに引っ越していた為である。


 「しょっちゅう引っ越していたのってそんな理由だったんだ。」


 翠と明羽の説明に、綾子が納得する。


 「私は一族を抜けた時に両親から力を封印されたわ。でも、気配を探ることは出来たから、白の一族の気配を感じたら、直ぐに引っ越していたの。でも、それ以外はあまり気にしていなかったわ。」


 世の中、怪しい気配を持った人はいっぱいいる。それら全てを探っていたのではきりがない。ということで、自分たちにとって一番の脅威である白の一族の気配のみを探っていた。


 「でも他にも危険はあったのね…。」


 明羽は少し反省をした。


 「まぁそういことで、このぬいぐるみの登場な訳。」


 このぬいぐるみは翠の気配を混ぜ込んで作られている。持つ者の体を取り巻き、ぬいぐるみに込められた気配を発しているようにカモフラージュする。


 「でも良く考えたら、近くで同じ気配を持つ人間が二人居るのって可笑しいよね。」


 そう言って翠は猫のぬいぐるみをもう一度握り締めた。

 再び開いた手のひらの上には、見た目何も変わらない猫のぬいぐるみがそのまま載っていた。


 「?」


 綾子と明羽は首を捻る。


 「気配を発するベクトルを少し曲げてみたの。これで微妙に気配が変わるから、私とは姉妹ぐらいに思われるんじゃないかしら。」

 「双子?」

 「まったく似てないけどね。」


 同い年の二人は顔を見合わせて笑った。

 ひとしきり笑い合ったあと、翠は明羽の目の前に右手を差し出した。二人が注目する中、右手のひらを開くと、そこには猫の肉球をかたどったぬいぐるみのストラップが乗っていた。


 「明羽さんにはこれね。」

 「あら、ありがとう。じゃあ、私はお姉さんになるのね?」


 明羽は翠の気配に似た気配を発する肉球のぬいぐるみを手に取りながら言った。

 翠に認めてもらえたようで少し嬉しかった。


 「何で猫?」


 綾子が自分のぬいぐるみと、明羽のぬいぐるみをしげしげと見比べながら聞いた。


 「だって、好きなんだもん。」


 翠が少し頬を赤らめながら呟いた。


 「翠ちゃん、かわい~ぃっ!」


 綾子が禁止令を忘れて、つい翠に抱き付いてしまう。

 翠は迷惑そうに引き剥がしにかかるが、顔はまんざらでもなさそうだった。


 「と、とにかくっ、二人ともそれを出来るだけ肌身離さずに持っていてね。」


 二人には内緒だが、今の翠には気配を感じる力が欠落している。一時的だと思われるが、回復に何時まで掛かるか解らない。

 二人が離さずに持っていても、今の翠には二人の居場所を探し出すことは出来ないだろう。

 それでも、少しでも二人から危険が遠ざかるのなら、持たせる価値はある。

 それに、自分が感じられなくても、黎は感じられる。意外に責任感の強い彼だから、二人に危険が近付けば放ってはおけないだろう。




 その日は、翠の体調を考えて、まだ9時前にもかかわらず、解散となり各々部屋へ戻って行った。

 翠は、何とか気配を感じ取ろうと瞑想などを自室で試すが、欠片も感じられずにふて寝することにした。

 翌日も気配を感じられず、翠は不機嫌だった。

 その事情を知らない綾子達は、夏休みを半分寝て過ごしたから機嫌が悪いのだろうと勘違いし、翠を気晴らしに連れ出すことになった。

 翠も、事情を話して心配されるよりもと、その勘違いに乗っかることにした。





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