鬼の棲むマンション 捌

ⅩⅦ


 鬼の猛攻に龍鬼童子は苦戦していた。

 一度は魔族の長にまでなった実力者だが、今は翠の従鬼として、十分な血を与えられていないため、上手く力を出せずにいた。


 「翠の言うとおり、月一に変えておくべきだったな…。」


 龍鬼童子は鬼の攻撃を防ぎながら呟く。

 その身に纏う白い鎧は、至る所に傷が刻まれている。


 「どうした龍鬼童子よ。裏切り者とは言え、魔族の元族長がその体たらくでは困るぞ。」


 鬼が防戦一方になっている龍鬼童子を嘲笑いながら言った。

 鬼が風をはらんだ拳で龍鬼童子を殴りつける。龍鬼童子は瞬時に龍牙力で壁を作って防ごうとするが、予想以上に力が集まらず砕け散った。咄嗟に右手で庇うが、弾かれてしまい、顔面に直撃を喰らう。

 拳に纏った風の勢いそのままに、龍鬼童子の巨体が回転しながら吹き飛ぶ。

 勝利を確信した鬼の咆哮が挙がる。


 「お、俺は負ける訳にはいかんのだ…。あの時、誓ったんだ。絶対に守ると!。」


 龍鬼童子が力を振り絞って立ち上がる。


 「だったら!」


 後ろからの突然の声に驚いて振り返ると、そこにはいつの間にか翠が立っていた。


 「あの時の誓いを守りたいんなら、ちゃんと血を飲んで。私はいつまでも幼いままじゃなんだから!」


 翠は腕を組んで怒っているようだった。


 「何だ貴様? 小さな存在で邪魔をするなっ!」


 鬼が翠を見咎みとがめて攻撃を仕掛けようとする。


 「うるさいわね。そっちこそ邪魔しないで。」


 翠が左腕を一閃すると、鬼は上からの突然の風圧に押し潰されて地面に縫い付けられた。

 風楔陣ふうせつじんである。


 「…翠、お前…。」


 何の呪文もなく、今まで使ったことの無い術を一瞬で完成させてしまった翠の技量に龍鬼童子は驚いた。


 「龍鬼、小さくなって。風楔陣は余り持たないんだから、急いで応急処置をするわよ。」


 翠の言葉に龍鬼童子は素直に従った。その背丈は翠より頭一つ半ほど高いぐらいである。そこにいるのは"黎"である。


 「随分やられたわね。」


 翠が右手を差し出すと、黎がその指先に牙を突き立てた。指先から血が吸われていく。

 しかし、黎はすぐに吸うのを止めてしまった。


 「もういいの?」

 「いっぱい吸ったら、お前が戦えねぇだろ。」


 黎は少しバツが悪そうに答えた。

 こうしている間にも、鬼は風楔陣を破ろうともがき、大きな咆哮をあげて体を振るわせる。


 「じゃあ、あっちに冴種さえぐささんがいるから、とばっちり受けないように守ってあげて。」


 翠が寺の方を指差した。

 暗がりの中でも、黎の目にはそこに人がいるのがしっかり見て取れる。

 そこへ、鬼の方から生温く異臭を放つ風が吹いてきた。見ると、鬼の体が更に大きく膨らんでいた。

 風はその体から発せられているようだ。


 「ヤバいっ! 奴は風神坊ふうじんぼうだっ!!」


 敵の正体にようやく気付いた黎はそう叫ぶと、寺に向けて走り出す。


 「翠、結界を張れっ!その風は魔界の瘴気しょうきだっ!!」


 黎の言葉に反射的に反応した翠は、自分の周りに龍牙力で障壁を作り出した。

 それとほぼ同時に風楔陣が弾け飛び、鬼から大量の瘴気の風が吹き荒れた。

 翠は障壁に守られ風に触れることは無いが、障壁ごと後ろへ飛ばされそうになり、膝を落として堪える。

 黎を見ると、黎は寺の前で再び龍鬼童子に戻り、龍牙力を発動してやはり障壁を作っていた。黎は自分とは違い、少しの揺らぎも見せずにどっしりと立っている。

 しかし、翠は驚愕の光景を目の当たりにする。

 それは、障壁に守られていない部分。周囲の田んぼや森林が見るみる枯れて行く。


 『龍鬼っ!これはいったい何!?』


 翠の声は風の音に遮られ届かない。そこで翠は、血の契約に依って従鬼との間に得られる繋がりを利用した。

 繋がりが強ければ強いほどその力は遠方まで届く。昼間マンションを探索しているときに二人がしていた会話がそれである。


 『奴は魔界の自然を司る四神鬼しじんきの一匹・風神坊だ。奴は魔界の風そのもので、その風には凶悪な瘴気が含まれる。』


 龍鬼童子の説明によると、瘴気の風には生気を吸い取ってしまう力があり、風に触れた物は何であれ、枯れ果ててしまう。吸い取った生気はそのまま風神坊の力となる為、風神坊は他の三神鬼さんじんきよりも強大な力を保有しているという。


 『そんな奴が何でこんな所に封じられていたの?』

 『それよりこいつが江戸時代に地上に現れていたことの方が驚きだ。奴は魔族の癖に闘争心や暴力性に欠け、人間界などは全く興味を持ってなかったからな。』


 龍鬼童子は本気で不思議がっているようだった。


 『でもそれって、あなたが魔族の長をやっていた時のことでしょ?それって何億年前よっ!?』


 時が経てば人は変わる。鬼もまた然り。

 このままでは翠は、吹き飛ばされないように耐えるのがやっとだった。


 (何とかしないと、この辺り一帯が枯れ野原になる。)


 その時、翠の体がポワンと暖かくなった。体の底から力が湧いて来るのを感じる。

 それまであんなに吹き飛ばされそうになっていたにも関わらず、力を感じた途端、その風の勢いは全く苦にならなくなった。


 『翠…?』


 龍鬼童子も異変を感じたのか、そっと問い掛けてくる。


 『龍鬼、私やってみる!』


 翠は龍鬼童子に答え立ち上がり、左手に聖剣・正宗を出現させる。

 正宗をそのまま地面に突き立てると、刃から無数に輝く清浄な光が溢れ出した。





 「龍鬼童子、一体何が起こっているんだ?」


 そうが寺から飛び出してきて、目の前に仁王立ちをする龍鬼童子に聞いた。

 傍にはゆかりと住職までいた。


 「結界が震えて悲鳴をあげたぞ。」


 蒼は少し焦っているようだった。

 龍鬼童子の後ろにいる綾子は信じられないといった様子で周囲を見回していた。

 紫も周囲をうかがってみると、寺の周囲を残して草木が枯れ果てているのに気が付いた。


 「どうなっているの?」

 「草木が枯れとるではないか。」


 住職は良く見てみようと近づいて行く。


 「出るなっ!!」


 突然、野太く低い声が上空から降りかかってきて住職は足を竦ませた。


 「この障壁から出ると、瘴気の風の餌食えじきになるぞ!」


 龍鬼童子の作る障壁の中には一切風が吹いていない。しかし、周囲の枯れ果てた草木は大きくなびいていた。風の勢いに倒れる木もあれば、風に刈られて四散する草もある。


 「奴は風神坊。魔界の風そのもの。魔王ですら不可侵の存在だ。」


 龍鬼童子は簡単に説明をした。


 「そんな奴がこんな所に封じられていたのか。」

 「そんな奴だからこそ、攻撃力に欠ける白の一族は、封じるしか方法がなかったんだろう。」


 龍鬼童子の訂正に蒼は納得しながらも、やはり何故こんな所にと疑問を感じていた。


 「あの、翡翠さんが光っているみたい…。」


 綾子の言葉に一同が翠を見る。

 すると確かに翠の周囲に絶えず色の変化する光が溢れているようだった。


 「何をする気?」

 「ここから見た限りでは、神修道法術しんしゅうどうほうじゅつ龍泉光りゅうせんこうに見えるが…。藍子が最も得意とする治癒術の一つだな。」


 やがて光はまるで蛇の如く鎌首を持ち上げ始めた。


 「…龍?」


 綾子には、絵の中でしか見たことない空想上の生き物と信じていたものにしか見えなかった。


 「あれが私たちの力が龍牙力と呼ばれる所以ゆえんよ。」


 鎌首をもたげた龍牙力がまるで咆哮のような音を立てて上空に立ち昇る。


 「これ、本当に龍泉光なの?」


 龍泉光は傷つきしもの全てを癒す力。その力は絶大で、瀕死の状態すら一瞬で完治してしまう。


 「俺が見たのはここまで大掛かりじゃなかったから、あまり自信がない。」


 綾子は完全に光の中の翠に見惚れていた。住職は腰を抜かし立ち昇る光の龍を見上げていた。


 「弾けるぞ。周囲がどうなるかしっかり見てろ。」


 龍鬼童子が言うと同時に、巨大な光の龍が大きく弾けた。

 弾けた光は全てを包み込むかのように周囲に広がり、紫たちに優しい光を投げ掛けた。


 「き、木が元に戻っとるぞっ!」


 住職の言葉に紫たちは周囲を見回した。すると、瘴気の風に生気を奪われ枯れ果てていた草木が、大きくひび割れていた大地が元の姿を取り戻していた。そこには瑞々しいまでの生気が宿っている。


 「こいつは龍泉光なんかじゃねぇよ。名前は忘れたが翡翠 かえでが創り、龍泉光の元となった術だ。」


 龍鬼童子の説明に蒼は驚愕した。

 翡翠 楓は鎌倉時代に翡翠一族を創り上げた始祖であり、聖血族史上、最大の退魔師である。


 「始祖の作った術は強大なものが多かったが、今まで誰も使えなかった。それ故、その術は既に失われたと聞いているぞ。」


 光に触れたもの全てを癒す力。

 龍鬼童子が突然、障壁を消した。障壁が消えたことで周囲に吹き荒れていた瘴気の風が紫たちに直撃する。


 「ち、ちょっと龍鬼童子っ!?何をするのっ!?」

 「慌てんな。もうただの風だ。翠の力で瘴気は浄化されている。」


 しかし綾子と住職は風に飛ばされそうになり、何処からか現れた美影により支えられていた。

 肌に感じる風は暴風というよりも凶風そのもの。だが、光に癒された草木はその風に当りながらも倒れることも引きちぎられることもなかった。


 「これだけの風を一気に浄化したのか…。」


 蒼が信じられないといった様子で風に触れてみる。


 「これが、翠の力…。」


 紫も驚愕の眼差しで光の中に立つ翠を見た。


 「楓の術は失われちゃいねぇ。あいつは俺を封印するとき、全てを書き記して何処かに預けると言っていた。」


 翠の光に対抗すかのように、風神坊は一際大きな咆哮を上げて更に瘴気の風を発生させる。


 「他にもあるのか?何処だっ!?」

 「俺が封印された後のことだ。何処にあるかなど知らん。」


 風神坊の風は翠の光に触れた途端、浄化されただの風になる。

 無駄と悟った風神坊は風をおさめた。

 吹き荒れていた風はピタッと止み、何事もなかったように静かな夜が戻ってきた。ただ、翠の優しい光がこの一帯を包み込んでいるため、辺りは昼間のように明るかった。

 この光の中、風神坊の周りだけが闇に霞んで見えている。




 風が止んだのを確認した翠は、正宗を地面から引き抜き、横に一閃した。すると、辺りに溢れていた光が瞬時に消えて月の覚束おぼつかない光に包まれる。


 「貴様、何者だっ?」


 風神坊が目を剥いて食って掛かる。しかし翠がその迫力に動じることは無かった。


 「私は翡翠 翠。ただの退魔師よ。」


 正宗を正面に構え直す。


 「さぁ、最終ラウンドと行きましょう。」




ⅩⅧ




 藍子は電気一つ点けていない暗い部屋の中で、強大な力の波動を感じていた。


 「…翠ちゃん。」


 同じ市内にいるとはいえ、翠たちが戦っている場所からは約10km離れている。これだけ離れているにも関わらず、霞むことなくはっきりと感じるこの力は、正しく愛しい妹の力。


 「自分の力がやっと使えるようになったのね。」


 幼い頃から翠の中に感じ続けてきた力。それは聖龍牙力せいりゅうがりょくだった。

 押さえ切れずに溢れ出る力は、ともすればバランスを崩して混沌となる。それ故、周囲からは誤解され、翠のように力を封印されるものも出てくる。

 藍子の場合は、感受性が強く、族長の娘として強い影響力を持つ母親が健在で、藍子の力が聖龍牙力だと見抜いていたために勘違いされることは無かった。

 その母親は、翠を産んだ翌年、父親と共に退魔に出かけ、両者とも命を落とした。まだ一度も力を発動したことがなかった翠は、その秘めた力を見極められることなく育った。

 そして時折見せるようになる混沌の力。周囲は禁忌の力を持った子供だと決め付けていった。

 藍子は必死に聖龍牙力の可能性もあると訴えたが、子供の言うことなど誰も信じなかった。

 そして極めつけの出来事――。

 封印から目覚めた龍鬼童子の暴走。

 大好きな妙子を守るために爆発した翠の力が、混沌となって本家の家屋すべてを吸い込んでしまった。

 幸い被害者は出なかったものの、評議会が力の封印を決定するのを阻止できるものはいなかった。

 そして秘密裏に行われた"封人ほうと"――。

 死して記憶を取り戻した妙子が教えてくれなければ、一生知らずにいたかも知れない。


 「この感じは何…?不思議、何だか懐かしい…。」


 遠くから感じる翠の気配に懐かしさを覚えていた。

 むかし失くしたとても大事な何かを再び見つけたかのようなその感覚に、胸が締め付けられる。


 「これを失うわけにはいかない。守らなければ。魔族からも、評議会からも…。」


 藍子は既に、評議会が翠の力を何らかの計画に利用しようとしていると決め付けていた。

 これまでも、聖血族の実力者は幾度となくその命を賭して魔族を封じてきた。

 最近現れだした強大な力を持った魔族。それはつまり、先代の聖剣王が自らの命を使って張った封印が揺らぎ始めている証拠。

 先代が封印を張ってから未だ60年程度。早過ぎる封印の崩壊の兆しに評議会が焦っているのかも知れない。

 術者を守る龍牙の巫女としてだけではなく、翠の姉としても、藍子は評議会と戦う決意を固めていた。




ⅩⅨ




 「最終ラウンドだと?」


 風神坊は苦虫を噛み潰したように顔を歪めて翠の言葉を繰り返した。


 「そ。第1ラウンドは助けるべき住民を助けられなくてこちらの負け。第2ラウンドは両者ダウンで引き分け。第3ラウンドは四神封縛成功でこっちの勝ち。」


 翠は指折り数えていく。


 「第4ラウンドは無事女の子を救出して私たちの勝ち。第5ラウンドは妙子さんを失った上に、マンションの崩壊であなたの勝ち。第6ラウンドは龍鬼がズタボロにやられてやっぱりあなたの勝ち。」


 結果2勝3敗1引き分け。


 「これがスポーツなら、既に勝敗は着いているわね。」


 だがこれはスポーツではなく、命を賭けた戦い。どちらかが降参若しくは死なない限り、その勝敗は決して着かない。


 「ふざけたことを言う。」


 風神坊は、瘴気の風の塊を翠に向けて撃ち出した。

 その風を翠は軽々とジャンプで避けて風神坊との距離を詰めて行く。

 正面に構えていた正宗を左手に持ち直し大きく飛び上がる。一飛びで風神坊の頭の高さを越える。


 「いっけぇぇぇ~~っ!!」


 翠は風神坊の頭、目掛けて正宗を体全体で振り下ろす。

 型も何もあったものではないが、正宗の刃は翠の力を受けて無数の光を放っている。

 風神坊は右腕に風を纏いつかせて翠の攻撃を防ぐ。正宗の刃は瘴気の風に阻まれるが、翠は怯まず次の攻撃を加える。


  ―槍龍そうりゅう毒破どっぱ


 翠の右手から幾筋もの光の槍が飛び出して風神坊に襲いかかる。

 その威力と量は昼間の時とは大違いで、風神坊は防ぎきれずに体中に槍龍・毒破を喰らい後方へ吹き飛んでしまう。

 翠は間髪いれず、吹き飛んだ風神坊に詰め寄り正宗を振り下ろす。

 正宗は、咄嗟に体を庇おうとした風神坊の左腕を切り落とした。

 風神坊もただやられているわけにはいかない。

 腕を切り落とした直後の翠の僅かな隙をついて左腕の切り口から、瘴気の風を吹き付けた。

 幸いにも個人結界が発動し、生気を吸い取られるのを免れた翠は、今度は後ろに飛んで間合いを開ける。


 「あっぶな~。」


 翠は個人結界に感謝しながら正宗を横に一閃して調子を確かめる。正宗には瘴気の影響はなかったようだ。


 「あなたが風そのものといことを、すっかり忘れていたわ。」


 風神坊はまたも切り落とされた腕を簡単にくっつけてしまう。


 「貴様に俺は倒せん。素直に俺に喰らわれたらどうだ?」


 風神坊が勝ち誇ったような顔をして、くっつけた左腕を試すように大きく振るう。


 「冗談でしょ。倒せなくても、弱らせることは出来るわ。」


 左腕から発生する瘴気の風が幾つもの刃となって襲い掛かるが、小さな風は翠の障壁で簡単に防げてしまう。


 「あんまり、なめないでよねっ!」


 翠が小馬鹿にされたような攻撃に切れる。

 先程と同じように、足に龍牙力を込めた跳躍で一気に風神坊の頭上を越えると、体をひらりとひるがえし、後ろから風神坊に切りつけた。

 翠の動きについていけないのか、それともただの余裕か、風神坊は避ける様子もなかった。

 幾つもの光を放つ正宗の刃は軽々と風神坊の頭を割り開く。しかし、皮膚を切り裂く手ごたえも、頭蓋骨を砕く手ごたえもない。

 刃はそのまま首、胴体と、風神坊の体を真っ二つにする。

 切り口からは、脳漿のうしょうも血液も、骨や内臓すら飛び出すことはなかった。それどころか、体の中は真っ暗な空洞だった。


 「翠っ!避けろぉっ!!」


 次の攻撃に移ろうとしていた翠の耳に、龍鬼童子の大音声の警告が飛び込んできた。突然の只ならぬ声に、翠はつい龍鬼童子の方を振り返ってしまう。

 そこへ、風神坊の裂け目から勢い良く大量の瘴気の風が吹き出した。気を逸らしていた翠には、避ける暇もなかった。



 龍鬼童子の声に紫達は焦っていた。


 「龍鬼童子、何が起きているの?」


 距離にして、僅か約百メートル。だが、夜のとばりのおかげで翠の様子は良く窺えない。

 顔を覗かせていた月も、いつの間にかまた闇に覆われている。

 龍鬼童子が飛び出していかないところを見ると、大した事でもないのだろうが、声音からただ事では無いことは確かである。


 「翠が、瘴気の風をまともに食らった。」


 龍鬼童子の言葉に綾子が反応した。


 「翠ちゃんッ!?」


 綾子が翠の元へ走り出そうとするのを紫が引き止めた。


 「冴種さん、落ち着いて。龍鬼童子、あなたが動かないと言うことは、翠は無事なのね?」

 「翠の力は上がっている。不意打ちの攻撃に対して発動する個人結界も強くなっている。」


 個人結界がどんなものか、綾子には良く解らないが、とにかく無事だということは理解できた。

 少し胸をなでおろす。


 「美影、この暗さ、何とかならない?」


 紫が綾子の肩をポンポンと優しく叩きながら、問い掛けた。


 「明るくはできませんが、見えているものを映し出すことなら何とか。」


 美影はそう言うと、右手に光の珠を発生させた。

 光の珠は、ぷかぷかと浮かぶと、直径1メートル程度まで大きくなった。

 それを確認した美影は、「失礼します。」と言って、龍鬼童子の肩に飛び乗った。一番見晴らしのいい場所を選んだのだろう。

 やがて光の珠の中に、ぼんやり影のようなものが浮かび上がってきた。


 「便利な力を持ってんだな。」


 龍鬼童子が、肩の上に座る美影に言う。


 「むかし、魔族の偵察をしていたので。」


 影は次第にはっきりと輪郭を結んでいく。

 映し出された映像は薄暗いが、闇夜の向こうで起きていることを判別するには十分の明るさを持っていた。

 そこには、瘴気の凶風に激しくなぶられて、長い髪とスカートをはためかせて耐えている翠が映っている。


 「あそこだけあんなに風が吹いているなんて。」


 まるでそこが吹き溜まりのように渦を巻いているようだった。


 「あの風は風神坊だ。自分の体を全て風に戻して全方向から攻撃を仕掛け、獲物の力を削り取る。」

 「翠は大丈夫なのか?」


 蒼は個人結界で薄っすらと輝く翠を見ながら言った。


 「見た目は派手だが、一回の攻撃に大した威力はない。今の翠なら抜け出せるはずだ。」

 「もしかして、大声で警告したのは、翠の気を風神坊から逸らして、わざと不意打ちの状況を作り出したの?」


 不意打ちならば、自己防衛反応として、即座に個人結界が働く。認識していない攻撃に対してのみ反応する結界であるため、動きの見えている敵に対しては発動しないことが多い。


 「あいつは耳がいいからな。でっけぇ音に対しては異常に敏感なんだ。そのくせ、寝てしまうと側で暴れても起きんがな。」

 「起きないって…、それ退魔師にとっては致命傷なんじゃ…。」


 翠の豆知識に、紫は先輩退魔師として、少し心配になった。


 「すごいのぅ。この使い方も教えてくれんか?」


 住職は、まるで観光気分のようにさっきから、はしゃぎまくっている。

 あまりに真剣みが無く、はっきり言って邪魔である。

 物珍しさから、光の珠に近付いて覗き込んでいる住職は、翠をずっと見ていたい綾子にとっても、視界を遮られ、邪魔でしかなかった。


 「邪魔だ。」


 蒼が、住職の後頭部に手を翳すと、住職は突然、気を失い、その場にくずおれてしまう。


 「さっきもそうやって寝かせてきたのね。」


 寺に避難する際に、門の内側で呑気に寝こけていた住職の姿を思い出した紫が、呆れた声で呟いた。


 「眠らせているだけだ。こういう好奇心旺盛で単純な奴は、術が掛かり易いから楽だ。」


 蒼は住職の襟首を掴んで、やはり寺の門の内側に寝かせに行った。


 「さすがの蒼兄も、ああいうタイプは苦手みたいね。」


 視界が開けた綾子は、両手を握り締め、固唾を呑んで翠を見守る。

 光の珠の中に浮かび上がる翠は、正宗を頭上に掲げていた。




 翠は、掲げた正宗を勢い良く振り下ろす。

 龍牙力を込めた一振りは、風の流れを変えた。

 翠の前に風の谷間を作り上げたのだ。風は上から地面に吹き降ろし、外側に向かって吹いていく。

 翠はその谷間を通って風の渦の外に飛び出した。


 「ふぅ…。龍鬼に感謝しないとね。」


 翠は龍鬼童子の意図を明確に理解していた。


 「さぁ風神坊!今ので、あなたの攻撃も私には通じないって解ったでしょう。」


 正宗を構え直し、風神坊を挑発する。

 瘴気の風が凝り固まり、風神坊が姿を現す。


 「まったく効かないわけではなさそうだが?」


 個人結界はあくまで術者の体を守るもの。衣服などは範疇外である。

 その為、体から離れると結界の外にはみ出し攻撃を受けてしまう。

 翠も、髪の毛は個人結界に守られていたものの、スカートは見るも無残に切り裂かれ、白く綺麗な太腿があらわになっていた。


 「エッチ。」


 翠はおどけて恥ずかしそうに太腿を隠す。


 「ふざけるなっ!!」


 その態度を見た風神坊が突進してきた。

 翠は腰を落とし、間合いを見て避けようとしたが、突如、風神坊から邪気が放たれた。

 当然、避けようと構えていた翠に個人結界の保護は無く、邪気は翠の肩口を貫いた。

 邪気の勢いそのままに翠の体は後ろに吹き飛んでしまう。

 休耕田の畦道あぜみちの端に背中を激しく打ち付け、息が詰まり、咳き込んでしまう。


 「く、ぅ…っ。わ、忘れてわ…。」


 マンションの崩壊直前に見た、龍鬼童子と風神坊の一騎打ちで風神坊が邪気を使うのを見ていたにもかかわらず、翠はすっかりそのことを失念していた。

 風神坊の力は風だけとの思い込みが、今回の失敗を招いていた。

 魔族なのだから、邪気を使うのは当然。中には、龍牙力の一部・影響力を使う者もいる。それ故、影響力は邪龍牙力じゃりゅうがりょくと呼ばれることもある。


 『なめてかかるから、そんな目に会うんだ。ばか翠。』


 頭の中に龍鬼童子の声が響く。


 『さっきも言った通り奴は、四神鬼の一匹だ。馬鹿の一つ覚えの下級魔族とは違うんだぞ。』

 「うぅ~~。」


 翠は龍鬼童子の言葉に唸りながら、右肩を押さえて立ち上がる。

 肩を貫いた邪気は小さいものの、その影響は大きく、大量の血が流れ出ていた。

 翠は右腕を持ち上げることも出来なくなっていた。


 「やばいなぁ~。」


 見た目とは裏腹に、翠は軽い口調で呟いた。

 右腕を伝って、指先から真っ赤な血が滴り落ちる。

 だが翠は、その血が地面に滲み込まずに、足元に留まっていることに気が付いた。


 「…まさか…。」


 いくら直接与えられたとはいえ、妙子にしか使えないと思っていた力。

 目の前の風神坊は勝ち誇った様子でゆっくりと近付いてくる。恐らく溢れだす血の量と臭いに油断しているのだろう。

 本当に使えるか解らないが、試してみる価値はある。


 『翠、何をするつもりだ?』


 頭の中に龍鬼童子の声が響いた。


 『ちょっとね。成功しても嫉妬しないでね。』

 『あん…?』


 翠の意図が解らずに龍鬼童子からは間抜けな声が返ってくる。

 従鬼との繋がりはどれだけ血を与えたかで変わってくる。繋がりが強くなればなる程、お互いの考えや感覚が伝わるようになるという。

 美影が紫の意図を汲んで素早く動けるのも、この繋がりが強いためである。

 翠と龍鬼童子は、従鬼の契約を結んだ時、翠が幼かったため、あまり血を与えられなかった。

 翠の成長に合わせて、血を与える間隔を短くしていっていたが、どういうわけか、龍鬼童子が血をあまり飲みたがらない為、未だに3ヶ月に一度という低頻度だった。

 それ故、契約を結んだのは翠達の方が早いが、繋がり自体はたいして強くなかった。

 翠の視界を風神坊の体が塞いでいく。

 翠は後少しと、風神坊が近付いてくるのを待った。

 右肩から溢れる血は、足も伝って、翠の周りに大きな血溜まりを作っていく。

 咽返むせかえるような血の臭い。しかし、その血は優しく翠の肩の傷を癒していく。

 もう、殆ど痛みも無くなっていた。

 翠は、目を閉じて呪文を思い出す。


  ―いにしえの契約により、

   我、汝を召喚せん。

   我が血を媒介とし、

   今、ここに現れよ。―


 翠の足元の血がにわかにざわめきだす。


  ―あかき風を引き連れ、

   我が敵を討ち滅ぼせっ!―


 ざわめいていた大量の血が、塊となって風神坊に向かって飛び出す。


  ―出よ、風鬼童子っ!!―


 風神坊が勝ち誇った笑みを浮かべて腕を振り上げたとき、翠は叫んだ。

 予想していなかった攻撃に、風神坊は対応できず、その腹部を翠の血の塊で貫かれる。

 血の塊はそのまま、風神坊の体を包み込んで地面に叩きつけた。

 血の塊は四散したかと思うと、再び一箇所に集まった。


 《妙子の力はお前を助ける。今はまだこれ以上は無理だが、お前ならいずれ全て使いこなせるだろう。》


 血の塊から姿を変えられない風鬼童子は、そう言葉を残して翠の右肩から体内に戻って行った。

 流れ出た血は全て体内に戻り、右肩の傷も完全に消えていた。


 『…俺以外の従鬼を持つ気か?嫉妬するぞ。』


 今のを見ていた龍鬼童子が低い声で話し掛けてきた。


 『だから嫉妬しないでって言ったでしょ。』

 『ふん、あいつより目立ちゃぁいいんだ。』


 龍鬼童子の拗ねたような声に、翠は苦笑した。


 『目立つより、役に立ってね。』


 龍鬼の返事は無かった。

 叩きつけられた風神坊は少し目を回したようだが、すぐに立ち直り、風になって翠から離れる。


 「ふふ、お互い油断しちゃいけないよね。」


 翠は自由に動くようになった右腕を、ぶんぶん振り回しながら言った。

 妙子の力が使える。

 それは妙子が自分の中で生きている証拠に思えて、翠は嬉しくて仕方なかった。顔がにやけずにはいられない。


 「その顔で言われても腹が立つだけだが…。」


 風神坊は翠のにやけ顔に苛立ちながらも、翠の力を警戒して下手に近付くことを止めた。




 「…あれは風鬼童子なの?」


 光の珠に映し出される光景に紫と蒼は、驚いていた。


 「翠ちゃん、楽しそう。」


 綾子は腕をぶんぶん振り回している翠を見て、内心、「可愛いな」と思っていた。

 今まで、結構な不幸はあったものの、それなりに幸せを享受してきた人生。

 高校の体験入学の時にお互い自己紹介したときから、何故か惹かれてきた。

 もう一度翠に会うため、必死に勉強した。

 入試では会えなかったものの、合格発表の時、彼女の名前を見つけて歓喜したのを覚えている。

 その上、同じクラスになってどれだけ神様に感謝したことか。

 それが占い師との出会いからこっち、一変してしまった。

 今、目の前で繰り広げられているのは命を賭けた戦い―。

 まだ、たった一日とはいえ、今までの日常生活では決して想像できなかった景色。

 倒れることなど想像しなかったマンションの崩壊に、巨大な鬼のぶつかり合い。

 干乾びていく大地に、立ち上る光の龍とそれに癒される大地。

 そして、愛しの翠は自分が流した血で巨大な鬼を攻撃していた。

 この受け入れ難い現実の中でも、綾子の目には、翠はヒーローの如く格好良く、ヒロインのように可愛かった。


 「翠の悪い癖だな。」

 「そうね。ああやって、すぐに敵を挑発する。」


 自分が可愛いと思っていた仕草も、幾多あまたもの戦いを潜り抜けて来た二人には不用意な行動でしかなかった。


 「だが、これではっきりしたな。妙ちゃんの力は翠の中に宿っている。」


 風鬼童子は妙子が、自らの血と聖桃玉せいとうぎょくを融合させて産み出した従鬼。妙子以外に使えるはずが無い。


 「妙子と風鬼童子は一心同体。妙子が翠を愛している以上、風鬼童子も翠を愛している。気にいらねぇが…。」


 愛している者の危機を救わない者はいない。

 龍鬼童子の言葉に綾子は胸が締め付けられる思いだった。

 自分は翠の為になにをしただろう?

 ただ近くでうろついて、オロオロしているだけだった。

 見上げた先に映し出される翠は、風神坊の猛攻を軽々とかわしていた。


 (負けたくない。)


 翠に宿った妙子さん。

 現実にはもう会えない人だけれど、自分も翠の為に何かしたい。

 思い出されるのは、紫の言葉。

 心配してくれる人が傍に居る。ただそれだけで救われるのだと。

 そして藍子の言葉。

 冴種が白の聖血族で、魔族と戦う力を持っているという。

 もしそれが本当なら…。

 綾子の心は決まりかけていた。




 邪気と瘴気の風を織り交ぜた風神坊の猛攻を、かわし続ける翠。

 邪気が地面を穿ち、瘴気の風が草木の生気を吸い尽くす。


 「避けてばかりでは勝てんぞっ!」


 風神坊が右手に、ひときわ大きな、邪気と瘴気の塊を作る。

 全てを破壊する力と、全ての命の力を吸い取る力。

 それは邪悪な意思の象徴そのもの。まさに魔界の力である。


 「今度は避けられんぞっ!!」


 邪気と瘴気の大きな塊を、まるでバスケットボールでも投げるように、軽々と投げ付ける。

 風神坊の力は、周囲の土や草木を巻き込んで、どんどん大きくなっていく。

 巻き込まれた物は邪気に瘴気に、生気を吸われ、邪気に粉々に砕かれていく。

 自分の体以上の大きさを持つその塊は更に大きく成長していく。

 翠は避けるのをやめ、正宗を体の前で垂直に立てて構えた。

 そして正宗の峰に右手を添える。


  ―時の彼方に眠りし龍牙よ

   邪悪な力を払う奔流となれ―


 右手と正宗の間に小さな緑色の光が生じ、正宗の刃先に向かって伸びていく。

 光が刃先まで届くと、刃はその形を失い、緑色に眩く輝く光の剣となった。

 光の刃はまるで炎の如く揺らめき、雄々しく猛っているようだ。

 翠は光の剣となった正宗を下段に構えた。


 「何だ、あの技は? 支龍力しりゅうりょくを使っているようだが、見たことないな。」


 蒼が翠の技を見て首を捻る。

 同じ支龍力を使う術者として、神から魔まで、禁忌と呼ばれる術以外は全て教わった。

 その中で自分が使える術を見つけて職業が決まる。

 退魔師になりたかった蒼だが、攻撃系の術は自分にしっくり来なかった。

 自由自在に操れたのは結界系の術が殆どだった為、結界師となった。

 それ故、蒼は他の術者よりも多くの術を知っている。

 だが、光の珠に映し出されている術は、見たことも聞いたことも無かった。


 「あれは翠が得意とするオリジナル技よ。」


 何度も翠と組んで仕事をしている紫は、何度か目にしたことがあった。


 「結構、力を消費するから、あまり使わないって、言ってたわ。」


 蒼は驚いた。

 まさか、翠が術を開発していようとは思いもしていなかったのである。


 「藍子姉の影響よ。あの子は、妙子さんが修練でいなかった間、藍子姉がぴったりくっついて世話していたから、何度か術開発の現場にも立ち会ったみたいよ。」


 光の珠の中では翠が更に体勢を低く構えるのが映し出されている。

 翠は眼前に迫る邪悪な力に向けて正宗を振り上げる。


  ―牙神龍将がしんりゅうしょう 光波こうは


 光の剣となった正宗から光の刃が放たれ、邪気と瘴気の塊を切り裂いていく。

 振り上げた剣を今度はそのまま下へ振り下ろすと、更に放たれた光が、まるで意思を持っているかのように唸りを上げて、縦横無尽に風神坊の力を切り裂いていく。

 そればかりか、風神坊の力が浄化されていく。

 ぶつかり合った両者の力が、お互いを飲み込もうとするかのように激しくせめぎ合う。

 大きな二つの力はぶつかり合うことで、目に見えない波動を発生させて周囲にしびれにも似た感覚を拡げていく。

 翠の肌にも、少し離れた場所にいる綾子たちの肌にも、その波動は鳥肌となって現れていた。


 「はあぁぁぁ~っ!!」


 翠は気合を込め、正宗の柄を強く握り締めて更に横に一閃、刃を閃かせる。

 一進一退を繰り返す二つの力が、この一撃で一気に翠が優勢となる。

 光の渦となった牙神龍将は更に勢いを増し、まさに奔流となって風神坊の力を浄化し、そのまま風神坊にその牙を剥いて襲い掛かっていく。


 「ば、馬鹿な……っ!?」


 風神坊は体を捻って横に飛んで避ける。

 牙神龍将は風神坊の左足を掠めて空へと向かっていく。その力は牙神龍将の威力を表すように、辺りを覆う闇の力と、その向こうにあった雲まで切り裂いて地上に月の光を届けて消えた。


 「残念、避けられちゃった。」


 渾身の一撃を避けられた翠は力を消耗した所為か、正宗で体を支えて立っていた。正宗の刃は、元の黒銀に輝く無機質な金属に戻っていた。しかしその刃にはひびがうかがえた。

 正宗も翠同様、その力を殆ど使い果たしていた。


 「…正宗、まだやれる?」


 翠の問い掛けに答えるかのように、刃が薄く輝いたが、その光は直ぐに消える。


 『翠、大丈夫か?』


 頭の中に龍鬼童子の声が響く。


 『正宗はもう無理ね。後のことを考えて、正宗の力をメインに据えた所為なんだけどね。』


 それでも、翠も正宗に支えられてやっと立っている状態だった。


 『だから、その術は余程の事が無きゃ使うなっつったんだ。』


 いつもふらふらになる翠を見て、龍鬼童子は何度も警告していた。


 『支龍力だけだから大丈夫かなって思ったんだけどね。』


 支龍力だけだから他の力は残ると思っていた。


 『でも違ってた。どうやら他の力は支龍力に変換されて発動するみたい。』


 今まで支龍力しか使ったことの無い翠は、少し戸惑っていた。


 『当然だ。一つで足りない力は他の力で補うしかねぇだろうが。』


 抑えていたとは言え、それだけ翠は力を放出していたことになる。

 横に飛んで避けた風神坊は、牙神龍将に触れて浄化されてしまった左足を庇うようにして立ち上がる。


 「あら、向こうも意外と被害があったみたいね。」


 翠は足を踏ん張って、正宗を地面から引き抜く。

 すると、正宗は直ぐにその姿を光に変えて消えていった。


 「ご苦労様。ありがとね正宗。」


 力尽きて消えた正宗に、ねぎらいとお礼の言葉を述べて翠は、恐ろしい形相で睨み付けてくる風神坊と対峙する。


 『翠、忘れるな。お前は一人じゃねぇ。力が無きゃ、周りから借りろ。』


 龍鬼童子のアドバイスに翠は頷いた。


 「そうね。大地や草木は随分枯れちゃったけど、まだ大気があるものね。」


 人間一人のキャパシティとは比べ物にならない力の源。

 翠は風神坊が体勢を立て直す前に呪文を唱え始める。


  ―大気に眠りし龍牙よ、

   我が呼び掛けに答え

   目を覚ませ。―


 翠の周囲に緑色の光が集まりだす。だがその光は直ぐにその色を変えていく。


 「これは…。」


 色は赤色に桃色にそして黄色にと、色を変えていき、水色でその色が落ち着いた。


 「聖龍牙力…。」


 自分の周りに集まる力が、予想とは違った為、翠の詠唱が少し遅れた。

 風神坊はその隙を見逃さなかった。

 失った左足を瘴気の風で補い、その風の勢いを使って翠に体当たりを喰らわせた。

 気が逸れていた翠は、せっかく集まった聖龍牙力を自分の力に出来ない上に、風神坊の体当たりをもろに喰らってしまった。

 翠の体は個人結界に守られて、風神坊の体を覆う瘴気の風に触れることはなかったが、体当たりの物理ダメージは防げず、吹き飛んでしまう。

 吹き飛んだ翠の体は水色の光を纏いながら、何度も地面をバウンドし、数百メートル進んだところで木を薙ぎ倒しながら止まった。




 「翠ちゃんっ!?」


 綾子が翠の名を叫んで走り出そうとした。


 「行くな。」


 それを龍鬼童子が大きな腕で行く手を遮った。


 「どいてっ!邪魔しないでっ!!」


 どっちかというと引っ込み思案な印象を持っていた紫と蒼は、綾子の豹変に少し驚いていた。

 光の珠の中には、倒れた木々が映っている。動くものは何も見えない。


 「あなた、翠ちゃんの従鬼なんでしょっ!? 助けるのが普通じゃないのっ!?」


 綾子は籠手に覆われた龍鬼童子の腕を叩いたり、押したり引いたりした。

 だが当然、綾子の力では龍鬼童子の腕はびくともしない。

 助けを求めて紫たちを振り返るが、二人は何もしようとしない。


 「冴種さん、翠を信じてあげて。」


 紫の言葉を綾子は受け入れられなかった。


 「~~何で…何でそんなに落ち着いてるんですかっ!?」


 翠があんな目に遭っているのに、と続けようと光の珠に目をやると、折れた木々の間から水色の光が漏れているのが見えた。


 「翠は諦めが悪いらしくてね、どんな事があっても始めたことはやり抜こうとするんだ。」


 光が強くなっていくのを見ながら、蒼は少しホッとした感じで言った。

 木々の間から溢れる光の中に、動くものが見えた。


 「…翠ちゃん?」


 光の珠に映し出された光景は流石に小さく、その影が翠かどうか、綾子には判別できなかった。

 だが、紫も蒼も安堵した表情を浮かべているから、きっと翠なのだろうと、信じることにした。




 「いったたぁ~~っ。」


 翠は折れた木を押し退けながら、光の中、立ち上がっていた。

 風神坊の突進から、両腕で顔は何とか守ったものの、その両腕は激しく腫れ上がっていた。


 「龍牙の力よ、お願い。」


 翠は目を閉じて両腕に意識を集中した。

 すると、周囲の光が両腕に集まり、瞬時に腫れを引かせて翠の両腕を治癒した。


 「これが聖龍牙力の力。なんて暖かくて優しいのかしら。」


 支龍力も優しく翠を包み込んでくれたが、こんなに安心感を与えられることは無かった。

 この光の中でずっと眠っていたいと思う程、聖龍牙力は翠を心身ともに癒していた。

 周囲から翠の中に集まっていく聖龍牙力。

 翠の中に、二つの術の名前が浮かんできた。


 「…これは…。」


 一つは先程、名前も知らずに使った術。

 そしてもう一つは、信じられない効力を有する術。


 「この術をあいつに使えってことね。」


 この二つが心の中に浮かんできた理由をそう解釈た翠は、光が消えるのを待って一歩足を踏み出した。

 風神坊は追って来なかった。

 浄化された足の負担が大きかったのか、ただの余裕か、とにかく翠は助かった。あそこで追い討ちをかけられていたらさすがにただでは済まなかったかも知れない。

 夜闇の向こうに霞んで見える風神坊の影。

 大事な人達は寺を囲む竹やぶの黒い影の向こう。それでも龍鬼童子の白い鎧が竹やぶの上に覗いて見えた。


 「まったく、こんなときこそ話しかけてきなさいよね。」


 翠は少し毒づいてから、気合を入れ直して走り出した。

 凸凹の田んぼや畦道をものともせず、一気に風神坊との距離を縮めて行く。

 近付くにつれて風神坊の姿がはっきり見えてきた。

 風神坊は獣のように四つん這いになっていた。マンションの地下駐車場で見た闇色の獣がまたそこにいた。


 「…何? もしかしてもうパワーダウン?」


 翠は少し拍子抜けして呟いた。

 だが、そういうわけではなかった。よく見ると周囲の地面がひび割れ涸れ果てていた。


 「貴様もしぶといな。さっきは力尽きているように見えたが…。」


 風神坊はゆっくり体を持ち上げた。その風神坊の左足が復活していた。


 「浄化されると、さすがに腕をくっ付けるみたいに簡単じゃない見たいね。」


 少し歪な形をしている左足を見ながら言葉を続ける。


 「一つ聞いていいかしら?あなたは何をしにこの世界に来たの?」


 翠の突然の問い掛けに、風神坊に答える様子はない。


 「まぁ、期待はしてなかったけどね。」


 風神坊が両手を頭上に掲げて、邪気と瘴気の風を練って先程よりも大きな塊を作り始めた。

 翠もそれに応じて呪文の詠唱に入る。


  ―時の流れに埋もれし数多あまたの龍牙よ

   我が力を道標みちしるべとし

   今、この地へ舞い降りよ―


 翠の体から光が立ち上り始める。

 今度はさっきとは違い、光に色の変化は見られない。常に水色の光が漂っている。

 その水色の光はやはり光の龍となって上空に立ち昇り始めた。


 「くっ!」


 風神坊は少し焦っていた。

 しぶとい翠に致命傷を与えるために、より多くの力を出す必要があった。

 風神坊は翠と違い、効率良く力を集めることが出来ない。自分の周囲の生気を吸い取ったあとは、移動するか瘴気の風で吸い取るしかなった。

 だが今、翠が使おうとしている術が、先程使われた広範囲に及ぶ浄化の術と解り、どうするか迷っていた。

 術が完成する前に攻撃すれば術を防げるだろうが、それでは致命傷を与えられないかもしれない。

 だからと言って、このまま力を溜めていては術が完成してしまう。

 翠の体から立ち上る光の龍は今度は弾ける様子が見られない。


 「違うのか?」


 勘違いかと思い、少し安堵し、再び力を溜めるのに集中した。


 「風神坊、決着をつけましょうっ!」


 翠が叫ぶと、立ち昇る光の龍を伝って、上空から更に眩い光を放つ龍が降りて来た。


 「~っ!?」


 風神坊は上空に突如現れた気配に上を見上げた。

 それは翠から立ち昇る龍よりも遥かに大きく、強大な力を内包していた。


  ―数多の力を抱きし者よ

   その内に持ちたる光にて

   汝が子らに

   等しく癒しを与えよ―


 翠が頭上に両腕を掲げると、上空を漂う強大な龍と、翠から立ち昇る龍が一つになって大きな球体となった。


 「させるかっ!!」


 風神坊にはもう迷っている暇はなかった。

 自らの内に集めに集めた邪気と瘴気の風を最低限残して出し切るつもりだったが、それでは間に合わない。

 風神坊は両手の間に集まった力の塊を、翠に向けて解き放った。

 放たれた力は地面を抉り、巻き込みながら翠を飲み込もうとする。


 「もう遅いよ。」


 翠は全く動じる様子も見せずに、不適に微笑んだ。


  ―龍牙神術りゅうがしんじゅつ 龍皇りゅうこうの光―


 向かい来る闇の力を前にして翠は、術の名前を叫んだ。

 それと同時に遥か上空の球体から光がシャワーのように降り注ぎ始めた。

 その範囲はいったい何処まで広がっているのか、辺りは完全に昼間の明るさを取り戻していた。

 風神坊の闇の力は、見る間に龍皇の光によって浄化されていき、僅か数秒で見る影も無くなってしまった。


 「そ、そんな……。」


 風神坊は自らの身を守りながらも、信じられない現実に動揺していた。

 想定していたよりも力を出し切れなかったとはいえ、それでも全力に近い力を瞬時に浄化されてしまい、これ以上どうすればいいか解らなくなっていた。

 龍皇の浄化の光は、風神坊の攻撃により生気を失った土地・草木を回復していく。

 だが、それはあくまで邪気や瘴気の風により被害を受けた部分のみで、力のぶつかり合いによる波動で崩壊したマンションや、翠が吹き飛ばされてその身で抉った地面や倒した木々は元に戻らなかった。

 龍皇の光は少しずつその力を失い、辺りもそれに従って次第に暗くなっていく。

 闇に覆われていた空も、龍皇の光で浄化され、夕暮れの空のように一番星が輝いていた。


 「ぐぅ、うぅ…。」


 風神坊は癒された大地から生気を吸い取り、龍皇の光に対抗していた。

 しかし、吸い取る力よりも浄化される力が勝り、このままではやられてしまう。

 風神坊はただ耐えるしかなかった。




 昼のような明るさの中、紫と蒼は呆然と眼前の光景を眺めていた。


 「な、何なんだよ、この力は…。」


 あまりに壮大な力に蒼は眩暈を覚えていた。


 「これがさっきの浄化の術の完全版だ。さっきは龍牙の意思の力を召喚していなかったからあの程度で終わったんだ。」

 「龍牙神術って聞こえたけど…。」


 紫が轟音の中、僅かに聞こえた名称を呟いた。


 「楓の術は"龍牙神術"に区分けされてんだ。楓、つまり龍牙神王以外使えなかったというのが理由のようだがな。」


 鎧に覆われた龍鬼童子の表情は見えなかったが、その声音はどこか懐かしそうな雰囲気を漂わせていた。

 綾子は龍皇の光を支える翠の姿に完全に目を奪われていた。

 昼間のような明るさの中でも、一際強く輝く翠はまさに神のような神々しさを纏っていた。

 だが、じっと見ていたからこそ綾子は翠の異変に気が付いていた。


 「翠ちゃん、少しふらついている?」


 綾子の声に紫と蒼も光の珠を見た。


 「確かに、僅かにふらついているようだな。」

 「これだけの力を使っているんだから、消耗も激しいでしょうね。」


 周囲は次第に暗くなり始めていた。空には星々の光が戻り始めている。

 終に翠はがくんと膝を突いた。


 「翠ちゃんっ!?」


 綾子は今度こそ翠に向かって走り出していた。

 龍鬼童子も紫たちも、龍皇の光に圧倒されていた為、反応が遅れてしまった。

 綾子は既に崩壊したマンションを回り込み、龍鬼童子すら手が届かなかった。


 「あいつにあんな運動神経があったのか。」

 「あの子は冴種の出身だからね。村を出るまでは色々と鍛えられてたんじゃないの?」


 紫が結構、呑気に言った。


 「風神坊も随分小さくなってるし、大丈夫だろう。」


 見ると、風神坊は人の大きさ程度にまで縮んでいた。


 「あの子を翠の傍に置いておきたいんなら、少しの危険は味合わせておいても良いさ。」


 蒼は随分、物騒なことを言った。


 「…お前ら…。」


 龍鬼童子は二人の態度に少し呆れていた。




 膝を突いた翠は息を切らしていた。

 龍皇の光は支えを失い、一気にその力を散らしていった。


 「あ、あと少しだったのに…。」


 翠は、自分と大して変わらない大きさになった風神坊を見て、唇を噛んだ。


 (でも、これ以上は力を使えない。あとは、あいつの隙を突いて…。)


 翠は震える足で何とか立ち上がった。


 「お互い満身創痍といったところか…。だが…。」


 風神坊にはまだ、力に余裕があった。

 このまま甦った土地から生気を吸い取って力を回復するのもいいが、先にふらつく敵を倒す方を優先させることにした。


 「我が力となって、消えうせろっ!」


 風神坊は瘴気の風を翠に向けて放った。


 (…動けない。)


 翠は避けようとするが、足が動かなかった。それどころか、膝から力が抜けて倒れてしまう。


 「ちょっと……予想以上に力…使いすぎた、かな…。」


 今日始めて使った術に力の調節が上手く出来ていなかったのだろう。

 だが、倒れることで、瘴気の風を避けることが出来た。


 「無駄な抵抗をっ!」

 「駄目ぇぇ~~っ!!」


 風神坊が次の一撃を放とうとしたとき、綾子の叫び声が聞こえてきた。

 それと同時に、周囲が真っ白に染められた。


 「な、何っ!?」


 風神坊は攻撃を止め、周囲を見回した。


 「これは…。」


 周囲は何も見えなかった。地面も周囲の草木も何も見えない。

 翠は自分の力が抜けていくのを感じた。僅かに残していた力すら、抜けていった。

 唯一見えていた風神坊も、その力を吸い取られているのか、苦しみながら小さくなっていった。





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