鬼の棲むマンション 陸

ⅩⅡ


 紫と蒼が綾子の力試しをしている頃、翠たちは群がる子鬼を押し退けてやっとこさ地下駐車場の入り口に辿り着いていた。


 「…たった1階分下りるだけなのに、時間掛かり過ぎ!」


 子鬼自体はこれまで同様、大した力を持っていない。だが、数が半端ではなかった。


 「鬼も本気になってきたって事でしょうね。」


 上から覆い被さってくるように迫る子鬼を、二人はそれぞれの剣を跳ね上げて切り裂いて行く。

 子鬼は上から下から、前から後からと、体が小さい分、何処からでも襲い掛かってきた。これでは先程のように浄泉光じょうせんこうで一気に浄化しようにも、術を発動させる暇もなく、予想外の悪戦苦闘を強いられていた。


 「~~このぉ~っ!」


 あと少しで駐車場に入れるのに、その手前で立ち往生している状況に翠はやきもきしていた。


 「翠ちゃん、焦っては駄目よ。そんな遣り方じゃ、疲れるだけだわ。」


 焦って力任せに子鬼を斬って行く翠を、押し留める。


 「うぅ~…。」


 妙子の注意を素直に聞いて、力押しをやめた翠は、何かに気が付いたように、キラキラした瞳を妙子に向けた。


 「な、何、翠ちゃん?」

 「ちょっと無理するけどいい?」


 翠の楽しそうな声に少し眉をひそめながら、小さく頷いた。

 妙子の同意を得て、翠は大きく息を吸って怒鳴った。


 「龍鬼轟爆りゅうきごうばくぅ~~ッ!!」


 翠の怒鳴り声とともに、二人を中心にして大きな爆発が起きた。爆発は一気に広がって行き、子鬼を巻き込んで炎の渦と化す。


 「~っ!?」


 妙子は突然のことに驚き、腕を顔の前にやって防御する。


 「妙子、心配するな。お前らには効果は及ばん。」


 不意に近くから聞こえてきた甲高い男の声に、妙子は目を開けて振り返る。

 翠の肩の上に小さな人影が立っていた。


 「…黎さん?」


 炎に照らされながらもその髪は紫色に揺らめいている。顔を近付けて目を凝らすと確かにそれは黎だった。


 「何でこんなに小さいの?」


 妙子は黎の頭をつつく。


 「翠がちゃんと召喚せずに、俺の力を発動させたからだ。」


 妙子の指を押しのけながら、不機嫌に答えた。


 「良いじゃない。ちっこい方が可愛いし。」


 楽しそうな翠に悪気は一切感じられない。

 爆発はまだ続いている。しかし、不思議なことに建物自体にはなんら損傷が見られない。爆発しているのは子鬼のみ。翠たちの周辺に至っては、爆風も炎の熱も感じられなかった。


 「すげぇ~だろ。俺が敵とみなした奴以外は影響を受けないんだぜ。」


 黎が胸を張って踏ん反り返る。


 「これが何時でも使えればね。」

 「使えないの?」


 翠の台詞に妙子が聞く。


 「無理。多分だけどね、黎をビックリさせて初めて発動する力だと思う。」

 「ふ~ん。それで爆発する相手を選べるのは確かに凄いわね。」


 妙子は少し感心をしたが、翠が反論する。


 「咄嗟に発動する力では相手を選べるのに、なんで普段はそれが出来ないの?」

 「うるせ。」


 そう答えた黎の表情は小さくてよく解らなかったが、なんだか寂しそうに見えた気がした。


 「……。まぁ、いいや。」


 翠は気にせずに周囲に子鬼が残っていないか見回してみた。

 子鬼の姿はもう何処にも無かった。爆発の音も聞こえてこない。


 「そろそろ行こうか。」


 妙子が地下駐車場の入り口へ向けて歩き始めた。


 「二人の遺体も、何時までも放っておけないしね。」


 そう言うと妙子は、入り口を通り過ぎて廊下の突き当りで身を屈めて、地面から何らかの紙片を摑みあげた。


 「妙子さん、それって存在を消すお札?」


 今までそこには何もないと思っていた場所に、二人の男女が横たわっていた。


 「そうよ。私たち封縛師や結界師は、結界を多用するからね。二重結界を避けるためにもこの"隠者いんじゃの札"は必ず持ち歩いているの。さっきの爆発が目的物に限っていたおかげで助かったわ。」


 "隠者の札"とは、物体の存在力を外部へ漏れないように遮断してしまう札のことである。札は存在力を操る術者により作られ、その力は札に囲まれた場所に作用する。囲まれた場所はその存在力の放出方向を内側にのみ放出するように捻じ曲げられてしまう為、札の外側には一切、内側にあるものの存在を感じさせることは出来なくなる。

 但し、結界ではない為、出入りは自由に出来る。札の内側に入りさえすれば、誰でもそこに在るものが確認できるし、カメラなど映像を撮る物を介せば、札の内側は丸見えである。

 ただ、気まぐれを起こさない限り、『そこには何もない』ので、行かないだけ。子鬼のように何らかの目的を持った者はそれこそ、その場所に興味を示しはしない。

 蒼が四神封縛を解いたとき、鬼がもっと暴れていれば駐車場の壁一枚しか隔てていないこの場所は潰されていたかも知れない。

 実際、壁には幾筋も亀裂が入っていた。


 「子鬼が獲物一直線で助かったわね。」


 妙子は二人の遺体を確認しながら少しおどけて見せた。


 「傷が無い。妙子さんが治したの?」


 二人の遺体の何処にも外傷が見られない。


 「…せめてもの償いよ。」


 妙子は二人の遺体に、右人差し指の腹で紋章を刻んでいく。軌跡は淡く光り、消えていく。


 「絶対防御の印。周囲が破壊されてもその印を刻まれた"物"だけは壊れないってやつね。」

 「人や動物には、力が強すぎて精神に異常をきたすから、使えないんだけどね。」


 妙子は二人の死を振り切るように目をつむって立ち上がる。


 「行けるか?」


 黎の問い掛けに妙子は頷いた。


 「それより、何時までその姿なの?」


 黎は小さな姿のままで翠の肩にちょこんと座っている。


 『戻れねぇんだろ?』


 今まで黙り込んでいた風神剣の台詞に、黎は不機嫌そうに睨み付けた。


 「やかましい。お前と違って俺は時間が経てば戻る。」

 「その間は、役立たずだけどね。」


 翠の茶々に、黎は黙り込んでしまった。

 翠と妙子は今度こそ、地下駐車場へ足を踏み入れた。




 駐車場内部は先刻足を踏み入れた時とは様相を異にしていた。天井といわず、床といわず、至る所に亀裂が入っている。四神封縛が一度解けた際にどれだけ暴れたかということがうかがいい知れた。


 「奴は何処?随分おとなしいわね。」


 子鬼が居なくなった今、駐車場の中はガランとしていた。所々、さっきの爆発の炎が残っているが、電気も通っていない駐車場は見通しが悪く、奥の方までは見通せない。


 「気配もしないわね。」


 あれ程溢れていた闇の気配も、綺麗さっぱり消えていた。


 「幾らなんでもさっきの爆発で死んだとは思えんが…。」


 黎は機嫌を直して、人よりも良く見えるその目で闇を見透かしてみた。


 「あんだけ大量の子鬼を使役する奴だ。あの程度の爆発で死ぬ訳が無い。」


 黎は、気を抜いてしまいそうな翠たちに注意を促す。


 「……。」


 気を引き締めなおして歩を進めるが、駐車場の中央まで来ても何も出てこない。しかし、翠の左手に握られている正宗が何かに反応していた。前に進むたびにその反応は強くなる。


 「妙子さん、気をつけて。正宗が警告を発しているわ。」


 翠は立ち止まって正宗を体の前に構えた。


 「…何処に居るの?」


 妙子も風神剣を構えて周囲を見回した。

 背中合わせにして立つ二人は、その頬に微かな風を感じた。


 「駐車場のシャッターが開いているの?」

 「そんなはず無いわ。ここのシャッターは私が二重結界にしてまで封鎖しているんだもの。結界を破られれば解るわ。」


 幸いにもシャッターは入り口付近にあったため、四神封縛を張った後に、シャッターにも別の結界を張ることにしたのだ。


 「どっちにしろ、このマンション自体が封印になっている。シャッターが開こうが、開くまいが、封印に囚われている奴に、ここを出ていくことは出来んだろ。」

 「…と、言うことは……。」


 翠たちは風の吹いてくる方向に視線を向けた。すると、それを待っていたかのように突風が吹き荒れてきた。


 「! しまっ…!!」


 その突風に二人は吹き飛ばされてしまう。空中に放り出された二人の肌や服が風に切り裂かれていく。黎は翠の服にしがみ付いていたが、切り裂かれた服の破片と共に投げ出されてしまった。

 翠も、左手首を切り裂かれ、つい正宗を手放してしまった。

 翠も妙子も、激しく壁に叩きつけられる。それでも風は止まず、二人の体を壁に押し付けていく。

 それまで全く感じられなかった闇の気配が、風と共に二人を押し潰すかのように強くなっていく。


 「~こ、のっ…!」


 二人の体は緊急時に働く個人結界によって守られているが、それにも限界がある。その強度は本人の力により個人差がある。翠はまだ余裕が見て取れるが、妙子には既に限界が来ているようだった。

 それを見た翠は、妙子に手を伸ばしたが、あと少しのところで指先が届かない。


 「たっ、妙子さんっ!手を伸ばして―っ!!」


 翠の声が聞こえたのか、妙子が翠の方に手を伸ばした。翠が妙子の手を掴むと、その手を通して、翠の個人結界が妙子を包み込んだ。


 「翠っ!」


 遠くに吹き飛ばされた黎が叫びながら、風の出所である鬼の目に向けて飛び掛った。

 小さな黎の存在に気が付いていなかったのか、鬼は突然の奇襲に左目を傷付けられてしまう。それにより、翠たちを押し潰そうとしていた風の勢いが緩んだ。

 その隙を逃さず、翠は妙子を引き寄せた。

 妙子は既に意識を失いかけていた。朦朧としたその視線に、翠は歯を噛み締めて妙子を抱き締めた。


 「~~許さないっ!」


 翠は妙子をそっと床に寝かせると、妙子の手から風神剣を取り上げて、地面に突き刺した。


 「風鬼童子、妙子さんを守る風となれっ!」


 翠のその言葉に風神剣の輪郭がぼやけ始めた。


 ⦅翠の力に引き摺られていく。⦆


 風神剣の姿は消え、妙子の周りに桃色の風が巻き起こり始めた。


 「み、翠ちゃん…。」


 妙子の微かな声に、翠は優しく微笑んで立ち上がり、黎の左目への小さな攻撃に苦しむ鬼を睨み付けた。


 「正宗っ!!」


 翠の呼び掛けに、風に飛ばされた正宗が応えて、横に伸ばした翠の左手の中に猛スピードで戻ってきた。翠の怒りが乗り移ったかのように、刃が怪しく煌いた。


 「――行く。」


 正宗を構えて屈んだ翠が、足に龍牙力を込めて地面を蹴った。

 すると、翠の体は一気に鬼の許まで辿り着き、そのままの勢いで鬼の右目に正宗を深々と突き立てた。


 「翠っ、無茶をするなっ!」


 黎の言葉に構わず、翠は激しく暴れる鬼の右目に再び正宗を突き刺す。そしてそのまま上へと切り裂いた。

 正宗の刃は鬼の頭蓋骨を砕き、頭部を切り開いた。しかし、傷口から噴き出したのは血でも脳漿のうしょうでもなく、凶悪な風だった。

 その風に翠は危うく首を切り落とされそうになるが、ぎりぎりの所で避ける。だが、完全に避けきれるものではなく、水色の髪が一房、風に舞って飛び散った。そのまま翠は鬼の顔から振り落とされてしまう。

 その翠目掛けて鬼の右手が振り下ろされる。


 「馬鹿がっ!!」


 黎が鬼の顔の反対側から飛び降りた。


 「早くっ、戻れっっ!!」


 黎の祈りが通じたかのように、小さな体が大きくなっていく。黎が翠と鬼の手の間に入るのとほぼ同時に、鬼の手が地面に叩きつけられた。

 しかし、間一髪、黎が元の大きさに戻るほうが早かった。黎は穏鬼おんきの怪力で鬼の手を下から支え、翠を守っていた。


 「…ご、ごめん、黎。ありがと。」


 翠は素直に謝って、素早く体を起こし鬼の手の下から抜け出す。それを確認した黎は押し付けてくる鬼の手を左側へ払い、そこから飛び退き、鬼と距離を開ける。


 「ったく、相変わらず無茶ばかり!何時も守ってやれる訳じゃねぇぞっ!!」


 黎が翠の後頭部をはたく。


 「だぁってぇ~。」

 「"だって"じゃねぇっ!!」


 二人が軽口を叩く間にも鬼は、巨大な体躯を翻して、二人に回し蹴りを喰らわせる。巨体からは想像も付かないそのスピードに今度は黎ですら支えきれずに吹き飛んだ。

 二人は受け身を取りすぐさま体勢を整える。

 翠は右に、黎は左に走り出し、鬼の両脇を挟む形で向かい合い、同時に呪文を唱えだす。


 ―蒼き(死の)龍牙よ

  全てを打ち砕く力となりて

  立ち塞がりしモノを排除せよ―


 両手を差し出した二人の前に、それぞれ緑と紫の龍牙力が集まる。翠の支龍力と黎の影響力が互いの力を引き寄せあう。

 間に立つ鬼は、力を分断しようと、風を発生させて二人に襲い掛かる。しかし、その風は二つの力に阻止されて二人には届かない。


 ―邪修道法術じゃしゅうどうほうじゅつ 爆龍破ばくりゅうは


 二人の両手に集まった龍牙力が、互いの力を引き寄せ一気に鬼を両側から押し潰しに掛かる。

 鬼は両手に風を集めて力を抑えようとするが、徐々に腕が押し戻される。咆哮を上げて気合を入れるが、二人の力の引力はそれだけでは断ち切ることが出来なかった。

 終には、翠と紫の力が鬼の巨体を包み込んだ。それと同時に二つの力が爆発を起こす。その爆発は周囲を巻き込み、爆風と砂塵の嵐を巻き起こす。

 鬼の断末魔とも思える絶叫が爆音と共に、地下駐車場を埋め尽くす。


 「よしっ!」


 黎が歓喜の声を上げる。


 「まだよっ!気を抜かないでっ!!」


 戦闘態勢を解こうとしている黎の耳に、妙子の声が警告を伝える。


 「っ!?」


 その声とほぼ同じタイミングで、爆発の中から巨大な拳が伸びてきて黎を直撃した。

 気を抜いていた黎は防御しきれず、後ろの壁にその身を激突させた。勢いはそれだけでは止まらず、黎の体は壁を穿うがちめり込んでいった。


 「黎っ!?」


 翠は黎を助けようと走り出した。

 しかし、それを鬼の体が阻止するように動いて翠の行く手を塞いだ。鬼の背中に翠は正宗を突き立てようとするが、その皮膚は予想以上に硬く、正宗の刃を受け付けなかった。


 「~くっ!?」


 翠は正宗を構え直し、刃先に龍牙力を込めていく。


 「これでどうだぁ~~っ!?」


 緑色に輝く正宗の刃を鬼の背中に振り下ろす。

 刃は鬼の皮膚を切り裂き、一筋の傷を作る。行けると判断した翠は反す刃で更に深く斬りつけに掛かる。しかし、その傷口から噴き出してきたのは、先程と同じく血ではなく鋭い刃を持った風だった。


 「しまっ…!?」


 失念していた翠はそれに気付き、咄嗟に両腕をクロスさせて向かってくる風から顔を守った。しかし、風が襲い掛かってくることは無かった。

 腕を下ろすと、目の前に妙子の背中があった。


 「大丈夫、翠ちゃん?」


 妙子は風神剣で風の結界を作り、鬼の傷口から溢れてきた凶器の風を防いでいた。


 「た、妙子さんっ!?」


 しかし、鬼の狂風は完全には防ぎきれていなかった。翠は妙子のスカートから大量の血が滴り落ちているのを見た。

 翠は妙子の横に回り傷口を確認した。


 「妙子さんっ!!」


 妙子のふくよかな胸が削ぎ落とされその下の骨が覗いていた。風神剣に添えていただろう左腕も手首から先が無くなっている。

 咄嗟に周囲を見回すが、欠片すら見つけることが出来なかった。


 「ふふ、奴の風に粉々にされちゃったわ。」


 妙子は苦痛を堪えて、翠におどけて見せる。


 「そんなこと言っている場合じゃないわっ!?」


 翠は妙子を助けようと手を出すが、そこへ鬼がやかましいとでも言うように、空いている腕で二人を横殴りにした。

 完全に気が逸れていた翠を、妙子がその身で庇う。その背中から嫌な音が聞こえてきた。


 「!!」


 二人の体は一緒に反対側の壁まで吹き飛ばされる。二人の体は壁に直撃する寸前に風神剣から噴き出した風に包まれ激突を免れる。


 「……個人結界が役に立ってないわね…。」


 妙子は息も絶え絶えに、それでも笑顔を見せて言う。


 「喋らないで、妙子さん。直ぐに傷を塞がなきゃっ!?」


 両目に涙を浮かべる翠を優しく見つめて妙子は小さく首を横に振った。


 「…もう無理。藍ちゃんでも治せないわ。」

 「そ、そんなこと無いっ!直ぐに連絡するから諦めないでっ!?」


 翠はスカートのポケットからスマホを取り出そうとするが、その手を妙子の途切れた左腕が押さえた。


 「……翠ちゃん、強くなって。」


 翠は自分の腹部に違和感を感じた。見ると、腹部に風神剣が深々と突き刺さっていた。


 「た、妙子さん?」


 しかしその腹部から血が溢れ出ることは無かった。違和感を感じるが痛みは無い。


 「風鬼童子は私の聖桃玉せいとうぎょくから出来ているの。あなたなら私たちの力を操れる。」


 弱々しい妙子の台詞が理解できない。否、理解したくない。


 「私も、風鬼も、姿は無くなるけど、何時までもあなたの中で生き続けるわ。」


 妙子の体が桃色に輝きだし、少しずつその輪郭をかし始めた。


 「~だ、駄目…。駄目だよ、妙子さんっ!?」


 腹部に突き刺さった風神剣から翠の体に流れ込んでくる沌生力。その力は何故か、そのまま翠の中ですんなりと受け入れられていく。


 「やめて妙子さん。こんなことしたら死んじゃう…。」


 翠は止めさせようと、力が流れ込んでくる風神剣を抜こうとするが、何故かビクともしない。

 黎を呼んで手伝ってもらおうとするが、黎は先程の状態から脱け出せていなかった。

 鬼は二人には見向きもせず、相変わらず黎に攻撃を加えている。その巨大な拳で黎を潰してしまおうとしているかのように右、左と連続で攻撃を繰り出している。


 「翠ちゃん。」


 妙子の力ない声が翠の耳に届く。視線を戻すと、妙子の姿がもう殆ど消えかけていた。


 「消えちゃやだ!約束したじゃない。これからもっといっぱい一緒に想い出作るって……。」

 「一緒よ。私はこれからもずっと翠ちゃんと生き続けるわ。」


 もう声すら微かにしか聞こえない。体に流れ込んでくる沌生力も殆ど無くなっている。風神剣すら透けていた。


 「愛しているわ、翠ちゃん。」


 その一言を残して、妙子も風神剣もその姿を消してしまった。

 翠は絶叫した。その声は地下駐車場内に響き渡った。

 絶望に打ちひしがれるその声に、鬼に押し潰されそうになっていた黎が反応した。

 鬼の拳と壁に挟まれていた黎の体から、大量の影響力が放出され、鬼を弾き飛ばした。


 「ぅおおおぉうお~~っ!!!」


 壁の穴から抜け出した黎が、鬼のように咆哮を上げた。すると、黎の体が一気に膨らみ始めた。

 黎の頭部から二本の鋭い角が伸び、尖った耳は更に天を突くかの如く長く伸びていく。体はどんどん大きくなり、その身長は鬼に匹敵する大きさとなった。

 体は漆黒の鎧で覆われ、それはどんな攻撃も弾き返しそうな印象を与える。

 翠の絶望が、従鬼である黎を邪穏鬼じゃおんきへと覚醒させていた。

 邪穏鬼となった黎は、目の前に立つ鬼を視界に捕らえると、一直線に突っ込んでいった。

 二体の鬼は激しい殴り合いを始める。互いの拳が顔なり胴体なりを抉るように打ち込まれる。

 打ち込まれると同時に、周囲を巻き込む力のうねりが発生し、地下駐車場の壁や天井が穿たれ、亀裂が広がっていく。

 妙子を失い、茫然自失になっていた翠の胸に微かな痛みが走る。


 「―――。」


 翠はその痛みから優しい温もりを感じた。


 「…妙子、さん…?」


 その温もりに妙子の気配を感じて、翠は自分の胸を押さえる。

 目を閉じ、温もりに意識を集中させると、まるで妙子が励ましているように感じられ、呆けている場合ではないと思い出させた。

 翠は両目に浮かんだ涙を拭う。


 「…泣くのは、全てが終わってからだよね、妙子さん。」


 翠は左手を広げて、飛ばされたときに手放してしまった正宗を呼び寄せる。

 刃を立て、峰を額に当てて集中力を高めると、大声で叫んだ。


 「龍鬼童子りゅうきどうじ・黎っ!」


 翠の声が届いたのか、鬼と殴り合いをしていた邪穏鬼・龍鬼童子が鬼の拳を受け止め、顔だけで振り返る。


 「み、翠…。」


 その瞳は深い紫に淀み、鋭い眼光は見る者に恐怖心を与える。

 それでも微かに正気を保っているのか、地響きのような低い声で翠の名を呼ぶ。

 天井や壁から剥がれ落ちてくるコンクリートを避けながら翠が走り出す。


 「龍鬼っ!戻りなさいっ!!」


 翠は、力比べをする二体の鬼の許まで行くと、ジャンプをした。

 龍牙力を込めたジャンプは翠の体を一気に天井近くまで跳ね上げた。そのまま正宗を振り下ろすと、鋼のような皮膚を持つ鬼の左腕を切断した。


 「龍鬼っ!!」


 翠は地面につく前に、龍鬼童子に向けて、龍牙力を放つ。

 龍牙力は龍鬼童子の体を包み込んだ。

 地面に降り立った翠は、息つく間もなく再度ジャンプをした。


 「妙子さん、力を貸してっ!」


 今度のジャンプは風を伴っていた。風に背中を押されて弾丸と化した翠は、鬼の胸に刃を突き立てた。

 その勢いで鬼は後ろへよろめいた。

 龍牙力に包まれた龍鬼童子も壁際まで後退した。その瞳孔は緑色に輝いていた。それを確認した翠は再度叫んだ。


 「目覚めよっ!聖穏鬼せいおんき 龍鬼童子っ!!」


 漆黒の鎧も次第に色が薄くなり、終いには白と紫を基調にした鎧に変わった。


 「くっ!」


 龍鬼童子は片膝を突いた。

 翠は突き刺さった刃を引き抜き、鬼の胸板を踏み台にして龍鬼童子の前に飛び降りた。


 「…勘弁してくれ翠。俺はもう、…邪穏鬼には戻りたくねぇんだ。」


 龍鬼童子の低く響く声が、暗く沈んでいた。


 「ごめんね。」

 「…ふっ。今日は謝ってばかりだな。」


 素直に謝る翠に、龍鬼童子が少し笑って翠の頭を、その大きな掌でポンポンと叩いた。


 「キ、キサマらぁ~~っ!!」


 少しなごむ二人に、痛みに悶えていた鬼が切り落とされた左腕を拾いながら、風を孕んだ声を発する。

 翠に襲いかかるその風を、龍鬼童子の右手が遮る。遮られた風は四散し、防いだ龍鬼童子の右手には傷一つ付いていなかった。


 「…喋った。」

 「建物の崩壊が封印を不安定にし、奴の覚醒を早めているんだろう。」


 今まで唸り声や叫び声しか発していなかった鬼は、まさしく獣そのものといった感じで、知性をこれっぽっちも感じることは出来なかった。

 しかし今、自分の左腕を治癒している鬼の目には、知性の光が宿っているようだった。


 「キサマ、龍鬼童子かっ!?」


 鬼は龍鬼童子に驚愕に満ちた視線を向ける。


 「…俺を知ってんのか?」


 龍鬼童子は翠を庇うように、その体の後ろに押しやって立ち上がる。


 「我ら魔族の裏切り者っ!!」


 癒着した左腕の感触を確かめると鬼は、両腕を大きく振るって暴風を巻き起こした。


 「下がってろ翠っ!!」


 龍鬼童子は前に飛び出し、周囲を巻き込みながら迫ってくる暴風を、龍牙力を発動させて受け止めた。そのまま龍牙力で暴風を包み込み、羽交い絞めの要領で暴風を握り潰した。

 それを見た鬼が今度は右を振り上げて、龍鬼童子に向けて勢いよく突き出す。突き出された拳から強大な邪気の塊が飛び出した。

 龍鬼童子も負けじと、龍牙力を打ち出して対抗する。

 邪気と龍牙力が二人の間で衝突し、眩い光を放って爆発を引き起こした。

 光で視界は奪われ、爆発で地下駐車場の柱がし折られ、天井や壁、床が穿うがたれていく。


 「翠っ!?」


 翠はその光と爆風の中で、微かに龍鬼童子の声を聞いた。




ⅩⅢ




 藍子は真っ暗な居間の中で、目を閉じて瞑想していた。

 その藍子の前に淡い桃色の光が現れた。


 「………。」


 そっと目を開けた藍子が淡い光の中に見たのは、妙子の姿だった。


 「妙ちゃん…。」


 藍子は驚くでもなく、静かに光に浮かぶ妙子を見つめた。


 『ごめんね、藍ちゃん。翠ちゃんを守りきれなかった。』


 光の中に浮かぶ妙子は、五体満足の綺麗な体をしていた。


 「…結局、妙ちゃんとは喧嘩ばかりでしたね。でも、あなたの事、好きでしたよ。」


 藍子の台詞に、妙子がこそばゆいように微笑む。


 「こちらこそごめんなさい。」


 藍子が立ち上がって頭を下げた。


 「今回の事、わたしは…。」


 言葉を続けようとしていた藍子を、妙子が優しく抱き締めて言葉を遮った。


 『解っているわ。貴女ほどの人が私の死を予見できないわけがないもの。』


 妙子の優しい声に藍子の目から涙が溢れてきた。


 「本当は行かせたくはなかった。二人とも、わたしには大事な存在だもの…。でも、あなたたち二人なら、もしかしたらって…。」


 藍子の今にも消えてしまいそうな声に、妙子は胸が絞めつけられる思いがした。


 『私ね、思い出したの。私が翠ちゃんの力を封印しているんだって。』


 思いもしない言葉に、藍子は驚きの表情を浮かべた。


 「妙ちゃんが封印?…どういうことです?」


 思いもよらない妙子の言葉に、藍子の頭は疑問符で溢れかえっていた。


 『翠ちゃんが黎さんを従鬼にした後、翠ちゃんの混沌の力を恐れた当時の評議会が、私を"核"として力の封印を決めたの。』

 「…それで、二人は離れ離れの地へ赴任させられていたのですね。」


 人を核にした封印は、核となった者が死なない限り、決して解除する事が出来ない。それは術を施行した者も例外ではない。封印の力と人に宿る力が複雑に絡み合って解きほぐすことが出来ないのである。

 その封印の力は、対象者と核が遠ざかれば遠ざかるほど、その効力を増し、逆に近付くと封印の力は弱まる。


 「よく考えれば、翠ちゃんの混沌が暴走したのって、何時も側に貴女がいるときでしたね。そんな事にも気付かなかったなんて…。」


 藍子は珍しく少し苛立っているようだった。


 『人を核にした封印は、核本人の力が阻害するから、そんな簡単に気付くものじゃないわ。ただ不思議なのは、何故今まで忘れていたのかって事よね。』

 「その理由ならわたしが知っています。」


 藍子は立ち上がって居間の窓に歩み寄る。

 窓から見える外はもう、日が沈んでしまい、地上の星ともいえる家々のイルミネーションが瞬いている。そんなに都会ではないため、空を見上げれば本物の星明りも見て取れる。


 「人を核とした封印"神修道法術 奥義 封人ほうと"。書いて字の如くなんだけど、殺さなければ解除できないという非人道的なところから、幾度となく"魔修道法術ましゅうどうほうじゅつ"に組み入れるべき、と議題に上る術です。」


 聖血族の使う"修道法術"は、全部で"神"・"聖"・"邪"・"魔"の四種類に分類される。基本的には消費する龍牙力の量で分けられるが、術の特質から分類されることもある。

 攻撃力の増幅などのサポート系は聖に、治癒・治療系は神に、より凶悪な印象を与える術は邪・魔へ。

 攻撃系はそれぞれに多く存在しているが、やはり分類には消費量だけでなく、見た目の残酷さや、時には華やかさまでが基準に使われることがある。

 詰まる所、明確な基準がないのである。そのため奥義ですら、神から魔へ組みかえられることが間々あった。


 「神修道法術から外されない理由は、評議会の切り札だから。人に封印すれば殺されない限り安全だし、核が術者なら尚のこと。でも体裁が悪い。」


 妙子は藍子の言わんとしている事が解った。


 『つまり、私が忘れていたのではなく、記憶を弄られていたって事?』


 眉をひそめる妙子に、藍子は静かに頷いた。


 「封人は核となる者の同意が必要。でもその後で、記憶を操作して忘れさせる。そうする事で、非人道的な術を使ったという事実を隠蔽します。」


 藍子は説明していくうちにある疑問に行き当たった。


 「今回、妙ちゃん一人に依頼が回ったのって…もしかして、翠ちゃんの封印を解く為…?」


 それに気付いた藍子は怒りが込み上げてくるのを感じた。

 最近、強大な力を持った魔族の出現が増加傾向にある。評議会としては、少しでも使える駒を増やしておきたい。

 そんな思いがもし、評議会にあったのだとすれば、危険ではあるが、混沌をうまく使いこなせれば、それこそ全ての魔族を一掃出来る可能性がある。

 元々、聖血族は魔族を倒すために、人と聖穏鬼が力を合わせて創り出した一族。

 もし藍子の考えどおりに評議会が決議したのだとしたら、決して目的にそれた事ではない。

 しかし、だからと言って納得できるものではない。


 「そんな…、そんな事って――っ!?」


 怒りに震える藍子を、妙子は静かに見守っていた。

 嬉しかった。恋敵で幼い頃から喧嘩ばかりしていた相手が、普段は決して負の感情をあらわにしない人が、自分の死を悲しみ、怒って、少し得した気分だった。


 『ありがとう妙ちゃん。でもね、私は嬉しいの。』

 「嬉しい?」


 藍子は涙を浮かべた瞳で、横に浮かんでいる妙子を見上げた。


 『ええ。だって、今、私の力は翠ちゃんと一つになっているんだもの。ずっと翠ちゃんの中で、私の力は生き続けるのよ。』


 次第に妙子の体が消え始めた。


 『そろそろ限界ね…。』

 「…何か、達観していますのね。」


 死んだばかりだというのに、取り乱すことなく穏やかに話し続ける妙子に、今更ながら気が付く。


 『私自身が選んだ道だもの。翠ちゃんが悲しむと思うと胸が痛むけれど、これもあの子が強くなるための試練だから。』


 消え行く体を、"後少し"と残った力を込めて留める。


 『あの子はこれからもっと多くの困難に立ち向かって行かなければいけないの。私の死は一つのステップでしかないわ。』


 だから、と妙子は言葉を続ける。


 『あなたたちは翠ちゃんをしっかりサポートしてあげてね。』


 そう言うと、藍子の返事も待たずに妙子は姿を消した。妙子の魂の光に照らされていた居間が、星明りの覚束おぼつかない光で暗く沈む。


 「………。」


 藍子は顔を俯けてソファに戻る。

 2分、3分と時間が経過して行く。

 防音効果が良いのか、外からの喧騒は全く聞こえて来ない。変わりに壁に掛かっている時計の針の音だけがやけに大きく響いている。

 軽く衣擦れの音がした。藍子が袴を強く握り締めていた。その両手は肩と共に細かく震えている。

 藍子は10分程そうしていたが、やがて前後に大きく体を振ったかと思うと、勢いよく立ち上がった。

 前を見据える藍子の瞳には既に悲しみは見られなかった。それどころか、何かを決意したかのような眼つきである。


 「さ、食事の用意をしましょ。蒼兄さんも、紫ちゃんも今日はこっちに来ますよね。」


 藍子は真剣な表情を一気に崩して、誰に言うともなく明るく呟いて、キッチンに向かった。










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