鬼の棲むマンション 肆


 夕暮れの空に、丸い輪っかになった煙がぷわんぷわんと浮かんでいる。

 街から少し離れているおかげで、車の往来も少なく静かなものである。ついくつろいでしまいたくなる程、穏やかな時間が流れている。


 「蒼兄そうにい、そろそろ翠たちが着くわよ。久しぶりに会う妹にそんな情けない格好、見せる気?」


 ゆかりがスマホをしまいながら言った。


 「あ~……。」


 蒼は、植え込みの縁石に寝そべってタバコをふかしている。ゆっくり体を起こすと、携帯灰皿でタバコの火を消した。


 「まったく、しっかりしてよね。」

 「紫の言うとおりだ。お前はもっと体力をつけんとな。」


 風鬼童子が蒼の前に姿を現した。


 「…お前、なんでまだ居るんだ?解放されたんだから、早く戻れよ。」


 蒼はウンザリした顔を向ける。


 「悪いが、妙子にここに残るように言われててな。暇ならお前を特訓しても言いといっていたぞ。」

 「…嘘付くな!妙ちゃんがそんなこと言うわけないだろ!!」


 声を張り上げる蒼に、風鬼童子が大声を上げて笑った。


 「蒼兄が情けないから、そうやってからかわれんのよ…。」


 紫が頭を抱えて呟いた。





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 時は江戸。

 当時、白の龍牙を操る一族がこの辺りを治めていた。

 その名を、守永もりなが一族。

 彼らは、蒼の聖血族・松﨑一族と共に、魔族を退治していた。

 そんな彼らの前に闇色を纏った鬼が現れた。

 鬼は、凶悪な力で持って、周辺地域を破壊し始めた。鬼が放つ風は家も森林も全てを切り裂き、多くの人々が路頭に迷うこととなった。

 松﨑一族は、先頭に立って鬼と戦うが、力及ばずほぼ壊滅してしまう。

 守永一族の固い結界で人々は守られているものの、鬼の圧倒的な力により、一人、また一人と、守永一族も命を落としていった。

 危機感を募らせた両一族は、これまでの攻守分担を廃止し、残った者だけで総力戦を挑むことになった。

 退魔師が先陣を切り鬼を撹乱かくらんし、その間に結界師が鬼を退魔師諸共、結界の中に閉じ込める。そこを万全の準備をした封縛師が依り代となる大岩に鬼を封印した。

 この戦いにより松﨑一族は全滅。守永一族も殆どの者が力を使い果たしその命を散らした。

 残った守永一族は、封印石のある場所に寺を建てて、この岩を守っていくことにした。

 だが、村を守れなかった上に、寺の建立に村の財政をいた守永一族に人々は反旗を翻した。

 守永一族は、聖血族の掟により、村人を傷付ける事が出来ず、せめてもの抵抗として駄目もとで、結界を張り身を守るが、守護力による結界は自然界に存在するものの力を素通りしてしまう。

 当然、村人の鎌などの刃物は結界を通り抜け、その身に深々と突き刺さった。

 多勢に無勢。守永一族は全滅を避けるため、この地を離れていった。

 しかし、封印石のことが気になった守永一族は、他の白の聖血族に連絡を取り、住職としてこの寺で封印石を監視してもらうことにした。


 「これがその時の封印石よ。」


 紫と蒼に合流した妙子が、マンションの裏に四人を連れて行き、そこに横たわる大きな岩を見せた。


 「削られてる。」


 翠は削り取られた地肌に触れてみる。


 「…もう、何もない。」

 「なんでここにマンションが建ったんだ?」


 蒼は、不自然なこの状況に疑問を持った。封印石を守る住職が居るのなら、このように土地を切り売りされ、その上、封印石を削るなどといったことを許すはずがない。


 「はい、何でも今の住職は聖血族とは全くの無関係のようで、この岩の経緯すら知りませんでした。」


 妙子は風鬼童子に手を伸ばしながら言った。


 「当時の住職は何故か子を生さなず、一代限り。その後は、廃寺なるところを村人の要請で、別の宗派の総本山から新しい住職を呼び寄せたみたいです。」

 「成程ね。」


 紫が地面に手を当てている。


 「感じる?」


 妙子が紫に問い掛ける。


 「…いや、何も感じないわ。この封印石から脱け出して結構経っているようね。」


 妙子の手に触れた風鬼童子は、その姿を崩していく。


 「風鬼、お願い。」


 紅い風になった風鬼童子は、そのまま紅い液体になったかと思うと、次に再び固体化し深紅の剣となった。


 「この辺りは見てのとおり周囲に家もなく、檀家の減少により収入が減ったために、土地を切り売りしたみたいですね。このマンションが建ってから既に3ヶ月が経っているみたい。」


 妙子は深紅の剣を試すように振って、説明を続けた。


 「それが、妙ちゃん自慢の"風神剣ふうじんけん"か?」


 蒼は始めてみる深紅の剣を指差して聞いてみる。


 「はい、これは風鬼童子が具現化している時じゃないと何故か使えないので、今までここに残ってもらっていたんです。」

 「…やっぱり、俺を鍛える為じゃなかったんだな…。」


 蒼は小声で呟いた。


 「封印自体はまだ活きているみたい。妙子さん、何とかならない?」


 翠は封印石に手を触れたまま、妙子に聞いてみた。


 「破壊じゃなく、削り取ったのが良かったのかしらね? でも、その岩に使われている封印は、白の聖血族のもの。私にはどうしようもないわ。」

 「…という事は、やっぱり退治するしかないってことかしらね。」


 紫が面倒臭そうに呟いたのを聞いて妙子が答える。


 「この封印が活きている以上、新しい封印は使えない。二重封印は二重結界以上に危険よ。二重に封印をすればその力は反転し、周囲のものを一気に吸い込んでその内に閉じ込めてしまう。効力が消えない限り、その封印は誰にも解けなくなってしまうの。」


 その言葉を聞いて、翠は自分が張った二重結界のことを思い出した。


 「そういえば私、妙子さんの結界の回りに封界を張ってるんだった。早く解いて中の人たちを助けなきゃ。」


 翠はそう言うときびすを返してマンションへ向かう。妙子は慌てて翠の後を追い、その後ろから紫が声を掛けてきた。


 「翠! 私たちはこれ以上手を出せないわ。負けんじゃないわよっ!!」


 翠は返事の変わりに手を振って答えた。


 「…なぁ、翠の奴、随分物騒なこと言ってなかったか? 空耳か…?」


 蒼が封印石になっかかってタバコに火を点けながら聞いた。


 「……空耳でしょ?蒼兄は翠の結界以外感じなかったんでしょ?」

 「まぁな…。」


 紫と蒼がマンションを見上げると、午後六時の時報が鳴り響いてきた。





 妙子は、マンションのロビーに一歩足を踏み入れて驚いた。


 「何これ、凄いひび。」


 ロビーは壁と言わず、床と言わず、至る所に大きなひびが入っていた。自分が地下へ下りて言ったときはまだ何とも無かった筈である。


 「紫姉たちが、風鬼童子を解放したときに、下にいる鬼が暴れたんだって。私の槍龍そうりゅう毒破どっぱはあまり効かなかったみたい。」


 翠は灯りも無い薄暗いロビーの中をエレベータに向かって走った。しかし昇降ボタンを押しても何の反応も無い。回数を表すパネルにも何も表示されていなかった。


 「やっぱ駄目か。と言うことは…。」


 翠はエレベータの隣にある階段を見た。


 「翠ちゃん、存在力は使えないの?」


 翠に追いついた妙子が、藍子との会話を思い出して聞いてみた。


 「? 私が使えるのは支龍力だけだよ。知ってるでしょ?」


 翠は訳が解らず首を傾げる。


 「うん、そうね。存在力の雷が使えたら、電気に変換出来ないかなって思っただけだから。」


 藍子は、支龍力は翠の力の一部と言っていた。つまり支龍力以外にも使える力があると思ったのだが、翠は試してみようとは微塵にも考えていないようである。

 聖血族は、修練を初めて行う際にどの力が使えるか試験される。操る術にはそれぞれ特性を持っている。その特性を最大限に活かす為には、使える力に合致した術を覚える必要がある。

 例えば、風を操るのが得意とする沌生力で、雷を操る術を使っても、大した威力にはならない。場合によっては反発して術者が怪我を負う事もある。しかし、風を操る術を使えば、その威力は沌生力に増幅され、何倍にも大きな力となって発動させることが出来る。

 それ故に、多くの術者が最初に認定された龍牙力以外を使おうと思う者は少ない。それは翠や妙子も例外ではなかった。

 だから、あまり人の事は言えないのだが、修練をサボっている以上、危険ではあるが、実戦で試すしかないと思った妙子は、翠に提案をしてみた。


 「ねぇ、翠ちゃん。ちょっと使ってみない?」

 「…存在力を?」


 妙子の思惑が解らずに翠は更に首を傾げるが、病み上がりの大好きな妙子をあまり疲れさせたくない翠は、妙子が言うように出来ればエレベータを動かせると思い、ちょっと試してみることにした。


 「じゃあ、やってみるね。」


 翠は両目を閉じ、精神を集中させる。翠の艶のある黒髪が水色に変色して行く。目は閉じている為、確認出来ないが、唇や耳たぶ・爪なども水色に変色いていた。そして風も無いのに翠の髪や服がはためきだした。

 次第に翠の体から緑色の龍牙力が立ち上り始める。ここまでならいつも通りの光景である。だが、妙子は異変を目にした。

 牙を剥いた緑色の龍牙力が、赤に黄色にと鮮やかにその色を変え始めた。やがてその色は黒に定着した。


 「……まさか、翠ちゃんの本当の力は、混沌……?」


 妙子は翠の精神集中を邪魔しないように小声で呟いた。体が震えている。

 混沌は無秩序な力。自分の使う沌生力でなら、その一部からモノを創り出す事が出来る。だが、混沌は秩序を持たないが故に暴走しやすく、人が自由に扱える力ではない。

 翠から立ち上る力も暴走の兆しを見せているのか、時折、大きく空間を歪ませ始めた。

 今まで支龍力しか操ったことの無い翠が、突然、混沌を操れるはずも無い。暴走させない為にも、翠を止めないといけないのだが、空間の歪みが妙子を翠に近付かせてはくれない。


 「み、翠ちゃんっ!!」


 せめて声が届かないかと、大声で呼び掛けてみた。



 その頃、マンション裏で寛いでいた紫と蒼は、今までに感じたことの無い力を感じ取り、体を強張らせていた。


 「…何なの、この力…?」


 紫は不安そうな顔を蒼に向けた。


 「解らない。…俺もこんな力を感じたのは初めてだ。」


 緊張する二人の耳に鈴を転がすような可愛い声が届いた。


 「これは混沌の力です。秩序を持たない制御しきれない力。これを自在に操れるのは"数多あまたの力をいだきし者"のみ。」


 美影みかげがいつの間にか紫の後ろに控えていた。


 「数多の…、何?」


 聞きなれない単語に紫は聞き返した。


 「あるじ様は何度か、彼女の事を"龍牙の意思"と呼ばれていました。」

 「~っ! インフィニティアかっ!?」


 蒼が跳ねるように体を持ち上げて美影を見た。


 「馬鹿な、インフィニティアが姿を現すのは世界の誕生と終焉だけだと聞いている。何故こんな所に…。この世界は終わるのか?」


 蒼はどんどん膨れ上がっていく力に内心、恐怖を抱きながら美影に問い質す。


 「数多の…いえ、龍牙の意思には姿はありません。彼女は純粋なる意思と力。そのお姿を現すには、世界は器が小さ過ぎます。」


 落ち着いて話す美影を見て、紫も少し落ち着きを取り戻してきた。


 「つまり、この力の源は"龍牙の意思"ではない。と言うことね。」

 「少し前に、翠の力が膨れ上がるのを感じたが…。」


 紫と蒼は顔を見合わせる。


 「まさか…。」


 紫はマンションへ向けて掛け出した。蒼も一拍遅れて走り出す。

 膨らみ続ける力は既にあまりに強大で自分たちの感覚では、どれ程のものか測りきれない。


 「これが、混沌だとしたら、暴走するぞっ!」

 「美影!先に行って翠を止めなさいっ!!」


 紫が美影に命を下す。

 美影は静かに地面を蹴った。一飛びでマンションの脇を抜けて紫たちの視界から姿を消す。

 しかし、マンションの前に出てみると、そこに美影が立っていた。


 「何やっているのっ!?早く行きなさいっ!!」


 紫の声に美影が振り向いた。その美影の前に人影が見えた。


 「藍子っ!?」


 蒼が姿を認めて名前を呼んだ。


 「蒼兄さん、紫ちゃん、ストップです。」


 そう言って藍子は右手を差し出した。すると二人は突然、何かにぶつかり尻餅を突いてしまう。

 美影は滑るように紫の元へ行き、抱き起こす。


 「何するんだ藍子。」

 「早く行かないと翠がっ!」


 体が押し潰されてしまいそうな程の圧迫感を感じ、二人は焦っていた。


 「ふふ、落ち着いてください。」


 藍子は柔らかく微笑んだ。


 「何で止めるのよっ?」


 食って掛かる紫にお構い無しに藍子はゆっくり話し始める。


 「翠ちゃんも、もう15歳。わたしも族長も、いい加減、覚醒して欲しいって思っていました。」

 「覚醒…?何のことだ?」


 蒼が立ち上がりながら聞いた。


 「翠ちゃんはまだその力に目醒めていません。紫ちゃん、あなたなら少しは解るんじゃない?」


 藍子は紫を見た。


 「あなたなら、今まで翠ちゃんの修練にも付き合ってきたし、何度かペアを組んで実戦も経験していますよね。」


 紫は頭を掻きながら少し考えた。


 「…もしかして、黎を従鬼じゅうきにしたときに感じたあの力が…。」

 「そうですね。あの時も翠ちゃんは力の片鱗を見せましたね。まだ五歳の翠ちゃんが、封印が解けて暴走する黎さんから、妙ちゃんを守る為に溢れ出した力。」


 紫は少し身震いした。

 その場にいなかった蒼は、紫に疑問の視線を投げかける。


 「…あの時、自我が戻らず暴走していた黎が、その爪で妙子さんを引き裂こうとしたのよ。それを見た翠の力が爆発したの。」


 爆発した力は周囲の物全てを飲み込んでいった。紫と妙子は駆けつけた藍子の結界により守られたが、この爆発により当時の翡翠家の屋敷が跡形もなく消え去ってしまった。家人は全員なんとか助かったものの、とても無事とは言い切れない状態だった。


 「…もしかして、以前、お前らが三ヶ月ほど俺の家に転がり込んできたときの事か?」


 紫は頷いた。


 「屋敷を再建していたの。」


 既に龍牙の巫女としての力に覚醒していた藍子の力により、全員、回復・治癒できたからあまり問題にはならなかったものの、翠の力を完全に封印してしまうべきだと、評議会で議論されたこともあった。

 この力の奔流に巻き込まれた黎は、自我を取り戻し、翠の力を認め従鬼となった。

 紫は、巨大な体躯をした凶悪な鬼が、自分の妹に膝を突いてこうべを垂れているのを、恐怖心を抱いて見ていた。


 「今思えば、確かにあの時の力は、混沌そのもの。他にも何度かふとしたきっかけで、異質な力を感じたことは確かにあるわ。それもそうだったのね。」


 紫はマンションを見ながら言った。


 「でもだとしたら、やっぱり止めないと。あの時の二の舞になるんじゃ…。」


 紫は再び駆け出そうとするが、藍子が前に立ち塞がる。


 「あなたのその行動も、翠ちゃんの覚醒を遅らせた要因の一つです。」

 「私の所為だって言うの…?」


 鋭く睨み突ける紫に、藍子は小さく首を振る。


 「まぁ、気持ちは解りますけど、皆さん翠ちゃんを甘やかし過ぎですよ。そんなだから…。」


 藍子がマンションの方へ視線を向けると、それまで渦巻いていた龍牙力が突如として消えた。


 「ほら、こうなる…。」


 紫と蒼の顔を見て、少し困り顔で笑った。



 マンションのエレベータを動かす為に存在力を発動しようとしていた翠は、突然、力が抜けてしまい、キョトンとした顔をしていた。


 「み、翠ちゃん…?」


 妙子が、心配そうに翠に近づく。


 「たはは、駄目でした…。」


 翠が苦笑しながら答えた。


 「でも、何でだろ?力が抜けちゃった。」

 「多分、使い慣れない力を使おうとしたから、上手に操れなかったんじゃないかしら?」


 あんなに渦巻いて、空間すら歪めていた混沌の力が、少しの欠片もなく消えていた。周囲は何事も無かった様に、静かに佇んでいる。


 「むぅ…、まぁいいや。とりあえず、階段で10階まで上がるしかないってことよね。」


 翠はちょっと悔しそうにエレベータの扉を軽く蹴った。


 「駄目よ、翠ちゃん。足癖悪いわ。」


 妙子が、階段の方へ翠を押して移動しながら注意した。


 「妙子さん、風神剣は? 置いて行くの?」


 見ると風神剣は、エレベータ脇のベンチの上に置かれていた。風神剣は自己主張するように、少し赤く光っている。


 「大丈夫よ。風鬼は私の血だもの。離れていても関係ないわ。」


 そう言って妙子は、風神剣をそのままにして階段を上りだす。


 「ただ単に邪魔になっただけなんじゃ…。」


 翠の突っ込みに妙子は知らん顔してさっさと歩いて行ってしまう。慌てて翠も妙子の後を追い駆けた。



 誰も居なくなったロビーに紫たちが入ってきた。


 「風神剣。」


 蒼がベンチに風神剣があるのを見つけて近寄った。


 「何をやっている? 捨てられたか?」

 『お前たちを通すなと、命を受けた。』


 風神剣から風鬼童子の声が聞こえてきた。


 「何でよ!?」


 紫が食って掛かる。


 『混沌は禁忌の力。翠がそれを持っているなら処分されるかも知れん。違うか?』


 風神剣は二人を威嚇するように、宙に浮いて光を強める。


 「…確かに、混沌は禁忌とされている。だが、それを使うからと言って即処罰はしない。」

 「実際、あれだけの力を発しておいて、何処にも被害が無いなら、多分、当分は様子見になるんじゃないかしら?」


 紫はロビー中を見回しながら言った。


 「だいたい、"禁珠きんじゅ"ならまだしも、人間を罰することはしないわ。せいぜい力を封印するだけよ。」

 『…さっきまで、藍子の気配を感じていたが、奴は何処行った?』


 風神剣は警戒を解こうとせずに、三人の中で最も注意すべき人間の行方を聞いた。


 「藍子姉なら、翠の家に帰ったわよ。だから、安心しなさいって。」

 「俺達は翠が心配になってきただけだ。」


 紫たちは戦う気がないことを示すように、手のひらを風神剣に向ける。


 『……解った。だが、これ以上は入らせん。手助けしてもらっていて悪いが、こっからはあの二人の仕事だ。余計な手出しは無用。』


 風神剣は静かにベンチの上に戻って行く。


 「…翠の周囲ってどうしてこう、心配性が揃ってんのかしらね?」


 大きな溜め息を吐きながら、紫は頭を掻いた。


 「俺は心配してないぞ。」

 『さっき思いっきり"心配になって"と言ってたぞ。』


 風神剣からの突っ込みに蒼は聞こえない振りでそっぽを向いて、タバコに火を点けた。紫は肩を竦めた後、翠が居るだろう上の階を見上げた。





 「……さすがに10階はきついわね。」


 妙子は汗を掻きながら、一歩一歩、階段を上がって行く。


 「大丈夫?」


 夕方とはいえ、夏の気温は高く、電気の通っていないこのマンションは熱気に満ちている。翠は妙子の横に並んで歩きながら、顔を覗き込む。


 「ええ、大丈夫よ。心配してくれてありがとう。」


 翠の澄んだ瞳にどぎまぎしながら、妙子は動揺を隠すように微笑んだ。


 「無理したら駄目だからね。」


 翠は妙子の手をいて階段を上がりだした。

 二人は手を繋いだまま、しばらく無口で歩き続けた。

 翠が家を出て独立してから2年近く。それまで、毎日では無いけれどよく一緒に過ごしていた。しかし独立してからは、距離が離れている為に中々会えなくなってしまった。

 前回二人が会ったのは、年末年始の冬休み。翠は独立したのをいいことに、実家に帰らず妙子の家に転がり込んでいた。

 「家に帰らないの?」と妙子が聞くと、翠は藍子の猛アタックが嫌だからと答えた。実際には、それはただの言い訳で、本当は妙子が仕事で実家に来ないことを知り、妙子の家に押しかけていた。


 「ふふ。」


 妙子がその時のことを思い出し、小さく笑った。


 「何、どうしたの?」


 翠が振り返って聞いてきた。


 「お正月、楽しかったね。一緒に遊んで、一緒にお風呂入って、一緒に寝て。」

 「う~ん。懐かしむにはまだ早いんじゃない? だって、まだまだこれからいっぱい想い出作るんだから。」


 満面の笑顔を向ける翠を、妙子は眩しそうに見つめた。


 「そうね。家は離れちゃってるけど、今回みたいな出張や、長期休暇にいっぱい会って楽しもう。」


 妙子は踊り場で翠を引き寄せて、そっと抱き締める。


 「ど、どうしたの、妙子さん?」


 いつにない態度に翠は戸惑うが、柔らかな体温を感じてそっと目を閉じ、妙子の背中に腕を回す。

 妙子は翠の顎を持ち上げると、翠の水色の唇に自らの唇を重ねた。翠は、突然のことに少し驚いたものの、そっと挿し込まれてくる舌を抵抗せずに受け入れる。

 絡み付いてくる舌に吸い付き、絡ませ合い、ゆっくり時間をかけてキスをする。

 二人の唇が離れると、まるで名残を惜しむかのように、透明な架け橋が架かり、ゆっくり解けていった。

 薄暗い踊り場で二人の顔は上気していた。それは、夏の暑さだけが原因で無いことは明らかである。二人は抱き合ったまま見つめ合う。


 「翠ちゃん、あなたと初めて逢った時からずっと、愛しているわ。」

 「!?」


 妙子の突然の告白に、翠の顔が真っ赤になった。

 翠の反応に妙子は小さく笑って、再び翠の唇を塞いだ。今度は先程とは違い、荒っぽく、まるで蹂躙するかのように妙子の舌が、翠の口の中を激しく荒らし回っている。

 翠を優しく抱いていた妙子の右手が、翠の頭を押さえて自由を奪う。もう片方の腕で翠の腰を引き寄せ、妙子よりも華奢な翠は、両足が浮いてしまった。翠は完全に妙子に身を委ねてしまっている。

 二人のふくよかな胸が潰し合って圧迫する。それでも二人は離れようとせず、一つになれと言わんばかりに強く強く抱き締め合う。

 長く激しいキスが続き、妙子が唇を離した時には、翠は失神寸前だった。


 「大丈夫?」


 妙子は翠の頭を優しく抱き寄せ、耳元で囁いた。

 妙子の心地よい声に翠は目を回しながらも、気持ちよさそうに微笑んだ。


 「…やり過ぎだよ。でも、嬉しい。やっと妙子さんとキスできた。」


 酸欠のためか、少し呂律の回っていない口調で、素直に気持ちを伝えた。


 「私のファースト・キスとセカンド・キスよ。喜んでくれて良かった。」


 そう言って妙子はやっと翠の体を離した。


 「…ごめんね。私、初めてじゃなくて…。」


 翠は妙子の服を少し強く掴む。


 「良いのよ。藍ちゃんに全部奪われちゃったのは悔しいけど、それも突然姿を消した私がいけないんだもの、仕方ないわ。」


 幼い頃から翠を愛して止まない藍子は、妙子が修練のために翠から離れていた2年間、夜淋しくて泣きじゃくる翠を慰める為に、翠の部屋に入り浸っていた。初めは子守唄を歌ったりしていたのだが、翠の可愛い顔を見ている内に藍子は我慢が出来なくなり、幼い翠の唇を奪ってしまった。

 妙子が戻ってから数日後、妙子は嫉妬に駆られた藍子に、翠は自分のものになったと嘘を告げられた。嘘だとは思わずショックを受けた妙子は、また翠の前から去ろうと思ったが、翠への想いは募る一方で、結局、留まって藍子の魔の手から翠を守ることにした。


 「……妙子さん、勘違いしてるよ。私、まだ処女だから。」


 翠の言葉に妙子はキョトンとした顔をした。


 「最後の一線ってやつなんじゃないかな。妙子さんが戻ってくる前も、戻ってきた後も、キス以外はされることはなかったよ。」


 顔を真っ赤に染めて、ばつが悪そうな顔をしながら話す翠に、妙子は気が抜けたような顔を向けた。


 「私、何年も藍ちゃんに騙されてたのね…。」

 「あはは…。」


 翠と妙子は少しお互いを見詰めて、微笑み合ってから手を繋いで、再び階段を上り始めた。


 (妙子さん、私も愛してる。)


 告白の返事をする機会を逸した翠は、妙子の手の温もりを感じながら、心の中でそっと囁いた。



 10階に辿り着いた二人は、少し異様な臭いを感じていた。


 「…何? この感じ…。気持ち悪い。」


 吐き気を催すその臭いに翠の顔が青ざめる。


 「二重結界が発動したのかしら?」


 繋いだ手に少し力を込めながら妙子が呟いた。


 「多分違うと思う。それなら、私も妙子さんも気が付くと思うもの。大体こんな臭いはしないはず。」

 「そうね。それにこの暗さも異常だわ。」


 窓から差し込む夕暮れの陽射しは何かに遮られ、廊下の果てが見えない。そこへ前方から何かが歩いて来る足音がしてきた。足音は裸足のようだが、それほど大きくはない。

 手を繋いでいた二人は警戒し、手を離して構える。


 「あの二人、大量の子鬼に襲われたって言ってたよね。もしかして…。」


 足音は一つではなかった。幾つもの小さな足音が聞こえてくる。


 「闇が迫ってくる…。」


 足音は近付いてくるのに、いっこうに姿が見えて来ない。それどころか、足音に合わせるかのように、暝い闇が近付いてくる。


 「先手必勝!」


 翠が一歩前に出て龍牙力を左掌に集める。


 ―蒼き龍牙よ、

  闇を切り裂く刃となれ―


 翠の左手に集まった緑色の龍牙力が一際強く輝きだした。


 ―聖修道法術せいしゅうどうほうじゅつ流光刃りゅうこうじん


 翠の左手から、強い光を放ちながら龍牙力が一直線に、闇に向かって飛んで行く。流光刃の通ったあとには、光の粒がキラキラ煌いて、辺りを照らしている。

 闇に突入した流光刃は光を振りまきながら、突き進んで行く。通った後は、闇が晴れ、光の刃に触れた小さな何かが苦痛に苦しんでいるのがうかがえた。

 流光刃は廊下の果てに着くと、霧散して消えた。


 「やっぱり子鬼だ。四神封縛が完成する前に、抜け出した奴がいたのね。」


 翠は、前方の廊下を埋め尽くさんばかりの子鬼に、ウンザリしながら呟いた。

 子鬼たちはこれから翠たちが向かおうとしていた部屋の前に、集っているようだった。


 「私の結界に反応しているの?」


 結界を破ろうとしているのか、子鬼たちは爪を立てて結界を引っ掻いているようだ。引っ掻いた場所が火花を散らす。また、翠たちに向かって歩いて来る子鬼もいる。歩みはゆっくりしていて、なかなか近付いて来ない。


 「とろいね。」


 翠は仁王立ちして子鬼を見据える。


 「翠ちゃん。私が向かってくる子鬼を斬るから、あなたは結界の方をお願い。」

 「解った。でも、無理しないでね。」


 少し心配そうな顔をする翠の頬に、妙子は軽くキスをした。


 「さっきのキスで翠ちゃんの元気をいっぱい分けて貰ったから大丈夫よ。」


 妙子の満面の笑顔に、翠は眩しそうに目を細めた。


 「おいで、風神剣!」


 妙子の呼び掛けと共に、妙子の右手が桃色に光り、その光の中に紅い液体が溢れ出した。液体は縦長に伸び、硬質化していき、紅い剣が姿を現した。


 『こいつら、こんな所にまで居やがったのか。』


 風神剣が面倒臭そうに呟いた。


 「行くよ。」


 妙子の一言で二人は子鬼に向かって走り出した。

 妙子が一歩先を行き、風神剣を薙ぎ払う。すると、風神剣から無数の風が巻き起こり、子鬼たちを切り裂いて行く。

 子鬼も反撃に出る。まるで通せんぼをするように廊下いっぱいに立ち塞がり、個々の両手から小さな風がカマイタチとなって妙子たちに襲い掛かる。

 しかし、子鬼よりも風神剣の発生させる風の方が威力は上だった。カマイタチは全て風神剣の風に阻まれた。これを見た子鬼たちは冷静さを欠き、いっせいに妙子に飛び掛って行った。


 「今よ!」


 妙子の号令で翠が子鬼の脇をすり抜ける。

 興奮した子鬼たちは翠には見向きもせず、妙子を切り刻もうと鋭い爪で攻撃するが、風神剣の風に阻まれて逆に切り刻まれていく。

 妙子に襲い掛かる子鬼の脇をすり抜けた先には、結界にたかる子鬼の山がある。

 翠は子鬼が自分に集っているような気がして背筋に寒気が走った。


 「うぅ~、どきなさいっ!!」


 ―蒼き龍牙よ、

 「以下、省略~っ!!」


 「み、翠ちゃんっ!?」


 妙子は風神剣で子鬼を切り倒しながら、聞こえてきたいい加減な呪文に驚く。


 ―聖修道法術・光龍こうりゅう


 翠の体の回りに立ち上っていた龍牙力が、光の龍となって群がる子鬼に突っ込んでいく。


 「発動した…。」


 向かってくる最後の一匹を斬りおとした妙子は、子鬼の山に向かっていく光の奔流に驚いた。

 光龍に気付いた子鬼は逃げ出すが、その逃げ道を塞ぐように光龍が回り込み、それに触れた子鬼が消滅していく。

 真っ直ぐ突っ込むだけの光龍が回り込んだことを不思議に思った妙子は翠を振り返った。すると、翠が腕を振り回していた。その動きに光龍が反応しているようだった。光龍を操っているのだ。


 「な、何か滅茶苦茶ね…。」

 『どこであんな使い方を覚えたんだ?』


 翠の常識に囚われない力の使い方に妙子だけでなく、風神剣となった風鬼童子も呆れていた。


 「いっっけぇ~~っ!!」


 子鬼を結界から引き剥がし光龍の内側に閉じ込めると、翠は大きく腕を振り下ろした。その動きに合わせて光龍が子鬼目掛けて突っ込む。

 光龍の爆発に妙子は身構えるが、光龍が爆発することはなかった。見ると、子鬼が光龍の中に取り込まれ、浄化されていく。闇で出来たその体は光に包まれ、存在を解かれて消滅していく。


 「まさか、光龍にこんな使い方があるなんて…。」


 光の中の子鬼が消滅してしまうと、光龍も光の粒となって消えてしまった。


 「…ふぅ。」


 翠が力を抜いて溜め息をつく。


 「さ、次は結界を解かなきゃね。」


 子鬼が居なくなった結界に翠が手を触れる。結界は術者の手に反応して一瞬光って消えていった。


 「翠ちゃん、光龍の使い方、どこで覚えたの?」

 「ふぇ?」


 翠は妙子の質問に少し考えて答える。


 「どこでって言われても…、呪文なんて精神集中の為のものだから、全部言う必要ないでしょ?」

 「…まぁ、呪文は力を練り上げる為のプロセスだから、必ずしも必要ってわけじゃないけど…。じ、じゃあ光龍を操っていたのは?」


 妙子が翠の真似をして腕を振った。


 「あぁ、あれはね、前に一回、術を発動してる最中にバランスを崩したことがあって、その時、腕が動いた方向に光龍の軌道が曲がったのよ。で、色々試してみたら自由に動かせることに気が付いたの♪」

 (普通、曲がらないから…。)


 嬉しそうに話す翠に水を注すのも悪いし、実際目の前で操られたこともあって、妙子は心の中で突っ込みを入れた。


 「何時から出来るようになったの?」

 「えっとぉ、去年の3月位だったかな?」


 妙子は絶句した。


 「…翠ちゃん、闘技大会は、手抜きしていたの?」


 前回の闘技大会は、昨年6月に開催された。

 元々、闘技大会は一族同士の結束をはかるために開かれるものである。

 当然、族長の直系である翠たちは強制的に参加することになる。

 翠は、その時は個人戦のみに参加し、13位の成績を修めている。

 妙子は仕事があったために参加は出来なかったものの、翠の戦いは、1回戦以外は全部見ていた。

 しかし、闘技大会でも翠は光龍を使っていたが、その時は真っ直ぐにしか進んでいなかった。


 「ふぇ?……あぁ、あの時は風邪ひいてたから、とにかく早く済ませることしか考えていなかったのよ。」


 翠は扉を開けながら軽く言った。

 「風邪って…。そういえば激励の電話したとき、そんな事言ってたわね。」


 当時のことを思い出しながら、妙子は翠の後に続いて部屋の中に入った。

 正面にある扉には妙子の結界が張られている。


 「妙子さん、お願い。」

 「ええ。」


 ―創生そうせいの龍牙よ、

  我が声に答えその戒めを解け―


 妙子の詠唱に反応して、目の前の扉が淡い桃色に光り、すぐに消えた。

 妙子が扉のノブを回し中に入る。翠も後に続く。

 中に入ると、そこは居間になっていて、部屋の中央にはテーブルとソファがあり、奥の壁際にテレビが置かれている。


 「ここの住民は奥の部屋よ。寝室になっているわ。」


 寝室への扉はテレビの横にあり、妙子はまるで自分の家のように遠慮なく扉を開けた。


 「ちょ、ちょっと、妙子さん…。」


 翠が慌てて留めようとするが、妙子は「大丈夫よ。」と言って、寝室に入っていった。

 中に入ると、ベッドの上に女の子が大型犬の首に抱きついて眠っていた。傍らの椅子に母親なのだろう、20代と思われる女性が座って、こちらも眠っている。


 「……た、妙子さん?」


 その女性は妙子そっくりだった。

 ベッドの上の大型犬が顔を上げる。その瞳は桃色をしている。


 「この犬…。」


 翠がそっと手を伸ばして鼻先に触れると、その犬は光の粒となって消えた。


 「…。お帰りなさい。」


 妙子そっくりの女性が顔を上げて二人を見る。その瞳も桃色をしている。


 「あなたも…。」


 瞳の色を見た翠は、この女性の正体を知る。


 「そうよ。この女の子以外は私が沌生力で産み出した"守護者"よ。」


 妙子は少し悲しそうな顔をしていた。


 「何があったの?」


 女の子が起きないように気を付けながら、妙子はそっとベッドに腰を下ろし、女の子の頭をさする。


 「この子の両親はね、地下の鬼に食べられてしまったの。」


 妙子は悔しそうに唇を噛みながら、小さな声で話し始めた。


 「元々、この仕事は私の友人に来た依頼だったの。」


 妙子は風神剣をベッドの脇机に置いた。


 「その人の名前は、獅暁しぎょう 加那子。獅暁一族の退魔師よ。」


 獅暁一族は、龍牙神・獅暁闘神王しぎょうとうしんおうを主神とする聖血族の一つである。


 「この近くに、他にも聖血族が居たんだ。」


 翠は意外そうに呟いた。


 「聖血族は何処にでも居るわよ。私が受け持っている所にも、知っているだけで7つの聖血族が住んでいるわ。」


 聖血族は世界中に存在している。その数は数十万を越すという。人数にすればどれ位になるのか、正確にその数を知る者は居ない。


 「加那子さんとは、10年前の闘技大会で知り合ったんだけど、翠ちゃんは覚えてないかな?」


 獅暁 加那子は退魔師である。同じ退魔師である翠は昨年の大会の退魔師部門で闘っていた。


 「私が6回戦位に負けた相手だったと思うけど。」


 翠が過去の記憶を思い出しながら言った。


 「彼女はね、主神である獅暁闘神王に最も近い存在として、獅暁一族の退魔師長をしているの。」

 「え、退魔師長ってことは、この辺りに獅暁一族の本家があるの?」


 師長とは、それぞれの一族の各職種に一人ずつ存在している。

 退魔師長・封縛師長・結界師長そして治癒師長―。

 その力は強大で、闘技大会の決勝進出者の殆どが師長で占められることが多い。

 師長は、本家で部下となる術者の指導及び配置がメインの仕事となり、前線で魔族と戦うことはあまりない。その理由は術者の育成にある。

 力の強い師長が前線に立つと、その力に頼ってしまい、他の術者が育たなくなる。しかしそれでは、聖血族の存在理由である魔族との全面戦争の際、負けてしまうのが目に見えている。

 最終的に、最前線に立って闘うのは、それぞの血族から選ばれた各5人の聖戦士と呼ばれる術者であるが、それが必ずしも師長であるとは限らない。誰が選ばれても良いように術者全員が力を鍛えていなければならないのである。

 実際、鎌倉時代に起きた魔族との全面戦争では、歴史上、暗殺されたとする源 実朝さねともが、将軍位を退いた後、聖血族としては大した力を持っていなかったにもかかわらず、聖戦士の一人に選出され、龍牙神王である翡翠の始祖と共に魔族と闘ったという内容が、聖血族の歴史書に記されている。

 翠はこういった理由から、獅暁 加那子が退魔師長と聞いて、この辺りに本家があると思ったのである。


 「いいえ。獅暁一族の本家は東北の方にあると聞いているわ。」


 妙子は首を振って答えた。


 「彼女は師長巡礼をしているの。」


 師長巡礼とは、師長に就任したばかりの術者が、全国に点在する決められた聖血族の本家を回って挨拶をする行事である。これによりその術者は、真に師長として認められることになる。


 「この近くを通りかかった際に、修験者のような格好をしていたことから、ここの元住民の一人から依頼を受けたそうよ。」

 「それで何でうちに回ってきたの?」


 巡礼者は俗世を離れ、各地で身を清めながら旅をしなければならず、その間、余程の事が無い限り、俗世と接する依頼は受けられない。


 「この近くにあなたが居ることを知っていたから、『じゃあ翡翠一族に。』と思ったみたいで、私の所に、『連絡をつけて欲しい』って、彼女の従鬼がやってきたの。」


 妙子は翡翠の評議会にこの依頼を持ち込むが、翠に追い付きたい一心で、一人でこの依頼を受ける申し出をしてしまった。


 「…今にして思えば私のこの軽率な考えが、この子の両親を殺してしまったのかも知れない。」


 獅暁 加那子がこの依頼を受けてから、評議会の受理・決定を経由したことにより、既に3日が過ぎていた。


 評議会から依頼を受けた妙子は、大急ぎでこのマンションに向かった。

 しかし、遠く離れた場所にいた妙子がここに辿り着くのに、電車を乗り換えて約5時間が掛かってしまった。


 「私が意地を張らずに、素直に翠ちゃんと一緒にこの依頼を受けていれば、こんな事にならず済んだかもしれないわね。」


 女の子の寝顔を見下ろしながら、妙子は呟いた。 


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