第26話 できっこないは、できっこない

 親との対決は、何も語るところがなかった。


「まあ、あなた達が自分なりに考えて納得したのなら、私達は何も言わないわ」


 それだけだ。本当に、実の息子と娘が許されざる関係へ足を踏み入れたと知っても、彼女の心はさざなみ一つ起こっていないみたいだった。


「お袋、それだけか?」

「私たちが今さらあなた達に口出しする権利があるのかしら。あなたたちがそうなったのだとしたら、それは私たちに原因がある。

是正……いえ、最大公約数的な価値観へ引き戻そうとしても、要因を作った立場の人間に意見されることには感情的な抵抗が生じるはずよ」


 アナウンサーのように淀みない口調だった。

 俺は聖良を見やる。彼女は正論しか言わないが、その正論が決定的な引き金になったのは火を見るよりも明らかだ。


 けれど、彼女は外行きの顔をしていた。生徒会長として、夏休みの前に原稿を読み上げた際と同じ類の表情だった。


「わかっているのなら、いいんです。あなたたちがいなかったから、私は兄さんしか縋るものがありませんでした。だからそれに異議を唱えないでいてくれたら、他に求めるものなどありません」

「異議を唱えるもなにも、それは結果でしょう」

「ええ」

「親として、いえ、法律上は親権を持つ者として、経済的な支援を惜しむつもりはないわ」

「ありがとうございます」


 対決は終わった。


 珈琲を飲み終わったお袋は、役割は終わったと言わんばかりに立ち上がった。


 手荷物は小さなハンディバッグ1つ。

 彼女は、職業上、下に見られないために高級ブランドで身を固めている。


 ルイヴィトンや、ティファニーや、シャネルだ。


 そんな中にマイナーなブランドを仕込ませることで、深みがあるように演出する──そういうテクニックがあるらしい。


 だが有名だろうが無名だろうが、それらが持続したことなどなかった。

 ブランドは彼女らにとっては商談を成立させる鎧以上の意味を持たない。


 使い終われば、メンテナンスもロクにせず質屋へ放り投げる。

 わずかにバックした金は、また次の鎧を買うために用いられた。


「お袋、今日は泊まるんじゃないのか」

「お邪魔でしょう」


 それはジョークだったのか。彼女の鉄面皮てつめんぴは読めない。女王の教室だって、もう少し情や変化がある。


「そうね。あなたたちと私との話し合いは無意味よ」


 お袋は、本当に何も感じていないのだろう。

 薄いメイクで設えられた美貌は、家に入ってきた時と寸分違わないように思えた。少なくとも、珈琲を飲む程度の時間はあったにも関わらず、だ。


「人と人が分かり合えるなんて幻想を支持するつもりはないわ。

コミュニケーションはいつだって理解の放棄や、常識の譲歩とイコールよ。失恋相手に共感するのも、たまたま価値観と価値観が重なっているからこそ生じる偶然に過ぎない。

ならば他に同質の価値観と、同質の愛着を持つ相手を用意できたのなら、そちらでも傷を舐め合うことは可能よ。


 分かり合えるという語彙は、凡人を甘やかすことしかしない毒でしかないわ。

コミュニケーションとは、擦り合わせる、向こうに合わせる、我慢する、我を通す、意見を呑み込む。そういった語彙で表現されるべきよ」


 彼女は正しい。

 俺と佐竹が会話する上で、完全に互いを理解しているなんて口が裂けても言えないだろう。


 お互いにコイツキメェと思う部分や、ここだけは生理的に無理とされる部分があって、でも関係性を維持するため、そういう部分をなかったことにして関わりを続けている。


 そこで得られる成長や視野の拡大もあるが、それはコミュニケーションによって得た『知識』や『知見』によって得られた作用だ。

 極論、佐竹と似たような男がいたとしたら、たぶんそいつからも得られる成長である。これを否定することはできない。


 それはお袋が列挙した語彙で説明できる動きだった。


「あなたたちと世間が和解出来ぬ故、これから声を潜めて生きていかねばならないように、世間が私たちのことを冷酷無比と断ずるように」


 彼女は営業職としての顔で、聖良を一瞥した。


「私とあなたたちは平行線でしかないわ。だから話すだけ時間の無駄。そうでしょ?」


「その通りです」聖良は微笑んだ。そこには何の感慨もなかった。生徒会を辞めたいと語る時と同じような、諦めだけがあった。


 そして話し合いや絆で横たわる溝を埋める必要もないことに気付く。

 だってそうだろう。

 彼女は親として、少なくとも経済面での困窮には手を差し伸べてくれると語った。ならばお袋はお袋なりに、親としての務めを果たそうとしている。


 だからこれでいいんだ。俺は納得した。


「ええ。困ったら連絡しなさい」

「ええ。さようなら」


 彼女は振り返ることをしなかった。


 不機嫌な大人がそうするようにドアを強く閉めることもなく、出先と変わらぬ様子で、丁寧に閉めた。


 靴も脱いだ後は丁寧に並べられていた。


 実家みたく乱雑に脱ぎ捨てるようなこともなかった。


 お袋は、たぶんだが、帰る回数がこれから目減りしていくだろう。


 だが彼女本人はそれを辛く感じることはないだろうし、聖良もきっと何か感情的な動きが生じるわけでもない。


 世の中、努力ではどうにもならないことがある。俺はかつてそう語った。


 そういう場面に際したらどうすればいいのか。答えはこれだ。


 だからこれはポジティブに物事が進展している証拠で、世界は今日も平和なのだ。


 ※ ※ ※


 買い物へ出掛けることにした。別に出前を取っても良かったのだが、聖良が2人で歩きたそうにしていたので付き合うことに決めた。


 いくつもの白線がアスファルトを焼き焦がす中、俺たちは並んで商店街を歩く。

 もう少し歩けばバイト先に差し掛かり、そこから電車に乗って2駅揺られたら学校に近い駅へ出る。その気になれば自転車でも通えなくもない。


「……ですが、全く同じ人間を用意することはできません。母はいつだって極論です」


 聖良は唐突に言った。夏休みが始まって人間から解放されたこともあってか、聖良の様子は穏やかだった。


「彼女の在り方は──」聖良はお袋のことを代名詞で呼んだ。「本質を穿っているのでしょう。私だって思います。何が悲しくて、胃痛を覚えながら関わらなければならないのかと。ですがそれは生徒会長というお門違いに立候補してしまった私の責任なので、やり遂げることは義務であり責務です」


「前に言ってたな」


 これは後ろ向きなのだろうか、いいや、違う。聖良なりに前向きに決着をつけようとしているのだ。それを間違っているとは言わせない。


「彼女は1つ大きな見落としをしています」

「その心は?」


 聖良は俺に花柄のエコバッグを手渡すと、少し小走りで回り込んだ。西日が彼女の銀髪をあでやかに照らした。


「彼女は、私たちと、言いました」

「言ったな」


「それは取りも直さず、天賀谷聖良と天賀谷和也と一緒くたに語ったということにつながります。

おかしいですね、人と人とは分かり合えないのでは? では何故私と兄さんが、同一のグループで扱われているのでしょう?」


 お袋に聞かれたら速攻で論破されそうな屁理屈を、それでも聖良は愛おしそうにそらんじた。


「分かり合うことは幻想……いいえ、これは一部だけしか正しくありません」

「正しくは?」

「人と人とは分かり合えないからこそ、自分の普通を理解してくれる人間と出会える」


 聖良は駆け寄ってきて、俺の手を優しく握った。


「それこそ、世界平和の秘訣ではないかと思います」


 被害者面したくないと聖良は述べたことがある。


 思い返せば、彼女は自分のことを被害者や弱者などと一度たりとも呼んだことがなかった。

 俺に対して取り返しのつかないことをしたから、自身を悪人としていたに過ぎない。


 だが彼女は自らが被告であることを受け入れはしたが、頑として不幸であることは否定し続けた。


「そうでしょ? 兄さん」


 だが俺は空気が読めるので、得意げな妹の答え合わせには付き合わないことにした。

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