竜の最期

シャノカーンの森の死闘

 赤竜の元まで辿り着いたユージンは、自分の後に着地したルィヒを小竜から下ろし、背中に担ぎ上げて医務室に運んだ。

 医務室は、寝台と棚があるだけの小さな部屋だが、消毒薬や包帯が揃っている。赤竜は、ルィヒの命令で、まだ飛び立っていなかったが、翼を広げた時に少し中が揺れたのか、いくつかの小瓶が棚の中で倒れたり傾いたりしていた。

 ルィヒの矢傷は、出血はもう止まっていたが、傷口の周りが変色して臭気を放っている。これ以上毒が回らないように縛って止血をしたかったが、それも、矢傷が耳と首の間にあるせいで難しく、ユージンは矢傷に口をつけて血を吸い出した。

 意識が混濁し始めているのか、ルィヒは、ひどく呻いてユージンを振り払おうとしたが、ユージンは少しでも毒が体の外に出てくれる事を願って、水で口の中をゆすぎながら、ひたすらに血を吸い出しては、使い古しの布に吐き出す事をくり返した。

 そうしているうちに、少しずつルィヒの呼吸が穏やかになり、やがて汗ばんだ手が、そっとユージンの頬にふれた。

「もう、いい……。大丈夫だ」

 ルィヒの顔にはまるで血の気がなく、陶器のように真っ白だったが、瞳には聡明な光が戻っていた。

 ルィヒは、薬瓶が並んでいる棚を目で示した。

「そこの、上から二段目の左側にある緑の瓶を取ってくれるか。……そう、それだ。同じ量の水で割って、飲ませてくれ」

 ユージンは言われたとおりに薬液を作り、ルィヒの体を支えながら抱き起こして少しずつ飲ませた。

 何の薬なのか、ルィヒは説明しなかったが、飲み終えると、ふーっ……、と息をつき、瞬きをしてユージンを見上げた。

「応急処置も慣れたものだな。……おかげで、助かった。ありがとう。

 だが、もう時間がない。さっきとは別の、若くて、体力のある小竜を呼ぼう。早駆けさせてシャノカーンの森へ向かう」



 ルィヒは見張り台に上がると、指笛を吹き、とりわけ体が大きく精力に満ちたよわいの小竜を一頭呼んだ。

 乗せる人間が二人になれば、いくら頑健な小竜でも飛ぶ速さは落ちる。しかし、毒が抜け切っていないルィヒを一人で飛ばせる事は出来ず、ルィヒが前に座って手綱を握り、それを補助するような形で、ユージンが後ろに乗って飛ぶ事になった。

「君も手綱をしっかり持っていてくれ」飛び立つ前に、ルィヒは振り返って言った。「シャノカーンの森までは、赤竜が導いてくれる。我々は、彼らが飛ぶのに任せていればいい。だが、急な気流の変化で揺さぶられる事があるかもしれない」ルィヒは、口をおさえて咳き込んだ。「シャノカーンの森の……、最深部は……」

「赤竜の咆哮だけで開く石扉で守られている──だろう?」

 ユージンがそう言って話を引き取ると、ルィヒは青ざめた顔に、ちらっと笑みを浮かべた。

「そうだ。追っ手が放たれているかもしれないが、森の最深部までは入ってこられない。……そこまで辿り着けば、大丈夫だ」

 半ば自分に言い聞かせるように呟くと、ルィヒは気合いとともにあぶみを踏み、小竜を空に舞い上がらせた。



 天を覆うように巨大な翼を広げて飛び立った赤竜の背に、ぴったりと吸いつくような位置で飛びながら、二人は無言でシャノカーンの森を目指した。

 ルィヒもユージンも厚着をしてきたが、途中からルィヒがカチカチと歯を鳴らして震え始めた。

 後ろからユージンが支えているので、背中側は温められているはずだが、毒がぶり返してきたのかもしれない。

 ユージンが予備の命綱で体を結わいて、自分に寄りかかって休むように伝えると、ルィヒは素直に頷き、ユージンに体をあずけて目をつぶった。

 ゴタルムに着いた時には夕陽が赤々あかあかと輝いていたが、飛び続けるうちに、空には重苦しい鉛色の雲が垂れ込め、やがて月すら定かに見えなくなった。

 もしかしたら、雨雲に近づいているのかもしれない。

 ユージンは唇を噛んだ。自分もルィヒも、雨具を持ってくる事を思いつきさえしなかった。冷たい雨で体が濡れたら、ルィヒの回復の妨げになってしまう。

 早く、早く……、と急く気持ちが、途方もなく長い時間が過ぎたように感じさせたが、程なくして眼下にこんもりと盛り上がった影がひと山、姿を現した。

 ユージンは、息をのんだ。──それは、間違いなく、王都の祭祀場でノェシウム鉱石を通して見た、シャノカーンの森だった。

 赤竜も、ゆるやかに高度を落とし始めた。小竜もその後を追う。

 地表が近づくと、森にたくわえられた雨水のにおいがふうっと立ちのぼり、大気がわずかに暖かくなった。

 繭のように森を覆っている霧を抜けて、木立の手前に小竜を着地させたユージンは、ルィヒを起こそうとして、はっと顔を上げた。

 彼にとっては嗅ぎ慣れた──だが、クィヤラート王国には決してあるはずのない、馴染みのある刺激臭が風上かざかみから漂ってきたからだ。

(火薬……!)

 舌打ちをすると、ユージンは、はやる気持ちを抑えながらルィヒの肩を揺すって名前を呼んだ。

 くぐもった声を漏らして、目を開けたルィヒは、辺りを取り囲む木立を見て、シャノカーンの森に着いたと気づいたのか、ほっとしたような表情でユージンを振り仰いだが、彼の険しいまなざしに気がつくと眉をひそめた。

「何かあったのか?」

「わからない、けど……」ユージンは、早駆けを続けたためにふいごのような息をしている小竜をなだめながら、地面に飛び下りた。「もしかしたら、もう〈ロウミの冠〉がここまで来ているかもしれない」

 ルィヒは目を見開いたが、心のどこかで、予想はしていたのだろう。黙って頷くと、ユージンと手を握り合って、獣道を歩き始めた。

「あの劇を見た時から思っていたんだ」歩きながら、ユージンは抑えた声で話した。「赤竜の咆哮でしか動かないといっても、墓域を封じているのはただの石。近づいて、手でふれる事は出来る。それなら、火薬で粉々にしてしまえば、最深部の封印は意味を成さないんじゃないかって」

「火薬というのは、確か、ユージンが持っている銃に使われている薬だろう? この国では作れないんじゃなかったのか?」

 ユージンは首を振った。

「俺が、この国では作れないと言ったのは、銃本体の方だ。高度な冶金技術が必要だからな。火薬だけなら、材料が揃っていて、調合の仕方さえ知っていれば、誰でも作る事が出来る」

「わかった」ルィヒはこわばった面持ちで頷いた。「だが、それが〈ロウミの冠〉と何の関係がある?」

「森の最深部には、これまでの〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉が埋葬されているんだろう? あんたを赤竜から引きずり下ろして、赤竜を意のままに操りたい国王と、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の血肉が妙薬になると信じている集団。──思惑は違っても、互いに手を組む理由はあるって事だ」

 ルィヒは蒼白な顔になって立ち止まった。

 そして、森の入り口で待たせている小竜を振り返った。

 何を考えていたのか、しばらく無言のまま、霧の向こうにぼんやりとした影として浮かび上がる小竜の姿を見つめていたが、おもむろに口元に手を持って行くと、ヒューイッと一度、指笛を鳴らした。

 身繕みづくろいをしていた小竜はぴくっと頭をもたげて、まっすぐにルィヒの方へ向かってきた。

「……人の争いに竜達を巻き込まない事は、わたしなりの〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉としての矜持きょうじだった」

 体をすり寄せてきた小竜の首をなでながら、ルィヒは、ぽつっと言った。

「しかし、君の言うとおりだとしたら……、かつて〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉として生き、その責務をまっとうして死んでいった祖先の眠る場所が、暴かれようとしているのなら、もはや、そんな事には構っていられないな」

 もの言わぬ小竜の、無垢な光を宿した瞳を見つめ、ユージンも頷いた。

 まだ毒が体に残っているルィヒは、小竜の背に乗って移動した方がいいのではないかとすすめたが、ルィヒは、小竜は少し距離をおいてついて来させた方が自然に気配を消せる、と自分の足で歩く事を選んだ。

 ルィヒが示す方角へ、亡霊のように立ち並ぶ針葉樹の間を縫うように歩いて行くと、ある地点で、ふっと火薬のにおいが強くなった。

「あれだ」ルィヒが呟いた。「あそこの、城壁のように岩がそそり立っている所が、墓域の──」

 ルィヒはそこで、前方を指さしたまま言葉を切った。

 霧の中をさらに数歩、岩壁の方へ近づいて、ユージンも息をのんだ。

 ルィヒの言うとおり、前方の木立が途切れた所に、人の背丈の五倍はあろうかという巨岩がぐるりと円状に並んでいる。

 本来は、すべての岩が隙間なく並んでいたのだろう。だが、今は左奥にある岩の根元に大きな穴が開き、もうもうと白い煙が立ちのぼっていた。

 ルィヒとユージンは、さっと顔を見合わせて、互いの武器を抜いた。

 ユージンは拳銃の残弾数を確かめた。一度も補充が出来ていないので、あと三発しか残っていない。不意打ちを仕掛けるにしても、これだけではあまりにも心許なかった。

 岩壁から離れた巨木の後ろに小竜を潜ませておき、ルィヒとユージンは岩壁をつたって、穴へ近づいていった。

 岩壁の向こうから、かすかに人の話し声のようなものが聞こえてくる。だが、かなり遠い所にいるのか、話している内容までは聞き取れなかった。

 ユージンは声を発さず、手だけを使う合図で、ルィヒに今の場所で姿勢を低くして待つように伝え、自分は拳銃を構えて穴の向こう側を覗き込んだ。

 墓域と聞かされていたが、碑石ひせきのようなものは見当たらない。柔らかな萌黄色の草原がずっと向こうまで続いている。円形に閉ざされた墓域の中には、乳を薄めたような霧が滞留たいりゅうしていて、ほとんど見通しがきかなかった。

 じっと目をこらしていると、やがて、霧の向こうで何かが動くのが見えた。……と、同時に、話し声とは別の物音も聞こえてきた。ザク、ザクッと、硬いもので土を掘り起こすような音だ。

(……何をしている?)

 墓域の内側に気を取られていたユージンは、前方から近づいてきた足音に気づくのがわずかに遅れた。

「て……、敵襲、敵襲っ!」

 上ずった男の声が響き、ユージンが、はっと拳銃を構えた時には、すでにルィヒがひらめくような早さでユージンの脇を駆け抜け、手の中でくるりと返した短剣の柄頭で男の顎を下から突き上げ、一瞬で昏倒させていた。

 男が地面に倒れ込むのも見届けずに、ルィヒは踵を返し、墓域の中に飛び込んだ。

「あ……、おい、ルィヒ!」

 ユージンは慌てて、ルィヒを追って走り出した。

「待て! まだ動けるような体じゃないだろう」

 ルィヒはユージンを一瞥したが、走るのをやめなかった。

「見張りに気づかれた。──こうなれば、武器を取る猶予を与える前に叩くほかない」


 口にしている言葉こそ冷徹なものだったが、この時点では、ルィヒにはまだ平静さが残っていた。自分の周囲に敵が潜んでいないか、幾重にも用心を重ねながら、毒が回っているとは思えない俊敏さで草の上を駆けていた。


 そして、一か所に集まって土の中から何かを掘り起こしている、三人の男達の元に辿り着いた時、ルィヒの足が止まった。

 すぐに追いつき、彼女の隣に立ったユージンも、目の前に広がっている光景を見て絶句した。


 男達は三人とも〈ロウミの冠〉である事を示す黒い外套をまとい、頭巾ずきんを目深にかぶっていた。

 まさか、この場に当代の〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉が現れるとは想像もしていなかったのだろう。武器を取るどころか、自分達が何を行っていたのか隠蔽いんぺいする事すら忘れて、呆然とルィヒを見つめている。

 彼らは、それぞれの手に道具を持っていた。草の根もろとも地面を掘り起こすくわ、大きな荷物を持ち運ぶための麻袋、そして、不気味なほど研ぎ澄まされた斧やなた

 墓域に侵入した彼らが、それらを使って何をしようとしていたのかは、ユージンにさえ、たやすく察しがついた。

「貴様ら……」

 ルィヒが地の底から響くような声で呟き、剣を構えた。

「神聖な〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の亡骸なきがらを、牛豚うしぶたか何かのように切って持ち出す気か!」

 叫ぶように言うや、ルィヒは凄まじい気合いを発して鉈を手にした男に飛びかかった。

 全員、戦闘訓練など受けていない平民なのだろう。ルィヒの初太刀しょだちを受けた男は、浅く手元を切られただけなのに、己の血を見て一瞬で気を失い、残る二人も、鬼神のような形相で剣を振りかぶったルィヒを見た途端、真っ青になって腰を抜かしてしまった。

 それを見た時、ユージンはかすかな違和感を抱いた。

(こいつら全然、荒事慣れしていない……)

 墓域の地面を掘り起こして〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の亡骸を運び出す気でいた事には間違いないのだろうが、今、ルィヒを前にして怯えきっている彼らの姿と、墓域に入るために火薬で岩を破壊するという手段の乱暴さが、どこか噛み合っていないように感じた。

 二人目の男の手首を狙ったルィヒの一撃はわずかに逸れ、斧の取っ手に当たってはじかれた。毒で思うように体が動かなかったのだろう。

 襲われた男は半狂乱になり、斧を振り回し始めた。

 ルィヒが舌打ちをして、一歩飛びすさった、その刹那、ヒュンッと高い風切り音が鳴り、ルィヒが背を叩かれたようにつんのめった。

 驚いて振り向こうとしたユージンの脇腹を何かがかすめ、次の瞬間、カッと焼けるような痛みが走った。

(──後ろに射手がいる!)

 ユージンは全身が総毛立つのを感じながら、ルィヒを後ろから押し倒すようにして地に伏せた。

 左肩に矢を受けたルィヒは痛みに顔を歪めたが、首をねじって空をふり仰ぐと、思い切り指笛を鳴らした。

 二の矢、三の矢がうなりを上げて飛んでくる。

 出来る限り頭を低くしているルィヒとユージンは、いくつもの重々しい足音が、輪をせばめるように自分達に向かってくるのを感じていた。

 さっきよりも近い所で風切り音が聞こえ、一本の矢がシュッとユージンの頬をかすった。

 死を覚悟してユージンが身を硬くした時、頭上が、ふっと暗くなった。

「……来た!」

 ルィヒが、嬉しそうに呟いた。墓域の外で待たせておいた小竜が、指笛を聞いてやって来たのだ。

 竜の鱗は鉄のやいばもたやすく跳ね返す。鱗に覆われていない部分でも、鋼のように強靱な筋肉が鎧の役割を果たすので、剣や矢で彼らに傷をつけるのはまず不可能だった。彼が盾になってくれている間は、矢をしのげるはずだ。

 小竜の腹の下に潜り込んだルィヒとユージンは、慎重に顔だけを外に出して、迫ってくる者の姿を見きわめようとした。

「あれは……」信じられない、というようにルィヒが顔を引きつらせた。「なんという事だ。王国の正規兵か……!」

「正規兵?」

 ユージンが訊き返すと、ルィヒは苦々しい面持ちで頷いた。

「幼少の頃より王宮に出入りして武芸の手ほどきを受ける、きの武人達だ。我が国が戦を始めた時、主たる戦力となるのも、彼らだと聞いている」

 ユージンはため息をついた。

「王は、本気であんたを捕らえる気らしいな」

「わたしではなく赤竜を、な」

 そう呟き、少し黙り込んだ後、ルィヒの目が突然、ふっと夢を見るように虚ろになった。

 ルィヒは、彼女にはあまり似つかわしくない、花がほころびるように妖艶な笑みを浮かべて、ふらふらと立ち上がった。

「正規兵だ」ルィヒはろれつの回っていない声でくり返した。「ああ、良かった。助けに来てくれたのか」

「ルィヒ?」

 怪訝そうに自分を見上げたユージンの姿などまるで目に入っていない様子で、ルィヒは小竜の腹に手をつくと、雨あられと矢が降りそそぐ中へ歩いて出て行こうとした。

 ユージンはぎょっとして、思わず彼女の腕を強く掴んだ。

 それが、たまたま、矢傷に近い左腕だった事が幸いした。彼女は激痛に呻き声を漏らし、怒りに目をぎらつかせながらユージンを睨んだ。

「貴様、何を……!」

 短剣の柄を握った所で、ルィヒはぴたっと動きを止めた。

「あ、れ……。ユージンか?」

 ユージンは無言で頷いた。

 額に細かい汗の粒が、びっしりと浮いている。……とても、声が出せなかった。

 一瞬だったが、ルィヒから向けられた殺気は本物だった。今、彼女は紛れもなく自分を斬り捨てる気でいたのだ。

 ルィヒも徐々にそれを思い出したのだろう。口元を手で覆って震え始めた。

「……まずい。たぶん、ゴタルムで食らった毒だ。激しく動いたせいで、頭にまで回ったのかもしれない」

「俺の事は気にするな」

 ユージンはルィヒを小竜の腹の下へ押し込むと、それと入れかわるように、拳銃を抜いて前に出た。

「自分の身くらい、自分で守る。だけど、あんたは絶対にそこから出ないと約束してくれ。

 俺の事も、〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉の役目も忘れたって構わない。だけど、そこから外に出たら死ぬって事だけは、覚えていてくれよ」

「わたしは、死なない」ルィヒは一言ずつ力を込めて言った。「だけど、ユージン。君は、矢が当たったら死んでしまう」

 胸をかれたような気がして、ユージンはつかの間、その場を動けなかった。

 しかし、一瞬ののちには皮肉めいた笑みとともに、顔の横でひらっと手を振り、小竜の体の下から飛び出した。

 自分の名を叫ぶルィヒの声が聞こえた気がした。……だが、ユージンは一切、その事を考えないようにした。

 厳しい訓練を受けた兵士を相手にいくらも持ち堪えられるとは思っていない。うまく拳銃で不意をつけたとしても、弾は三発しか残っていないのだから、盤面をひっくり返す事など到底出来ない。

 それでも、自分が最後まで握っていた未知の武器に、彼らはきっと興味を示すだろう。その隙にルィヒが逃げ切ってくれる事を祈るしかなかった。

「……放て!」

 兵士の太い声が響き、鳥肌が立つような風切り音とともに矢が宙に舞い上がった。

 放たれた事に気づいてから回避を試みても間に合わないように、矢は、巧妙に間隔をあけて放たれていたが、ユージンはそんな事などまったく気にかけていなかった。ただ、放たれた矢の放物線から、起点を計算し、射手の位置にあたりをつけて目にもとまらぬ早さで三発の弾を立て続けに撃った。

 空気が裂けるような銃声が轟き、二人の射手が腿のつけ根と肘に弾をくらって、もんどり打って倒れた。

 しかし、もう一人の射手を狙った弾は逸れていた。

 彼が自分に向かって再び矢をつがえる所が、はっきりと見えた。──とても、避けられるような距離ではなかった。

 ユージンが、ぎゅっと目をつぶり、なけなしの抵抗のつもりで折り曲げた腕で頭を覆った時、アオーン……、と長く尾を引く狼の遠吠えが墓域に響き渡った。

 最初に響いた遠吠えを皮切りに、墓域のあちこちから、同じような遠吠えが重なってわき起こった。そして、銀色に光る何かが、ものすごい速さで自分の傍らを駆け抜けていった……、と思った次の瞬間、ユージンを狙っていた射手が、巨大な四本足の獣に飛びつかれて倒れた。

 それは、青みがかった銀色の毛並みを持つ壮麗な狼だった。

 目にとらえられぬ風のように、急に霧の中から現れては、兵士を一人、また一人と打ち倒して消えていく。

 剣を抜いたものの、神出鬼没の狼の群れを相手に為す術もなく、空振りをくり返す兵士達を呆然と眺めていたユージンの傍らに、ふいに、一際大きな影が立った。

『ユージン殿』

 聞き覚えのある低い声が、波のように頭に流れ込んできて、ユージンは顔を上げた。

 鼻面の部分だけでユージンの背丈に迫るほどの立派な体つきの狼が、ユージンを守るように立ち、理性を感じさせる深い光を宿した瞳でこちらを見つめている。

『深い谷底の地形で鳩が迷い、文を受け取るまで、時間がかかってしまった。駆けつけるのが遅れて、申し訳ない』

「カルヴァート……、か?」

 神々しささえ感じさせる、風の化身のような狼の──汞狼族としての本来の姿をあらわにしたカルヴァートは、頷くように一度、瞬きをした。

『それで、ルィヒ様はいずこに?』

「後ろにいる。小竜の腹の下に潜って身を守るように言ってきたけど……」

 錯乱し、剣を抜こうとしたルィヒの表情がよみがえり、ユージンの胸に苦いものが広がった。

「敵と味方の区別がつかなくなったのか、さっき、俺を斬ろうとした。ゴタルムの衛兵の矢に毒が塗られていたんだ。かすった場所が首だったから、止血も出来なかった」

『……なるほど』

 カルヴァートは、そう呟くと、おもむろに前足を折り、ユージンの前に伏せるような格好になった。

『ユージン殿。私の背にお乗りください。あの兵士達は、私がひきいてきた戦士達が食い止めてくれます。その間に、我々は一刻も早く、ルィヒ様を安全な場所へお連れしましょう』

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