鬼の棲むマンション 漆

ⅩⅣ


 「…ここ、何処だろ?」


 翠は、一糸纏わぬ姿で真っ白な世界を彷徨っていた。翠自身も周りに染められたかのように真っ白だった。

 色のない自分の体に違和感を感じながら、周囲を見回してみる。


 「確か、龍鬼と鬼の力の爆発に巻き込まれて……そっか、気絶したんだ。」


 翠はパンッと手を打って得心した。


 「……で、ここは何処?」


 至った経緯は解っても、この場所が何処か解らない。取り敢えず少し歩いてみる。

 何処まで歩いても、上も下も、前も後も何もない。本当に前に進んでいるのかすら怪しく思えてしまう。

 それでも歩いてみる。


 「~~~。」


 変化のなさに焦れ始めた頃、前方に小さな光が見えてきた。

 光は様々な色を発し、大きさも形も定まっていない。


 「何だろ?」


 目を射ることの無い優しい光に、翠は引き寄せられるように近付いていく。

 光に近付くにつれて翠の体に色が宿りだす。

 透けるような肌に水色の髪。

 水色の光彩に緑色の瞳孔。

 耳たぶや唇にも水色が宿る。

 両手・両足の爪は緑色に輝く。

 普段は服に隠れて見えないが、豊な胸の頂きも水色に変わり、胎内すら水色の発色を思わせた。

 光の側まで来た翠は、そっと手を伸ばして触れてみる。


 「温かい…。」


 触れた指先から何処か懐かしい感じが伝わってくる。

 その感覚を全身で捕らえようと目を閉じたとき、突如、光が弾けた。

 弾けた光は、驚いて目を見開いている翠を包み込む。やがて光の中に翠そっくりの人影が現れる。


 「何?」


 目の前に現れた自分そっくりの人物はしかし、翠ではなかった。

 頭頂部には3本の鋭く長い角が生え、耳も天を突くが如く長く伸びている。


 「お、鬼…?穏鬼おんき…?」


 目を開いたその鬼の穏やかな表情に、翠は魔界鬼族にはない癒しを感じた。それはいつも、黎や美影に感じるそれと良く似ていたが、もっと身近な感じがする。


 『驚かせたね。』


 目の前の穏鬼がゆっくり話しかけてきた。


 『ここは守護力に守られた、あなたの魂の世界。もっと簡単に言えば心の中よ。』


 自分そっくりの顔と声で紡ぎだされる言葉に、翠は何故か涙が溢れてくるのを止められなかった。


 『私はあなたの力。そしてあなたの記憶。二人が一つになったとき、あなたは本当の自分に目覚める。』

 「本当の、自分?」


 今の翠には良く解らない。


 『覚えていて、あなたは一人じゃない。あなたの中には妙子さんの力が宿っている。』


 そう言って翠のほぞ辺りを指差した。

 見ると、薄っすらとではあるが、桃色に輝いていた。


 「…妙子さん…。」

 『あなたが覚醒すれば、彼女を救えるかもしれない。』


 思いもよらない言葉に翠は我が耳を疑った。


 「…どういこと?」


 翠のすがるような視線に、【翠】は聖母のように穏やかな微笑を浮かべた。


 『時が来ればいずれ解るわ。今はその時じゃないの。』


 ただ、翠の中には、不確かではあるが、希望が残った。


 (救えるかもしれない。)


 翠は桃色に輝くお腹に手を当てて、妙子に想いを馳せた。

 するとそれに呼応するかのように、お腹の辺りがほんわか、温かく感じられた。


 『封印の解けた今のあなたなら、彼女の力も、支龍力以外の力も操れるわ。だから、彼女を救えるその時までにもっと精進しないとね。』

 「うんっ!」


 翠の明るい返事に、【翠】は満足そうに笑みを浮かべて再び光に戻り、今度は眩い光を放ち始めた。

 その光の中、翠は再び意識を失った。




ⅩⅤ




 月明かりの下、マンションは完全に崩壊し、周囲は粉塵で一寸先も見えない状態だった。


 「ゆかりっ!寺の方には結界張っているんだろうな!?」


 そうが張った結界の中には、綾子しかいない。


 「大丈夫よ。ちゃんと蒼兄の簡易結界の札を住職に頼んで貼ってきたわ。」


 粉塵の向こうから、紫の落ち着いた声が聞こえてきた。


 「ただ、それ以外の場所は酷い状態でしょうね。」


 実際、マンションの崩壊に際し、蒼たちのいる場所にも、大量の瓦礫が降りかかってきた。マンション周辺に、寺以外には建物はなかったが、田んぼや小さな竹林が存在していた。


 「…あ、あの、翠ちゃんは?」


 綾子が不安いっぱいの表情で見上げてくる。


 「安心していい。封印の一部となっていたマンションが崩壊した事で、気配がはっきり感じられるようになったから、翠が無事なのは確実だ。」


 だが、感じるべきもう一つの気配がない。


 (…やられたのか?)


 綾子に悟られないように拳を強く握り締める。


 「蒼兄、住職が騒いでるわ。」


 すぐ側で聞こえた紫の声にビックリして振り返ると、紫が少し辛そうな顔で立っていた。紫も気が付いたのだろう。

 粉塵は少しずつ収まりだし、視界も開けてきている。粉塵の向こうから年老いた男の声が聞こえている。


 「…説明はしなかったのか?」

 「したわ。最悪の場合、マンションが爆発するかもって。信じてなかったけど…。」


 爆発ではなく崩壊だったわけだが、実際に目の前で見てもにわかに信じられるわけもなく、パニックを起こしていた。


 「この子を頼む。俺が黙らせてくる。」


 綾子を紫に預けて結界から抜け出し、自分の周りにもう一つ結界を張って声のする方へ歩き出した。


 「大丈夫ですか?」


 心配そうな綾子の声に、紫は笑顔を向ける。


 「気にしないで。私もビックリしただけだから。」


 その言葉を素直に信じられないほどに沈んだ声で答える紫に、触れられたくないのだろうと判断した綾子は、目の前の光景を見つめた。

 視界は、幾らか薄らいだとはいえ、未だに粉塵が覆い尽くしている。しかし、今自分がいる場所にはほんの少しも粉塵が流れ込んでくることは無かった。それどころか、上空から落下してきた瓦礫すら、避けて落ちているようだった。

 どうなっているのか良く解らず、結界の中で軽く手を振ってみる。


 「結界よ。消えない限り安全だから…。」


 紫の横に何の音もなく、美影みかげが現れた。


 「美影を置いていくから、この中でおとなしく待っててね。」


 そう言い残すと、紫は崩壊したマンションに向けて何の躊躇ちゅうちょもなく走り出した。

 その姿は粉塵に紛れてすぐに見えなくなる。


 「あ、あの、大丈夫なんですか?」


 綾子はさっきから同じ言葉を連発していた。


 「あるじ様は強い。それに猿みたいにすばしっこい。だから大丈夫です。」


 美影は紫に絶対の信頼を置いていた。


 「あいつも相変わらず無茶するな。」


 蒼が紫の向かった先を見ながら戻ってきた。


 「住職様は?」

 「ん、聞き分けないから眠らせてきた。寺に張った結界の中に寝かせてきたから大丈夫だろ。」


 蒼は結界の中に入ると、粉塵の向こうにあるマンションの残骸を見透かすように目を細めた。


 「鬼もまだ死んでいない。この砂煙が邪魔になるだろう。美影、晴らせるか?」

 「…大気を動かしてみましょう。」


 美影は結界から一歩外に出ると、右手を前に突き出した。


 ―響きの龍牙よ我が意に従え―


 美影が右掌を開くと、周囲から粉塵を巻き込んだ空気の流れが出来た。空気は美影の掌の前に集まっていく。

 美影の掌の中に凝縮された大気の塊が出来ていく。


 「お二人とも、結界から出ないでください。」


 そう言うと、凝縮された大気が一気に弾けた。弾けた大気は周囲の大気を巻き込み、粉塵を四散させていく。

 あれ程立ち込めていた粉塵が一瞬の後には綺麗に晴れていた。周りに民家等がない為、満天の星空が視界に飛び込んでくる。

 前方の瓦礫の上には、紫が膝を突いて大気の急激な変動に身構えていた。


 「あんたたちっ!危ないでしょうがっ!?」


 怒り出す紫の下に、美影が小走りで駆け寄る。


 「あるじ様なら、防ぎきれると信じていました。」


 美影の満面の笑みに紫は頬を赤らめて、そっぽを向く。


 「し、信じすぎよっ!そ…それより、あんたも手伝いなさい。鬼が目を覚ます前に二人を助け出さなきゃ!」


 耳の先まで真っ赤になった紫が、照れを隠すように瓦礫を退かしに掛かる。

 そこへ瓦礫の下から地響きのような低い声が聞こえてきた。


 「退け、邪魔だっ!」


 その声は龍鬼童子のものだった。聞こえてきた声は聞き取り辛かったものの、いつもの口調に紫は少し安堵し、瓦礫の前に立つ美影を連れて蒼と綾子の横、つまり道の反対側まで避難した。

 紫がいなくなった瓦礫の部分が上下に揺れ始めた。

 瓦礫の隙間から、紫色の光が漏れ出す。その光の筋が徐々に太くなるに連れて、瓦礫が大きく膨らんでいく。

 終には、光に押された瓦礫が弾け飛び、上空で粉々に砕け散った。飛び散った粉塵は紫色の光に溶けて消えていく。砕かれなかった周囲の瓦礫も、光に触れ、どろどろに溶けて消失していった。


 「魔道烈破まどうれっぱ。光に触れたモノ、全てを溶かす邪穏鬼じゃおんきが好んで使う術。」


 美影が簡潔に状況を説明する。

 邪穏鬼という単語に紫と蒼に緊張が走る。


 「だぁ~~ッもぉ~~ッ!いっってぇぇ~~ッ!!」


 二人の緊張をよそに、龍鬼童子の口から発せられた言葉はなんとも気の抜けたものだった。紫たちに向けた背に月明かりを受けて輝くその鎧は白く、見る者に力強い安心感を与える。


 「…大丈夫そうだな。」


 蒼がボソッと呟いて、首のコリをほぐすように左右に顔を傾けている龍鬼童子に近付いて行く。紫たちも後に続く。


 「お、鬼…。」


 綾子が紫の後ろに隠れておどおどしている。始めてみるそれは、綾子にしてみれば立派な鬼である。


 「大丈夫よ、冴種さえぐささん。彼は翠の従鬼よ。多分、翠の周りで、美影と同じように人間に化けている姿とは何度か会っているんじゃないかしら。」

 「もしかして、黎さん?」


 紫色の派手な髪の色をした青年を思い浮かべながら聞いてみる。


 「当たり。」


 口が悪いが人当たりは良く。しょっちゅう翠と喧嘩しているところを見掛けている。クラスメイトなどは関係を勘ぐる者もいるが、さっぱりしたその関係は、今のところ、二人の恋人説を否定していた。


 「"じゅうき"って何ですか?」

 「私たちの血を飲ませて力を与える見返りに、私たちに付き従う鬼のことよ。」


 紫が簡単に説明をする。


 「吸血鬼…っ!?」


 綾子の突拍子もない言葉に紫はずっこけそうになる。紫の従鬼である美影は少し不機嫌な顔をした。


 「龍鬼童子、翠は無事か?」


 二人のやり取りを無視して蒼が龍鬼童子に問い掛ける。

 背中を向けていた龍鬼童子が振り返ると、翠がその腕の中でぐったりしているのが見えた。


 「翠っ!?」


 紫が駆け寄ろうとすると、美影に抑えられた。


 「あるじ様、落下してしまいます。」


 足元を見ると、1階部分の床がごっそりと無くなっていた。


 「焦るな。気を失ってるだけだ。」


 龍鬼童子がそっと翠を蒼に渡す。

 蒼は翠の額に手を翳して、気の巡りを確かめる。


 「…確かに。」


 安堵の溜め息を漏らし、だが、神妙な面持ちで龍鬼童子を見上げた。


 「…妙ちゃんはどうした?」

 「…翠から妙子の力を感じる。」


 龍鬼童子はそれだけ言うと、体を反転させた。


 「取り敢えず、どっかに避難してろ。奴が目を覚ます。」


 鬼の気配を敏感に察知した龍鬼童子が身構えた。


 「寺から少し離れて戦え。これ以上、建物を壊すな。」


 蒼の言葉が聞こえているのかどうか、龍鬼童子は何も言わずに前方に走り出す。

 目の前の瓦礫の山に右足で大きく蹴りを入れる。

 すると、瓦礫に埋まっていた鬼が、瓦礫と共に中空に放り出された。そこへ龍牙力を込めた左拳で激しく殴りつける。

 鬼の体は寺から100メートルほど離れた田んぼの中に盛大な音を立てて落下した。


 「お前らのくだらん決まりに付き合う気は無いが、翠もこれ以上の崩壊は望まんだろう。」


 そう言い残すと、ジャンプして地下駐車場から飛び出し、起き上がろうとしている鬼に飛び掛かった。


 「…だからって、田んぼで暴れるか?」

 「まぁまぁ、幸いここら辺は休耕田が多いみたいだから、被害は抑えられるわ。」


 紫が蒼をなだめながら、翠を受け取る。


 「寺の結界を強化しよう。そこでなら、翠もゆっくり休めるはずだ。」


 絶え間なく響いてくる音と光に、あまり軽視できないだろうと判断した蒼は、翠を休ませたくて、寺を避難場所に決め、結界を張り直すことにした。




ⅩⅥ




 寺の中は暖かい光に満ちていた。


 「翡翠さん、大丈夫?」


 綾子が畳みの上に敷かれた布団の中で寝息を立てている翠を見ながら呟いた。

 翠の眠る布団の向こうには小さな女の子が寝ている。


 「いったい何が起きているのですか?」


 中年の髪を一つに纏めた落ち着いた感じの女性が、お盆に湯飲みと急須を乗せて持ってきた。駆け込んで直ぐの自己紹介で、住職の妻の康子やすこと名乗っていた。


 「ご迷惑をおかけします。私たちはここからマンションの下にかけて封印されていた鬼を退治、若しくは再封印しに来ました。」


 紫が礼儀正しく頭を下げてから説明をする。


 「今、外では二体の鬼が戦っています。その内一体は私たちの仲間です。」

 「先程から聞こえてくる音と唸り声のようなものがそれですか?」


 康子が湯飲みにお茶を注ぎながら聞いた。


 「はい。正直、ここまで事が大きくなるとは思っていませんでした。後で事後処理班が派遣されて来て詳しい説明をする手筈となっていますので、不安かもしれませんが、今は黙って見守っていてください。」


 紫が再び頭を下げてお願いをする。


 「そんなに畏まる事は無いですよ。一応、主人も除霊などをやっておりますので、この手の話には少しは理解があるつもりです。ただ、マンションが崩れてしまうとは思っていなかったので主人が取り乱してしまいまして、こちらこそご迷惑をおかけしました。」


 康子はにこやかに笑いながら、紫と綾子にお茶を勧める。


 「それにしても周囲に民家が無くて良かったですね。」


 外からは激しい音が響いてきている。


 「そろそろ音は聞こえなくなると思いますよ。」


 紫が言うが早いか、突然音が消えた。


 「兄は結界師なんです。このお寺の周囲に強固な結界を張り直しました。本当はこの辺り一帯に張りたかったのですが、さすがに一人では無理なので、取り敢えずこのお寺の周囲に限らせていただきました。」

 「凄いのねぇ。うちの主人とは大違いだわ。」


 康子の小さな呟きに、紫と綾子は目を見合わせて苦笑した。

 そこへ、結界を張り終えた蒼が住職と共に戻ってきた。


 「いやぁ~、君は凄いな!今度、私にも今のを教えてくれんかねっ?」


 蒼の施術に付き合っていた住職は、興奮していた。


 「何もない所から杖を出してこう…、…蒼き龍牙…か?」

 「あなた、止めてください。寝ている方もいるのですから、静かにしないと。」


 康子は興奮する夫をなだすかしながら、紫たちに一礼をして別の部屋へ夫を連行して行った。


 「まいったよ。鬼を見ては騒ぎ、施術を見ては騒ぎ、もう一回眠らせてやろうかと思った。」


 蒼は住職のテンションに明らかにウンザリしていた。

 ふすまの向こうからまだ住職の声が聞こえてきている。


 「お疲れ様。」


 紫は康子の代わりにお茶を注いで蒼に渡した。


 「翠はどうだ?」


 蒼はお茶を飲みながら翠を覗き込む。


 「龍鬼童子が言うように、僅かだけど翠の中から妙子さんの力を感じるわ。」

 「という事は、やっぱり妙ちゃんは翠に力を渡したと考えていいんだろうな。」


 綾子に気を使って"死"という言葉を避けた蒼は、しかし辛そうな顔をしていた。

 綾子は余程、翠が心配なのか、翠を食い入るように見詰めている為、その表情に気付くことはなかった。




 それから暫く、静かな時間が流れた。聞こえてくるのは廊下を隔てた居間から洩れてくるテレビの音だけ。

 30分ほどそんな時間が経過した頃、やっと翠が身じろぎをした。


 「翠ちゃんっ!?」


 翠をずっと見詰めていた綾子が一番最初に反応した。


 「……ん…。」


 翠がそっと目を開く。


 「あれ、冴種さん…?」


 翠の寝ぼけた声に、紫たちは安堵の溜め息をついた。


 「えっと、ここは…?」


 翠は綾子に支えられながら上体を起こして周囲を見回した。


 「ここは寺よ。龍鬼童子はまだ外で戦っているわ。」


 それを聞いて翠は跳ね起きた。


 「私も行かなきゃっ!」

 「無理をするな。少しは龍鬼童子に任せて力を抜け。」


 蒼が今にも飛び出していきそうな勢いの翠を引き止める。


 「駄目よ。これは私が受けた依頼よ。妙子さんの分も、私がやらなきゃっ!」


 綾子の支えを押し退けて飛び出そうとする翠の手を、紫が掴んで引き止める。


 「藍子姉が言ってたわ。私たちが甘やかすから翠が覚醒しないのだと。」

 「紫姉?」


 いつもと様子の違う紫に翠は首を傾げる。


 「それが今回の出来事を招いたのだとしたら、妙子さんのことは私たちにも責任がある。」


 妙子の名前を聞き、翠は思わずお腹を押さえる。


 「……。」


 翠はそっと紫の手を外す。

 頭の中にはもう一人の自分の言葉が甦っていた。


 『あなたが覚醒すれば、彼女を救えるかもしれない。』


 その言葉に翠は一縷いちるの望みを託すことにしている。


 「私が覚醒すれば、妙子さんを生き返らせることが出来るかもしれない。」


 【翠】は一度も生き返ると言ってはいない。だが、翠にとって、"救う"は"生き返る"としか考えられなかった。


 「覚醒には実戦が一番だと思うから、行くね。」


 翠の発言に驚く紫と蒼に穏やかな笑みを見せて翠は出て行った。


 「あ、あの、翡翠さんは大丈夫でしょうか?」


 今まで黙ってみていた綾子がおずおずと話し掛けてきた。

 三人の決して穏やかではない会話に、不安が込み上げてきて落ち着かなくなっていた。"死"という単語は誰も使ってはいない。しかし、翠の「生き返らせる」という言葉が綾子に誰かの死を認識させた。

 自分の予想を遥かに上回る出来事の連続に、翠たちが普通の人間とは違う存在だということははっきりしている。

 マンションの崩壊や、巨大な鬼。今までに感じたことのない恐怖を感じている。

 それでもここに留まっているのは、翠がいるから。

 それほど親しいわけでもなく、実際にはただのクラスメイト。何かあれば話をする程度の関係。

 今回、翠に依頼を持ち込んだのは、親しくなれるかもしれないという下心があった為。まさかここまで大事になるなんて思いもしなかった。

 しかも"妙子さん"という人が死んだ。その"妙子さん"には心当たりがあった。巫女の姿をした女性から正式に依頼を受けたときに、翠と一緒にいた女性。随分親しそうな雰囲気だった。


 (あの人が死んだ…?)


 自分の所為かも知れない。自分が依頼を持ち込まなければこんな事には。

 綾子の顔色がどんどん青ざめていくのを見た紫は、話題を変えることにした。


 「あなたにお願いがあるの。」


 綾子は紫の声に顔を上げる。


 「お願い?」

 「そう。あなたにはあの子の支えになって欲しいの。」


 綾子は自分の耳を疑った。


 「私なんかじゃ、翡翠さんの役には立てません。」


 何の力も持たない自分では足手まといになるのが目に見えている。


 「役に立つかどうかじゃなくて、ただ、傍に居るだけでいいの。」


 紫は優しい笑顔を向けてくる。


 「傍に居るだけ…?」

 「そうよ。心配してくれる人が傍にいる、それだけで結構、救われるの。押しかけ女房でも良いわ。とにかくあの子の傍に居て。」


 最後は少し軽い感じで言っていたものの、その目は真剣そのものだった。


 「…少し考えさせてください。」


 仲良くなれる折角のチャンス。しかし、あまりにも現実離れした展開の連続で、何処まで耐えられるか解らない。

 即答できないのが悔しいが、とにかく考える時間が欲しかった。


 「無理強いはしないわ。ゆっくり考えて頂戴。」


 紫は静かに立ち上がる。


 「取り敢えず、翠の活躍を見てみる?」


 差し出された紫の手を少し見て、綾子も手を伸ばす。


 「はい。」

 「蒼兄、二人っきりだからってその子を襲わないようにね。」


 紫が一人残る蒼に釘を刺す。


 「出すかっ!」


 怒鳴り返しながら、紫に何かを投げてよこした。


 「何?」


 受け取った紫が手の中にすっぽり収まる物を見た。


 「これ、何で蒼兄が持ってんの?」


 それは黒銀に輝く腕輪だった。あまり細かな装飾は無く、シンプルなデザインで見る者の心を落ち着かせる雰囲気を纏っていた。


 「さっき藍子が来たときに渡された。場合によっては翠に渡せってさ。俺は、渡すタイミングを見誤ったのかもしれん…。」


 渡すタイミングはあった。だが、上から女の子を連れて戻ってきた二人にはまだ十分余裕が感じられた為、渡す必要はないと判断していた。

 その結果が妙子の死だとしたら…。


 「今回の件は皆の心に傷跡を残してしまいそうね。」


 紫も蒼も、後悔している。一族の掟を破ってでも二人を手助けするべきだったのではないかと。

 藍子を除いて妙子の死を予見できる者はいなかったのだから、仕方ないと言えなくもないのだが、割り切れるものではない。


 「解った。これは私が預かっておくわ。でも私もまだ、これを渡す時期じゃないと思う。」


 それだけ言うと、紫は綾子を連れて外に出て行った。


 「俺がいなきゃ、お前は翠を助けに入っていただろうな…。」


 蒼は小さく呟いたが、その声は紫に届くことは無かった。

 紫は何度か、翠の助けに入って評議会から罰を受けている。今回も手助けする気満々だったが、現場に着くまでに蒼がいさめて、必要以上に手を出すことを許さなかった。


 「…生き返らせる…か…。」


 今は、翠の無謀とも思える言葉にすがるしか、他に術がなかった。




 紫と綾子が外に出ると、門扉の前に美影が立っていた。その視線は鬼の方へ向けられている。


 「どんな感じ?」


 紫の声に美影が振り返る。


 「龍鬼童子殿は苦戦しています。」

 「苦戦?」


 見ると、確かに闇夜に浮かぶ白い鎧が黒い影に押されているように見えた。


 「力が出ねぇ~~っ!と、聞こえました。」


 美影が可愛い声を少しでも野太くして龍鬼童子の声を真似る。


 「翠ってば、また血をやってないのね。」

 「血?」


 綾子が紫の言葉に反応する。


 「あ、そっか。血を見返りに…。」


 先程の紫の説明を思い出して納得する。


 「血をやらないと力が出ないんだ。」

 「そうよ。従鬼になれば人の中で行動することが多くなるから、契約というふたをして、余計な力で人や物を傷付けないように抑えてしまうの。その蓋を開閉する潤滑油となるのが私たち主の血って訳。」


 つまり、今の龍鬼童子は蓋が上手く開かないから、自由に自分の力が使えない状態なのである。


 「翡翠さんは?」


 綾子は目を凝らすが、辺りは既に暗く沈み、殆どのものがシルエットでしか認識できない。


 「翠様はあちらに。」


 美影が崩壊したマンションの方を指差す。

 覗き込むと、翠が端の方で瓦礫を退かそうとしているのが見えた。


 「翠っ!何やってるのっ!?」


 紫が声を掛けると、翠は振り返って答える。


 「ここに柏木さん夫婦の遺体が埋まっているの。このままにしておけないでしょ。」

 「それは私たちがやるから、あんたは龍鬼童子を助けに行きなさいっ!!血、やってないんでしょうがっ!!!」


 紫が美影に目配せをすると、美影が音もなく翠の近くに移動する。

 突然現れた美影に翠がびっくりして後ずさる。


 「わたしにお任せ下さい。翠様よりも早く掘り出せます。」


 その言葉を証明するように、翠よりも少し大きい瓦礫を片腕でヒョイと抱え上げる。


 「じ、じゃあ、お願いね。」


 自分よりも力を持っているところを見せ付けられて、翠は渋々、美影に後を任せてその場を離れた。


 「冴種さん、来てくれたんだ。」


 上に戻ってきた翠は、綾子に声を掛ける。


 「ありがとう。応援してくれると心強いな。」


 綾子の両手を自分の手で包み込んで明るく言う。

 綾子は憧れの女の子に両手を握られて、耳まで真っ赤になっていた。


 「見てて、鬼をやっつけてくるから。行ってきます。」


 翠は明るく手を振って鬼退治に向かった。


 「やれやれ…。」


 紫が苦笑しながら笑った。


 「あるじ様。」


 美影の呼び掛けに下を覗いて見ると、瓦礫の下から、男女一組の遺体が何処も潰れることなく出てきた。


 「綺麗なものね。」

 「絶対防御の印です。」


 美影が指差す紋章が、発動しているのを示すように淡く輝いていた。


 「二人を運び上げて。出来れば住職に頼んで、寺に安置してもらいましょう。」


 紫の指示に美影が二人を軽々と両肩に乗せて上がってきた。


 「冴種さんはここで待ってて。あまり戦場に近付かないようにね。」

 「あ、はい。」


 綾子の返事は上の空だった。見ると、闇を透かしてみるように目を凝らして、翠の行方を追っているようだった。


 「冴種さん、お願いだから近付き過ぎないでね。あなたにまで何かあったら、翠は立ち直れなくなるかもしれない。」


 紫が綾子を後ろから抱きしめて言った。


 「今回は既に3人も亡くなっているわ。」

 「わ、私は死にませんっ!翡翠さんにこれ以上嫌われたくないもの…。」


 綾子の声は切羽詰ったものだった。


 「嫌われる?」


 何を言っているの?と言った感じで紫が聞き返す。


 「だ、だって、私が依頼をしなければこんな事には…。」


 綾子が柏木夫妻の遺体を見て小さく呟いた。


 「馬鹿ね。これはあなたの所為じゃないわ。一族の連絡役からの依頼だって私は聞いてる。あなたはその架け橋に使われただけ。」


 だから綾子が依頼しなくてもいずれは翠の許にこの事件は舞い込んでいただろう。

 だが、紫の説明に綾子は少し気持ちが軽くなることはない。


 「でも、係わったのは確かだから…。」


 以外に頑固な綾子の頭を紫が軽く叩いて撫でた。


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