明かされる真実

「──なんだ?」

 ルィヒが驚いたように振り返った瞬間、再び〈空晶くうしょうほら〉が大きく揺れた。

 水辺に膝をついていたルィヒは、その拍子に姿勢を崩して水に落ちそうになり、すんでの所でユージンに体を抱きとめられた。

 二人の目の前で、水面の中央がぐうっと盛り上がり、その下から、溶岩のように赤みをおびた皺だらけの皮膚が現れた。

 王宮の中で最も立派な柱よりもなお太い、古木のような前脚が持ち上げられ……、次の瞬間、あっけにとられるほど巨大なひづめが、ぐんぐん頭上へ迫ってきた。

『……失礼!』

 カルヴァートは一声発するや、まだルィヒを抱えたままのユージンの服の襟をくわえ、そのまま後ろに飛びすさった。

 ぐうんっと大きく振り子のように体が揺れて目を回しそうになったが、ユージンは何とか、ルィヒが地面に激突しないように姿勢を保って着地した。

 一瞬の間に、何が起きたのかわからずに、三人は言葉を交わす事すら忘れて地底湖の方を見つめた。

 前脚を岸にかけて、赤竜が、その巨大な上体を水の外へと持ち出していた。その首は、半球状の洞穴のいただきに達してもなお余るほどの長さで、少しうつむくような姿勢になってしまっている。

 赤竜の瞳に、燃えるような強い光が宿り、まっすぐにルィヒを見つめた。

 ルィヒとユージン、そして、カルヴァートの頭の中にも、一つの声がはっきりと響いてきた。


──幾度いくたびも、死しては生まれかわり、わたしとともに旅をした、人の子よ。


 管楽器の調べのような、深い響きのある不思議な声だった。

 赤竜は少し首をひねるようにして、ルィヒの後ろにいるユージンを見た。


──そして、わたしの求めによって、たまぐすり鉛玉なまりだまをたずさえてこの地を訪れた、遠い、はるか異邦の者よ。


 自分の事を言っているのだ、と思った瞬間、うなじが痺れるような恐怖がユージンを襲った。

 今、自分は、赤竜の声を聞いている……!

 ルィヒもカルヴァートも、息も出来ていないような張りつめた顔で、食い入るように赤竜を見つめていた。


──ルィヒ。


 赤竜は、ルィヒに呼びかけると、ぐうっと首を下げた。

 水から上がった体を支えている前脚に力が入ったせいか、また少し地面がかしいだような気がしたが、赤竜が頬を寄せてくると、ルィヒは吸い込まれるように手を伸ばし、その体をなでた。

 赤竜は心地良さそうに目をつむり、クルル……、と喉の奥で音を立てると、ゆっくりと身を引いた。


──ありがとう。わたしを解き放つために、命を投げ出そうとしてくれて。だけど、おまえの心づかいを受け取っても、受け取らなくても、わたしはもう、長くはない。


 ルィヒが、はっと顔を上げた。

「それは一体、どういう……」

 赤竜は、その問いには答えず、右の前脚に視線を移した。

 判を押すように、赤竜が蹄をぐっと地面に押しつけると、その部分から泡のような光の粒が生まれた。

 蛍火のような美しい光が、さあっと〈空晶くうしょうほら〉全体に広がっていく。伏せた椀のように頭上を覆っている岩壁のいただきまで、その光が達した瞬間……、地面が消えうせた!

 宙に放り出されたような錯覚を起こして、ユージンは危うく声を上げそうになったが、足元の岩盤が、まるで遠眼鏡とおめがねのように別の場所にある景色を映し出しているだけで、地面自体は変わらずに存在している事に気づくと、ほっと手足の力をゆるめた。

 足元には、一面、目にしみるような青空が映し出されている。綿をちぎったような雲がまばらに漂う空中を、すべるように風を切って、一羽の鳥が飛んでいく。

 しかし、よく見ると、それは鳥にしてはあまりにも大きく、また、柔らかな羽毛の代わりにコウモリのように膜と鉤爪を備えた翼を持っていた。

「まさか……、これは、赤竜?」

 ルィヒが、小さな声で呟いた。

 彼女が、まさか、と口にした理由は、ユージンにも察しがついた。その竜の姿は、確かに、自分達が共に旅をしてきた赤竜そのものだったが、体色は、煮え湯を浴びたような赤ではなく、燐光のような光沢を放つ、美しい黒だったのだ。


──かつてはわたしも、彼らとよく似た、誇らしき黒の鱗を持っていた。


 再び赤竜の声が響いた。彼ら、というのはおそらく、小竜の事だろう。


──しかし、ある時から、病が我が身をむしばむと、赤黒く腫れた鱗は始終しじゅう血をしたたらせるようになった。その病によって、そばにいる者にも、穢れが及ぶ恐れがあるとわかると、我らの種族のおさは、わたしを、異なる世界へ追放する決定を下した。


 赤竜は言葉を切って、ルィヒを見つめた。


──この地に落とされ、五十年ほどの間は、臓腑ぞうふが残っていたが、それも今では腐り落ち、がらんどうになった体を魂だけが動かしている。やがて、その力すらも底をついた時、わたしの穢れは清められ、魂だけの存在となって、生まれた地に帰る事を許される。おまえ達が〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉と呼ぶ者達は、いわば、わたしのみそぎの旅路につき合ってくれたのだ。


「ならば、なぜ……」

 問いかけたルィヒが、ふいに呻き声を漏らして、右目の辺りを押さえてうつむいた。

「ルィヒ?」

 ユージンは、ルィヒの顔を覗き込もうとしたが、ルィヒは苛立たしげに手を振ってそれを遮り、赤竜をふり仰いだ。

「こうして言葉を交わす事が出来たのなら、なぜ、これまで一度として、我らの行いをおとがめにならなかったのですか。体の中に、雑多に物を運び入れられて、住みよくするために部屋を増やし、廊下を作るなどという屈辱的な行いを……」

 赤竜は瞬きをして、天を仰いだ。


──わたしがこの地に落とされた時、この地もまた、病んでいた。悪臭を放つあぶくのように、押さえようとて押さえておけぬ苦しみを、わずかでも取り除く手助けとなるのなら、ちるのを待つだけの身を惜しむような真似はすまいと、思った。


 激しく震え始めたルィヒの体を片腕で抱きしめながら、ユージンは息を吸い込み、赤竜に目を向けた。

 そのまなざしに何を感じ取ったのか、赤竜はゆっくりと頭をめぐらすと、ユージンを見つめた。


──何か訊きたいようだね、異邦の者よ。


 ユージンは頷いた。

「〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉ってのは、あんたがこの世界にやって来た事で生まれた存在なのか?」

 ルィヒがはじかれたようにこちらを振り向くのがわかったが、ユージンはがんとして赤竜から目をそらさなかった。



──〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉という存在が生まれた理由に、わたしが深く関わっている事は確かだが、わたしも、すべてを知るわけではない。


 赤竜の、どこか、哀れむようなまなざしがルィヒをとらえた。


──覚えているのは、この地に降り立った時、大勢の人間がわたしの体に取りついた事。そして、昼となく夜となく、彼らの手がわたしの鱗や血、肉をより分けて、どこかへと運び出し……、それから間もなく、わたしとよく似た命の色を持つ娘が、王家に生まれた事。


「……それが、初代の〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉だったのですね」

 ルィヒが、震えながら息を吸い込んだ。

「クィヤル熱という未知の病を前にして、追い詰められていた彼らが、奇跡にすがろうとした気持ちはわかりますが……、それにしても、何という事を……」 

 赤竜が、再びルィヒに頬をすり寄せるような仕草をした。


──ありがとう。おまえがいつも、心からわたしをうやまい、いつくしんでくれていた事は、伝わっていたよ。


 赤竜の口がわずかに開き、ルィヒの頭の右側を、ぶ厚い唇の間に挟んだ。


──この国はもう、わたしがいなくとも歩んでいける。むしろ、これより先は、わたしがいる事で、かえって災いを招くかもしれぬ。わたしは、おまえに何も残してやれないが、せめて毒と呪いは、この身に引き受けて、消えてゆこう。


 赤竜が、ぐっと首を前に動かした途端、ルィヒが雷に打たれたように痙攣けいれんした。

 激しい痛みを堪えるように、ルィヒは手足をわななかせていたが、きつく唇を噛み締め、悲鳴は一言も漏らさなかった。

 やがて、赤竜が離れていくと、ルィヒは糸が切れたようにぐったりとユージンに寄りかかった。

「ルィヒ……」

 体をずらして、ルィヒの顔を覗き込んだユージンは、手にどろりと生あたたかい液体が垂れてくるのを感じて、ぎょっとした。

 ルィヒの閉じた右の瞼から、血が伝い落ちている。

 それだけではない。よく目をこらすと、眼球があれば生じるはずの膨らみも、右側にはない事がわかった。

 ユージンは、ルィヒの瞼を押し開けようと、震える指先を伸ばしたが、

『ユージン殿』

とカルヴァートに呼びかけられて、手を止めた。

『ギュノツの樹液は頭を蝕む。解毒が間に合わなければ、目にも毒が回ります。おそらくルィヒ様も、もう……』

 そう言った途端、ルィヒが残された左目をわずかに開いた。

「おい。……早まった事を言うな」

 ルィヒは、血の気が失せた顔で気丈に笑った。右の瞼も、それに伴って少し開いたが、その内側には、やはり虚ろな闇があるだけだった。

「動くな、ルィヒ」ユージンは言った。「あんた……、目を片方なくしたんだぞ」

「いや、だいぶ気分が良くなった。手先も自由に動く。──このように」

 止める間もなく、ルィヒは片手で短剣を抜くと、もう片方の手で自分の髪を一房ひとふさ掴み、ぐいっと刃をねじ込むようにして切ってしまった。

 ルィヒは上衣を脱いで地面に広げると、その上に切り落とした髪を置いて、赤竜を見上げた。

「わたしの目は、もう飲み込んでしまわれましたか」

 赤竜はゆっくりと上衣に口を近づけて、まだ舌先に引っかかっていたルィヒの右目を押し出すように、髪の束に落とした。

 それを見届けると、ルィヒは手早く上衣を畳み、ほどけないように端を結び合わせて、カルヴァートの牙に引っかけた。

「カルヴァート。これから〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉として、最後の命令をおまえに伝える」

 ルィヒはカルヴァートの鼻にそっと手をふれると、目をつむった。

 そして、大きく息を吸い込んでから目を開くと、迷いのない口調で話し始めた。

「おまえは、その包みを王宮へ持ち帰り、これからわたしが話すとおりに、王に報告をしなさい。

 自分が戦の道具として使われる事を知った赤竜は、怒りくるい、わたしはそれをなだめるために〈空晶くうしょうほら〉に籠もった。だが、力及ばず、赤竜と相討ちになる形で命を落とした」

 ルィヒは、自分の髪と目玉を包んだ上衣に手を添えた。

「〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉が老いず、死ぬ事もないのは、赤竜の加護あってのものだと信じられている。わたしの死が赤竜によってもたらされたものだとわかれば、皆も納得するだろう。ラァゴーやゴタルムの領主は疑うかもしれないが、偽装がたやすい髪だけではなく、ごまかしようのない赤色の瞳まで持ち帰られては、わたしの死をおおやけにせざるを得まい」

 言葉を切ると、ルィヒはためらいがちに両手を伸ばし、思い切ってカルヴァートの首をかき抱いた。

「おまえがいてくれたおかげで、このせいも、辛いばかりではなかった。本当に……、今までありがとう」

 最後に、ぎゅっと一度、カルヴァートの首を抱く腕に力を込めて、ルィヒは後ろに下がった。

 そして、晴れやかな笑みとともに、さっと片手を振った。

「さあ、く行け! おまえが墓域に戻れば、兵達も、それを追っていくだろう。わたし達は、その隙に逃げる。一刻も早く、戦士達を連れて、この戦場を離れなさい」

 カルヴァートは思わず口を開きかけ、牙の間に挟んでいる上衣の包みの事を思い出して、言葉をのんだ。

(どうやって、逃げるおつもりなのですか。人間の足ではとても上がっていけない、この、深いほらの底から……)

 だが、カルヴァートは、その思いを口にする事はなかった。

 長年、自分を侍従としてそばに置いてくれたあるじに──遠い昔に、先祖が自分達に対して行った事への罪の意識を、くさびのように胸の底に持ち続けながら、それでも誠意と明るさをもって接してくれた、得がたく聡明な王女に、カルヴァートは無言で目礼を送り、身をひるがえした。



 頭上の岩盤がミシミシと音を立て、砂が降ってくる。

 赤竜が永久に目覚める事のない眠りにつこうとしているのを感じ取って、〈空晶くうしょうほら〉が崩れ始めているのだ。

 カルヴァートの姿が見えなくなると、ルィヒは憑き物が落ちたような表情で、降ってくる砂を見上げ、それから、ユージンに目を移した。

「すまぬな。……恨んでも良いぞ」

 ユージンは鼻を鳴らして、〈空晶くうしょうほら〉に下りる直前に返してもらった「落とし物」を──最初から身につけていた拳銃よりも銃身が長い、狩猟に用いる散弾銃を──肩にかけた。

 ものを言わなくなった友の、まだぬくい体から象牙色ぞうげいろの判子を取り出して、雇い主の所へ持って行った時、ユージンはすでに、自分が殺される事をわかっていた。

 もはや生きる気力は完全に消え失せており、逆らう気など、毛頭なかったが、判子を受け取った雇い主から銃口を向けられた瞬間、用心棒として生きるうちに体にしみついてしまった反応として、ユージンは、手近な壁にかけてあった散弾銃を掴んでいた。

(……結局、掴んだだけだったがな)

 えていた体では、とても動くのが間に合わず、ユージンの記憶は、そこで途切れていた。

 それでも、まったく無駄なあがきではなかったようだ。

 ユージンは散弾銃を手に持ち、赤竜を見上げた。

「俺を呼んだ理由は、これだろう?」

 赤竜は頷くように一度、瞬きをした。


──わたしの体は、限りなく死に近づきつつあるが、まだ、その時を迎えていない。わたしにとっては、すぐそこに迫ったものとして感じられるが、おまえ達の時間で考えれば、まだ、遠い先の出来事なのかもしれぬ。


 赤竜は前脚を折り、体を反らして、首の付け根をユージンの前にさらした。そこは他の部位に比べて鱗が少なく、白くて柔らかそうな地肌が見えている。

 その真ん中に、つっと、墨を引いたような亀裂が走った。

 その亀裂は、意思を持った生きもののように、うぞうぞと左右に広がってゆき、やがて、奥の方から滴るような赤い光をたたえた結晶が姿を現した。


──この『核』には、わたしの魂を繋ぎ止めるための力がこめられている。『核』が砕かれ、輝きを失う時、わたしの魂もまた、この世から消える。


 ユージンは頷き、立ち上がって散弾銃を構えた。

 向かい合ってみると、『核』はユージンの頭とほとんど変わらないくらいの大きさがあった。硬度にもよるが、剣や槍では、粉々にする事などまず不可能だろう。

 銃床じゅうしょうを肩につけ、『核』に狙いを定めた時、ふっと、ある思いが頭をよぎった。

(俺が今、ここで撃ったら……、赤竜の魂は、故郷へ帰る事が出来るのか?)

 がらんどうの体で大地の上を歩き、魂の力を使い切った時、病による穢れは清められるのだと赤竜は話した。

 魂の力を使い切る前に、自分が『核』を壊してしまったら、これまでの旅路が無に帰するのではないだろうか……。

 引き金にかけようとしていた指先が、すっと、冷たくこわばるのを感じた時、ユージンの傍らにルィヒが立った。

 自分を支えるように、散弾銃に片手を添えたルィヒの顔に目をやって、ユージンは息をのんだ。

 ルィヒは泣いていた。

 一言も声を漏らさず、表情は凜と引き締まっていたが、左の頬には、後から後から涙がつたっていた。

 ルィヒも気づいているのだ。──自分の思いに応える事で、赤竜が、生まれた地に帰る機会を永遠に失うかもしれないという事に。

 それでも、ルィヒは何も言わなかった。

 しかし、たった一つだけ残った、『核』と同じ色の輝きを持つ瞳が、度重たびかさなる裏切りに遭い、そのたびに間一髪の所で窮地きゅうちのがれ、死のふちから生還してもなお、最後には、選びたくなかった道を選ばざるを得ない葛藤を映して、凄絶せいぜつな光を放っていた。

 それを見て、ユージンも心を決めた。

「心配しなくて良いよ」

 呟くように言って、ユージンは引き金に指をかけた。

「今度は俺が、最後まであんたの側にいる」

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