空晶の洞

 ユージンが、カルヴァートを連れて小竜の所へ戻った時、ルィヒは小竜の腹に背中をあずけてぐったりと目をつむっていた。

 だが、カルヴァートが歩み寄って、

『姫様』

と呼びかけると、ぱちっと目を開けてカルヴァートを見上げ、嬉しそうに微笑んだ。

「……おまえは、やはり、その姿でいるのが一等美しいな」

 カルヴァートは頭を垂れ、ユージンを地面に下ろすと、ルィヒの前に伏せて背中に乗るように促した。

 ユージンに支えられながら立ち上がったルィヒは、ふと足を止め、空を見た。

「そうだ……、おまえの姿を見たから、一つ、面白い事を思い出したぞ」ルィヒはカルヴァートの瞳を見つめた。「汞狼族の戦士達は、今少し持ち堪えられそうか?」

『人間の兵士に、彼らは殺せません』カルヴァートは事も無げに言った。『戦局を読み、引き際も見極められる優秀な戦士達です。ただ、先ほどから、墓域の外に潜んでいた正規兵が続々とこちらに向かっている事が気になります。万が一にも、墓荒らしのたたりを受けぬよう、離れた所で傍観ぼうかんを決め込んでいたのでしょうが、我ら汞狼族の戦士が戦いに加わったのを見て、そうも言っていられなくなったのでしょう』

「わかった」

 ルィヒは頷くと、空を仰ぎ、指笛を吹いた。

 いつも使っている単調な音色ではなく、複雑な調子をつけて、歌うように長く吹き鳴らす。

 やがて、見えないほこに貫かれたように、ふっ……、と頭上の霧が薄らぎ、その中から一頭の小竜が現れた。ここまでユージン達を乗せてきた小竜よりも二回りほど小さかったが、背中に、油紙で包まれた細長い荷物をくくりつけている。

 ルィヒはその荷物の縄だけをほどき、油紙ごとユージンに渡した。

「君を見つけた時、そばに落ちていた物だ。あの頃は、君の人柄もわからなかったし、返して良いものか判断がつかなかったから、濡れないように油紙でくるんで、この子に預けておいた」

 油紙をほどいたユージンが、中を見て息をのむと、ルィヒは、安堵したように息をついた。

「見覚えはあるようだな。──よかった。今、この場で君に返そう」

 そう告げると、ルィヒはカルヴァートの背にまたがり、後から乗ったユージンに体を支えられる格好で座った。

 だが、いざカルヴァートが駆け出そうとした時、ルィヒはきっぱりとした口調で、

「墓域の外には向かわない」

と言った。

 カルヴァートが、ぎょっと目を大きく見開いた。

『何をおっしゃっているのですか?』

 ルィヒは、カルヴァートの問いを無視して、彼の毛並みをなでながらひとりごとのように話した。

「君の名誉が傷つく事のないように、ユージンに負担をかけたのに、結局、こんな争いに巻き込んでしまってすまなかった。──わたしは今、毒に侵されている。死にはしないが、ものを考える力と記憶を蝕む毒だ。君なら、これがいかに深刻な事か、よくわかるだろう」

『……〈空晶くうしょうほら〉に向かわれるおつもりですか』

 カルヴァートが訊くと、ルィヒは、ふっと気丈に笑った。

「そんな、悲しそうな声で話すな。いつかは果たさなければならない使命だ。ほんの数十年、それが早まっただけの事だよ」



 ユージンとルィヒを乗せて駆け出すと、カルヴァートはぐんぐん速度を上げ、兵士達の剣と汞狼族の牙がぶつかり合う戦場を離れた。

 走り続けるうちに、ふいに前方の霧にむらが生じた……、と思った次の瞬間、目の前にそそり立つ岩壁が現れた。

「顔を伏せろ!」ルィヒが叫んだ。「カルヴァートにつかまれ!」

 ユージンはカルヴァートの毛並みを強く両手で握り、ぎゅっと目を閉じた。

 カルヴァートは、駆けてきた勢いをそのままに岩壁のわずかな出っ張りに足をかけ、一気に岩壁を駆けのぼると、頂上近くに開いた亀裂の中へ飛び込んだ。

 巨人が斧で割ったように左右に長く伸びる、その亀裂の中は、まったく光を通さない、異質な闇で塗り込められていた。

 木々の緑と地下水の清らかなにおいで満たされた、生き物の気配がしない虚空のような縦穴の中を、カルヴァートは器用に左右の岩肌を蹴り、底へと下りていった。



空晶くうしょうほら〉は、墓域の地下に広がる巨大な洞穴ほらあなだった。

 亀裂を下りきった所が、洞穴の端と繋がっている。洞穴に通じる岩の裂け目は、カルヴァートが背中の毛をこすってしまうほど狭く、ルィヒもユージンも、彼の背を下りて歩かなければならなかった。

 裂け目から奥へ抜けると、息をのむほど大きな半球状の空間が現れた。

 外の光はまったく入ってこないが、所々に表出した血のようにあざやかな赤の鉱石がみずから光を放ち、そばにいる者の顔がぼんやりとわかる程度に辺りを照らしている。

 ルィヒは洞穴の中心まで進んで足を止めた。そこから先には地面がない。黒々とした水面が、ずっと奥まで広がっている。

 その地底湖のほとりにルィヒが膝をつき、しばらく待つと、水面が揺れ始め、やがて湖面を真ん中から割るようにして、赤竜の頭部と背中、そして、尾の付け根が現れた。

「……姿が見えないと思ったら、水の中にいたのか」

 ユージンが呟くと、ルィヒは苦笑した。

「我々もこんな風に入ってくる事が出来たら、危険はなかったのだがな。森の外から地下水流を通って〈空晶くうしょうほら〉に至る経路は、水の中でも息が続く赤竜だけが使えるものだ」

『ルィヒ様』カルヴァートが一歩進み出て、首をわずかに下げた。『ゴタルムを発つ時に、イゼルギット様からお預かりした物があります』

 ルィヒは、驚いたように顔を上げた。

「イゼルギットが?」

『はい。──ゴタルム領主の策謀、イゼルギット様は、本当にご存知なかったようです。ルィヒ様と入れ違いにゴタルムに到着されて、すぐに異変に気づき、領主を問い詰めて一部始終を聞き出したそうです』

 カルヴァートが首を振ると、ちゃぽっと水音がして、革紐で結わえ付けられた木の水筒が毛並みの下に見えた。

『イゼルギット様がすぐにご用意できた解毒薬の中で、最も効力の強いものだと。少しは、お体が楽になると良いのですが』

「ありがとう」

 ルィヒはカルヴァートの首から水筒を外して、蓋を取ると、ぐいっと呷った。舌を刺すような味だったのか、ちょっと顔をしかめたが、その後はむせる事もなく最後まで飲みほした。

 空になった水筒をユージンに渡すと、ルィヒはカルヴァートに向き直った。

「考えていたが、わたしに使われたのはたぶん、ギュノツの樹液だと思う」

『ギュノツ……、ダムシヴー帝国辺境のごく限られた地域でしか育たないという、希少な木ですね』

「そうだ。この国には自生していない」ルィヒは頷いた。「ダムシヴー帝国の中でも高値で取引される代物だから、クィヤラート王国の平民にはとても買えないが、王家の息がかかった貿易商や兵士なら可能だろう」

 ルィヒは、自分の手のひらを見つめた。

「ギュノツの毒の特徴は、直接命を奪わずに、意識の混濁や記憶の欠如、四肢の麻痺を引き起こす事。ラァゴーは、わたしが何かのきっかけで正気を失ったという筋書きを用意しておいて、赤竜を意のままに操る道具として使うつもりだったのだろうな」

 そう話すルィヒの指先が震えている事に気づいて、ユージンは、はっと彼女の顔を見た。

「この薬、効かなかったのか?」

 ルィヒは横目でユージンを見た。

「──ギュノツの樹液に解毒薬は存在しない。その水筒に入っていた薬湯には、痛みを抑えつつ、速やかに毒が体外に排出されるように代謝を促す作用しか含まれていないよ」

 まるで他人事のように話すルィヒを見ているうちに、カッと燃え上がるような怒りがユージンの胸にわき起こってきた。

「なんだよ、それ……」

 ユージンは、きりきりと軋むほど強い力で水筒を握りしめて立ち上がった。

「それが、一国のおさのやる事か。ただひたすらに国の事を思って、自分の生涯をして〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉としての務めを果たしてきたルィヒへの仕打ちが、これだっていうのか?」

 感情の昂ぶりに伴って、息までもが熱をおびるように喉の内側がひりつき始め、ユージンは何度も深呼吸しながらむちゃくちゃに口元の汗を拭った。

「ちくしょう……、なんなんだよ。今も昔も、何も変わっちゃいねえ。真っ向からクィヤル熱を叩こうともせずに、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉なんて信仰に頼って……。邪魔になったら、毒なんか使いやがって」

 ルィヒは頭をめぐらして、思いがけず穏やかなまなざしでユージンを見た。

「ユージン」ルィヒは静かに語りかけた。「君も昔、そうして誰かを助けられなかった事があるのだな」

 ユージンの瞳が揺れた。

「君は、出会った時から、一貫して我が国の王政に反抗的だった。物事を俯瞰ふかんして考える君の性格からすれば、少々不自然なほどにな。

 君がラァゴーに対して激しい怒りを抱くのは、かつて同じように、権力を持つ者が病への対処をないがしろにした結果、その下にいた、正しく聡明な者達が、理不尽な被害を受けるのを見たからか?」

 ユージンは唇を震わせると、ほうけたように後ずさった。

 そして、片手で髪をかき上げると、力なくその場に座り込んだ。

「……あんた、以前、俺がそいつに逆らったせいで撃たれたんだろうって、言ったよな」

「そうだな」

 ユージンは首を振った。

「俺は、そんなご立派な人間じゃない。──国外に出たがった雇い主をいさめたのは、若奥様に気に入られて屋敷に出入りしていた、若い医者だった。俺とは同郷で……、幼馴染みだったよ」

 暗い水面に首まで浸かってこちらを見ている赤竜を、ぼんやりとした目つきで見ながら、ユージンは続けた。

「当時、俺のいた国では、一定以上の距離を移動するには、病に罹患していない事の証明書と、それ相応の理由があると説明する書類の二つが必要だった。

 後者はなんとでもなるが、証明書の方には、国が認めた一握りの医者だけが持つ、特殊な判子が押されている必要があった。

 俺の幼馴染みは何度も雇い主を説得して……、そのうちに、そいつが考えを改めるどころか、何とかして自分から判子を奪い取れないかと企んでいる事に気づくと、絶対に盗み出せない所へ、それを隠した。──自分の腹の中にな」

 ユージンは、震えている自分の両手を見下ろした。

「俺に下った命令は、至極単純だった。後ろ手に縛られ、殴られて、ほとんど気を失っている『獲物』の腹を捌いて、そいつが飲み込んじまった大事な判子を、ご主人の所へ持って行く事……」

「ユージン」ルィヒが手を伸ばし、ユージンの肩を掴んだ。「もういい。──すまない、軽々しく訊くべきではなかった」

 ユージンは首を振った。

 この期に及んでもまだ、気遣わせまいとしているのか、笑おうとしているようだったが、その顔は青白く引きつって、目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「どうして、俺だったんだろう。あいつを殺して、俺もすぐに、口封じで……。ほとんど間を置かずに、後を追ったのに。あいつだったら、クィヤル熱も、ギュノツの樹液の毒も、何とか出来たかもしれないのに」

 ルィヒは黙って首を振り、ユージンの手にふれた。

「わたしは、クィヤラートに来てくれたのが君で良かったと思う。人の病を治す医師なら、自ら死に向かおうとするわたしの心情を理解出来なかったかもしれないから」

 ユージンの手を握ったまま、ルィヒは硬い面持ちでカルヴァートを見上げた。

「聡いそなたの事だ。わたしが墓域の外に逃げるのではなく、〈空晶くうしょうほら〉に向かうと言った時点で、気づいたかもしれないが……。辛い役目を背負わせる事になって、本当にすまない」

『いいえ、ルィヒ様』カルヴァートは目を閉じ、頭を垂れた。『初めて貴女にお目通りが叶った時から、私は〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉を守る汞狼族の戦士としてではなく、ルィヒ様にお仕えする衛士えじとしてこの命を使おうと決めたのです。どのような運命が待ち受けようと、悔いはありません』

「……ありがとう」

 ルィヒは、かすれた声で、そう答えると、さっと立ち上がって赤竜に向き直った。

 赤竜に近づき、赤竜を介して自身の記憶をノェシウム鉱石に刻むために、赤竜の額に手をかざした。

 ルィヒが目をつむり、ノェシウム鉱石と意識を深く繋げる呪文を唱えようとした時……、〈空晶くうしょうほら〉が、地響きとともに揺らいだ。

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