策謀

異邦の星空

 カルヴァートが不在の間、赤竜に乗ってゴタルムまで付き添ってほしいというルィヒの頼みを、ユージンはさして悩みもせずに引き受けた。

 カルヴァートの代わりを務められる自信があったわけではない。だが、ラク砂漠で拾われてから王都まで来る間、小竜の乗り方や護身術を教わって、少しはルィヒの役に立てるようになったという自覚があったし、ゴタルムと王都がさほど離れておらず、きちんとした街道が整備されていて、あらかじめ危険の少ない旅だとわかっている事が、ユージンの決断を後押しした。

 それに、何と国王ラァゴーまでもが、ユージンが赤竜に乗る事を望んでいるという。

 為政者の思惑など、知った所でろくな事にはならないだろうから、ユージンはその理由について詳しく訊ねる事はしなかったが、ルィヒよりもさらに身分の高い当代の王に存在を知られているという事は、ユージンの逃げ道を決定的に塞いでしまった。

 かくしてユージンは、王都をつ日、ルィヒと二人で赤竜に乗り込んだ。

 それが、引き返す事の出来ない、破滅に向かう旅だとは思いもせずに。



 梯子をのぼって見張り台の上に立った途端、はるか視界の彼方まで埋め尽くす大勢の民衆の視線が、一斉に自分に向いた。

「もう少し表情を柔らかくしなさい」

 ルィヒが微笑みを保ったまま、低い声でユージンに注意する。しかし、顔の筋肉をありったけ使っても、唇の端を持ち上げるのが精一杯で、とても彼女のように優美な笑顔を浮かべる事など出来なかった。

 腰に帯びた長剣と詰め襟の正装が、余計に息苦しさを感じさせていた。浮浪者のような出で立ちで〈赤竜を駆る姫リーリ・チノ〉と並び立たせるわけにはいかないと、昨日の夜、ひそかに王宮に呼ばれて身なりを整えさせられていたのだ。

 普段は王族に仕え、彼らの身の回りの世話をしている、陶器のように面差しの冷ややかな侍女達に囲まれて、肌着から長靴ちょうかに至るまで、ああでもないこうでもないと夜半過ぎまで衣を取っ替え引っ替えされた事による疲れは、今でも癒えていない。

 それでも、赤竜が進み始めてしばらくすると、見送りのために押し寄せた民の顔を見る余裕が出てきた。

 よく見ると、不安げに眉のあたりを曇らせ、手で口元を隠しながらひそひそと何か言い交わしている者達も少なくない。

(そういや、赤竜に人間の男が乗り込むなんて事は、初めてだって言ってたな)

 今朝は、国王が自ら民衆の前に立ち、ユージンが異邦の者でありながら赤竜に認められた希有な存在である事、彼がルィヒに絶対の忠誠を誓っているという事──暗に、ルィヒを『穢す』ような存在とはなり得ない事──を説いた。

 この場に集まった者も、ほとんどが、その王の話を聞いていただろう。それでも、ユージンに向けられる好奇と疑いのまなざしは隠し通せていなかった。

「…………」

 苛立たしく、やり切れない思いが胸に沈むのを感じながら、ユージンは傍らのルィヒを見やり……、凜とした輝きに満ちた彼女の笑顔を見て、もう一度、民衆に目を戻した。



 王都を発った赤竜はゆっくりと草原を進み、やがて東の地平線から、くっきりとした輪郭を持つ月が姿を現した。

 前もって説明されたとおり、退屈を感じるくらいの穏やかな道中で、ルィヒと二人で簡単な夕食を作り、それを食べ終えた後は、自室に戻って休む時間を与えられた。

 部屋に入って、扉を閉めると、ユージンは燭台に火も灯さずに寝台に転がって、ぼんやりと隅の暗がりを見つめた。

 明日の夜か、遅くとも明後日あさってにはゴタルムに着く。

 それまでの間、こんな風にのんべんだらりと過ごすだけで、王族を護衛したという実績が手に入り、その後の仕事も得やすくなるというのなら、実に幸運な話だ。

 心の大部分ではそう思っているのに、なにか、小さなとげが刺さったような違和感が消えず、ユージンは目をつむった後も長いこと寝付けなかった。

 夢とうつつの境を行き来するうちに、自分が今いる場所が、よくわからなくなっていたのだろう。──誰かが部屋の前に立った気配を感じた時、ユージンは考えるよりも先に、体に刻み込まれた動きとして胸元のホルスターに手を伸ばしていた。

「……ユージン。起きているか?」

 扉の向こうからルィヒの声が聞こえてきた時、ユージンはつかの間、自分が夢を見ているような気がして、返事をする事が出来なかった。

 ドッ、ドッと骨にぶつかるような激しい鼓動が、徐々に静まり、暗闇に慣れた目がゆっくりと周りにある物の輪郭をとらえ始めた時、ようやく、足元が定かになったような気がして、ユージンはのろのろと手を下ろして戸口に向かった。

 扉を開けると、廊下の灯りを背にして立っていたルィヒが、ユージンを見上げて首をかしげた。

「すまない。具合が悪いのか?」

「いや……」ユージンは額の汗を拭った。「ちょっと寝つけなかっただけだ。──何かあったのか?」

 ルィヒは安堵したように微笑み、首を振った。

「少し、散歩につき合ってもらえないかと思ってね。今日はなかなか良い星空だ。風もそれほど冷たくない。どうだ、一緒に見に行かないか?」



 ルィヒは「それほど冷たくない」と言ったが、さえぎる物のない草原をびょうびょうと吹き渡る夜風には思いがけない勢いがあり、ユージンは見張り台から顔を出した時、思わず首をすくめた。

 見張り台の椅子に腰を下ろすと、ルィヒは、肩から斜めにかけていた鞄を開けて、中身がこぼれないようにぴったりと閉まる蓋のついた茶碗を取り出し、ユージンに渡した。

「思っていたより冷えるな。リコをれてきて正解だった」

 ユージンは蓋をずらして、中に入った液体の香りを嗅いだ。以前、ルィヒとともに初めて小竜の背に乗って飛んだ時、カルヴァートが用意してくれたのと同じ飲み物のようだ。

「この国だと、これはリコって呼ばれているのか」

「君の国では、何と?」ルィヒが首をかしげて訊いた。

「……コーヒー」

「コー、ヒー……。ふうん、コーヒーか」

「別に、覚えなくてもいい。この世界には存在しない言葉だ」ユージンは目を伏せ、熱くて苦いリコをすすった。「俺も、たぶん二度と使わない」

 虚ろな表情で、そう話すユージンの姿に、何を感じ取ったのか、ルィヒは自分の茶碗を包むように持ったまま、じっと足元を見ていたが、やがて、片手ですっと天のいただきを示した。

「わたしはクィヤラートから外に出た事はないが、国境をいくつも超えて旅をする商人や、未知の言語で書かれた本を解読する学者から、異国の話を聞く時は、いつも、子どものように心がおどるよ。国や民族のさかいを超えれば、多くの事が変わるものだ。言葉も、口にするものも、……時には、星でさえも」

 ルィヒの指が示す先を目で追って、天を仰いだユージンは、息をのんだ。

 西の空の端に、紙のように薄く、硬質な雲が一欠片だけ残っている。

 しかし、その他には──大気中に漂っていたちりも、かすみの元となる粒も、すべてその雲がさらっていったかのように──どこまでも澄んだ星空が広がっていた。

 声の届く範囲に街がないせいだろう。真空のように辺りは静まり返り、まるで、自分達が真っ黒に透きとおった鉱石の底を歩いていて、そこから上の方に散らばる気泡が七色の光をまとって輝くさまを見上げているようだった。

「すごいな……。俺の知っている夜空とは、全然違う」

 自分でも気づかないうちに、ユージンは、何かに操られるように天に手を伸ばしていた。

「ああ……、でも、あそこの星の並びはよく似ている。西の丘で一服すると、いつも、あんな風に見えたんだ。七つともよく光って、目立つから、覚えやすくて……」

 話しているうちに、ふいに目頭が熱くなり、ユージンは声をつまらせた。

 戻れるはずのない──戻りたいと望んでもいないはずの暮らしだった。

 親や兄弟、親しい友達が次々と死んでいく中で、理由もわからぬまま生き残り、明日も生きているために、金持ちの言いなりになってあらゆる汚れ仕事に手を染めた。

 己の命を弾丸代わりにすり減らし、それでいながら、雇い主からは感謝どころか、軽蔑を含んだまなざしと、パンすら満足に買えないわずかな駄賃しか与えられない。

 そんな、何の希望も見出せない日々のくり返しでも、自棄やけを起こさずに踏みとどまっていられたのは、今にして思えば、そこが祖先の眠る土地だったからなのだろう。いずれ自分が野良犬のようにあっけなく死を迎えても、土の下に埋められた後は、先にった者達とともに優しい眠りにつけると信じていた。

 がむしゃらに仕事をこなす合間に、ふと息継ぎをするように見上げた星空が、どんなものだったか、漠然とだが、覚えている。

 今、頭上に広がるのは、それよりももっと美しく──そして、まったく違う星空だった。

 天を見上げた顔を片手で覆い、動かなくなったユージンを、ルィヒは何も言わずに、そのまま放っておいてくれた。

 やがて、ユージンが身を起こし、ルィヒに向き直ると、彼女はリコを飲みほして、空になった茶碗を足元に置いた。

「ゴタルムに着いた後は、こうして二人きりになる機会もないだろう。──君を拾った理由を話すよ」

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