鬼の棲むマンション 玖

ⅩⅩ


 藍子は驚いていた。

 翠たちのいるはずの場所からごっそりと龍牙力が消えていくのを感じた。

 それだけではなく、微かに感じ取れていた翠の力も、風神坊の力も消滅していくのを感じた。


 「これは…、相殺そうさい…?」


 本来ならあってはならない力。この世界に存在する全ての力を消し去ってしまう力。


 「いったい誰が?」


 思いつくのは綾子か寺の人間か。


 「可能性が高いのは綾子ちゃんですね。力を使えないのじゃなく、力が集まらない…。」


 相殺者は力を集めても直ぐに霧散して消えてしまう。

 綾子に聞いた話から藍子は推測した。


 「いけませんね。もしご両親がこの力を隠す為に村を抜けたのだとしたら…。」


 考えすぎだといいのだが、有り得ないことではない。

 昔から相殺の力は、混沌の力に並ぶ危険な力と信じられてきた。

 長い歴史の中で、相殺者が惨殺されたこともある。

 もし、冴種の一族がこの古い考えに囚われたままだとしたら…。

 相殺者の気配自体は感じることは出来ない。つまり、綾子には普段は冴種の紋章は必要ないのだが、力が発動したとき、周囲の力が消滅する場所がそのまま相殺者の居場所となる。

 冴種がもし綾子を探しているとしたら、気付かれたかもしれない。


 「あの子も守らなくてはいけませんね。」


 藍子は、白の一族とも戦わなければいけないかもしれないと、覚悟を決めた。




ⅩⅩⅠ




 突然、綾子の声が耳に飛び込んできた。


 「翠ちゃん、大丈夫?」


 気が付くと、目の前に綾子の顔があった。


 「あ…。」


 いつの間にかボーっとしていたようで、気が付くと周囲は夜の光景に戻っていた。


 「冴種さん…。いったい何があったの?」

 「さぁ?」


 翠は自分の力が完全に無くなっている事を不思議に思った。

 だが、力を失ったにも関わらず、体には先程までの脱力感がなくなり、普通に動けるようになっている。


 「風神坊は?」


 翠は周囲を見回したが、風神坊の姿が見当たらなかった。


 「相殺の力だ。」


 そうの声が聞こえてきた。

 振り返るとゆかりと蒼が、れいに戻った龍鬼童子と美影みかげを引き連れて歩いてきていた。その後を住職も着いて来ている。


 「相殺?」

 「その子は相殺者だ。あらゆる力を相殺し、消し去ってしまう。」


 蒼は綾子を指差して言った。


 「冴種さんが?」

 「えっ? 私っ!?」


 綾子は鳩が豆鉄砲を食らったように目をまん丸にして驚いていた。


 「翠を助けようという想いが、秘められた力を発動させたのでしょうね。」


 紫が綾子の頭をポンポンと軽く叩きながら言った。


 「あの、風神坊はまだそこにいます。翠様、トドメを。」


 美影が翠の向こうを指差して言った。

 見ると、そこには手のひらサイズまで小さくなった風神坊が居た。


 「随分小さくなったわね。それがあなたの本当の姿なの?」


 翠は顔を近付けて風神坊を覗き見た。


 「悪いか。」


 風神坊は小さな声で毒づいた。


 「ねぇ、あなたって風の精霊よね? どうして風神坊になんて…。」


 翠は見覚えのある姿に疑問を抱いた。


 「精霊は何処にでもいる。この世界だけじゃなく、魔界にも産まれる。」


 魔界に産まれた精霊は、自然に近い存在なだけに、周囲の影響を受けやすい。


 「俺たち精霊は、瘴気にやられ死ぬか、瘴気に冒され魔族化するんだ。」

 「もしかして、四神鬼しじんきは全員、精霊?」


 紫の言葉に風神坊は頷いた。


 「知ってた、黎?」


 翠の問い掛けに黎は首を左右に振る。


 「魔族は誰も知らんはずだ。元精霊だと知られれば、馬鹿にされるのは目に見えているからな。」


 精霊は純粋な魔族ではない。自分たちと違うものを異端視するのは人間だけではないらしい。


 「ねぇ、もう一度聞くわ。あなたは何をしにこの世界に来たの?」


 翠の質問に今度は素直に答えた。


 「世代交代だ。風神坊は一人じゃない。その時、最も強大な力を持ったものが風神坊となる。」


 風神坊に限らず、四神鬼は皆そうやって力を衰えさせないようにし、魔族に隙を見せないようにしているのだという。


 「俺は次の奴に風神坊を継がせたあと、争いとは無縁の場所で静かに暮らしたくてこの世界に来た。」


 だが、魔界と繋がる道に張られた結界の"歪み"を通ってきたとき、予想以上の衝撃を与えてしまった為、人間界に現れた際に、その衝撃で周囲を粉砕してしまった。

 それ故、人々は風神坊を敵視し、魔族の特性が抜けていない風神坊も、向かってくる者たちに容赦ない攻撃を仕掛けてしまったのである。


 「その結果が、封印か。良いじゃないか、ゆっくりしたかったんだろう?」


 蒼の言葉に風神坊は少しむっとした顔をした。


 「無理やり封印されればゆっくりどころか、恨みばかりが積もんだよ。」


 黎が風神坊の代わりに答えた。


 「封印されたときの記憶ばかりが鮮明に焼き残るし、俺のように何百年も封印されれば気も触れる。」


 黎は自分が封印から解かれた時のことを思い出していた。

 鎌倉後期に翡翠 楓の手で封印され、翠の手で解き放たれた。

 だが、永い封印は黎の意識レベルを低下させ、理性を奪い、ただ破壊衝動にのみ突き動かされた。


 「あんな思いは二度としたくねぇな…。」


 黎は苦々しそうに呟いた。


 「すまない。軽はずみだった。」


 黎の話を聞いて、蒼は素直に謝った。


 「俺はまだまともだったな。封印が解けると共に意識ははっきりした。だが、魔族の性だな。攻撃されれば捻じ伏せなければ気がすまない。その上、裏切り者が目の前にいたんだから、尚更、おさまりがつかなかった。」

 「…すまん。全ては俺が悪いんだ。俺が昔、馬鹿なことを考えなければ…。」


 神々に奪われた愛しい人を取り返したくて起こした戦争。

 それが何億年経った今も禍根となって続いている。


 「鬼神龍女きしんりゅうじょね…。」


 翠が口に出したのは、穏鬼一族の初代族長。

 その強大な力を恐れた神族が、敵である魔族に奪われる前にと彼女を神界へ招き、強引に神格を与えた出来事。

 このことは、聖穏鬼せいおんきにより聖血族に伝えられ、聖血族の誕生を記した書物に記載されている。

 龍鬼童子が、鬼神龍女を取り戻すため、邪穏鬼じゃおんきとなり争いを起こし、その後、魔族の王として地上に攻め入ったことも。

 この戦いでは結局、鬼神龍女が人間界へ戻ってくることも、彼女を奪った神々を引き摺り出すことも出来なかった。

 失望して姿を消した龍鬼童子が、再び姿を現したのは、鎌倉時代。

 源 実朝さねともから聖剣を継承した翡翠 楓が、彼を見つけ、従鬼とした。

 龍鬼童子は翡翠 楓の手足となって、先陣を切って魔族と戦った。

 これにより、龍鬼童子は、聖血族と友好関係を築くことができた。


 「あまり気にするな。」


 蒼が素っ気無く言った。


 「そうね。好きな人を取り戻したいと考えるのは当然のことだもの。」


 紫が蒼の言葉を補うように言う。


 「裏切りではなく、魔族は利用されていただけだったんだな。」


 風神坊は少し楽しそうに見えた。


 「あいつらがそのことを知れば怒り心頭だろうな。」


 風神坊は明らかに嬉しそうである。


 「はい、そこまで!」


 話がどんどん逸れていくので、翠が大きな声で遮った。


 「過去の話はいいから、これからのこと考えようよ。」


 翠は風神坊を見ながら言った。


 「あなた、やり直す気はある?」

 「やり直す? それは無理だな。精霊の姿に戻ったとはいえ、力が戻れば再び瘴気を纏うのが落ちだ。」


 風神坊は、既に諦めているようだった。


 「お前等にとっては、俺が力を取り戻す前に殺すのが一番だろう。」


 さぁやれ、と言わんばかりに目を閉じる。

 それを見て翠は少し苦笑をする。


 「それがね、方法が一つだけあるのよ。」


 翠が黎を指差しながら言った。

 龍鬼童子である黎は、一度は魔王にまでなった身。だが、今は聖穏鬼に戻っている。


 「黎が聖穏鬼に戻れたように、今のあなたなら、風の精霊に戻れるのよ。」


 翠の言葉に一同は驚きの表情を浮かべていた。


 「そんなことが出来るなんて聞いた事がないぞ。」

 「私も…。」


 蒼と紫にはとても信じられなかった。

 だが、龍鬼童子が聖穏鬼に戻っているのは、紛れもない事実。


 「翠、お前…。あの術まで使えんのか?」


 黎は他の者とは違う意味で驚いていた。


 「どんな術なの?」


 紫が黎に聞いた。


 「楓が俺を元に戻すために開発した術だ。名は"魔性転成ましょうてんせい"。生粋の魔族には効かんが、俺みたいのは、力が弱ってるうちなら有効な術だ。」

 「それも龍牙神術?」


 紫の問いに黎は頷いた。


 「何故、翠は習ってもいない術が使えるんだ?」

 「心に浮かんできたから、使ってみたら成功したの。」


 翠の呑気な言葉に蒼はこけそうになる。


 「…大丈夫なのか?」


 風神坊も少し心配になってきたようである。


 「任せてっ!」


 翠は自信満々に胸を張る。


 「み…ひ、翡翠さんがここまで自信持っているなら、大丈夫と思う!」


 綾子は"翠ちゃん"と呼んでいたことに、今更ながら気が付いて、慌てて"翡翠さん"に戻して翠を援護した。


 「翠でいいよ、"綾ちゃん"。」


 綾子の呼び方の変化に気が付いていた翠は、綾子を名前で呼んで微笑んだ。

 気付かれてた事に加え、翠の微笑みに綾子は顔を真っ赤にして俯いた。


 「さぁっ!やるよっ!!」


 翠は気合を入れ直し、風神坊に向き直る。

 綾子たちは少し離れて見守る。


  ―聖なる龍牙よ、

   我が呼び掛けに答え

   目を覚ませ。―


 今度は先程とは違い、最初から聖龍牙力が集まるように呪文を唱える。

 翠の周囲に水色の光が集まりだす。


  ―古の契約により

   汝が力、我に貸し与えよ―


 聖龍牙力が翠の体の中に吸い込まれていく。

 水色の光が眩く周囲を照らす。その光は大きく膨れ上がり、勢い良く翠の体に入っていく。


 「不思議なもんだな。」


 眩しい光景を見つめながら蒼が呟いた。


 「相殺された範囲は狭かったから、俺たちには影響はなかった。だが、翠と風神坊は力を失っていた。」

 「何が言いたいの?」


 紫が首を傾げる。


 「全ての力を相殺するんだから、当然この周囲の龍牙力も無くなっている筈だろ?」


 存在そのものを支える力でもある龍牙力がなくなれば、その場所は崩壊どころか、消えてなくなっても可笑しくはない。


 「空気が絶えず循環するように、龍牙力も絶えず生まれ変わってんだ。器となるものが干乾びてしまわなきゃ、直ぐに新たな龍牙力が誕生し、溢れかえる。」


 黎が簡単に説明をした。


 「龍牙力も循環してるってわけね。」


 紫が納得したように頷いた。

 翠に吸い込まれていく光の量が、少しずつ少なくなってきた。


 「それにしても凄いキャパシティだな。」

 「夕方までの翠とは全然違うわね。」


 紫と蒼にとって、翠の成長はとても信じられるものではなかった。

 自分たちが何年も掛けてここまでやってきたにも拘らず、翠は僅か数時間で自分たちよりも強大な力を手に入れた。


 「いつも藍子姉が言ってたわ。『覚醒した翠は私より強い』って…。」

 「覚醒か…。」


 翠に吸い込まれていく光が次第に弱くなり、当たりは再び暗くなった。

 翠は体中に力が満ちているのを感じる。

 閉じていた目をゆっくり開き、力を取り戻すまで、じっと待っていた風神坊を見る。

 風神坊も少し体が大きくなっている。力を取り戻し始めているのだろう。


 「―いくよ。」


 翠が促すと、風神坊は静かに頷いた。


  ―遙かなる時の向こう

   光、産まれるところ

   迷いし魂を汝の御許みもとへ導き

   その優しき御手みてで包み込み

   安らかなる癒しを与え給え―


 翠の体から水色の光が立ち上りだす。

 その光は、翠が両手を持ち上げるとともに、指先に集まりだす。

 光はどんどん集まり、両手が眩しい光で見えなくなったとき、翠は叫んだ。


  ―龍牙神術 魔性転成―


 振り下ろした両手の指先から、糸状の光が幾筋も放たれて、風神坊の体を包み込んでいく。

 光に包まれる風神坊は苦しむ様子もなく、まるで母に抱かれる子供のように目を閉じて丸くなり、光に身を委ねた。


 「これも治癒術なのね。」


 紫は術の邪魔にならないように、小さな声で言った。


 「藍子は使えるかな?」


 蒼は聖龍牙力を使える最も身近な術者で、治癒師でもある藍子にも使えないか考えてみた。


 「たぶん使えんだろうな。」


 黎があっさりと否定した。


 「何でだよ。」


 蒼は少しむっとして黎を見る。


 「呪文、聞いてなかったのか?『光、産まれるところ』ってのは、龍牙の意思が居るとこだ。指先から伸びてる龍牙は、包み込んだ者を龍牙の意思の許へ導くのさ。」


 「本当なの?」


 龍牙の意思の許へ。とても信じられることではなかった。

 龍牙の意思は、世界の外。何もない場所で一人きりで漂っているという。

 龍牙の意思が、何もない世界で寂しさを感じ、無数の世界を創造したという。


 「知らん。」


 一刀両断で黎に否定され、紫は力が抜けそうになる。


 「だが、あの光の中で、俺は大きな存在に抱き締められた気がした。とても優しく温かな存在を感じたのは確かだ。」


 光の中、ほんの少しの苛立ちも、焦りも、何もかもが溶けていき、気が付けば何かに包み込まれていた。




 風神坊を包んでいる龍牙力の光が弱まってきている。

 翠は手を横に払って、指先から出ている光の筋を断ち切った。切れた光の筋は風神坊を包む光に吸い込まれる。

 翠は力を消耗したのか、その場で片膝を付いた。


 「翠ちゃんっ!?」


 綾子が翠の許へ駆け付け、助け起こそうとするが、翠に手を伸ばした途端、静電気のようなもので拒まれてしまった。


 「ご、ごめん。この術使った直後は、力の余波が体内に残っているから、放出しているの。」


 翠がふらつきながら立ち上がった。

 辺りはもう殆ど暗くなっていた。

 風神坊を包む光も薄くなり、中が透けて見えている。


 「成功したの?」


 紫は一歩、風神坊に近付く。

 光は消え、元・風神坊、風の精霊がそっと目を開いた。


 「大きさ以外、何処も変わって見えないな。」


 蒼はどう変化するのか期待が大きかっただけに、少し肩透かしを食らってしまった。


 「……。」


 風の精霊も、自分の体を見回しているが、やはり何処も変わっていなかった。


 「ふむ、見た目は変わらんようだが、体のうちに感じる力は全然違うな。」


 今まで感じていた邪悪でモヤモヤしていたものが、今は草原を吹き渡る風のような爽やかさを感じていた。


 「元々、力を失って精霊の姿に戻ってたんだから、見た目は変わらないでしょ。」


 翠は、綾子に肩を支えられながら答えた。

 そんな翠を、風の精霊は真剣な目で見返してきた。


 「何?」


 風の精霊が両手を前に出すと、左右両方の手の前に二つの光の玉が現れた。


 「…これは、魂?」


 翠は光の玉を覗き込んだ。


 「封印が解ける前に喰らった魂だ。」


 魔族に殺された者の魂は、基本的にその魔族に食べられてしまう。

 時間が経っていなければ、退治することで取り戻して浄化することが出来るが、その時間は二十四時間持てば良い方だと言われている。


 「優花ちゃんのご両親の魂……。」


 妙子が助けられなかった魂。

 翠はお腹の辺りが少し熱くなったのを感じた。


 「妙子さん…。」


 お腹に手を添えてそっと目を閉じる。


 (妙子さん、安心して。ちゃんと供養してもらうからね。)


 翠は目を開けると、蒼の後ろで珍しく静かに立っている住職を振り返った。


 「住職さん、二人の魂を供養してやってください。」


 突然、話を振られて住職は少し焦ってどもってしまう。


 「わ、わわ、私に任せておきなさい…っ!こう見えても本職じゃからなっ!!」


 胸をどんっと叩いて前に出て来て、風の精霊から魂を受け取ろうとするが、手を伸ばして固まってしまった。


 「?」


 翠が首を傾げていると、住職が振り返る。


 「魂はどうやって持ち運べば良いんじゃ? 触ってよいのか?」


 二つの魂を指差しながら聞いてくる。


 「…本職じゃなかったの?」


 呆れる翠に、住職は「持ったことなどないっ!」と胸を張る。


 「これに宿して持っていくといい。」


 蒼が二枚のお札を住職に渡そうとしたが…。


 「やってくれいっ!」


 何故か偉そうに頼む。


 「………。」


 蒼はむっとした顔で、二つの魂に一枚ずつお札を貼っていく。

 貼られた魂は、お札に吸い込まれて蒼の手の中に戻っていく。


 「ほら。」


 住職にむかついている蒼は無愛想にお札を渡した。


 「よしっ!ここからは私に任せなさいっ!!」


 そう言うと住職はお札を持って、足早に寺に戻って行った。


 「やっと消えた。」

 「ふふ、随分、苦手なようね。」


 明らかに不機嫌になっている蒼を見て、紫は笑いを堪えながら言った。


 「有り難うな。この世界でやり直してみるよ。」

 「うん、元気でね。」


 風の精霊はくるっと一回転すると、姿勢を正して翠たちを見渡す。


 「また、縁があれば会おう。そのときには必ず何かしら力になってみせる。」


 風の精霊の姿がすぅっと消えていき、あたりに清浄な風が吹きすぎていった。

 風の精霊を見送った途端、翠は再び膝から力が抜けて倒れてしまう。

 突然のことに、綾子は支えきれず一緒に倒れた。


 「み、翠ちゃんっ!?」


 綾子は翠を再び助け起こそうとするが、黎がそっとその肩を掴んで止めた。


 「黎さん…。」


 泣きそうな綾子の表情に、黎は珍しく優しい笑みを浮かべて静かに言った。


 「翠は力を使いすぎて、気ぃ失っているだけだ。心配すんな。」


 黎は自分の役目だと言わんばかりに、倒れた翠の体を抱え上げる。


 「俺は翠を連れて帰る。どうせ処理班が近くまで来てんだろ? 後始末頼むわ。」


 黎はそう言うと、紫たちの返事も聞かずにずんずん歩き出した。

 どうすればいいか解らない綾子はあたふたしている。


 「冴種さん、あなたは私が家まで送るわ。もう夜明けも近い時間帯だものね。」


 空はいつの間にか薄っすらと白み始めていた。時計を見ると、とっくに4時を回っていた。


 「ご家族も心配しているでしょうしね。」


 紫の言葉に、綾子は軽く首を振った。


 「私、姉と二人暮らしなんです。その姉も、今はまだ入院中だから、家には心配する人は居ません。」


 引っ越したばかりで、家には固定電話もなく、姉との連絡はスマホのみ。そのスマホに何も着信がない以上は姉に今、自分が家に居ないことは知られるはずもない。


 「まぁ、それでも家まで送るわ。こんな時間に一人で帰らせるわけには行かないものね。」


 酔っ払いも道端で酔いつぶれている時間。電車もまだ動いては居ないだろうこの時間に、一人で帰らせるわけには行かない。


 「あ、有り難うございます。」


 綾子は紫に礼を言って素直に帰ることにした。

 本当は翠のことが心配で、黎に付いて行きたいのだが、自分が居ては翠の回復の邪魔になるかもと想い、今回はこのまま帰ることにした。

 蒼は頭を掻きながら、処理班に電話をしていた。


 「処理班は直ぐに来る。柏木夫妻の遺体も、女の子のことも後はこっちでやっておく。」


 スマホを操作しながら、蒼は手を振って早く帰るように促した。

 ずっと黙って行方を見守っていた美影が、そっと綾子を抱え上げた。


 「えっ!?な、何っ!?」


 突然のことに、綾子はまたもや動揺してしまう。


 「この時間、電車もないだろうし、タクシーを拾うまで歩くことになるから、大人しくしててね。」


 紫が暗に足手纏いと言っていると思い、綾子はただ頷くしかなかった。

 薄暗い中で、まだ微かに見える黎と翠のシルエットに、紫と綾子と美影の姿。

 それを見送った蒼は、寺に戻りながら小さく呟いた。


 「長い一日だったな…。」








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