Ep01. 鬼の棲むマンション

鬼の棲むマンション 壱


 ある晴れた夏の午後、薄暗い廊下を一人の少女が歩いている。しかし彼女の体はなにやら透けて見えている。

 年の頃は15、6歳くらいで、腰まで届きそうな髪は綺麗な水色をしている。その双眸の光彩は水色で、瞳孔は深い海の底を思わせる濃い緑。

 視線は中空をさ迷い何かを探しているようだ。


 『下ね…。』


 少女は水色の唇で小さく呟くと、爪先から床をすり抜けて下の階へ移動する。2階ほど下へ移動した少女は、一つの扉の前で立ち止まる。


 『結界だわ…。』


 扉に手をかざし目を閉じ、何事かをささやく。すると、空気が弾けるような音が鳴り響き、扉が自然と開いた。

 物理的な障害は先ほど床をすり抜けたことから彼女には無意味であるが、霊的な障害、つまり結界は彼女にとっては大きな壁となり得る。


 《行けそうか?みどり…。》


 彼女の頭の中で、彼女とは別の声が囁く。男声のようである。


 『大丈夫よ。中から人の気配がするから、ここであっている筈…。入ってみるわ。』


 翠と呼ばれた少女は開いた扉をすり抜け中に入る。

 そこは玄関になっていて、一本の廊下が伸び、扉が左に1つ、右に2つ。廊下の突き当たりに1つ付いていた。翠は気配のする突き当たりの扉へと近づいて行く。

 6つの擦りガラスが嵌められたその扉は、そのままでは中を覗き見ることが出来ない。また、ここにも結界が張られているようで、翠の目には扉が歪んで見えた。


 『妙子さんも用心深いなぁ…。まぁ、こんな状況じゃ仕方ないか。』


 そう呟くと先ほどみたいに再び扉に手をかざすが、そこで止めてしまう。


 《…どうした?》


 頭の中に響く声に翠は答える。

 『ここまで侵入しといてなんだけど、先に妙子たえこさんを探したほうがいいかなって思って。』

 《中には、いないのか?》


 翠は目を閉じて、扉の向こうの気配を探ってみる。


 『気配は3つ。大人が一人、子供が一人。あとは動物…犬かしらね。全員、部屋の奥の方に固まって居るみたい。子供が犬に寄り添っている感じかな…。妙子さんの気配は無いわね。』


 そう言うと翠は廊下へ引き返して開いている扉を閉じ、今度は翠が結界を張る。


 ―あおき龍牙よ、その内にいだきし者に安けき眠りを与えよ。

   そして、堅き壁となりて、何者の侵入も許すなかれ。―


 翠のかざした手のひらに澄み渡った空のような色をした光が集まる。光は一度、翠の手の中に吸い込まれたように見えた。


 ―せい修道しゅうどう法術ほうじゅつ 封界ふうかい


 翠の詠唱と共に吸い込まれた光が手のひらから飛び出し、扉だけで無く部屋全体を包み込んだ。


 《大丈夫なのか?二重結界になったりはしないのか?》


 頭の中に心配そうな声が聞こえてくる。


 『妙子さんの張っていた結界は扉を塞いで侵入させないようにするもの。その作用は扉だけよ。今、張った”封界”は対象全体を包み込んで、中に居る者を眠らせた安定した状態で、外からの攻撃に備える結界。まぁ確かに妙子さんの張った扉の結界は二重結界になってしまっているけど、近づかない限り別次元に吸い込まれることは無いわ。寝てるから大地震や寝相の悪さで扉まで転がって来ない限り平気よ。』


 二重結界。一つの場所や物・人に対して複数の術者が別々に結界を張るとそこに歪みが生じる。個人個人の微妙に違う力の性質がぶつかり合い、歪みを発生させてしまう。命ある者が近づくと、歪みに吸い込まれ何も無い世界を彷徨うこととなる。これを二重結界と呼び、結界を張る上での禁忌とされている。


 《子供の寝相は侮れんらしいぞ。》


 頭の声は少しおどけたような声で返してきた。


 『……。大丈夫でしょ。そんなに時間は掛けないわ。』


 少し考えた翠は、そう言うと廊下の床をすり抜け一気に数階下まで降りる。そこは開けたロビーで階段・エレベータ・自動販売機・ベンチに郵便受け等があり、ロビーの真ん中には大きな観葉植物が葉を茂らせていた。外へと通じる自動ドアはピッタリと閉じられている。

 ガラス張りのロビーに射し込む光はほとんど無く、そればかりか外はまるで雨降りの夕暮れのように薄暗かった。


 『まだ下がある。微かだけど妙子さんの気を感じる。』


 しかし何故か翠はそこから下へすり抜けていくことが出来ない。

 エレベータの昇降孔を利用しようとしたが、やはりエレベータの床もすり抜けることが出来なかった。階段の前まで行っても静電気のようなものに行く手を阻まれてしまう。

 どうやらこのロビーも結界を張られているようで、翠は周囲を見渡した。

 すると、床の上、ちょうど東西南北を射す方向に一枚ずつお札のようなものが貼られていた。


 『れい。このままじゃ封札ふうさつを剥がせないからサポートして。』


 翠は頭の中の声に話しかけた。


 《わかった。》


 声と共に翠は自分の中に異質の力が湧き上がってくるのを感じた。すると透けていた翠の両手は実体を持ち始めるが、その腕はそれまでの細い腕ではなく、筋肉質な太い腕に変貌して行った。


 『あまり見栄えのいいもんじゃないから、やりたくなかったんだけどね…。』

 《やかましい。文句言うな。》


 翠の苦笑に頭の中の声の主・黎が苦々しく答えた。


 『はいはい、文句なんて言ってませんよ~。』


 翠は軽く受け流してから、実体化した両腕を使って、作業に取り掛かる。


 『東西南北を四神の封札を使って張る結界。内からも外からも出入できない結界。』

 《四神しじん封縛ふうばくか。しん修道しゅうどう法術ほうじゅつ翡翠ひすい系の結界師にのみ伝わる秘術だったな。》


 貼られている札の一つに手を伸ばした翠に電撃が走り抜ける。


 『…っ!翡翠一族で無ければこの封札は見えない。見えたとしても触れた途端、その命を札に吸い取られるという。いくら私の肉体を介しているとは言え黎の腕じゃきついわね。』

 《今は俺しかいねぇんだ。我慢しろ。》


 翠は再び札に手をかけ、引き剥がしにかかる。体中を駆け抜ける電撃と札に吸い込まれそうになる感覚。その両方に耐えながら、翠は何とか階段のそばの札を剥がした。


 《全部剥がすのか…?》

 『きつい?』


 黎に問いかける。


 《いや、俺は大丈夫だが、お前の方がダメージでかいだろ。幽体にダイレクトに響いてんだから。》


 心配そうな声に少し微笑んで答える。


 『私を誰だと思ってんの?この程度、何とも無いわ。それに、妙子さん、ちゃんと道筋を創ってくれているみたいだから、これ以上、剥がす必要は無いわ。』

 《あのおばさんも随分慎重だな。》

 『おばさんなんて失礼よ。彼女まだ20代でしょ。……たしか…。』


 翠は黎の台詞をたしなめるが、尻すぼみになる。


 《自信なさげだな、おい。》


 翠は無視して階段に出現した”道”を通って地下へ降りて行く。腕は元の透けた細い腕に戻っている。

 階段を下りて行けば行くほど、翠の体を圧迫する力が強くなっていく。それと共にもう一つの気配もはっきりと感じられるようになってきたが、弱々しく揺らいでいるようだ。


 『…急がないと、妙子さんが持たないかもしれない。』

 《やばい時はいつでも呼べ。妙子ごとこっちへ引き戻してやる。》


 翠は気を引き締めて、妙子の創った”道”を、スピードを上げて駆け降りて行く。





 翠が突き進む"道"の先は、地下駐車場となっている。停車している車は一台のみで、他には駐車場の中央当たりに一人の人影がある。

 人影は女性で、風も無いのに肩口までの黒髪が緩やかにそよいでいる。服や肌は、まるでカマイタチにでもやられたかのように、鋭く裂けている。ふくらはぎまで届く長いスカートも大きく裂け、白い太腿にまで深い切り傷が入り、血が溢れているのがうかがえる。

 衣服や足元は彼女のものと思える血で真っ赤に染まり、不思議と淡い光を放っている。

 女性は堅く閉じていた両目を薄く開き、青い目で前方を見つめる。視線の先には、闇色に黒光りする肌を持った何かが苦しげにうごめいている。低く唸り声を上げているが、少し弱っているように見える。


 「…お願いだから、このまま眠ってッ……。」


 女性は前に突き出した右腕に左腕を添えて、闇色の獣から押し寄せてくる圧力に弾かれそうになるのを抑え、踏ん張る為に脚に力を入れるが、左太腿の大きな傷から激痛が走り力が抜け膝をついてしまう。


 「!?…しまっ……!!」


 慌てて体勢を立て直そうとするが、闇色の獣はこの隙を見逃さなかった。

 押し寄せる圧力に負けて女性の体がふわりと浮き上がる。すると獣の瞳が不気味に光った。獣の体から地面を抉りながら激しい風が吹き出し、女性に襲い掛かる。

 風はカマイタチとなり女性の体に更なる傷を刻み込んで行く。引き裂かれながら後に吹き飛ばされ、壁に激しく体を打ち付ける。


 「…ぐぅ……っ」


 気を失いそうになるのを何とか堪えて、壁に背を預けてその場に座り込む。かすむ視界に闇色の獣が喜々として咆哮ほうこうを挙げる様が映り込む。

 女性は悔しそうに唇を噛んで立ち上がる。周囲には女性のものと思われる血が風に飛ばされて、四方八方に飛び散っている。血は相変わらず淡い光を放っているが、先程より少し光が強くなっているように思える。


 「開放されたいのね。」


 女性は右掌を下に向けて目を閉じる。咆哮を上げて喜んでいた闇色の獣は女性を睨みつけ、更に攻撃を加える為に目を見開く。


 ―古の契約により、

  我、汝を召喚せん。

  我が血を媒介とし、

  今、ここに現れよ。―


 女性の足元に、飛び散った血が集まり、傷口からも噴出し始める。闇色の獣は止めを射すつもりなのか、力を溜め込んでいく。


 ―紅き風を引き連れ、

  我が敵を打ち滅ぼせっ!―


 大量の血が女性の眼前に凝り固まる。


 ―出よ、風鬼ふうき童子どうじっ!!―


 闇色の獣が溜め込んでいた力を吐き出す。先程よりも激しい風が女性へ向けて放たれる。

 それと同時に女性の前に凝り固まった血が弾け飛び、中から鋭い二本の角を持つ人影が飛び出した。人影は大きく、頭は駐車場の天井まで達し、角は天井を突き抜けていた。

 闇の獣から放たれた風が大きな体で左右に引き裂かれ、女性の左右の壁を大きく打ち砕いた。

 風鬼童子と呼ばれた人影は右腕を一振りすると、紅い色を孕んだ風が闇色の獣に襲い掛かる。今度は闇色の獣が切り裂かれながら後ろへ吹き飛び、ピクリとも動かなくなった。

 それを確認すると風鬼童子の体が急速に小さく縮んで行った。縮んだ風鬼童子は女性よりも頭一つ分程高い背丈となり、召喚で力と血を大量に使って起き上がれない女性を優しく抱き起こした。


 「大丈夫か、妙子。」


 全身をくれないの鎧で包み、その顔すら鎧で包んで表情が読み取れない。鎧の上からでも厚い筋肉を感じられるが、発せられた声は優しく、女性を暖かく包み込んだ。


 「…ありがとう、風鬼。大丈夫よ。」


 そう言うと女性は風鬼童子に支えられながらも自らの脚で立つ。


 「お前が死ぬと、俺も死ぬんだ。今度はもっと力に余裕のあるときに呼べ。」


 血は、力そのもの。力を失っても血を代用することで大きな力を産み出すことが出来る。妙子は複数の結界を造り、闇色の獣の力を抑えるのでほとんどの力を使い尽くしていた。


 「ごめん。でも、私は封縛師よ。退魔師や調伏師ちょうぶくしじゃなくても、魔族を倒せることを証明したかったのよ。」


 妙子はばつが悪そうに俯いて呟いた。


 「――お前が気にしてんのは、"龍牙の申し子"か…。」


 風鬼童子は頭上を見上げながら言った。


 「……あまり気に病むな。あいつの力は特別だ。気にするだけ無駄だろう。」

 「解っているわ…。でも…。」


 風鬼童子の言葉に頷くも、妙子は納得できていない様子である。それを見て風鬼童子は無言で妙子の頭を優しく撫でた。


 「まぁ、良いさ。向上心があれば成長できる。だが間違うな。今のお前はただ無茶をしていただけだ。」


 次第に風鬼童子の姿がぼやけ始める。


 「人の力を借りるのも大事なことだ。…俺はこれ以上、姿を保てない。何故か解るな?」


 妙子は風鬼童子の目を見ながら頷いた。


 「ごめん。もう、あなたに回す力も血も残ってないのね。」

 「これ以上はお前の命を削ることになる。俺はお前を死なせたくはない。」


 風鬼童子の姿はもう、ほとんど見えなくなっていた。声だけが妙子の耳に届いている。


 「あなたは私の血。私の血はあなた自身。私が死ねば、血であるあなたも死ぬから…。」


 妙子の言葉に風鬼童子が小さく笑ったのが解った。


 「…馬鹿だな。そんな理由だけでお前を守りたいと思うものか。」


 妙子の周りを紅い風が漂う。


 「気をつけろよ。やつはまだ死んじゃいない。気絶しているだけだ。出来ることなら、後は"あいつら"に任せて逃げろ。」


 そう言うと紅い風は、妙子の傷口から体内に入った。風が入り込んだ傷口は跡形もなく消えていった。


 「ありがとう、風鬼。」


 風鬼が血となって体内に戻ったことで妙子の顔色が良くなり、体も少し軽くなった。弱った闇色の獣の力を抑えるだけの力は戻ってきたようである。


 (この力は風鬼が大気から集めてくれた力。無駄にはしない。今の私の役目は、あいつを抑えること。)


 妙子が右手を払うと、指の先から風が巻き起こった。同じように左手も振り払う。両手から巻き起こった風が妙子の体を包み込む。

 闇色の獣が呻き声を上げた。目が覚めようとしているのだ。


 ―あかき龍牙よ、

  大いなる御手みてにて

  の者を包み込み、

  大地に縛るくさびとなれ!―


 (あなたの力も私と同じ風。でも、私は負けない…。負ける訳にはいかないっ!)


 闇色の獣が体を持ち上げるのを見ながら妙子は、獣に向けて両手を勢い良く突き出す。


 ―神修道法術 風楔陣ふうせつじん


 すると、妙子の周りを旋回していた紅い風が勢いを増し獣に襲い掛かり、起き上がる獣を真上から押さえつけた。

 闇色の獣は紅い風に押さえつけられ暴れだす。なんとか逃れようと力を振り絞り、体から幾筋もの風を撒き散らす。

 獣の風は鋭い刃となって妙子にも襲い掛かってきた。風鬼童子により癒された傷口の変わりに新たな傷が開いていく。しかし妙子は一歩も退しりぞかず、更なる力を風楔陣に加える。

 妙子の聖なる風と、闇色の獣の邪悪な風がぶつかり合い、駐車場内を破壊していく。たった一台止まっていた車も風に真っ二つに切り裂かれ紙屑のように舞い上げられ壁に打ちつけれらる。


 (風鬼、あなたの力を借りるわ。)


 妙子は新たな傷から噴出した血を風で巻き上げた。


 ―大気に眠りし龍牙よ、

  我が呼び掛けに答え

  目を覚ませ。

  我が血を持って、

  汝らが力を貸し与えよ!―


 妙子の呼び掛けに体の回りに緑色の光が集まりだす。色は次第に紅くなり妙子の風の一部となって風楔陣を強化する。更なる力で床に押さえつけれらた闇色の獣は、口から涎を垂らしながら大地を揺るがすほどの大きな咆哮を挙げた。

 咆哮は大気を揺らし、その振動から新たな風が発生し妙子の綺麗な白い肌を細かく深く切り裂いていく。その邪悪な風は、妙子の右手の小指を切り落とし、粉々にしてしまった。


 「――っ!!こ…っの……っ!」


 妙子は歯を食いしばり、気が遠くなりそうな痛みに耐えながら、風楔陣の支柱となる物を探した。

 強化した風楔陣を支えられるだけの強固な物。それは物理的にも霊的にも強い物でなくてはならない。しかし車一台しかない地下駐車場にはそのような物はなかった。

 このままでは気を失ってしまう。気を失えば風楔陣は解けてしまう。その焦りが妙子の力を揺らがせてしまう。

 闇色の獣は鈍く瞳を光らせると、鋭い歯の間から舌を真っ直ぐに妙子に向けて突き出した。一瞬の隙を突いたこの攻撃に、咄嗟に横風をぶつけて軌道を逸らしたものの、反応しきれなかった妙子は、獣の舌に左肩を貫かれてしまう。舌は更に伸び妙子の左肩を切り落としてしまう。

 妙子は声にならない悲鳴を上げるが、不思議なことに切り落とされた肩口からは一切血が溢れ出ることがなかった。それどころか、切り落とされた左腕が紅く光り、妙子の前の地面に突き刺さる。


 《丁度良い。妙子、この左腕を支柱に使え。お前の体の一部なら十分耐えられる!》


 風鬼童子の声が妙子の頭の中に響いた。風鬼童子の力なのか、左肩の痛みは一瞬で消え去り、頭に響いた声のおかげで意識も混濁せずに済んだ。体中の傷もいつの間にか塞がり、一適の血も流れていなかった。


 「風鬼…。」


 妙子は風鬼童子に感謝しながら、自分の体を中心として旋回している紅い風を、突き立った左腕に慎重に移していった。風楔陣の支柱となった左腕は更に紅く発光し、まるで鉄で出来ているように微動だにせず、また、闇色の獣の攻撃も、守備範囲が小さな左腕のみなので、周囲を旋回する風で完全に防ぐことが出来た。

 それを見た妙子は、やっと膝を突き全身の力を抜いた。

 しかし、安心は出来ない。いつ支柱となっている腕が崩れるか解らない。妙子はもしもの時の為に少しでも力を回復しておく必要があった。

 その時、妙子は自分の張った四神封縛の一部が消失するのを感じた。


 「……翠ちゃん。」


 結界の中に作った"道"から翠の気を感じ取った妙子は、そこで限界だった。支柱となった自分の左腕を見つめながら、気を失っていった。




 "道"を抜けた翠の目に飛び込んできたのは、風に押さえつけられた黒い獣。


 『また、随分厄介そうなのが…。』


 翠は押さえつけている風の発生元を見た。


 『!?妙子さんッ!!』


 翠は倒れている妙子の元に駆けつけた。


 《どうした。何が起こっている。》


 黎が心配そうに話し掛けてくる。


 『左腕が切り落とされて、風楔陣の支柱にされている。』


 闇色の獣が新たに駐車場に入ってきた翠を睨みつけて咆哮を挙げる。妙子の右の小指を切り裂いた邪悪な風が、今度は幽体の翠に襲い掛かる。

 しかし風は翠に届くことなく、妙子の左腕の前で弾かれてしまう。


 『風鬼童子ね。』


 翠は目の前にできた紅い風の壁を睨みつけた。


 《すまない。…守りきれなかった。》


 落胆した声に翠は嘆息した。


 『もういいわ。…風鬼童子、風楔陣を解いて。これ以上、妙子さんの腕を傷付ける訳には行かないから。』


 紅い風が地面に突き刺さった腕を持ち上げる。この間も闇色の獣の咆哮は止まない。


 《翠、力を貸せ。俺がやつを抑える。その間に妙子を頼む。》


 妙子の左腕を包んでいた紅い風が翠の元へ腕を運んでくる。腕を受け取った翠は少し驚いた。腕には傷一つ付いていなかったのである。地面に突き刺さっていたはずの指先の爪すら、まったく傷付いていなかった。

 風鬼童子がどれだけ妙子を大事にしているかが窺え、翠は軽く微笑んで言った。


 『風鬼童子、解ってるわね。あんたは妙子さんの血そのもの。あんたが死ねば妙子さんも死ぬのよ。』


 紅い風は闇色の獣の咆哮から発生する風を蹴散らしながら力強く返答する。


 《妙子を死なせはしない!お前は妙子を連れて一度退け。お前らが戻ってくるまで俺が四神封縛の一部になってやつを封じておく。》


 風鬼童子の提案に頷いた翠は、大きく叫んだ。


 『龍鬼りゅうきっ!』


 すると、何も無い天井に大きな黒い穴が開いた。穴から鋭い爪を持った大きな手が出てきて、翠と妙子の体を優しく包み込み、穴の中に戻っていく。

 風楔陣から開放された闇色の獣が、翠たちに向けて飛び上がる。翠は大きな指の間から左手を伸ばして叫ぶ。


 ―蒼き龍牙よ、

  鋭き槍となりて

  全てを貫け―


 翠の手のひらから、緑色の光が溢れ出す。


 ―その刃に聖毒を持ちて

  邪悪なる者を

  内から喰らい尽くせ―


 ―聖修道法術 槍龍そうりゅう毒破どっぱ


 溢れ出した光が幾筋もの光の槍となって、向かい来る闇色の獣に襲い掛かる。

 闇色の獣は、体の前に風の壁を創り防ごうとするが、光の槍はいとも簡単に壁を突き抜け、闇色の獣の右目に命中する。闇色の獣が痛みに苦しむうちに、翠たちを乗せた手は黒い穴に吸い込まれていく。


 『風鬼童子っ!』


 闇色の獣に突進しようとする紅い風に、翠は制止をかける。


 『余計な力は使わないで。妙子さんの負担になるわッ!』


 紅い風が引き返して妙子の周りを旋回する。


 『結界をお願い。』


 紅い風は心配そうに妙子の周りを数回廻った後、妙子の創った崩れかけている"道"へ入って行った。

 痛みに悶絶し、のた打ち回る闇色の獣は悔しそうに翠を睨みつけるが、何もできないうちに黒い穴は閉じてしまった。闇色の獣は、"道"へ向かうが、あと少しの所で主を失った"道"は消え去り、風鬼童子が溶け込んだ四神封縛に行く手を遮られた。


 《妙子たちが戻るまで、絶対、逃がしはせんぞ。》


 四神封縛と闇色の獣の力が激しくぶつかり合い、地下駐車場内には轟音が響き渡るが、強固な結界は階上に地響きすら漏らしはしなかった。

 暴れ回る闇色の獣は次第に動きが鈍くなり、倒れこんでしまう。翠が放った聖毒が闇色の獣の体内を浸蝕しているのである。闇色の獣は右目から紫色の血を流し、痙攣しながら再び意識を失ってしまった。


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