エピローグ すばらしい日々

 聖良の進学を機に、俺たちは狭いアパートを借りた。お袋は何も言わなかったし、恩を売ろうとも思っていないみたいだ。俺は生まれて初めて彼女に好感を抱いた。


 大学に入ってから、聖良はアルバイトを始めた。

 とはいえそれは社交的なものではなく、フリーwebライターという極めて個人的なものだ。


 収入の面からしてみても他の業種を務めた方が儲けは良かっただろうが、妹に甘い俺は聖良が自主的に生きようとしている部分にいたく感銘を受けた。

 寿司とか取ろうと思ったが、割と真剣に嫌な顔をされた。


「人のことを病人か何かのように扱わないでください。私はただ、人間がとてつもなく嫌いなだけです」

「お前それ人前で言わない方がいいぞ。人間嫌い=じゃあ俺も嫌い? って短絡的に結びつけて攻撃してくる奴とかいるからな」

「最終的には兄さんを召喚し、2人で闇討ちしましょう。遺体は海に沈めればよろしいかと」

「いやどうやって運ぶんだよ。俺の車か? 後部座席とかトランク調べられたら体液顕出されて一発じゃねぇか。たぶん足付くぞ」

「なんですか文句ばかり……」


 冗談なのかマジなのかは定かではないが、とにもかくにも妹は思春期の痛々しさを保ったまま大人になっていく。

 ここでいう成長とは自我の成熟みたいなうさん臭い奴じゃなくて、単に社会と折り合いをつけられるかどうかだ。


 聖良が生徒会をやり遂げられたか否かは、まあここでは語らないでおく。また今度にしよう。


 簡単にできてたまるかという思想と、理想的であって欲しいという思想とは相容れないからだ。


 だがまあ、行き着く先は2DKのマンションの一室だ。

 都内ではないし、高校時代暮らしていた町や、もちろん生まれ故郷からも程遠い、横浜の郊外。


 ベランダからの眺望は終わっていて、横浜の代名詞とも言えるライトアップされた観覧車もランドマークタワーも望むことは叶わない。


 だがその分町は静かで、中途半端に都会な分、誰もが互いの世界に生きていた。

 見覚えのある奴がいても、挨拶することもない。顔を見るまで忘れているし、たぶん知らない内にどこかへ越していたとしても気付くことはないはずだ。


 俺はたわいもない事務職になり、日々生成AIの頓珍漢な回答と格闘している。

 30を越えたら急に腹が出てくるという話に危機感を覚え、半眼の聖良を放置してランニングを始めたりもした。

 そこで顔を覚えたおっさんやらおばさんやらもいるが、言葉を交わすこともない。向こうも俺のことなどどうでもいい。


 聖良はそのままそこそこ知られるライターとして活躍するようになった。

 収入は不安定で、調子のいい時期には俺を大きく上回ったこともあったが、酷い時には5ケタに届かない月すらあった。


「私は収入を貯蓄に回しています。兄さんに文句を言う謂れなどないはずです」

「いや別に咎めようとか思ってねぇよ……」


 聖良はむすっとした様子で缶チューハイを開けた。最近増えてきたので、また仕事面での不調の波がやってきそうだ。


 それを慰めるのも、俺の仕事でもある。腕の見せ所だ。


 佐竹は俺の予想通り、卒業してからさっさと絵理ちゃんと籍を入れた。

 もう疎遠になりつつあるから後で知った話だが、お子さんは来年小学生に上がるそうだ。


 ふーんと思った。知らねぇよ。勝手に幸せになりゃいいじゃん。


 意外にも行方が知れないのは一ノ瀬姉妹だ。

 それでも死んだという噂も聞かないので、きっとどこかで浮き沈みしながらやっているのだろう。


 普通に擬態するのは楽じゃない。

 俺だって聖良よりはマシというだけで、根本的には人嫌いの異常者だ。


 特に解放型のオフィスが主流になってしまった以上、作業自体は個人で完結するものだが、常に誰かから見張られている感覚は拭えない。


 それでも泣き崩れる前に妹が抱き締めてくれるので、まだ、なんとか、騙し騙しやっていけてはいる。


 そうしている間だけは、やっぱり世界は平和でいてくれた。


「……あ、起きましたか兄さん」


 俺はうっすらと目を開けると、聖良の顔が間近にあった。

 枕だと思っていたが、繊細な柔らかさと汗ばんだ感触を両立させている。


「……悪い、寝てた。痺れてるだろ。ごめんな」

「生徒会をやっていた頃の私のようなお顔でいる兄さんを、放っておけるわけないじゃないですか」


 俺の中に不安が兆した。この生活は長続きしないのではないか。世界の平和が崩壊し、常在戦場のような日々がやってくるのではないか──そういう不安だ。


 この不安は、恐らくあの頃の聖良が戦っていたものと同種だろう。


「嫌になったら、辞めちゃってもいいんです」


 聖良が、かつての俺と似たような言葉を捧げてくれた。

 俺はなんとなく彼女の顔を見ていられなくなって、目を逸らした。


「兄さん」優しい手つきで頭を撫でられる。弟になった気分だ。「別に、私たちはおかしいんですから、無理しないと馴染めないことに違和感を覚える必要なんかないんです」


「……」

「ですが、兄さんはやり遂げるのでしょうね。マクドナルドのアルバイトだって卒業まで続けましたし、私と違う部分はあります」


 そう語る聖良はほんの少しだけ寂しそうだったので、俺は彼女を押し倒した。布団の中に引きずり込んで、抱き枕よりも乱雑に思い切り抱き寄せる。


「これは愚問だろうけど、あえて聞くわ」

「どうぞ」


 聖良の抱擁は揺るがなかった。あるいは、俺もこう振舞えていたのだろうか。


「いつか、俺たちが完全に詰んで、自殺するしかないってなっても」

「ええ」

「それでも俺を見放さないでいてくれるか」


「その時は」聖良は小さく笑った。「全部かなぐり捨てて、生活保護でも受けましょう。大丈夫です。借金もないし、親とは実質絶縁なのですから。頭の固い市役所の方々だって、不承不承で頷いてくれるでしょう」


 俺は呆気に取られたが、すぐに思い直した。


「そうだな。いつか燃え尽きたら、そうしようか。借金は作らないようにしないと」

「兄さんも私もほぼ無趣味のつまらない人間です。杞憂に終わると思いますが?」

「かもな……」


 マンションの一室は、静寂と、後は聖良の体温に包まれていた。


 他には誰もいなかったし、尋ねてくる人間もいない。


 唇を重ねてきた聖良に応じる。

 数えるのも馬鹿らしくなるほどだが、いまだに安心感が湧くというのはどういうことなのだろう。


 鼻息を混ぜ合いながら、聖良は言った。


「案ずることはありません。私にとって平和な世界とは、兄さんそのものなのですから。兄さんさえいてくれたら、そこが安全な居場所となります」


「……ふっ」

「なんですか。いまいい話をしたのですが?」

「いや、まあいいだろ」


「なんですか、なんですか。こういう細やかな隠し事が争いや疑心に発展するのです。素直にさっさと白状しなさい」

「いや、俺も聖良さえいてくれたら、まあそれでいいなって」


 抱き合っているのにも関わらず、妹はそっぽを向こうとしていた。


 エクソシストのワンシーンみたいで、首を痛めないか心配になる。


 それでいて抱擁は解こうとしないのが、いじらしいところだ。


「世界が平和でありますように」


 俺はそう呟くと、妹を無理やりにこっちを向かせた。


 いつもの拗ねるような顔だった。

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