鬼の棲むマンション 弐


 壁に掛けられた丸い時計の針が1時30分を指そうとしている。

 昼の陽射しが窓から射し込み、ベッドの上の妙子たえこを包んでいる。その陽射しは夏であるにもかかわらず、まるで春の陽射しのような優しい温もりを妙子に投げかけていた。


 「みどり、様子はどうだ?」


 紫の髪の少年がそっとドアを開けて顔を出す。その瞳も吸い込まれそうな深い紫で、両耳は天を突くが如く鋭く尖っている。


 「れい…。大丈夫よ。腕はくっついたし、状態は落ち着いてる。でも…。」


 翠は妙子の胸の上にかざしている左手とは逆の手を、そっと妙子の額に乗せる。


 「力の消耗が激しいの。四神しじん封縛ふうばくに溶け込んでいるとはいえ、風鬼ふうき童子どうじは妙子さんの血。妙子さんから離れている間は、どうしても力を消耗し続けるわ。」

 「…風鬼童子は妙子の血から産まれた穏鬼おんきだからな。切り離すことは出来んさ。」


 ベッドに横たわる妙子の顔色は青白く、まるで病人のようである。暖かい陽射しの中で眠っているのに、体温もどんどん下がっていく。


 「私の"龍牙石りゅうがせき"だけでは癒しきれないわ。」


 翠は、先程までの幽体のときと違い、艶のある腰まで届きそうな長い黒髪に、光彩は茶色、瞳孔は黒というように他の人となんら変わるところが無い。

 だが、胸の上に翳していた手を上に向けると、その掌には淡い光を放っている緑色の玉が埋め込まれていた。


 「こんなときに藍子あいこねぇがいれば良いんだけど。」


 黎と呼ばれた少年が翠に何かを投げて寄越した。翠は右手でそれを受けると、それはスマホだった。


 「もう連絡はしてある。夕方には来れるから、それまで持たせろってさ。」

 「ありがとう、黎。助かる。」


 翠は龍牙石を再び妙子の胸の上に翳しながら、スマホを黎に投げ返した。


 「ついでに、ゆかりねぇにあのマンションの監視をお願いしてくれない?たしか今日は近くまで来てるはずだから。」

 「俺、あいつ苦手なんだよなぁ…。」


 黎はブツクサ言いながら、スマホを操作しながら外に出て行こうとして、足を止めた。


 「そうだ、藍子からもう一個、伝言があったんだ。"急いで仕事済ませて行くから、妙子さんを癒した後で、翠が私を癒してね。"……だとさ…。あいつは相変わらず翠LOVEだな。」


 そう言い残すと、翠の反応も待たず廊下に出て言ってしまった。


 「2年も会ってないから、来たときのアタックが凄そうね…。」


 翠は苦笑しながら、再び妙子の治癒に当たる。治癒とは言っても、消耗していく力を龍牙石を使って補充しているだけのこと。本当の意味での治癒にはならない。

 物理的な傷しか癒せない自分に、翠は悔しくて唇を噛み、妙子の右手を見た。右手には失ったはずの小指が存在している。

 左腕を肩に付け直しているときに、右手の小指が無くなっていることに気付き、切り口の細胞を活性化させて再生させていた。それ程の力を持ちながら、何故か精神的な治療が翠には出来ない。

 幼い頃から、本当の姉のように慕っている妙子を癒せない自分に腹が立つがどうしようもない。



 妙子は、元は翠の世話役である。24時間、翠の側に付っきりで世話を焼いていた。そんな妙子を翠はとても慕い、幼児期は妙子の姿が見えなくなるだけで大泣きしていた。

 しかし、翠が8歳になって修練を始めだすと、妙子は翠の元から去って行ってしまった。

 10歳で退魔師として初仕事を成功させて終えると、久しぶりに妙子が翠の前に姿を現した。久しぶりに見た妙子は僅か2年で随分逞たくましくなったように感じられた。

 翠が妙子に強く抱き付くと、妙子もしっかりと翠を抱き締め返してくれた。そして妙子は、初仕事を成功させた翠の額に、その柔らかな唇で祝福のキスをした。

 妙子が姿を消す前は何か嬉しいことがある度に妙子に抱き締めてもらい、祝福のキスをねだっていた。妙子も少し困った顔をしながらも、それでも嬉しそうにキスをしてくれた。


 「妙子さんの唇、柔らかくて凄く気持ちいいのよね。」


 そう言いながら翠は、ベッドの上に横たわる妙子の唇に、右の人差し指でそっと触れてその感触を確かめる。青ざめたその唇は少し強張っているようだった。


 「あの時は、私も泣きじゃくりながら、妙子さんの額に初めて祝福のキスをしたのよね。」


 その日、翠は妙子の腰にしっかりと抱き付き、どんなに周りになだめられても離れようとはしなかった。離すとまた妙子が何処かに行ってしまいそうで怖かったのである。結局その夜は、一緒にお風呂に入り、ベッドでも妙子にしっかりとしがみ付いてそのふくよかな胸に顔を埋めて寝た。

 そのベッドの中で、妙子は姿を消した理由を話してくれた。

 それは――、

 "龍牙の申し子"と呼ばれる翠の力の片鱗を目の当たりにした妙子は、触発されて今まで翠の世話を言い訳にして逃げてきた修練をやり直し、翠と同じ日に封縛師として初仕事を成功させたということだった。


 『ごめんね、翠ちゃん。淋しい想いさせたね。でも、もう大丈夫よ。私も翠ちゃんも仕事を始めたから、前のようにいつも一緒というわけにはいかないけど、出来るだけ側にいるわ。』


 妙子の言葉と、頭を撫でる優しい手の感触に安心した翠は、暖かな体温に包まれながら眠りに就いていた。



 「……妙子さん。私の力、受け取って。」


 翠はそう言うと、左手に埋め込まれている龍牙石を取り外した。左掌には龍牙石がはまっていた穴も無く、手相が綺麗に見えている。


 ―我に宿りしあおき龍牙よ

  汝の戒めを解かん―


 龍牙石が翠の手を離れて浮かび、淡く光りだす。その姿は徐々にぼやけていき、形を無くしていく。


 ―我、汝に求める…


 そこまで呪文を唱えたとき、後ろからスッと手が現れ、ほとんど形を無くしていた龍牙石を握り締めた。握り締められた龍牙石は、元の姿に戻り、溢れた光が、豆が弾けるような大きな音を立てて四散していった。

 術を破られた翠は、何が起きたのか解らず呆然としている。


 「駄目ですよ、翠ちゃん。」


 優しく柔らかな物腰の女性の声が後ろから聞こえてきた。

 龍牙石を掴んでいる手を辿って声のする方に振り向いてみると、水色の巫女姿をした女性が微笑んで立っていた。


 「……藍子姉……。」


 翠はまだ状況を理解できないまま、巫女姿の女性の名前を呼んだ。

 藍子は青い瞳孔に水色の光彩を持つ瞳で翠を優しく見つめている。艶のある黒い髪はとても長く太腿まで届き、龍牙石を掴む手の爪はほんのり水色に輝いている。

 藍子は、まだ呆然としている翠の前に屈み込み、何も持っていない右手で、翠の顎を持つと顔を近づけて翠の唇に、自らの唇を重ねた。


 「――っ!?」


 「ふふ、お目覚めのキスですよ。ごちそうさまでした。」


 ハートマークが乱舞していそうな程、嬉しそうな声で藍子が言った。


 「………藍子姉…。何でここに…?着くのは夕方じゃ…。」


 翠は、キスのことは無視することにした。


 「俺が迎えに行った。」


 いつの間にかドアの所に黎が立っていた。少しばつが悪そうな顔で横を向いている。


 「ふふ、福岡から鎌倉まで、千キロもの距離を往復1時間で行って戻って。」


 藍子は相変わらず楽しそうに右の人差し指をくるくる回しながら話している。愛しい妹に久しぶりに会えた上に唇まで奪えたのだから、楽しくて仕方ないのだろう。


 「やかましい、ばらすなっ!」


 そう言うと黎は、ドアを激しく締めて部屋を出て行ってしまった。

 藍子は声を押し殺して笑っていた。


 「ふふふ、『翠が大変だ』って凄い形相で来ましたのよ。おじい様も翠ちゃんには弱いから、わたしの仕事を引き受けてくださったの。」


 その時のことを思い出しているのか、肩を細かく上下して必死に笑いを堪えている。


 「二人とも慌てすぎよ。大変なのは私じゃなくて、妙子さんなのに…。」


 翠は妙子の顔を見る。


 「あれ、顔色が良くなっている。」


 今にも死にそうなほどに青白かった顔が、随分、血色が良くなっていた。


 「ふふ、そうにぃさんと紫ちゃんのおかげよ。二人が四神封縛を張り直して、風鬼童子を開放したの。」

 「蒼兄?…………紫姉と一緒だったの?」


 翠はキョトンとした顔で問い掛ける。


 「蒼兄さんが、よく嘆いていますよ。『俺の存在だけ忘れるなんて、翠に嫌われてるんだーっ!?』って。」

 「あ~~…。あははは……。」


 翠は頭を掻きながら乾いた笑いで誤魔化す。


 「だって私、蒼兄とはまだ数えるぐらいしか会ったこと無いんだもん。」


 翠は四人兄妹の末っ子である。上から蒼・藍子・紫・翠と続き、長男の蒼は翠が産まれた頃には12歳で、物心付く頃には家を出て結界師として一人立ちし、学校と仕事で年に一度ぐらいしか実家には戻って来ない。

 逆に長女の藍子は、蒼とは年子ではあるが、巫女という立場上、家を出ることが出来ない。藍子はその立場を利用して翠が13歳になって家を出るまで、ずっと翠を誘惑し続けていた。翠の世話役である妙子とはそれでよく衝突していた。

 次女の紫は、翠の4つ年上で、今20歳。彼女は本家付きの退魔師で、翠の良き先輩であり、ライバルである。本家付きの退魔師は状況に応じて様々な場所へ応援に駆けつけ、事件解決の手助けをするのが役目である。基本的には何もすることが無く、暇を持て余す為、修練に力を注ぐことになり、姉という立場から、必然的に翠の練習相手となっていた。

 こういった状況から、どうしても翠にとって蒼は存在が薄く、何をするにも忘れがちなのである。


 「嫌ってはいないんだけどね~。ただ忘れてるだけ…。」

 「ふふ、それってもっと悪いと思いますよ。」


 藍子は再び笑いを堪えながら言った。


 「そ、それより藍子姉、龍牙石…。」


 翠は藍子の手に未だに握られている龍牙石を指差して、話しを逸らした。


 「ああ、はい、どうぞ。」


 龍牙石は翠の手に戻ると、そのまま掌に吸い込まれて消えていった。


 「駄目ですよ、翠ちゃん。」


 藍子は最初に言った言葉をもう一度繰り返した。


 「力の移譲は生死に係わることです。危ないのは渡す方よりも渡される方。受け入れた力を自分のものにする為に、"聖龍牙力せいりゅうがりょく"の導きで細心の注意を払って、二つの力を融合させないといけません。」



 藍子の言葉に翠は少し青ざめる。


 「…融合できなかったら?」

 「体が破裂して死にます。」


 藍子は静かにはっきりと言った。


 「龍牙石を渡すなんて問題外です。龍牙石に限らず、聖蒼玉せいそうぎょくなどの宝珠は宿主の力の核を成すものです。それを他人に渡すなんて、あなたにとっても、妙ちゃんにとっても危険極まりないわ。」


 藍子は妙子の額にそっと触れる。触れた手から、仄かに桃色の光が漏れだし、藍子の額から吸収されていく。翠がどんなに力を送り込んでも、回復する兆しすら見せなかった藍子の顔が、見る間に血色を取り戻し、荒い息づかいも納まっていく。

 龍牙の巫女の治癒力に翠は驚きを隠せない。


 「すごい…。」

 「何も難しいことはしていません。ただ、わたしは"聖龍牙力"を使えるから、そこから妙ちゃんと同じ"沌生力とんせいりょく"を抽出して妙ちゃんに注いでいるだけです。」



 龍牙力はいくつかの種類に別けられる。

 一つ目は、"沌生力ラウル"。

  無秩序な力の奔流・混沌カオスから世界を産み出した力であり、桃色で視認される。

  核となる宝珠は"聖桃玉せいとうぎょくウィンディア"。

  風を自由に操ることが出来る。また、カオスからモノを創り出すことを得意とし、風鬼童子もこの力で誕生した。

 二つ目は、"存在力オーグ"。

  ラウルから産まれたモノが世界に存在し続ける為の力であり、黄色で視認される。

  核となる宝珠は"聖黄玉せいおうぎょくサンダリア"。

  雷を自由に操れる。他にも、対象の存在を消すことが出来る為、よく結界の変わりに用いられることがある。

 三つ目は、"因果力エウル"。

  モノ同士の因縁を結びつける力であり、ここから影響力フォルスが産まれる。

  赤色で視認され、核となる宝珠は"聖紅玉せいこうぎょくフレイリア"。

  炎を自由に操れる上に、因果を操ることで、人心を惑わすことも出来る。

 四つ目は、"影響力フォルス"。

  エウルにより結び付けられたモノが、互いに影響を与え合うことで世界の循環を促す力。

  紫色で視認され、核となる宝珠は"紫空石しくうせきバスティア"。

  大気を操ることが出来る。更に影響し合う力をぶつけることで大きな破壊力を発生させる為、邪悪な力と考えられ、宝珠の名前も"聖紫玉せいしぎょく"から"聖"を奪われ、今の名前に変えられた。

 五つ目は、"支龍力セウル"。

  その名の通り、ラウル・オーグ・エウル・フォルスの力が霧散して世界が崩壊してしまわないように支える力。

  緑色で視認され、核となる宝珠は"聖翠玉せいすいぎょくレイティア"。

  光を操ることができ、四つの力を吸収し、使用者の力に変換することが出来るが、他人にその力を渡すことは出来ない。

  また、別名を"龍母ドラン"と言い、古くは、四つの力を産み出す根源と考えられていた。

 六つ目は、"守護力プロト"。

  動植物の住む大地・自然を守護する力で、白色で視認される。

  核となる宝珠は"白麗珠はくれいじゅプロンティア"。

  大地を操ることができ、世界を破壊から守る力を持つ。超能力・霊能力等もこれに当たるが、穏鬼から龍牙力を与えられた聖血族は、ほとんどの者がこれを操れない。


 これら六つの力を総称して"龍牙力ドーラ"と言う。

 六つの力のバランスが取れた状態を"聖龍牙力オウル"と呼び、主に水色で視認される。

 核となる宝珠は"聖蒼玉せいそうぎょくオルランディア"。

 最も強大な力を内包し、全ての龍牙力を操ることが出来る。

 逆に、秩序を持たず交じり合った状態を"混沌カオス"と呼び、主に黒色で視認される。

 核となる宝珠は"禁珠レイジ"。

 聖蒼玉と同等の力を持つとされるが、その力は暴走しやすく、発見されると、オウル使役者の一人、"龍牙の巫女"により、その形を解かれ世界へ還元される。


 翠が妙子を癒すのに使っていた"龍牙石ドラゴニア"も聖蒼玉の一つであるが、どの宝珠よりも内包する力は小さく、それが故に扱いやすく、安定した力を宿している。しかし、聖蒼玉のように全ての力を操れるものではなく、使用者が得意とする龍牙力のみ、その力を増幅する形で使用することが出来る。いわば増幅器である。



 「翠ちゃんと妙ちゃんは力の質からして全く異なるものです。支龍力を操る翠ちゃんなら、妙ちゃんの力を受け入れるのも簡単でしょう。でも、妙ちゃんがあなたの力を受け入れるには、力の質を変換して沌生力にしないといけません。でもそれが出来るのは聖龍牙力を操れる人だけ。あなたの力を妙ちゃんに貸し与えることは出来ても、それは一時的なもの。質の異なる力は定着せず、ただ流れ出て行くだけ…。」


 藍子から力を注がれる妙子は今やただ眠っているだけに見えるほど、回復していた。

 翠は、良かれと思ってやろうとしていたことが、逆に妙子を死なせていたかもしれないと知り、うつむいてしまう。


 「…翠ちゃん、あなたも少し休んでいらっしゃい。"幽離"中に、幾つか術を使ったのでしょう?その上、妙ちゃんに力を注ぎ続けていたのだから、あなたの疲労も激しいはずよ。」


 藍子の優しい言葉に翠は何も答えられず、俯いたまま動くことも出来なかった。


 「黎さん、そこにいるのでしょう?」


 藍子の呼び掛けにドアが静かに開かれる。そこには複雑な顔をした黎が立っていた。


 「翠ちゃんを休ませてあげて。主人の体調を気遣うのも従鬼の役目ですよ。」

 「…お前に言われるまでもない。」


 不機嫌そうに言うと翠の手を取り、部屋の外へと連れて行った。


 「……悔しいけど、あなたの前以外じゃ絶対泣かない娘だから…。」


 藍子は少し淋しげな顔をして呟いた後、妙子に向き直り、本格的な治療に取り掛かる。


 「妙ちゃん、あなたも翠ちゃんの為にいつも笑顔でいなきゃ駄目ですよ。それが、わたしとの約束でしょ。」


 ―数多あまたの力をいだきし者よ

  永き眠りより目醒めざ

  今、汝の力を示せ―


 藍子の体から青色のもやのようなものが立ち上りだす。それはまるで、龍が牙を剥いて天に昇るかのように揺らめいている。

 これが"龍牙力"と呼ばれる所以ゆえんである。


 ―目醒めし龍牙よ

  その意思を以って

  創世の力を分け与えよ―


 妙子の体の上に掲げた両手の間に桃色の光が集まりだす。その光は次第に大きくなり、部屋中を眩しく照らし出す。


 ―創世の龍牙よ

  泉より溢れしその光にて

  傷つきし者に

  優しき時を与える

  癒しの風となれ―


 部屋中を照らしている桃色の光が、妙子の体を包み込む。


 ―しん修道しゅうどう法術ほうじゅつ 龍泉光りゅうせんこう


 光の中に浮かぶ妙子の体の周りに小さな風が巻き起こりだす。その風はやがて光の衣を纏い、ゆっくりと静かに妙子の体に吸い込まれていく。

 今までまったく開く気配のなかった妙子の目がゆっくりと開いていく。浮かんでいた体は静かに風に導かれながらベッドに降りていった。


 「……藍…さん。」


 妙子は呆然とした声で傍に立つ藍子を見上げた。


 「お久しぶりね、妙ちゃん。体はどう?」


 妙子はゆっくりと起き上がり、失ったはずの左腕と右小指を見つめる。そこに残る僅かな気配。


 「これは、翠ちゃんが…?」

 「そうですよ。後で翠ちゃんを元気付けてやって。」


 そう言うと藍子は妙子にひらひらと手を振りながら部屋から出て行った。





 時間は少し遡り、翠が龍牙石で妙子に力を注ぎながら妙子との想い出にふけっていた時、福岡県北九州市近郊の街。中心の駅から車で約10分ほど離れた場所に先程まで翠たちがいたマンションが建っている。

 周囲は田園や竹林が目立ち、マンションの隣りには寺が門を構えている。前の通りは人通りの少なさに比べると、車3台は並んで通れそうなほど広い。

 そのマンションの玄関前に二人の人影があった。


 「…随分な立地場所ね。民家もぽつぽつあるけど。寺の隣なんて私ならお断りだわ。」


 水色の髪、水色の光彩に紫の瞳孔を持つ女性が嫌そうに目を細めて呟いた。


 「まぁ、そう言うな。その分、家賃が安いんじゃないのか?」


 同じく水色の髪をした男性が悪態を吐く女性をたしなめながら、マンションを見上げる為に少し後ろに下がった。


 「どう?蒼兄。」

 「4階の右から3番目の部屋に人の気配がする。あと、あれは翠の結界だな。幽離中に力を使うなんて、相変わらず無茶なことをする。下手すれば幽体が引き込まれるぞ。」


 蒼は、次に玄関の自動ドア越しにマンションの中を覗き見る。


 「…あれは四神封縛だな。」

 「黎の報告通りなら、階段の側にある封札は翠が剥がして、そこに風鬼童子が融合して穴を塞いでいるそうだけど、解る?」


 ドア越しに覗いていた蒼は、自動ドアが開かないため、自分の手でじ開けた。


 「四神封縛は地下にのみ張られているようだな。さすがは妙ちゃんと言ったところか。」


 自動ドア付近の床に張られている封殺を見ながら蒼は言った。


 「物を使った結界を張ること自体は簡単だ。基本中の基本だからな。だが、その発動する方向を決めるのは意外に難しい。」

 「一つの場合はそれを中心とした球体。二つ以上はその間を囲む球体。今回のように下方向にのみ発動させるのは、結界師ですら困難。」


 床に屈んで封札に手を翳している蒼の傍を、後から中に入ってきた女性が通り過ぎ、階段の前まで行く。。


 「紫、一度、封縛を解くぞ。風鬼童子が分離したら下の魔族が飛び出して来るかも知れん。上に出てこられると厄介だから、そこで抑えておいてくれ。」


 蒼の言葉に紫は頷いて身構える。


 「いいわよ、蒼兄。」


 紫の言葉を待って、蒼はロビーの中心へ移動し、右手を体の前に突き出す。


 ―蒼き龍牙よ

  古の契約の基、

  我、汝の力を行使せん―


 蒼の右手に周囲から緑色の光が集まりだす。


 ―猛き古の龍牙より産まれし者

  我が呼び掛けに答え

  今、ここに現れよ―


 蒼が右手を開くと、その上に集まっていた龍牙力が左右に長く伸びる。


 ―出よ、龍杖りゅうじょう・牙―


 名前を呼ぶと同時に左右に伸びた光が弾け飛ぶ。そこから出てきたのは、龍が巻きついた彫刻が仄かに輝く杖。蒼はその杖を体の前に縦に構えると手を離した。杖は倒れることも無く、ふわふわと浮いている。


 ―神修道法術・滅―


 龍杖から螺旋状に光が飛び出す。光はロビー内に広がり、その光に触れた封札は桃色の光を発して消滅して行く。

 階段の前で身構えている紫の目の前の空間も光に照らされ、歪み始める。その歪みは次第に大きくなり、桃色の光が現れ、その光の中に紅い色が混じり出す。


 「分離するわ。」


 紫は結界の消滅に備えて気を引き締める。

 紅い色は桃色の光を吸収し大きくなっていく。形を持たなかった紅い色はやがて液体となり周囲に血の臭いを漂わせる。それと共に、階段の下から凶悪な邪気が溢れだしてきた。


 「風鬼童子の融合した四神封縛は完璧だったみたいね。」


 予想以上の大きな邪気に顔をゆがめながら、紫が苦々しく呟いた。


 「まぁ当然だな。風鬼童子は妙ちゃんの力そのもの。封札程度の力とは比べるべくも無いだろう。」


 そう言う間にも分離は進み、血の塊は周囲の光も吸収しながら大きく膨らみ、終には弾け、中から深紅の鎧を纏った鬼が出てきた。風鬼童子である。

 周囲を満たしていた蒼の龍牙力も、血の塊が弾けると同時に消えていた。


 「久しぶりね、風鬼童子。」


 紫の呼び掛けに風鬼童子の桃色の瞳が動く。


 「…何故、結界を解いた。奴が出てきてしまうぞ。」


 鎧に覆われ表情の読めない風鬼童子の声に、少々焦りが窺える。


 「妙子の体を通して翠の力が流れ込んでくる。お陰で形を維持できるが今のままでは俺は戦えん。」


 力を使ってしまったら、弱っている妙子からそれだけ多くの力を奪ってしまう。姿を維持しているだけでも結構な力を必要とする。


 「だから、俺らが来たんだ。妙ちゃんの変わりに俺が四神封縛を張る。」

 「美影みかげッ!」


 突然、紫が大声で叫んだ。すると、風鬼童子と階段の間に、背中まである長い黒髪と鋭い二本の角を持った女性が現れて、階段の下から飛び出してくる影に向けて力を放った。

 美影は、風鬼童子と違い、鎧は身に纏っていない。袖が無く丈の短い黒い衣に紫の帯紐と、至ってシンプルな服装をしている。両手足は陶磁器のように白く、肉付きの良い太腿はとても柔らかそうでやけに色っぽくそそられるが、指の先についている爪はどれも鋭く尖っている。顔は丸顔の童顔で、水色の光を放っている双眸には白目が一切無く、不思議な雰囲気を醸し出している。

 美影の力を受けた影はすぐさま階段を引き返して行った。


 「奴の力の一部ね。風鬼童子、蒼兄の側に行きなさい。」


 紫は美影の隣に立って風鬼童子に指示を出す。


 「すまん。」


 風鬼童子は、紫たちの邪魔にならないように素早く蒼の元へ移動した。


 「やるぞ。」


 蒼は、浮かんでいた龍杖を右手で掴む。左手には四神封縛に使うのだろう、四枚のお札が握られていた。側に来た風鬼童子は蒼の作業の邪魔にならないように大きな体を小さく縮める。


 「すまん。これ以上は小さくなれん。」

 「構わないよ。君は小さいほうが妙ちゃんの負担にならんから、一番小さな状態でいればそれで良いよ。龍牙力の状態に戻られた方が邪魔になるしね。」


 蒼は既に四神封縛を発動させる為に精神集中に入っている。右手に持つ龍杖を高く掲げると、周囲から緑色の龍牙力が龍杖の頂きに集まり吸収されていく。

 階段下から先程よりも大きな力を感じ、紫が身構える。主の動きに従鬼である美影も身構えた。

 まるでタイミングを合わせるかのように生臭い突風が吹き抜ける。その風は紫や美影の服や肌を切り裂いて行く。しかし二人は一切ひるまず、その後から来る、より大きな攻撃に備えて力を発動する。


 ―蒼き龍牙よ

  全てを阻む壁となれ―


 二人は一糸乱れず同時に呪文を唱え両腕を前に突き出した。すると二人の前に緑色の龍牙力が二匹の光の龍となって現れた。


 ―せい修道しゅうどう法術ほうじゅつ龍双壁りゅうそうへき


 唱え終わると同時に光の龍は複雑に絡まりあい、一つに溶けて通路を塞ぐ壁となった。一拍遅れて階下から先程よりも更に激しい風が吹きつけ龍双璧に激突した。風と龍双璧が激しくぶつかり合い、階段の一部が粉々に崩れ去り、爆風に巻き上げられる。

 轟音と地震を思わせるほどの大きな揺れがマンションを襲う。地下からは、獣の咆哮ほうこうが響き渡りロビーの床や壁に大きなひびが入った。


 「まずいわ!蒼兄、早く結界をっ!!」


 翠の槍龍そうりゅう毒破どっぱで弱っていると踏んでいた紫と蒼は、少し焦った。


 「龍杖よ、まだか…?」


 蒼は龍杖の先を見ながら呟いた。先程よりも龍杖の頂に集まる光の色が濃くなっている。やがてその光は杖を伝って蒼の体を経由して左手に持つお札へ移動して行く。光を吸収したお札は複雑な文様を紙面の上に浮かび上がらせ、封札へと変化し緑色に輝き始めた。

 それを見た蒼は龍杖を手放すと封札を左右の手で二枚ずつに分けて掲げた。手から離れた龍杖は何処ともなく姿を消した。


 ―我が内に眠りし龍牙よ

  四方を司る神の導き手となり

  今、ここに

  猛き者を召喚し

  邪悪なる者を戒める檻となれ―


 蒼の体から立ち上る龍牙力が封札を取り巻き、封札は両手から離れ、宙に浮いて東西南北の四隅に飛んで行った。蒼の龍牙力を纏った封札は床に貼り付くと、それぞれの封札が手を繋ぐ様に蒼の龍牙力と封札自らの龍牙力を伸ばして一つになっていく。


 ―神修道法術・四神封縛―


 蒼が叫ぶと、封札を中心に四つの光の柱が突き立った。光の柱から柱へ龍牙力が空間を取り囲む。


 「やったっ!」


 紫は術の成功に喜ぶが、蒼はまだ気を抜いていなかった。

 四神封縛に逆らうように地下から更に大きな咆哮と地響きが鳴った。油断した紫はこけそうになり、素早く美影に抱きかかえられる。


 「あ、ありがと…。」


 紫は恥ずかしそうに顔を赤らめた。美影は紫を見つめてニッコリと微笑む。


 「あるじ様、龍双璧を解きましょう。このままでは二重結界となって吸い込まれてしまいます。」


 美影の口から鈴を転がすような可愛らしい声が発せられた。

 既に龍双璧は四神封縛の力を受けて歪み始めている。それを見た紫は急いで美影の腕から離れると、美影に右手を差し出した。美影も紫に左手を差し出し、紫の右手にそっと重ねる。


 ―龍双璧・散―


 二人が龍双璧に向かってそれぞれ空いている手を伸ばして、同時に短い呪文を唱えた。歪んで空間の穴を創ろうとしていた龍双璧が再び二匹の龍に戻り、光の粒となって消えた。

 それを待っていたかのように、階段から小さな黒いモノが飛び出してきた。それは紫たちの頭上を越え、蒼に一気に迫る。


 しかし、蒼の足元で大人しくしていた風鬼童子がそれを正面から受け止めた。


 「――っ!?」


 腹部に痛みを感じた風鬼童子は受け止めたモノを見る。それは頭に一本の長い角を持っていて、それが鎧の隙間を付いて脇腹に突き刺さっていた。


 「…子鬼か…。」


 風鬼童子は刺さっている角を抜き、子鬼を両手で押しつぶした。押しつぶされた子鬼は紫色の光を放ちながら消えて行った。


 「子鬼…。あるじ様、使鬼を使えるのは鬼族です。」


 美影は子鬼を見て警戒を強める。階下から小さなざわめきが聞こえてくる。

 結界を定着させようとしている蒼の作業はもう少し時間が掛かりそうである。結界を下方向にのみ働かせる為に今、力の調整を行っていた。


 「どうやら、遊び相手が一杯いるようね。」


 紫は本格的な戦闘体制を取るために自らの龍牙力に呼び掛けた。


 ―蒼き龍牙よ

  我が呼びかけに答え

  その内に抱きし者を呼び覚ませ―


 紫が右手を大きく振ると、白いロッドが手の中に現れた。


 「来るわよ、美影!」


 階段から姿を見せた無数の子鬼たち。ひしめき合うように我先にと上ってくる。


 「紫、階段から下へは行くなっ!そこが結界の境界になるっ!!」


 蒼が力を調整しながら、今にも飛び出して行きそうな紫に釘を射す。


 「解ってるわよっ!」


 紫はロッドを構えると横に一線なぎ払う。ロッドから幾つもの光の弾が発生し、迫り来る子鬼に向かって飛んでいく。光に当たった子鬼はその体を四散させて消えていく。

 美影は光の弾を掻い潜ってきた子鬼をその鋭い爪で切り刻んでいく。

 だが、多勢に無勢。二人は徐々に子鬼たちに押されて、次第に子鬼たちがロビーに溢れてくる。


 「このままじゃあ、蒼兄の邪魔になる…。」


 紫はロッドを回しながら、体を一回転させる。すると、紫の周りに無数の龍牙力の球体が現れた。


 「美影っ!」


 紫の呼び掛けに美影が小鬼から離れる。


 ―神修道法術・爆砕光ばくさいこう


 紫が小鬼に向けてロッドを振るうと、周囲に浮いていた無数の球体が子鬼に襲い掛かる。球体は子鬼を巻き込んで爆発を起こす。立て続けに小さな爆発が至る所で起こり、ロビーに溢れ始めていた子鬼を一掃し始めた。

 球体を避けて爆発から逃れた子鬼は、美影がその鋭い爪で切り刻む。

 その美影の爪すら掻い潜り蒼に迫る子鬼は、子鬼より少し大きい風鬼童子がその怪力で地面に叩きつける。

 その攻防の中で、風鬼童子は力がみなぎってくるのを感じた。


 「妙子、持ち直したようだな。」

 「…いけるか、風鬼童子?」


 蒼が大粒の汗を額に浮かせながら聞く。


 「まかせろ。我が風の鋭さを見せてやる。」


 風鬼童子は一度、両腕を胸の前でクロスさせ、左右に大きく振り抜く。すると風鬼童子の体が一気に大きくなり、雄叫びとともにその体から紅い風が巻き起こり、周囲を飛び回る子鬼を切り裂いていく。

 その風は紫や美影の体を縫うように避けて、階下から溢れ来る子鬼たちも粉々に引き裂いていった。

 紫と美影が手を止めて振り返ると、天井まで達する背丈になった風鬼童子が再び雄叫びを上げて両手に風を産み出していた。


 「美影、引くわよ。ここにいたら風鬼童子の邪魔になるわ。」

 「はい、あるじ様。」


 美影は紫に頷くと、現れた時と同じように前触れもなく姿を消した。紫は階段前から蒼の側へ移動した。

 風鬼童子の両手に宿った風は周囲から桃色の龍牙力を集め、更に大きくなっていく。


 「ち、ちょっと、風鬼童子っ!?」


 風鬼童子の大きな力に紫が少し慌て出す。


 「マンションを壊す気…ッ!?」


 紫が前に出て止めようとするが、それよりも早く風鬼童子が前方へ腕を伸ばし、両手の風を階段へ向けて吹き出した。紫は風にぶつからないように素早くしゃがみ込んだ。

 吹き出した風はしかし、マンションの壁に激突することはなく、階段に沿って階下へ降りていった。風鬼童子が腕を動かして風を操っているのである。すると、階下から再び恐ろしい咆哮が響いてきた。


 「……本体を攻撃したの…?」


 紫が咆哮を聞いて唖然としている前で、風鬼童子がガッツポーズを取った。


 「妙子の借りは返したぞっ!!」


 繊細な妙子の血から産まれたとは思えない程、風鬼童子は豪快な笑い声を上げた。


 「何、考えてんのよ…。」


 紫は少し呆れて首を左右に振った。

 階下から響く咆哮は絶えることなく続き、次第に床のひびが大きくなっていく。しかしそこで、床が緑色に輝きだしたことに紫は気がついた。


 「蒼兄…。」


 蒼は両手を床に突いていた。その蒼の両手から四方の封札へ緑色の光が流れていき、それぞれの封札からも互いを結ぶように床の上を光の帯が伸びていた。

 光は次第にその幅を広げていき、それとともに階下から聞こえてくる咆哮が小さくなっていく。広がり始めていたひびも止まり、終には、床全体が緑色の光で覆いつくされ、一際眩しく輝いた。その光は階段を塞ぎ、下から再びやってきた子鬼の侵入を防いだ。

 光が収まるころには咆哮も地響きもまったくしなくなっていた。

 蒼が荒い息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。


 「…出来たのね?」


 紫の確認に蒼は不敵な笑みを浮かべて頷いた。


 「――疲れた。」


 蒼の一言に紫は苦笑した。


 「相変わらず、体力無いのね。」

 「大丈夫だ。この仕事が終われば俺が鍛えてやる。」


 風鬼童子の言葉に、蒼は「お断りだ。」と答えてその場に座り込んで、胸ポケットからタバコのケースを取り出した。


 「タバコを吸うから、体力が続かないのよ。」


 紫は、蒼の手からタバコを取り上げ風鬼童子に目配せして放り投げる。


 「あっ、こらっ!何をする…っ!?」


 紫から合図を受け取った風鬼童子は指先から小さな風を出してケースごとタバコを切り刻んだ。

 蒼は少し呆然としたが、再び不敵な笑みを浮かべると、上着のポケットから更にタバコのケースを取り出した。


 「ふっ。タバコは一つではない!」

 「…美影っ!」


 紫が呼ぶと、美影が蒼の後ろに突如現れタバコを取り上げて握りつぶしながら紫の横に移動する。


 「返せ、それが最後のタバコなんだぞっ!」


 紫が指を鳴らすと、美影がタバコを持ったまま姿を消した。


 「~~~ッ!?」


 美影が姿を消すと、蒼にはもう見つけられない。普段、何処にいるのか紫が呼ぶといつもすぐに姿を現し、必要がなくなるといつの間にか姿を消していた。


 「……唯一の楽しみだったのに…。」


 蒼は紫に背中を向けるといじけてしまった。


 「まったく、いじけないでよね…。情けない……。」


 紫が頭を抱えながら指を鳴らすと、蒼の前に潰れたタバコが現れた。

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